「おまえ、監禁した女の死体とヤってるんだって? でも夏になったらどうするんだ? ドロドロに腐っちゃってさ。あ、そうなると、まさにエログロってことじゃんか!」 そんな醜悪極まりない言葉にも、彼はひたすら無視を決め込んだ。 正直、伊藤がどうなろうが知ったこっちゃなかった。死んだのはもちろん可哀想だが、きっとそれなりの理由があるのだ。 しかし智子の方にそんなものあるわけない。 剛志は正直、智子の行方不明が一番こたえた。だから時間を見つけては、林やその周辺を捜し歩いた。そんな彼の姿がさらなる話題の種となって、 「例のほら、やきとり屋の息子、なんだかおかしくなっちゃったみたいでね、いつもブツブツ言いながら歩き回ってるのよ。お宅、あの林のすぐ近くなんだから、夜なんか気をつけなさいよ! 最近の高校生ってのはね、ホントに怖いんだからね」 なんてことを、酒屋の女房がやたらと客に言いふらしたりする。 一方、両親の店も、彼の逮捕後売り上げが一気に落ち込んだ。いつもなら満員御礼って時刻でも、常連客だけってこともある。 以前から、剛志の父、正一は、閉店間近になると決まって常連客と酔っぱらった。後片づけは母、恵子に任せっきりで、翌日は昼頃まで寝こけている。 ただ本人も、多少まずいと感じているらしく、今日は禁酒だ! と断言してみたり、本当に一滴も呑まない夜もたまにはあった。それでもいつものメンバーが揃い踏みで、 「おい正一! 何が今夜は呑まないだよ! もう客は俺たちだけなんだ! さあこっち来いって! 乾杯するぞ! 乾杯だ!」 そんな声が二、三度続けば、正一は前掛けを外して彼らと一緒に呑み始める。 日頃から、面倒なことはすべて恵子任せで、週一の休みだって常連客らと出かけてしまう。 釣りだなんだと言ってはいるが、結局のところいつも最後は酔っ払いだ。だからやきとり屋のことさえなければ、正一がいなくなっても家はぜんぜん困らない。きっと自分の家族より、店の客たちが大事なんだと、剛志はここ数年で正一のことが大嫌いになった。 そんなだからアブさんら、常連客のことも好きにはなれない。 ところがだ。ここに至っての売り上げ不振は、紛れもなく剛志自身のせいだった。さらにそうなってから、常連客の来店が、以前より目に見えて頻繁となった。 「あいつらだけは、今も毎日のように来てくれる。なんともありがてえ話じゃねえか」 そう言って喜ぶ正一に、剛志もさすがにああだこうだと口にはできない。 ただし心の奥底では、もちろん喜んでなどいなかった。 ――なに言ってるんだ! 村井酒店は、ぜんぜん来なくなったじゃないか!? 現れなくなった客の中で、常連だったムラさんだけは許せない。剛志がそう思うのには、彼なりにちゃんとした理由があった。 酒屋のムラさんは婿養子で、結婚してからずっと女房の尻に敷かれっぱなしだ。 だからそうそう児玉亭で呑む金もなく、いつも足りない分をアブさんやエビちゃんに助けてもらった。奢ってもらうこともけっこうあって、正一の裁量によるものだって少なくない。 なのに事件後、彼はピタッと来なくなる。 ――やっぱり、酒呑みなんて信用ならねえよ! そんな剛志のムカツキをよそに、事件から半年ほどで店の客足もほぼほぼ戻る。そしてその頃偶然、剛志は店から響くアブさんの声を聞いてしまった。 「おお! ムラさんじゃないか! なにそんなところに突っ立ってんだよ、早く入れって。でかい図体で入り口に立たれてちゃ、またこの店、閑古鳥が鳴いちまうぜ!」 そんな声に、剛志は途中だった階段をここぞとばかりに駆け下りる。 それから厨房に続く廊下から、コソッと店の中を覗き込んだ。 するとムラさんが背中を丸めて、ちょうど引き戸を閉めているところだ。彼はためらいがちに振り返り、いかにもバツが悪そうにポツリと言った。 「正一さん……久しぶり……」 こんなムラさんの声に、少しでも非難めいた声が聞こえれば、「何が久しぶりだよ! おいムラ!」なんてのがあったなら、きっとこんなことにはならなかった。 正一はその時、店の奥にいたのだろう。剛志からは死角で見えなかったが、ムラさんへの返事はしっかり耳に届くのだ。 「あれ? ムラさん、久しぶり、だったっけ?」 正一はそう返し、いつもと変わらぬ笑顔をきっと見せたに違いない。 そこからのことは、二十年後の今でも昨日のことのように覚えている。 気づけば厨房を突っ切って、剛志はムラさんの目の前に躍り出た。 「なにが久しぶりだよ! 今頃になって、ノコノコとよく来れたもんだぜ!」 「よさねえか剛志!」 後ろから響いた正一の声にも、彼の勢いは止まらなかった。 「金はちゃんと持って来たのかよ? まさか殺人容疑者のいる店から、またタカロウって魂胆じゃねえだろうなあ?」 「よせって言ってるだろ!」 「なんだよ! ホントのこと言ってなにが悪いんだ! こいつんちのババアが、うちのことをなんて言ってるか……」 ――知ってるのかよ! そう続けようとした剛志の頬に、正一の平手打ちが直撃する。 バシッという音が響き渡って、その勢いで剛志の顔が左右に揺れた。 ここで彼のムカつきは、一気に極限にまで膨れ上がった。 「なにしやがんだよ!!」 思わず叫んで、握りこぶしに力を込める。ところがだ。肝心の正一はさっさと剛志に背中を見せて、ムラさんを向いて頭を下げてしまうのだった。 「ムラさん、気にしないでくれ」 頭を下げたままそう言って、顔を上げるなりニコッと笑った。それからすぐに、何事もなかったように厨房に向かって歩き出してしまう。 この瞬間、突き刺すような高ぶりが、剛志の全身を駆け抜けた。 気づけば拳を振り上げて、父親の背中めがけて突進する。ところが拳は正一ではなく、いきなり飛び出してきた男の側頭部を直撃だ。 正一との間に割り込んだ人物は、潰れた蛙のような声を上げ、勢いよく空のテーブル席に突っ込んだ。ガチャンという音がして、剛志の目にもチラッと男の顔が映り込む。 その瞬間、心の底からマズイ! と思った。 身体が勝手に出口を向いて、と同時に客たちが男のもとに駆け寄った。 「こら! 剛志! なんてことしやがるんだ!」 そんな正一の声を、彼はこの時すでに引き戸の外で聞いていた。 夕刻、開店と同時に現れて、気前よく飲み食いをしてくれる。 ホントのところ、呑んでばかりの客の方が店としてはありがたい。それでも彼はやきとり以外にも、ちょっとした肴を夕食代わりに頼んでくれた。この煮付け、今夜が限界かな? なんてのを勧めてみると、だいたい何も言わずに注文してくれるのだ。 倒れ込んだ男がまさにその人物と、剛志も目にした瞬間わかっていた。 あの事件直後から来店するようになって、それもほぼ毎日だ。昼も夜もって日がけっこうあるから、なんにしたってありがたい客には違いない。 正一も時折、男に向かって感謝の言葉を口にしていた。ところがどうにも無口な男で、照れた顔してほんの少し頷くか、場合によってはそれさえしない。 それでもたった一回だけ、正一がどう呼んだらいいかと尋ねた時だ。 「ミヨ……とでも、呼んでください」 戸惑ったような声を出し、彼はぎこちない笑顔を初めて見せた。 それから、正一が彼を「ミヨさん」と呼ぶうちに、年の頃が同じくらいのフナが彼と話すようになる。そうなるとあっという間に、例のメンバーにもミヨちゃんミヨちゃんと呼ばれるようになっていた。 彼らと違って騒ぐこともなく、一、二時間静かに呑んで帰っていくのだ。 そんなありがたい客が来なくなったら……そう考えるとなかなか帰る決心がつかなかった。と言ってこのまま戻らなければ、またなんだかんだ大騒ぎになるだろう。だから店の明かりが消えるのを待って、それからこっそり忍び込もうと剛志は決めた。 ところがいつまで待っても明かりが消えない。 とっくに閉店時間は過ぎているのに、なぜか暖簾と赤提灯まで出っぱなしだ。 ――まさか……何かあったのか? 剛志がいないという理由で、店をこんな時間まで開けておくはずがない。まして心配して起きているなんて、そんな余裕のある生活じゃあ、もちろんなかった。 絶対に変だ。そう思い出したら、次から次へと変な想像が駆け巡る。 ついには、両親が引き戸の向こう側で血だらけになって、息絶えているなんてのまでが浮かび上がった。そうなると不思議なもので、それまでの葛藤が跡形もなく消え去ってくれる。 剛志は店の前まで全速力で走って、暖簾の下がる引き戸を力いっぱい左右に開いた。 するとガランとした店内に、正一が一人、背中を向けて座っている。 「おやじ……」 思わず、声になっていた。そしてそんな声に応えるように、ゆっくり剛志の方を振り返り、正一は静かな声でポツリと言った。 「遅かったな……」 その顔は優しげで、予期していたものとはぜんぜん違う。 「そこに、母さんがこしらえた握り飯が置いてあるから、まずは座ってゆっくり食え……それからな……」 そこで一旦言葉を止めて、隣のテーブルから椅子を一つだけ引き出した。それからここに座れ≠ニ言わんばかりに、ポンポンと台座部分を叩いてみせる。 そうして、剛志が腰掛けるのを見届けてから、 「いいか? おまえがな、警察にちょっとやそっと厄介になったくらいで、うちの店は潰れたりしねえから、安心しろって、なあ、剛志さんよ……」 そう言って、剛志の反応をうかがうように、ほんの少しだけ前屈みになった。 そんな正一の一言で、まとわりついていた重苦しいものが、不思議なくらいにスッと消えた。 おかげでほんの少しだけ、身体が軽くなった気さえする。ただそれは、けっして居心地のいいものではなくて、なんとも落ち着かない心持ちだ。 絶対に怒鳴られる。そう思って、ゲンコツの一つ二つくらいは覚悟したのだ。 「だからな、剛志……まあ、あれだ、世の中にはさ、いろんな人がいるってことよ」 ところが向けられる言葉は、信じられないくらいに優しげに響く。 「でもな、おまえがこれからちゃん生きていけば、ああ、あれは間違いだったって、みんな、いずれわかってくれるさ。だってよ、みんなおんなじニッポン人で、ずっとこの町で一緒に暮らしてきたんだ。それにな、ムラさんだって本当は、ずっと前から来たかったんだぜ。でもな、おまえも言ってた通り、あそこんちのババアは本当にケチだからよ。まあ、そんなことでさ、あいつはあいつなりに、考えたってわけだ……」 もしも自分が金も持たずに現れたなら、また正一らが融通を利かせようとする。ただでさえ売り上げが厳しいって時に、そんなことさせちゃあいけないと……。 「まあさ、あいつなりにない頭を絞ったってわけよ。だから今夜なんて、エビとアブの呑み代まで、無理やり払っていきやがった……」 そう言って笑う正一に背を向け、剛志の顔はすでにこの時クシャクシャだった。 張りつめたものが溶け出したように、涙が溢れ出てどうやったって止まらない。 当然、剛志はそんな顔を見られたくない。だから布巾の被った皿に手を伸ばし、塩だけの握り飯を口いっぱいに頬張った。 ――俺は、腹が減ってしょうがないんだ。 だからまず、四の五の言わずに食わせてくれよと、彼は背中でそんな感じを演じて見せる。 そんな彼に、正一はさらに驚くような事実を打ち明けるのだった。 「いいか? あのミヨさんにはな、おまえが逮捕されちまった日に知り合って、それからは、本当にいろいろと世話になってる。ちょっとおまえには言いにくくてな、これまでずっと言えないでいたんだが、とにかくそんなわけで、今、この店がちゃんとやっていけてるのも、実はあの人のおかげなんだ。だから剛志、明日、ミヨさんが店に来たら、きちっと心から詫びてくれ……わかったな……」 「見代」なのか「御代」か、もしかしたら、「三好」なのかもしれない。 とにかく「ミヨさん」と呼ばれている彼は、驚くほどの大金を正一に預けていたらしい。 「どういうわけかは知らないが、あいつ、住む家もないってんで、安アパートを紹介したりさ、最初はこちとらが世話してたって感じだったのよ。それがある日、まあ店がかなり厳しくなってた頃だ。いきなり大金を持ち込んで、アパートに置いとくのは物騒だからってな、俺に預かってくれって言い出したんだ。あんな事件があったばかりだしさ、俺も怖くなって、こんな大金預かれないって、一度はきっぱり断った。そしたらな、剛志、よく聞けよ……」 そこからのくだりは、普段の剛志ならきっと信じちゃいないだろう。 「……いいか? あいつはな、必要なだけ、好きに使っていいってんだよ。え? 嘘だろって思うよな? だからさ、俺だって言ったんだ。冗談言っちゃいけません、ってな」 そこで思わず驚いて、剛志は振り返ってしまいそうになる。しかしそこはグッと堪えて、慌てて袖口でこすって涙の跡を拭き取った。 そんなことを知ってか知らずか、正一はさらに驚くようなことを言ってくる。 「もしもだ、俺と出会ってなかったら、今頃どうなっていたかわからない。だからそのお礼だって、店のために使ってくれってさ、あいつ、頭まで下げるんだ。ホント、わけわからねえって、心の底から思ったさ。でもな、これがありゃあ、店もなんとかなるなって、正直、こっちの方でちゃっかり思ったりしてな……」 正一はそう言いながら、人差し指でこめかみの上辺りをチョコンと叩いた。 その時ミヨさんは、押し黙ってしまった正一に向かって、二度目となる笑顔を見せて言ったのそうだ。 やきとり屋で大儲けできたら、その時は、倍にして返してもらうから覚悟しろと言い、 「もうこの話はお終いだって、さっさとビールを持ってこいって、そう言いやがった……」 そうして何事もなかったように、運ばれてきたビールを彼は美味そうに飲み始める。 「でもな、最近は金も少し残るようになってきたからさ、少しずつ返そうとしたんだよ。なのにあいつは、まだまだだって、どう言っても受け取ろうとしないんだ。だからな、この店をもっともっと繁盛させて、なんの心配もないってところを見せつけなきゃならないんだ。俺は、あのミヨっていう男にさ……」 正一はそう言ってから、今度は手のひら全体で剛志の背中をポンと叩いた。 そうしてその翌日、店に現れたミヨさんに向かって、 「昨日は、本当にごめんなさい」 ただそう言って、剛志は心を込めて頭を下げた。 するとミヨさんは、彼の頭を一度だけポンと叩き、その後は何事もなかったようにいつもの席に腰を下ろした。すぐに「いつもの」という声が聞こえて、その瞬間からすべてが元通りに戻ったのだ。 思えば正一は、事件のことで剛志に文句を言ったことがない。 それどころか店の厳しい状態を、一切匂わせたりもしなかった。 警察の厄介になったくらいで、児玉亭は潰れやしない。だから安心しろと聞いて初めて、剛志はそんな事実に思いが及んだ。まさにぐうの音も出ないとはこのことで、さらに言うなら、よりにもよって児玉亭の大恩人をぶん殴ってしまったのだ。 しかし一方では、大金を持っているのに、なぜか正一のようなやきとり屋の世話になる。 これだけはどう考えても、変な話だとしか言いようがなかった。ただ、その金のおかげもあってだろうが、その後の一年以上、店はそこそこ順調だったと思う。 だからこそ、少しでも金を返そうとするのだが、ミヨさんは一切受け取ろうとはしなかった。 他からの借金すべて返し終わってからでいいと言い、毎日のように手ぶらで現れ、手ぶらのままで帰っていった。 しかし結局、金がミヨさんへ返ることはない。 あの事件から、二回目となる秋の日。それは日本で初めてのオリンピックが開催されてすぐのことだった。 正一が突然、仕込み中に脳梗塞で倒れて他界した。 そして通夜にも告別式にも、ミヨさんが姿を見せることはない。 母、恵子が店を開けるようになっても、彼は児玉亭に二度と姿を見せなかった。
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