大学時代までは、相手の長所しか見えてこなかったのだが、大学院で正樹と知り合ってからは、相手の短所まで見えるようになっていた。 ――こんなの、いやだわ―― と思っていたが、実際に見えてくると、長所と短所が紙一重だったことに気づく。 そのことに気づくと、短所も決して悪いことばかりではないかのように思えてきた。 ――一緒に考えればいいんだわ―― そう思うことがお互いの気持ちを接近させるカギになることに気づいたのだった。 その思いがあったから、香月が話してくれた、 ――「必要悪」としての自分の存在を自分自身で納得させ、正当化させようという考え方―― に賛同できる気持ちになったのだ。 ――同じじゃない―― と感じたことで、さらに香月との距離が急接近してきたのを感じた。 しかし、それでもその途中には大きな結界が設けられていることに気づいていた。その結界はあすなが作ったものではない、香月が作ったものだった。 ――この期に及んで、この人の中にどんな結界があるというのかしら? それは、知られてはいけない何かがそこにあるのだということである。 しかし、あすなはその思いに対して、大きな障害だとは思っていない。 ――今は大きく立ちはだかっている結界だけど、時期がくれば自然に消えてなくなっているものなんじゃないかしら? と感じていた。 何しろ近づいてきたのは香月の方である。彼には自分の中に結界が張り巡らされていることは分かっているはずだ。それは、 ――相手があすなだから―― ということではないはずだ。 他の人に対しても、途中に大きな結界を築いていて、その結界がいつの間にか溶けてなくなっていれば、初めてその人に心を開くと感じているのだろう。 ということは、まだ彼は完全にあすなに対して心を開いているわけではない。まずは自分を納得させて、相手との距離を縮めることで、お互いに知り合っていく……。 このことは、香月だけではなく、他の人も同じ過程を経て、人との関わりを持っていくものではないだろうか。 あすなは、自分が正樹と知り合った時も、似たような経験をしたのを思い出した。香月を見て、 ――懐かしい―― と感じたのは、そのあたりの自分の感情の変化が影響していたに違いない。 正樹の長所を思い出してみた。だが、思い出すことができたのは、短所の方が最初だった。 ――正樹さんは、一つのことを思いこむと、まわりが見えなくなる方で、相手がどんなに大切に思っている人であっても、自分が納得しなければいけないことを邪魔すると、あからさまに嫌悪の色を見せる人だったわ―― 自分中心主義の人だったと言えるのではないだろうか? そんな人を、どうして自分が好きになったのか、あすなはいまさらのように疑問に感じていた。 しかし、それがある意味彼の長所なのだ。 ――自分中心主義のくせに、いつの間にか、それを分かっている人を惹きつけてしまう―― 言葉では言い表すことのできない魅力が彼にはあるのだ。それが彼の長所だと言ってもいい。だから、彼を見る時は、最初に短所が見えて、そこから長所に結びつけるという見方をするので、長所を見つけることができない。 ――こんな人は初めてだわ―― あすなは、正直今でも彼のような人の存在が信じられない。特に、この世からいなくなったことで、余計に、 ――正樹さんという人は、本当に存在したのかしら? と、疑いたくなってくるのだ。 最初は、 ――無理に彼の話題に触れることがタブーなんだ―― と思っていたが、そうではない。 本当に彼がこの世に存在していたということを忘れてしまっているかのような人もいるように思えてならなかった。 一番ショックだったのは、彼の座っていた研究室での机が、半月もしないうちに整理されていたことだった。あすなはそのことを抗議する気にもなれないほど、あっけに取られている自分を感じていたのだ。 ただ、彼の机が整理されていると言っても、それは机の上だけのことで、机の中を整理したわけではない。彼の席を使う人は誰もおらず、たぶん、人員が補充されても、彼の席に座ることはないだろう。 これは研究室と他の会社の違いであった。 確かに彼の存在について、誰も触れることはないだろうが、机の中の資料まで扱うという人は誰もいない。これは研究者全員の暗黙の了解で、 ――自分が同じことをされると嫌だ―― という思いが働いているからに違いない。 したがって、机の中には誰も入り込むことはできない。帰ってくるはずのない彼の机なのに、彼の机はずっとそのままになっているだろう。それが何年続くのか、前例がないので、誰にも分からなかった。 彼の机には、しっかりとロックが掛かっていた。そのカギを持っているのは、正樹本人であり、中を知ることができるのも、正樹しかいないはずだった。 「実はこれ」 と言って、香月は自分のカバンの中から、一つのカギを取り出した。 「このカギは?」 と聞くと、 「これは、正樹さんの机のカギなんですよ。正樹さんは自分の身に何かが起こるのを知っていたのか。合鍵を作ったようで、それを僕に渡してくれたんです。僕には、彼の身に何かが起こるかも知れないことを検知できていたのに、何もしてあげられなかった。だから、その悔しい思いもあったし、自分が『必要悪』なんだという自覚もあったことがジレンマとなって、しばらくどうしていいのか分からなかったんですよ」 「じゃあ、投書というのは?」 「それは本当です。ただ、一番彼の死に疑問を抱いていたのは、自分かあすなさんだということは分かっていたのですが、他の人にはそのことが分かるはずはないですよね。それなのに、どうして投書の相手が自分なのか、それが疑問だったんです。だから、すぐにはあなたの前に現れなかった。あなたに迷惑が掛かるかも知れないと思ったからですね。でもそれ以降、投書してきた人から何も言ってこない。そうなると、今度は投書の相手が誰なのか、再考しないといけないと思ったんです」 あすなは、少し考えて、 「まさか、その投書の相手が私だと思われたんですか?」 「ええ、そう思ったからこそ、あなたの前に現れる気になったんです。そして最初からカマを掛けることで、あなたの様子を見ようとした」 「でも、その投書が私ではないと思ったから、あなたの心情を私に話してくれる気になったんですね」 「その通りです」 「あなたは、手にしているそのカギが、文字通り、何かのカギを握っていると思っているんですね?」 「ええ、じゃないと、僕に合鍵なんか持たせてくれるはずないからですね。しかも、カギを渡したのはあなたではなく僕だったということは、あなたに危害が加わらないように配慮したこと、それはある意味、彼の死に誰かが関わっているとすれば、それは研究室の中の人ではないかと思ったからです」 「香月さんの言いたいことはよく分かりました。でも、私にはまだ何か信じられないものがあるんですよ」 あすなは、虚空を見つめた。 「あすなさんの発想は、僕の考えていることと少し違っているようですね」 「ええ、私は彼が死んだということ自体が信じられない気がするんです。確かに私の立場で、彼の死に疑問を抱いているといえば、それは人情的に仕方がないと思われるかも知れない。私も、確かにそれも少なからずあるとは思うんですが、それを差し引いても、どうしても疑問が残るんです」 「それは口で言い表せることのできないものだと思われているんですね?」 「ええ、そうなんです。その気持ちを分かってくれる人がいるとすれば、今は香月さんしかいないと思っています」 あすなは、香月に対して、どこか頼りがいのようなものを感じていた。 それは、かつて正樹に感じたものと同じものかどうか、ハッキリしないが、少なくとも今頼れるのは香月しかおらず、彼が敵ではないと分かった時点で、何でも話せるような気がしていたのだ。 「とりあえず、せっかく正樹さんが残してくれたこのカギ、あなたに預けまずので、よろしくお願いします」 「はい、分かりました」 あすなは翌日、正樹の机の中の一番上にあった自分の研究の論文を見つけ、そこに何か秘密があるのではないかと思い探ってみた。そこで発見したのは、あすなが自分の研究の最後のまとめが書かれていた。 「あと少しで完成なのに」 と思い、その最後の道の遠かったことがまるで嘘のように、完璧なまでに結論が書かれていた。思わず、 「やられた」 と口に出してしまったほどの内容に、あすなは自分の研究者としての魂が覚醒したのだ。 そのことを知っている人が誰もいない。香月がどういう思いでカギをあすなに渡したのか、今となっては、 ――遠い過去になった―― と言っていいほど、この瞬間、研究室の空気の流れが変わってしまい、まわりの立場関係は一変した。 「この部屋に空気が流れていたなんて」 あすなは、そう感じたことだろう。 ただ、こうなることを果たして誰が望んだというのか? 一変してしまった状況の中で、最初と気持ちの上でまったく変わっていなかったのは、香月だけだったのだ。 ――あすなの思いは、どこに行ってしまうのだろう? 香月のその危惧に答えてくれる人は、誰もいなかった……。
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