20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:「水をすくう〜少女の闇と光」 作者:小原ききょう

第9回   水野明美の母親


「そんなものを体につけて、明美の体が汚れてしまうわ、きっと神様もお怒りになられるわ!」
 母は私がつけている香水のことを言って騒いでいる。そんな匂いなど無縁の部屋、腐ったものの匂いしかない部屋の中にいればすぐに香水の匂いだと母にわかってしまう。
 このゴミの腐った匂いの方が私の体を汚していることすら母はわからなくなってしまっている。
「髪も長過ぎるわっ、なんてはしたない、恥を知りなさい!」
 母はそう言いながら鋏を握って私に向かって来たことがあった。
 短い髪がいやで最近伸ばし始めたのが母には気に入らなかったみたいだった。
「全部切ってしまいなさいっ、切らないのなら私が切ってあげるっ」
 母が掲げた鋏を私は掴んだ。掴まなければ体のどこかを切ったかもしれなかった。

 私の着ている服は暗い色のものばかりだ。今、着ているのだって茶色の地味なワンピース。
 黄色の花柄のワンピースが欲しかったけれど、そんなものは家で着ることはできない。
 母がのめり込んでいるおかしな宗教のせいだ。

 神様がいると母は言う。
 現世での行いをよくしていれば、死後の世界で幸せになれると言う。
 そのためには現世で清い体を保たなければならないというのだ。だから香水などの化粧品はもってのほかだ。髪も長く伸ばしていると、この世界の悪いもの全てを髪が吸い込んでいくと母は懸命に説明する。
 私には母の言うことはわからない。
 私の幸せは図書室で本を読むことだけだった。

 私が幼い頃、父が借金を残したまま消えてしまうと、それまで住んでいた家を出てここに住み始めた。
 吉水川の土手沿いにあるバラック住宅だ。
 ここは私たちのような境遇の人たちが違法に家を立て住んでいる場所だ。当然ながら家賃などというものはない。家賃はないけれどこの場所を仕切っている人に毎月、お金を支払っている。
 家の水は川の水を汲んで使っている。電気はない。
 生活にいるものも家の周囲にひろがるゴミの山の中から揃えることもできた。
 皿、箸、フォーク、スプーンなどの食器類。鋏、定規、筆記用具などの学校用品。
 衣類などは最も多い。
 冬になれば去年まで着ていた服を捨てていく人がいる。すぐに新しいのに買い換えてしまうのだろう。私はその中からまだ着れそうな物を選んで身につけた。
 クラスの他の子とは全く違った境遇に陥ったけれど、これからは母と二人きりなんだから色々と我慢しなければいけない、そう思い私は母に文句も言わずに学校に通い続けた。
 母は最初の半年くらいは気力を失った状態が続いた。食事もほとんど摂らず水ばかりを飲んで次第に痩せていった。私が声をかけても返事をしなかった。このまま母は死んでいくのだ、とさえ思った。
 しばらくすると、ある人たちが家に来て借金の返済方法を指導した。
 母が言うのにはその内容はその人たちが運営する宗教を布教する代わりに借金の利息の減率、元本の繰り下げ弁済をしてくれるというものだった。
 私はよくわからなかったけれど、母が元気になるのなら何でもかまわないと思った。
「優しい人たちだねえ。世の中にはあんなにいい人がまだいるのねえ」と言って母はその話にすぐさま飛びついた。でもその時、飛びつかなければ母は死んでいたかもしれない。
 母は布教のための道具や冊子、商品のようなものを揃えると毎日のようにどこかに出かけた。
 幼かった私は母が元気になってくれて嬉しくて、宗教というものを素晴らしいものだと思っていた。
 母は知り合いの家や親戚の家に出向いて宗教の教えを説明し会員を増やしていった。
 けれどそれは同時に高額の商品を売りつけるものだった。
 借金をきっちり返済していく目途が立った頃には母は人が変わったようになっていた。
 借金を負わされる前の知り合いの人たちを宗教に勧誘することには成功していたけれど、 親戚からは見放されるようになっていたからだ。
 母は見放した親戚の悪口を言い続けながらも宗教の勧誘を続けた。
 もう母の頭の中には宗教のことしかなかったのだろう。
 けれど、幼かった私には生活の糧となる宗教を信じざるを得なかった。
 それに母から宗教を奪ってしまえばまた前の母に戻ってしまうのも怖かった。

 ある日、母はまだ幼い私に一冊のノートを差し出した。
 母は「このノートにその日の行いを毎日欠かさず書くようにしなさい」と言った。
 自分がその日にしたこと、心に思ったことなどを全てを書くように言った。
 特に悪行は書かないといけないと言われた。
 悪い行いといっても学校にいくだけの毎日なのに、何も悪いことなんてできない。
 仕方なく私は学校で受けた授業のことを書いた。
「授業で先生に質問されるのがイヤでうつむきました」とノートに書いた。
 母は「よく書いたわね」と褒めてくれたが「でも本当はもっと悪いことを心の中で思ったでしょう?思い出して正直に書くのよ」と言った。
 私は「先生が私の隣の子に質問するように心の中で祈りました」と続けて書いた。
「ほら、やっぱり、明美の中にはまだまだ醜い心があるじゃない」と嬉しそうに笑った。
 母が嬉しそうにするのだから別にかまわないけれど、母は宗教という大きな怪物に騙されている、と思い始めた。
 スケッチブックに鉛筆で静物画のデッサンを書いている時には母は何も言わなかった。
 けれど絵の具で風景画を描き出すと「この色は何なの?まるで悪魔の色だわっ」と騒ぎ立てた。夕暮れの風景なので空の色に赤やオレンジを使っただけのことだった。母に何の色が見えているのか私にはもうわからなかった。
 美術の時間にも絵の具は赤や黄色、青も使わずに絵を描いた。
 先生からは何を描いているのかわからないと言われ、美術の成績は「2」になった。
 それでも通知簿の成績で国語や社会、理科で「4」を三つもとった時、嬉しくて家に帰って母に見せると「これを見た時、明美はどう思ったの?」と訊かれた。「嬉しかったよ」と正直に答えると「嘘だわ、もっと成績のいい子を妬んだはずよ!」と激しい口調で言うので「そうです、そう思いました」と仕方なく言った。そう言わないと母の気が治まらないだろうと思った。
 しかし母は「まだまだあるはずよ。きっと自分より成績の悪い子を見下したはずだわ」と続けて私を問い詰めた。
「はい」私が頷くと「明美の心は汚れきっているのよ、だからお母さんはお祈りをずっと続けなくちゃいけないの」と言った。
 母はそう言うと数珠を持った手を合わせて祈祷を始めた。
 私は通知簿を持った両手の上に涙を静かに落とした。

 ある日、高額な商品を買わされた人たちが家に乗り込んできた。
 買わされたもので何もいいことがない。子供の成績が下がった。親が怪我をしたなどと言いがかりのような言葉を大きな声で吐いた。
 母はその相手に対して「あなたたちの心が汚れているからだ」と言い返した。
 しつこく迫る人に母は家にあった生ゴミを手に取って投げつけた。
 一度買ってしまったものはもう文句も言えないようになっていたらしく、結局その人たちは帰っていったけれど、私は「心が汚れているのは母も同じだ」と思った。
 商品を売る度に母に文句を言う人が次第に増えていった。
 誰も宗教なんて信じていないのだ。子供が受験に受かりますようにとか、仕事が上手く行きますようにとか、みんな自分のことしか考えてない。
 そんなものが果たして宗教だろうか?この宗教で一体誰が幸せになると言うのだろう。

 しかし、私も母のことは言えない。
 昨日、クラスメイトの山中くんから千円を借りてしまった。
 万引きをしたところを言わないという約束で無理やりに借りた。これはもう脅かしみたいなものだ。
 いつのまにか私の心は汚れてしまっていたのだ。成績を伸ばしたい、塾に行っている子たちに負けたくない一心でお金を手にしてしまった。
 たった一冊の参考書を買うためだ。
 もうこんな生活から私は抜け出したかった。
 もっといい成績をとって高校に進学したい。奨学金制度を利用すれば何とかなるかもしれない。
 高校を卒業してちゃんとした会社に就職できればお金もできる。こんな家も引っ越せる。
 少なくとも「あそこに住んでる子」なんてことはもう言われなくなる。
 そうすれば、私にだって友達が・・
 妙ちゃんのような友達が・・
 そのためにはもっと成績を・・
 そうだ!もっと山中くんから借りれば問題集だって買える。
 たくさんお金はあるって山中くんは言ってた。

 私は宗教に純粋にのめり込む母よりもたちが悪いのかもしれない。



「本当にお小遣いでいいの?」
 僕はクリスマスのプレゼントは何がいいか、と訊くお母さんに「お小遣いでいい」と答えた。
「うん、その方が好きなもの買えるから」
 静かな朝食の時間だ。お父さんはとっくに出勤している。
「でも、なにか品物の方が・・ねえ、新しい靴とかよくないかしら?今の運動靴、もう古くなっているみたいだし」
 本当はお母さんに何か形あるものを買ってもらいたい。
 そうだ。お母さんの言うとおりに靴でもいい。別に村上の言うとおりにする必要もなかったんだ。
「靴がいらなかったら、やっぱり漫画の本がいいかしら?」
 漫画の本って聞いただけで水野さんに貸した千円を思い出す。
「でも、達也さん、最近、漫画の本、読んでないわよね?」
「う、うん」思わず頷く。
 お母さん、気づいていたんだ。僕はもう漫画を見るのもイヤになっていた。
 それに万引きした本は返さないといけない。村上についてきてもらうのも悪い気がする。
 果たして一人でいけるだろうか?警察に連れて行かれるのだろうか?
「もしかして漫画って年じゃなくなった?」
「そ、そういうわけじゃないんだ」
 慌てて取り繕う。
「何かあったの?」
「最近、面白い漫画がないんだ」
「それじゃあ、せっかくお小遣いをあげても買うものがないわねえ」
「面白い漫画が出たら買うよ」
 お小遣いをもらっても買うものがないかもしれない。千円のことで漫画以外のものにも興味がなくなっていた。
「達也さん、そのジャンパー、着てくれてるのね」
 お母さんに前に買ってもらったジャンパーを外出にはよく着ている。
「だって外、寒いから」
 そうだ。僕はこんなにいいものを買ってもらっているじゃないか、別にクリスマスにわざわざお小遣いなんて要らないのかもしれない。
「お母さん、お小遣いもいらないよ」
「そんなわけにはいかないわよ。そうそう、やっぱり運動靴がいいわよ。今のはだいぶ底が磨り減っているみたいだし」
 話が元に戻った。すごく靴のことを気にしているみたいだ。
「うん。お母さん、僕、クリスマスプレゼントは運動靴がいい」
 素直にそう答えた。
「そう、それじゃ、そうするわね」お母さんは嬉しそうな笑顔を浮かべた。
 少しずつ、お母さんとの距離が近づいていくのを感じた。
 でもまだ僕を呼ぶときは・・「達也さん」だ。



「お母さん、机の上にあった参考書、知らない?」
 借りた千円で買った算数の参考書のことだ。学校から帰ると机の上になかった。
 母はゴミの中から見つけ出したような汚い雑誌を読んでいるところだった。
「ああ、あれなら、捨てたわよ」
 母は私の方を見るとまるで何かのゴミを捨てたかのように軽く言った。
「す、捨てた?」
 母の言った言葉がすぐには信じられたかった。
「どこに?」
 まだ部屋にあるかもしれない。ゴミ箱の中?
「もうないわよ。業者さんが持っていったから」
 母は私の問いかけに返事をするのも面倒臭そうだ。
「そんなっ」
 一瞬、立っているのも辛いほどの眩暈がした。業者が軽トラックに積み込まれてしまうともう取り戻すのは不可能だ。
「お母さんっ、あれは、私が勉強するために買ったものなのよっ!」
 僅かなお小遣いを貯めて買ったことにしてるけど、山中くんを脅かして無理やり借りたお金で買ったものだからあまり強くも言えない自分が腹立たしい。
「あんなものを持ってたら、明美のためによくないわ」
 まるで汚らわしい物のことでも言うように顔をしかめながら言った。
「お母さん、な、何を言っているのよ、私の勉強、将来のためじゃないのっ」
 私の体が怒りに震えてくるのがわかった。
 せっかくの参考書が、犯罪のような脅かしをしてまで買った参考書がなくなってしまった。
「将来のため?」
「私、高校に行きたいの、そのために毎日、一生懸命勉強してるの。どうして捨てたりするのよっ」
 日頃、母に対して溜まっていたものが一気に込み上げてくる。
「明美はそんなところに行かなくてもいいの。中学を卒業したら働いてくれたらいいんだから。その方がお母さんも助かるの」
 それがイヤだから高校にどうしても行きたいのに。こんな所にいるのがイヤだから、ちゃんとした所で働きたいのに。
「お母さんはいつまでもこんな所にいたいの?」
「ここの何がいけないんだい?」
 この家の何が不服なんだと言わんばかりの顔だ。
「お母さん、お金、ちょうだいよっ!」
 千円あれば、また買える。
「今月はもう渡せるようなお金はないよ。数珠が思うように売れなかったからねえ」
 お金、ないんだ・・怒りに震えていた体から一気に力が抜けていった。
 それに数珠って何よ!後から文句を言われるようなものを売るなんて、人に迷惑をかけてるだけじゃないっ。
 だから、勉強していい高校を出て就職すれば人に迷惑をかけずにお金をもらえるようになるんじゃないのっ。そうすればお母さんも楽になれるっていうのに。
 お母さんはそんなこともわからないんだ。
「明美も神様にお祈りするんだよ」母はそう言って数珠を私に差し出した。
「こ、こんなものっ、いらないわよっ」
 私は差し出された数珠を手で弾き返した。数珠は母の手から離れて障子の方に飛んだ。
「な、なんて罰当たりな!」
 母は慌てて数珠を取りに障子の方に駆け寄った。その後姿を見て私は思った。
 母は狂ってる・・


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 406