センセーショナルな発見があった時というのは、えてして自分が初めて見たはずなのに、前から知っていたような気がすることもあった。それがどうしてなのか分からなかったが、あすなは、それを事実として受け止めるしかなかった。 ――世の中には自分の思いもよらぬことって結構あるのかも知れないわ―― と感じた最初だった。 それから何度か同じような思いをしたことがあったのだが、突き詰めれば、同じところに戻ってくるような気がして仕方がなかった。 その時に感じた真っ白な色は、まだ何も書かれていないスケッチブックの真っ白さをイメージさせた。 スケッチブックの真っ新なページを開いた時、目が回ったような錯覚を感じることがあったが、それは、円盤をまわして見えた真っ白な色が思い浮かぶからだった。 「西村さん、どうしたの? 眺めてばかりいては、時間が経過するばかりよ」 と、高校に入って美術の授業で、先生から指摘されたことがあったが、指摘されて初めて自分がスケッチブックを眺めているだけであることにビックリさせられた。まったくの無意識だったからだった。 あすなは、真っ白いスケッチブックを眺めていて、白い色を感じながら、その先に、 「限りなく透明に近い色」 を思い浮かべていたことに気が付いたのは、高校を卒業してからだった。 美術部に在籍していたのは、高校時代までだった。 大学に入学すると、それまでとは打って変わって、理学部に入学し、理工系の研究を目指すようになっていた。その心境の変化がどこにあったのかというと、高校時代に絵を描いていて、自分の限界を感じたからだ。 その限界というのが、 「限りなく透明に近い色」 を見つけることができず、スケッチブックに筆を下ろすことができなくなってしまったからだった。 そのため、絵画で頑張っていこうと思っていた思いは失せてしまい、まったく違った道を模索するようになったのだ。 それでも、大学三年生になった頃、試しにスケッチブックを目の前にすると、絵を描けるようになっていた。 ――私がプレッシャーに弱かっただけなのかも知れないわね―― ただ、この思いはトラウマとして残ったのも仕方のないことで、いざという時、本来の力が発揮できなくなるのではないかという思いが募ったのも、仕方のないことだった。 あれから八年が経ったが、あすなは趣味の域を超えるくらいの絵を描けるようになっていたが、決してコンクールに出品したり、自分の絵を表に出そうとはしなかった。 たまに馴染みの喫茶店に自分の描いた絵を寄贈したり、研究所の片隅に額で飾ったりしてもらうことが至高の悦びで、細々と絵を描いていることが、今の自分の生きがいのように思っていたのだ。 「あすなさんの絵もすごいですよね。研究室に掛かっている絵を見て誰が描いたのか聞いてみると、あすなさんだっていうじゃないですか。僕はビックリしましたよ。絵の才能もあったんですね」 「いえいえ、才能なんてものではないですよ。私は以前、絵を描くことができなくなって、何年か描いていなかった時期がありますからね」 「それでもこれだけ描けるのだから、素晴らしいです。尊敬しますよ」 「正直に言って、描き始められるようになったのに気づいたのも偶然だったんです。もし気づかなければ、あのまま絵を描くことをやめていたでしょうね。そうなると私の人生ももう少し違ったものになっていたかも知れません」 と言って、あすなは笑顔で答えた。 やはり、絵の話になると、少しは気分が晴れるのか、このまま絵の話だけで終わってほしいと思ったくらいだ。 「そうでしょうか? 僕は絵を描いていなくても、あすなさんは、今とさほど変わらない人生だったと思いますよ」 「どういう意味ですか?」 せっかくよくなった気分を害された気がして、 ――いちいち気に障る男だ―― と、一層の警戒心を深めた。 「深い意味はないですよ。あすなさんを見ていると、自分の人生をさほど悪いものだって思っているようには感じないんですよ。そういう意味でしたので、お気を悪くされたのなら謝ります」 「そういうことなんですね。それなら許します」 と、また笑みが浮かんだ。 ――この香月という人はどういう人なんだ? 一言一言、相手の心情にこんなに変化を与えるなんて―― と感じていた。 香月という男は、もっともらしいことを言って、自分が正樹の死について疑問を感じた理由を、医学的な見地から語った。知らない人が聞けば、 ――なるほど―― と感心するかも知れないが、科学的な知識のあるあすなには、香月の話はどこか胡散臭かった。 もっとも、最初から怪しいと思って聞いているのだから、当然と言えば当然なのだが、香月の表情を見る限りでは、あすなの疑念は分かっているはずなのに、微動だにしないその自信がどこから来るのか、分かりかねていた。 「香月さんの言いたいことは分かりましたが、まさかそれだけのことで怪しいと思ったわけではないですよね?」 「その通りです。そもそも何か根拠がなければ、一旦心臓麻痺として処理された人の死因について、後から再調査などするはずないですよね? 彼と利害関係があったり、彼の死を疑うことで私の方に何かの利益でもなければ、普通はありませんよね。私には彼との利害関係はありません。でも、私がこの話に興味を持った最初は、投書があったからなんですよ」 「投書ですか?」 「ええ、その投書はもちろん匿名だったんですが、彼のことを克明に書かれていました。よほど親密な関係でなければ知らないような事実を細かく書いていたんですよ。私に対して調査してほしいという気持ちが十分に伝わってくるものでした。私に対しても、調べて損のない内容であることを強調されていたんですよね。もし、私が興味を示さなければ、探偵事務所の門を叩くと書かれていました」 「それで?」 「私は少し興味を持って、彼のことをここまで克明に書くことのできる人を探してみたんですが、実は見つからなかったんですよ。一番怪しいと思ったのがあなただったので、あなたのことも失礼だとは思いましたが、いろいろ調べてみました。すると、あなたには、こんな投書をする必要はないという結論に至ったんですが、逆に彼の死がこの投書のように曰くがあるのであれば、その真相を知っているのがあなたではないかと思ったんです」 「それで、直接会いに来られたわけですか?」 「ええ」 「何て大胆なんでしょう」 と口では言ったが、この男の話にも一理ある気がした。 もし自分が彼の立場であれば、同じ考えを持ったかも知れない。 だからと言って、彼の考えが一般的な考えだというわけではない。むしろ、普通なら誰も考えないことではないだろうか。そう思うと、香月という人、まんざら敵視する必要はないのかも知れないと感じていた。 今まで誰にも明かしたことのない彼の死への疑念、いきなり現れた怪しげな香月という男、この男を全面的に信用するのは危険なことだと思う。しかも、ジャーナリストという立場や人間性を考えると、自分の心を開くなど、普通だったらありえないことだった。 しかし、少なくとも今は、 ――この広い世の中で私だけが疑っていると思っていた正樹さんの死への疑念を、分かってくれる人が現れた。このまま「知らぬ存ぜぬ」と言って、跳ねのけることは簡単だが、それが一生の後悔に繋がるのではないかと思うと、怖くなる―― と感じていた。 「大胆なのは、あなたも同じかも知れませんね」 「どうしてですか?」 「あなたは、もしかして、彼の死に自分だけが疑念を抱いていて、何を言っても誰も信じてくれないことをトラウマのように感じていて、その思いから、自分の手で、真相を解き明かそうと思っているのではないですか?」 「そうですね」 「少なくとも、あなたは彼が何かの事件に巻き込まれたり、殺されたとは思っていない。もし、彼の死に何か疑問があるのだとすれば、彼の意志がそこに存在していると思っているのではないですか?」 「まさにその通りです」 何ということだ。まるで自分の心を見透かしているかのようではないか。香月という人を全面的には信じてはいけないが、お互いに同じ目的で動いているという点で、協力してもいいのではないかと思えてきた。 しかし、 「でも、あなたは彼の死の真相を掴んで、それをどうしようと思っているんですか?」 ここが一番気になるところだった。 香月はジャーナリストである。記事になることであれば何でもする人種である。逆に記事にならないことであれば、何もしないに違いない。 「私は、彼の死について真相を掴んだとしても、それを記事にするつもりはありません。ただ、彼の死の奥に何か裏があるのだとすれば、そこを記事にしようと思っているんですよ」 「ではあなたは、正樹さんの死の裏に何かがあるとお考えなんですか?」 「ええ、死を装うなど、一人の考えで、そして一人の力でできることではありませんからね。それに、彼は火葬場で荼毘にふされています。ただ、その時に見つかった肉の破片。こんなものは普通はありえないことですよね。実は、投書にもそのことは書かれていました。知っているのは、私たちだけではないということなんですよ」 「じゃあ、何かの組織がそこに暗躍しているのだと?」 「そうかも知れません」 「そんな、推理小説のようなことが……」 「何を言っているんですか。火葬された後に肉片が残っていた方が、よほど小説の世界の出来事のようではないですか。まるでSFかホラーのようなですね。そのことに目を背けてはいけませんよ」 あすなは、生前の正樹を思い出していた。 あすなは敢えて研究員としての正樹を見ていなかった。研究所での仕事をしている時は、 ――私が一番なんだわ―― という気持ちでいつも研究に向かっていた。 そうすることが、自分にとっての研究を成就させる近道だと思っていたからだ。 実際に女性研究員の中では一番と目されるようになり、彼女の提唱する学説も発表できるまでに至った。 次回の学会で発表できるだけの資料もほとんど整っていて、この日は、その報告も兼ねて正樹の墓前を訪れたのだ。 正樹はあすなにとっての 「オアシス」 だった。 研究員としての尊敬の代わりに、彼には癒しを与えるという力があった。そのことを他の女性は気づいていないのかも知れない。彼は研究所では ――冴えない研究員―― として皆から見られていて、 「誰かの役に立つことだけが彼の存在意義だ」 とまで言われるほどだった。 彼は研究所以外でも友達が数人いたようだ。 合コンにも何度か誘われていたのだが、それはあくまでも人数合わせが目的だった。本来なら、 「彼は研究所勤務なんだ」 というと、女性は興味を抱くだろう。 「わあ、すごい。どんな研究をされているんですか?」 正樹には、女性に対しての免疫がない。あるとすればあすなにだけである。 あすなは同じ研究所の人間で、距離もかなり近いからだ。 実際に、香月の言ったように、正樹は研究員と言っても、彼が具体的に自分が発案して研究していたことは皆無だった。誰かの研究の補助をしたりしていただけだった。 しかし、今のあすなは知っていた。言われているようなことがすべてではないことを。 確かに、冴えない研究員の正樹は、他の研究員の助手を務めるばかりだったが、中には、自分が提唱した研究もあった。そして表向きは自分が助手のように見えるのだが、実際には研究内容は明らかに正樹の提唱しているものだというものもあった。 それでも正樹は黙っていた。他人に研究を横取りされた形になっていたが、なぜ彼が黙っていたのか、今考えればあすなには信じられない。 どこか瞬間湯沸かし器のようなところがあり、カッとなったら何をするか分からないところのある彼が、自分の研究を横取りされて黙っているのだ。かなりのストレス、いや、トラウマになっていたことだろう。 ――これが彼の死に、何か関係しているのかも知れない―― そう思ったあすなだったが、それを証明することもできない。 いや、もし彼が何かの復讐をしようとしているのだったら、 ――やらせてあげてもいい―― と思っていた。 彼の研究が他の人によって発表されたことを知った時、あすなは自分のことのように怒りを感じていた。 あすなは今、香月を目の前にして、その時の怒りがこみ上げてきた感情を抑えることができなかった。むしろ、彼に今の心境を分かってほしいと感じるほどで、そのことを分かったのか、香月は何を言わずに、一人黄昏れている時間の狭間に嵌っていたあすなを無表情で見つめていた。 「あすなさんは、今までにも正樹さんの死に対していろいろな感情を抱いていたんでしょうね。でも、それを誰にも言うことができず、悶々とした日々を過ごしていたような気がします」 「確かにそういう時期もありましたね。でも、ずっとそうだったわけではないんですよ」 「ええ、分かっています。でも、何度もいろいろ考えているうちに、考えていることが日常になってしまって、考えていない時期との境目が分からなくなっていた時期があったんじゃないですか? 今は分かっているようなんですが、あなたを見ていると分かる気がします」 「あすなさんは、今度学会で何かを発表されるそうですね。その資料はすでに出来上がっているんですか?」 あすなは身構えた。 「その手の質問にはお答えしかねます」 というと、口を閉ざしてしまった。 香月にもあすなに今この質問をすれば、彼女が口を閉ざすことくらい、分かり切っていたことだろう。別に慌てることもなく、 「そうですか、そうですよね。では今日はこれくらいにして、私は退散することにしましょう。また近いうちにお会いすることになると思いますので、その時は、またよろしくお願いします」 と言って、腰を上げた。 香月が視界から消えると、あすなは一人取り残された。 いや、元々一人で来て、一人で帰るつもりだったのだ。香月がいた時間だけが「余計な時間」だったのだ。 あすなも、一度墓前に頭を下げて、踵を返すとその場から立ち去った。 ――こんな話、まさか正樹さんの墓前の前でするとは思わなかったわ―― と、頭の中で、正樹に詫びたのだ。 あすなは、そのまま駅まで向かうと、他のどこにも立ち寄る気分にはなれず、家路についた。家に帰りついた時にはすっかり疲れ果ててしまっていて、シャワーを浴びるのがやっとだった。 お腹が空いていたのも事実だったが、それよりも睡魔の方が強く襲ってきて、気が付けば睡眠に入っていた。その睡眠が浅かったのか深かったのか分からないが、気が付けば真夜中の二時だった。 今までのあすなであれば、疲れ果てて帰ってきた時は、どんなに空腹でも朝まで目が覚めることはなかった。完全に深い眠りに就いていて、目覚めは重たい頭を起こすのに少し時間が掛かったが、起きてしまえば、スッキリとしたものだった。前の日からの疲れはすっかり消えていて、リフレッシュされた気分で、朝を迎えるのだ。 その日のあすなはリフレッシュなどされていなかった。目が覚めたのがいわゆる、 「草木も眠る丑三つ時」 こんな時間に目が覚めるというのは、何か気になることがあって、眠りに就くことができず、目が覚めてしまっていた。その時には時刻が、 「午前二時だ」 ということは分かっていた。 しかし、この日は、夢を見ていたような気がするくらい深い眠りだと思っていたので、目が覚めた時はてっきり、朝になっていたと思っていたのだ。それなのにまだ午前二時だったということは、それまでに経験したことのない感覚で、目が覚めてからしばらく、 ――前後不覚に陥ってしまうのではないだろうか? と感じたほどだった。 三十分くらいボーっとしていた。その間は眠っているのか起きているのか、自分でもハッキリとしなかった。 ――ひょっとしたら、このまま眠ってしまうかも知れない―― と感じたほどだが、結局は目が覚めていた。 もちろん、スッキリとした目覚めであるはずもなく、 ――まだ夢の中にいるようだ―― としか感じることができず、 ――このまま眠り込んでしまわなくてよかった―― と感じたのだが、それは、 ――ここで寝てしまうと、二度と目が覚めない世界に落ち込んでしまうかも知れない―― と感じたからだった。 正樹がここで眠ることを躊躇したのは、眠ってしまって夢を見ることを恐れたからだ。 その夢の内容というのが、自分にとって目覚めの悪いものであることが分かってしまったからだった。 今までにも怖い夢を見るかも知れないという思いを感じたこともあったが、実際に怖い夢を見たという記憶はなかった。 ――思い過ごしだったんだ―― と後から思うのだが、この日は少し違っていた。 怖い夢を見る時というのは前兆があって、その前兆は眠る前に意識することはなかったのだが、この時は最初から前兆を意識していた。だから、必ず怖い夢を見るという予感があったのだ。 しかも今回の怖い夢を見るのではないかという予感の中には、具体的な夢の予感があった。 「夢の中に正樹さんが出てくるんだわ」 今一番会いたい人、夢であっても会いたいと思っている人の夢を見るという予感があるのに、それが怖い夢だと思ってしまうというのも皮肉なものだ。それがどうして怖い夢だと感じるのか? あすなは二つ考えていた。 一つは、夢の中に現れる正樹が、まるでゾンビのように変わり果てた姿になっているのを想像するからだった。最初は、いつもの笑顔の正樹であり、途中から豹変してしまうという思いは、 「ホラー映画の見すぎではないか?」 と言われるかも知れない。 もう一つは、最初から最後まで笑顔の正樹であり、正樹がまるで生まれ変わったかのような感覚に陥ることで、それが夢だと思えない気持ちになってしまい、夢の中で、 「これは夢なんだ」 と感じてしまう瞬間が訪れる。 そうなると、夢から覚めることを怖がってしまい、 「別れたくない」 と言って、彼にしがみつくに違いない。 その時に夢から戻ってくることができなくなるという発想が生まれ、それが眠りに就くことの本当の恐ろしさだということを意識させるのだった。 それからどれくらいの時間が経ったのだろう。表は明るくなっていた。 ――もう、夜明けなのかしら? と思ったが、カーテンから洩れてくる日差しは、どこかが違っていた。 枕元の時計を見たが、時刻はまだ三時過ぎだった。いくら何でも夜明けであるはずはなかった。 カーテンの向こうの光に目を奪われていたが、ふいに横を見ると、そこには正樹が座っていた。 「あすな」 あすなは、自分が夢を見ていることを自覚した。 「はい」 夢であっても、目の前にいる正樹は自分に語り掛けてきたのだ。返事をするのはいつものことである。 「君は、そのうちに真相を知ることになるかも知れないけど、今はそのことを探ろうなんてことはしない方がいいと思うんだ」 「どうしてなの?」 「僕は君のことが心配なんだ。だから余計な詮索をしてほしくない」 あすなはその言葉を聞いて、戸惑ってしまった。 死んでしまったはずの正樹。いくら会いたいとずっと思っていたとしても、そんなことができないことくらい、百も承知である。 ――会えるとすれば、夢の中だけ―― 分かり切っていることではないか。 夢の中というのは、本当であれば、自分の潜在意識が見せているものなのだから、自分に都合よく見るものだと思われがちだが、実際には、自分に都合のいい夢などあまりないことだ。 都合のいい夢ばかりだということであれば、怖い夢など存在しないだろうし、目が覚めてから夢の内容を忘れてしまうというのも、どこか違っているような気がする。
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