気持ち的には、そんな男と別れられてせいせいするのだろうが、実際にはそうはいかない。その状況に戸惑った綾は、しばらく鬱状態になった。 鬱状態の正体は、自分の中にあるジレンマのせいなのに、まわりからは、 ――失恋のショックだと思われているのではないか―― と思うと、いたたまれない気持ちになった。 綾の鬱状態は、数か月続いたが、立ち直ると、また他の男性を好きになっていた。 今度の男は、浮気などは一切しなかったが、そのかわり、ギャンブル狂いだった。定職にもつかず、気が付けば、綾のヒモになっていた。前の男よりも悪化していたのである。 その男とは、綾にお金がないのが分かると、勝手に男の方が去っていった。 今度は綾もさすがに追いかけたりはしない。 ――私はなんて、男運が悪いんだ―― と思ったものだが、三年前に付き合った男性は、打って変わって誠実な男性だった。 まだ若い研究員だったのだが、綾に対して誠実な思いは本物だった。その証拠に彼は綾にプロポーズしてきたのだ。 彼のプロポーズを受けてからというもの、初めて感じた女としての幸せを噛みしめていたのだが、せっかくの幸せも、彼の失踪という形で、あっさりと終わってしまった。 彼がどこに行ったのか分からない。綾は必至に探したが分からなかった。元々彼は友人も少なく、後から思えば、彼が綾に対して見せる姿以外、ほとんど何も知らなかったのだ。 しかし、綾は彼と付き合った時期を後悔してはいない。今までの二人とはそこが違った。別に付き合った相手が悪いわけではない。綾が彼のことをあまりにも、知らな過ぎただけだ。 ――仕事に集中しよう―― と思った矢先、会社からも捨てられた。 その時自分を拾ってくれた優香を慕うことで、それまで燻っていた綾の才能が覚醒したのだ。 かなり遠回りしたのかも知れないが、その時の覚醒を与えてくれたのは、プロポーズしてくれた彼だったように思う。彼から得るものは大きかった。モノの考え方、自分のやりたいことを見つけ、それに徹するための心構えなどを話してくれた。それだけで、綾は彼を心から信じることができて、初めて男性を好きになったのだと思ったのだ。 学生時代にやっていたギャンブル。そして失恋を重ね、初めて出会った好きになることができた男性が自分に与えた大きな影響。それが綾を覚醒させ、優香と出会うことで、覚醒した自分に気づくことができたのだ。 覚醒したままでも、優香との出会いがなければ、覚醒に気づくことはなかっただろう。 優香は、そんな綾を見て、彼女が覚醒していることに気づいた。 優香でなければ、綾に近づこうとは誰も思わなかったことだろう。近づいたとすると、彼女の引力に引き込まれ、どうなってしまうのかそこから先がまったく想像もつかない状態になったことだろう。それを思うと、 「君子危うきに近寄らず」 という言葉に従うしかなかった。 綾は、優香に次に会った時、 「優香さん、そんなにS研究所の発表が気になりますか?」 という言葉をもう一度口にした。 さすがに以前は答えを控えたが、二度目に聞かれた優香は、ここで黙っていることはできないと思った。 「もちろん、気になっているわ。でも、向こうは向こう、こっちはこっちよ」 と、無難な答えしかできなかった自分に、歯がゆい気持ちになった優香だった。 その気持ちの動きを見逃すような綾ではなかった。 「私、知っているんですよ。S研究所の発表内容」 優香の表情が明らかに変わった。 「どうして? 発表内容というのは、学会での会議がないと正式に公開されないはずよ」 優香の言う通りだった。 前は、学会での会議が最初で、その後プレス発表だったのだが、今はプレス発表が先で、学会での会議はその後になった。理由は様々だが、一番の理由は、時間短縮ではないかと言われているが、その真意も定かではない。 優香は、綾から発表内容を聞かされた。 「それって……」 「ええ、そうなの。これは優香さんが考えていたことと酷似しているでしょう?」 まったく同じというわけではなかったが、少なくとも発想のスタートが同じであったことは間違いない。 同じような内容であっても、発想の最初が同じという場合は、なかなかあるものではない。発想の途中で似た発想に近づいていくことはあるが、それも稀なことである。今回のように、発想の最初が同じだというのは、相手の気持ちが分かっていなければありえないことだった。 そういう意味では、発表したのが綾であれば分からなくもない。相手の気持ちを読み取ることのできる人間はそういないだろう。 少なくともここに二人は存在している。自分の近い存在にもう一人いるなどということは、神がかっていなければありえないことだった。 「どうして、そんな……」 優香は綾に対しても、自分の理論の根本を話したことなどなかったはずだ。 いくら相手が全幅の信頼をおいている相手だとはいえ、言えることと言えないことがある。これが発表内容でなければ、 「この秘密は、墓場まで持っていく」 と考えているようなことが、誰にでも一つはあると思っていた。 その思いは実は綾にもあって、綾の場合は、墓場まで持っていく秘密は一つや二つではない。優香に対して前の会社で捨てられたことは話してはいたが、自分の男関係に関しては一切話していない。 ――優香さんのことだから、私は男性と付き合ったことのない女性だって思っているかも知れないわ―― とさえ思っていた。 綾も優香の男性関係に関しては知らない。 優香が隠しているわけではなく、何も言わないだけだった。 ――言葉にしないというのは、秘密にしているという感情とは違うもの―― というのが優香の考え方だ。 相手に聞かれれば、別に答えないわけではないと思っているからだ。 しかし、綾にはこの思いがあるわけではなかった。 ――言葉にしないのは、秘密にしたいからだ―― というのが、綾の考え方だ。 したがって、優香が男性関係のことを口にしないのは、 ――自分のような傷を持っているからに違いない―― と感じているからに違いなかった。 優香が研究していた内容は、本当はあすなが考えていた発想とは対になるものだった。 そのことは綾から、 「S研究所が発表した内容」 として聞かされた学説を思えば、気づくことだった。 しかし、その時の優香は、少なくともパニックに陥っていた。しかも、このパニックは、少々のことでは収まらない。今までの優香の能力を著しく狂わせるだけの十分な力を有していたのだ。 綾の中にはその思いがあった。 綾は、優香の考えていることがある程度分かっていたが、さすがに彼女の発想までは分からなかった。綾が分かるのは、優香が誰かを相手に何を考えていることであって、一人で発想や妄想したことを分かるわけではなかったのだ。 そのことに気づいたのは最近のことで、気づいた時、少しショックを受けた綾だったが、そのことが今回の自分の中にある計画に火をつけたと言っても過言ではなかった。 ――優香さんには悪いけど…… 綾は優香に手を合わせたが、走り出した計画を止めることはできなかった。 「走り出した列車は、止めることはできないのよ」 綾は、自分に言い聞かせるのだった。 まずは、優香の学説がどんなものなのか、探ることが先決だった。なぜなら、あすなが自分の研究を発表したということで、優香は、自分の発想に磨きをかけて、さらにアンチな学説を考えるに違いない。 その前に彼女の本意を知る必要があった。彼女の様子を見逃さないことと、彼女の研究資料を探ることで、分かることだと、ある意味、簡単に考えていた。 もし、計画が失敗しても、本当はS研究所が発表するはずだった内容を、そのまま発表させればいいだけのことだった。綾の相手にプレス発表をさせるという作戦は、失敗した時のことも考えてのことだっただけに、実に計画性のあるものであったに違いない。 その頃優香は、綾の計画を知ってか知らずか、ある男性と会っていた。 「すべてはあなたの計画通りに進んでいるということ?」 「まあ、そういうことかも知れないね」 相手の男はタバコを燻らせていて、どこから見ても、胡散臭く見えていた。 二人が会っていたのは、普通の喫茶店であり、別に密会していたわけではない。会話の様子からは、お互いに相手の様子を伺いながらというのが見て取れるが、 「優香さんは、相手の心が読めるので、ウソはつけないですよね」 と言って笑みを浮かべたが、この男、優香の能力に気づいているようだった。 「そうかしら? これでも最近は、この能力に少し限界を感じているのも事実なんですよ」 この言葉にウソはなかった。 確かに優香は、自分の能力に少し疑問を感じていた。それは綾の存在が大きいのだ。 綾も相手の気持ちが分かるので、お互いに探り合っていると、「見かけの部分」しか相手の気持ちが分かっていないような錯覚に陥る。優香はそんな自分にホッとしていたのも事実だった。 ――人の心が読めたって、ろくなことはないわ―― 相手が自分に対して感じていることが、嫌でも感じることになる。それは本当に知りたくないと思えることばかりだったりする。 「立場上、あんたと仲良くしているが、本当なら顔を見るのも嫌なくらいなんだ」 そんな思いを見させられると、溜まったものではない。 それでも最近は慣れてきた。 ――こんなことに慣れてきたくなんかないわ―― と感じていたが、それでもそばに自分と同じ能力を持った綾がいてくれるのは心強かった。 ――いるといないとでは大きな違い―― そう思うことで綾に対して贔屓目に見る自分を見失っていたのも事実だった。 そのことは綾も分かっていて、 ――これを利用しない手はない―― と思わせた。 優香と一緒にいる時の綾は、すべての神経を集中させていた。離れるとぐったりしてしまうほど神経を使っているのだが、一緒にいる時、神経を使っていることが生きがいのように思えているのも事実だった。 ――私の本当の気持ちって、どこにあるのかしら? 男に対して見る目のなかった、まるで子供同然だった自分がまるでウソのようである。これも覚醒させてくれた、プロポーズしてきた男性と、優香には感謝すべきなのだろうが、自分の目的のためには、そうも言ってられない。 綾は自分の目的に対して今一度考え直してみた。 ――本当にこれでいいのかしら? 何度となく自分に問うてみたことだったが、答えは得られなかった。答えを得るとすれば、この計画の最後に何を感じるかということしかない。綾は、今の自分は本当の自分ではないと思いながらも、 ――実に綾らしい―― と、客観的に見ることもできていた。 あすなが発表したという学説は、本当は発表したわけではない。プレス発表をしただけなので、あすなが実際に学会に出向いて、その内容を公表しなければ、誰もその内容を知ることはないのだ。 それなのに、綾があすなの発表することになっている学説を知っているというのはおかしなことだ。しかも、その内容が、優香の学説に酷似しているという。 優香は自分の学説をある程度まで綾に話をした。その内容を聞いただけでは、もしあすなの研究発表がどれほど酷似しているのか分からないが、その後、優香が遅れて発表したとしても、それが発表できないほど酷似しているものだとは限らない。 限らないだけに、優香には待っているだけ溜まったものではなかった。普段の気持ちに余裕のある優香であれば、これくらいの期間、待っているのは別に問題ではないが、最初から余裕のない状態で待っているというのは、真綿で首を絞められる思いがして、吐き気からか、息苦しさが襲ってくるようだった。 本当に体調を崩してしまった。 研究中に貧血を起こして倒れた優香は、そのまま救急車で運ばれ、緊急入院することになった。付き添いは綾がいるので、他の研究員は誰も優香に構うことはない。そんな優香を綾は気の毒に思っていた。 ――私が招いた種なのに…… 綾は自己嫌悪に押しつぶされそうになっていた。 確かに、走り出した列車を止めることはできない。少なくとも、自分だけで止めることはできない。しかし、このことを知っている人は自分以外にはいないではないか。どうしたって止めることのできない列車を走らせてしまった自分に対し、自己嫌悪に陥るのは当然のことだった。 綾は、優香を見ていて、 ――ズルいわ―― と感じていた。 いくら自分が招いた種だとは言え、巻き込まれた方は、さっさと気分が悪くなって病に伏している。先に病に伏されてしまうと、自分は死んでも寝込むわけにはいかなくなった。確かにやり遂げなければならない計画のはずなのに、目の前で病に伏せって苦しんでいる人を見ると、自分とかぶってしまって、あれだけ意を決したはずの決意だったものが、どこか揺らぎ始めているのを感じいていたのだ。 「優香さん、大丈夫?」 病に伏してはいたが、薬が効いている間は、ある程度落ち着いている。精神安定剤も入っているのか、最近の切羽詰まった状態から、だいぶ収まってきたかのように見える。 しかし、それは薬が効いている間だけだった。薬がキレてくると、精神は不安定になり、不安定な精神状態はそのまま肉体に直結して、とたんに苦しみ始めるのだ。 息は荒くなり、意識不明寸前まで苦しんでいて、そんな状態を見ていると、さすがに痛々しさで、 ――自分がこんな状態になったら―― と想像すると、いたたまれなくなる。 優香はそれでも、気を失いかけたその虫の息の状態で、誰かの名前を呼んでいるようだった。 「どうしたの? 何が言いたいの?」 優香の口はパクパクと動いている。 綾は、その言葉を必死に探ろうとした。明らかに誰かの名前を呼んでいるように思えてならなかった。 それは綾が人の心を読むことができるからで、その能力は、必死にならなくてもできるものだった。 しかし、今綾は必至に優香の口元を読み取ろうとしている。そして、優香の口元に自分の耳を持って行って、何とかその声を聞きだした。 「えっ?」 綾はその時に聞いたその言葉があまりにも意外だったことで、ショックを受けた。 いや、厳密にはショックを受ける前の驚愕で、金縛りに遭ったと言ってもいい。指先に痺れを感じ、頭の中で遠い鐘の音が聞こえるようだった。目の前に小高い丘から見える海が見えていて、その場所は墓前であった。匂ってくるはずのない線香の香りが漂っている。 ――どうしたことなのかしら? その光景は以前にも見たことがあった。それがいつだったのか覚えていない。 ――確かあれは…… ごく最近のはずなのに、思い出せない。 墓前に手を合わせている一人の女性を見かけた。その人は必至になって手を合わせ、何かを呟いていた。 その後ろに一人の男性が立っている。必死でお参りしているその女性をじっと見守っていた。 そこで綾の意識は戻ってきたが、墓前だけが瞼の裏に残っていて、人は消えていた。 ――今のは何なのかしら? 綾は幻を見たとしか思えなかった。あまりにもリアルな幻である。 優香が綾の耳元で呟いたその言葉、 「お兄さん」 間違いなく、そう言っていた……。 綾は、自分の計画が半分瓦解したのではないかと思った。 なぜ優香の言葉にそんなに過敏に反応したのか、自分でも分からない。しかし、 「お兄さん」 この言葉、優香がいつか口にすることを予期していた。そして、予期していた言葉を発した時、綾は自分の中で大きな変化を迎えることも分かっていた気がした。それがどんなことなのか、予測は不可能だったが、今は分かった気がした。 ――私は、今後一切、人の心を読むことができなくなってしまったんだわ―― そう感じた時、悔しさが支配していた。 列車は走り出したのに、自分の力が一つなくなってしまったことで、これからどうすればいいのか、途方に暮れてしまうことだろう。 しかし、その反面、どこかホッとした気もしていた。なぜなら列車を走らせることが本当の自分の意志から生まれたものなのか、ずっと疑問だったからだ。 相手が優香でなければ、こんなにも苦しまずに済んだのに……。 綾は、優香に尊敬の念を抱きながら、自分をいつかは愛してくれると信じて疑わなかった。そんな優香を不本意ではありながら利用しなければいけなかった自分に、嫌悪を感じている。 「お兄さん……」 綾は、自分の思いをその言葉に籠めて、必死で嗚咽と戦っていたのだ……。
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