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作品名:「水をすくう〜少女の闇と光」 作者:小原ききょう

最終回   ビクトル・ヘルマン



 三学期になったある日の昼休み、図書室で一度だけ水野さんと会った。
 水野さんは三学期には図書委員にはならなかった。その理由を僕は知っている。
放課後の時間を有効に使いたいからだ。
 おそらくそれは大事な友達と遊ぶ時間のために・・
 書架の角を曲がると立って本を読んでいる女の子がいる。
 メガネをかけた長い髪の女の子、水野さんだ。
 髪の長さは丁度叔母さんくらいだろうか。
 香水の匂いはもうしていない。
 そのことと関係があるのかどうかわからないけれど、来月にはあそこの集落を出て引っ越すそうだ。低い家賃のアパートを見つけたらしい。どこのアパートだろう?
 どこのアパートにせよ、家の収入が安定し始めたことには違いない。
 図書室の並んだ書架の間で僕と目が会うと「あ・・村上くん」と言って読みかけの本をぱたりと閉じて書架に戻した。
 新しいメガネだから度が合っているので僕を見つけるのも早い。
「僕を気にせんで読んでくれたらいいのに」
「別に見られてもいいんだけど、何かちょっと恥ずかしいから」
 言葉の意味がよくわからない。
「ねえ、外でちょっと話さない?ここ、図書室だから」
 僕たちは運動場に面した大きな階段で話すことにした。ここは以前、井口さんと話した場所だ。水野さんが三年生の時、沢井さんに万引き犯にさせられた話を聞いた。
 ずいぶん昔のことのような気がする。
 ちょっと人に見られたら恥ずかしいけれど、僕たちは階段に並んで腰をかけた。
 昔「ヘルマン屋敷」の汚いベンチに二人で座った時のことを思い出す。
 まだまだ寒いので二人とも両手で両足を抱えて座り込む。どうして学校の中には二人きりで話をする場所がないのだろうか?
「さっき何を読んでたんや?」
「夏目漱石の『明暗』よ」
 うわ! 何で? 僕が前に読んでた本を水野さんが読んでるんや。
「その顔・・村上くんも借りて読んだことがあるのね?」
 水野さんがじーっと僕の顔を見つめる。
「うん」という顔で僕は素直に頷く。
「ねえ、村上くん、この本の続き、どうなるか知ってる?」
「その本、『未完』やで。最後に『未完』って書いてあったやろ?」
「『みかん』って、あの『みかん』?」
「食べる『蜜柑』やないで」
「わ、わかってるわよ。それくらい!」
 わ! 水野さんがむくれた。
「それで続きはどうなるのよ?」
 水野さんの顔が少し怒っている。
「そやから『未完』なんやって」
「ふーん」
 わかったのかわかっていないのかわからない様子だ。
 あの本の続きは水野さんが考えることだ。
 水野さんならきっとわかる。
「あれから橋本さんや伊藤さんと仲良く遊んでいるんやな?」
 ずっと訊きたかったことに話を切り替えた。
「うん・・」
 この小さな声の返事を聞くために色んな人が動いた。
「よかった・・」
「村上くん、嬉しいの?」
「当たり前や、僕の友達にちゃんと友達ができて嬉しくない奴がいるか!」
 言ってることがよくわからなくなってきた。
「そうなんだ。村上くん、私のこと、友達って思ってくれてるんだ」
 水野さんは嬉しそうに微笑んだ。
 ちょっと恥ずかしいことを言ってしまったな。
「今日ね、学校の帰りに三人で商店街の駄菓子屋さんに行くの」
 小川さんの店だ。
 小川さん、今日は大繁盛やぞ!
 そや、あのことも訊いとかんと。
「なあ、水野さん、うちのクラスの井口さんと色々話したことあった見たいやけど井口さんとは友達になることはできなかったんか?」
 答えはあっさり出た。
「うーん。確かに井口さんとは何度か話したことはあったけれど、私には無理かな?・・なんだか井口さん、人を見透かしたような所があるし、少し怖い。いい人だとは思うけど」
 そうか、やっぱり、人には向き不向きがあるのか。
 水野さん自身が決めることに他人の僕が口出すのはよくない。
「それに私ね、妙ちゃんといるとすごく落ち着くの」
 水野さんはすごくほくほく顔で話す。
「橋本さんのことを『妙ちゃん』って呼んでいるんやな」
「しまった!」というような表情をして水野さんは頬を赤らめる。
「伊藤さんとも友達になれそうか?」
 伊藤さんとは初めての対面だったはずだ。上手くやれてるのだろうか?
「うふっ、心配しなくても、もうなってるわよ。伊藤さんも最近は本ばかり読むようになってるの。伊藤さんには幼い弟がいてね。弟の相手をしながら合間に本をたくさん読んでるんだって。おかげで伊藤さんとも話が尽きることがなくなったわ」
 水野さんはその風景を思い浮かべるように楽しそうに説明している。
 これも僕が口出すことではないみたいだ。
「二組の沢井さんの父親、詐欺で逮捕されたらしいな」
 新聞の地方版にまで載っているような事件だ。本人とは関係がないとはいえ沢井さんがこれからクラスの中で孤立するのは間違いないだろう。
「ええ、そうみたいね・・それより村上くん、沢井さんのことを知ってたのね。妙ちゃんから聞いたわ」
「嬉しくないんか?憎かった奴やろ?」
「嬉しいわけなんかないわよ」
 予想に反して水野さんは悲しい表情をして運動場を見つめている。
「沢井さんにひどい目に合わされたことは決して忘れたりしないわ。でもね、短い間でも私、沢井さんのおかげで夢を見れたのよ」
 そう言うと水野さんはスカートの中に顔を埋めた。
 夢?
「村上くんには私の夢の中まではわからないでしょう?」
 顔をあげて僕を見つめる水野さんの問いかけに僕は答えられない。
「妙ちゃんと知り合うまでは沢井さんは夢の中でずっと私の友達だったのよ」
 そっか・・水野さんは長い時間をかけて孤独を味わっていたけれど夢だけは見失わなかったんだ。

「でもちょうど良かったわ、前から村上くんに訊きたいことがあったの」
「かまへんで。何でも訊いてや」
「あの日、小学二年生の時のことよ」
「『ヘルマン屋敷』の待ち合わせの約束のことか?あの時はごめんっ!僕にとっては恥ずかしい思い出や」
 水野さんはそこまで聞くと笑った。
「風邪をひいちゃったんだから、来なかったのは別にかまわないんだけど」
「本当にごめん!」
「その代わり、優美子さんというサンタさんを連れてきてくれたじゃない」
「サンタさん?」
「セーラー服のサンタさんだけどね」
 水野さんは話を続ける。
「私、あの人に出会ったから、あの人のセーラー服、とても素敵だなって思って高校まで進学するって決心をしたのよ」
「少し動機が不純とちゃうんか?」
「そうかしら?それも十分な動機だと思うけどな。もちろん、あの家を出たいっていうのもあったけどね」
「家を出たい?」
「うん。あの家を出て高校を卒業したら、ちゃんとした会社に就職してお母さんを幸せにしてあげるの」
 ちゃんと将来のことを考えているんだ。僕はそこまで先のことは考えていない。
「それで僕に何を訊きたいんや?」
「村上くん、いつまでも『ヘルマン屋敷』に来れなかったことを気にしているみたいだから」
 水野さんが気にしていないと言ってもやっぱり僕は忘れることはできない。
「あの日、お姉さんは家に帰ってから村上くんに何て言ってたの?」

 あの時、高熱でうなされて寝ていた時の記憶を手繰り寄せる。
 ―お姉ちゃん、僕、約束してんねん。僕の代わりに『ヘルマン屋敷』に行ってっ!
 まだサンタクロースの格好をしていた叔母さんの手を僕は掴んだまま叫んでいた。
 枕元にプレゼントが置かれてあったけれどその時はそれどころではなかった。
 ―僕の大事な友達の約束なんや!
 叔母さんが家を出て行くと風邪薬が効いてきたのか、僕は眠くなって深い眠りについた。

 叔母さんは「ヘルマン屋敷」から家に帰ってきても大事なことは何も言わなかった。
 水野さんが怒っていたとも悲しんでいたとも。
 何度訊いても「そやからさっき言うたやん。アケミちゃんはちゃんと来てたって。陽ちゃんが来ないことがわかったら帰ったって」と繰り返すだけだった。
「アケミちゃん、怒ってなかったんか?」
「そんなん。私にはわからへん」何を訊ねても「わからない」だった。
 だから僕は怖くなった。
 怖くて布団の中にまた潜り込んだ。
 風邪が治っても怖くてあの場所に行けなくなった。
「アケミちゃん、怒ってたらどうしよう・・」「友達やなんて偉そうに言って結局行かへんかった・・格好悪い」「友達を裏切ってしまった」「今度、アケミちゃんに謝りに行こう・・でもヘルマン屋敷に行ってみてアケミちゃんがいなかったらどうしよう・・」
 いろんな思考が巡ったけど結局何もできずに時間だけが悪戯にどんどん過ぎていった。
 小学二年生の僕はあまりに非力で弱すぎた。
 僕に唯一できたことはこの記憶を封じ込めることだけだった。
 けれど今、水野さんとこうして話をしている。
 でも、それは・・

「それで、結局水野さんは次の日『ヘルマン屋敷』に行ったんか?」
 このことを知るまで時間がかかりすぎた。
「行かなかったわよ。風邪なんてそんなにすぐには治らないだろうし」
 僕の長かった苦悩の時間とは関係なく水野さんはあっけなく答えてしまう。
「私ね、あの時、嬉しかったのよ。あんな素敵な人に出会えて。むしろ、風邪をひいてくれた村上くんに感謝したいくらいよ」
 叔母さんから水野さんの様子をちゃんと聞いていれば僕は何も後ろめたからずに風邪が治って「ヘルマン屋敷」に水野さんに会いにいけばよかっただけの話だった。
 そうすれば僕は何年も罪の意識を感じずにすんだ。
「叔母さん、何も教えてくれへんかった・・」
「やっぱりね。あの人・・優美子さんらしいわ」
 一人で納得したように水野さんは呟いているけど、僕は納得していない。
「ずいぶん昔のことだからはっきりとは覚えていないけれど、優美子さんは『陽ちゃんはもうここに来ない』ってそう言ってたわ」
「何でや!」僕は一瞬、叫んだ気がした。けれどそれはたぶん声にはなっていなかった。
「あの人、自分のことじゃないのに、どうしてそんなことまでわかるのかしら?」
 水野さんの言葉が僕に重くのしかかる。

 叔母さん、ひょっとしてわざと僕に何も言わなかったのか?
 僕にいつまでも過去と向き合わせてるため?
「罪の意識」を感じさせ僕の心を強くさせるため?
 そして子供から大人に成長をさせるため?
 でもいったい何故そんなことを?
 叔母さんは僕の父や母ではない。いや、親でもそんなことはしない。
 親だったら「アケミちゃんは全然気にしていないみたいやったから、明日、また行ってきたら・・」とか言うだろう。そう言って子どもを安心させるものだ。
 父や母は子供を過去に向き合わせたりはしない。
 そんなことをする理由が無い。
 理由を知りたくて叔母さんに電話してもきっと答えてはくれない気がする。きっと笑って誤魔化されるに決まってる。
 あの時、叔母さんが何も言ってくれなかったことで僕は少し変わることができたと思う。
 あの日の思いを長い間、記憶に封じ込めていても結局僕は忘れていなかった。
 あの時、何も考えずにアケミちゃんと続けて素知らぬ顔で会っていたとしたら僕は同じ子供のままだった。
 たぶん、それは水野さんの方も・・

「だから私『ヘルマン屋敷』で言ったでしょう。村上くんはあのお姉さんがいるから『早く大人になりたい』って思ってるんだって」
 水野さんは「自分にはもうわかっている」というような顔で微笑んでいる。
 確かに僕は「早く大人になりたい」って水野さんに言った。けれどそれは叔母さんとは関係なく言ったセリフだ。
「自分のことがわかる日が来るまで、村上くんにはまだ時間がかかりそうね」
 水野さんは一歩先を歩く大人のように話を続けた。
「私ね、銀河鉄道に乗って友達と『本当の幸い』を探しに行くのが私のずっと長い間の夢だったの。でもこの前、村上くんと『ヘルマン屋敷』で会った日、私、気づいたの。そんなものは銀河のどこにもないって。銀河の果てまで行かなくても、それはずっと近くにあった。村上くんが気づかせてくれた。本当に感謝してるわ」
 でも、それは母が言っていたことで、僕が水野さんに教えたかったことだ。
 僕の方が先に・・
「村上くん、人のことはわかっても自分のことは意外とわからないものよ」
 水野さんはそう話を締めくくった。



 次の年「ヘルマン屋敷」は解体され、あっという間にその辺り一帯はだだっ広い更地となった。下流から吉水川の方を見上げてもそこにはもう何もない。
 天を貫く尖塔の十字架なんて当然なくなった。
 解体される前には多くのプロのカメラマンや建築物の愛好家が駆けつけていた。
 母に「『ヘルマン屋敷』がなくなる前に、記念に写真を撮っておいたら」と言われたが僕はもうとっくに撮っていた。水野さんと橋本さんたちが友達になったあの日に。

 土砂や瓦礫を運び出す大きなダンプカーが吉水川沿いに何度も往復する日が何日も続いた。跡地にはお金持ちの住む大きな家がたくさん建てられることになった。
 その一帯の高級住宅は「ビクトル・ヘルマン」の名に因んで「ヘルマン・ハイツ」という新しい名前で売り出されるらしい。
 高台で見晴らしもよく吉水川を挟み古美術館もあるので品格がある上、後ろには六甲山系の美しい山々が広がっているから多くの金持ちがすぐに目をつけるだろうということだ。
 そして、そういった金持ちの人たちにはたぶん目障りな水野さんが住んでいた集落も近く撤去される運命にある。

 そして、僕は想像する。
 ここに住んでいたビクトル・ヘルマンも夢を見ていた。
 夢は夢でも彼の夢は現実的な夢だった。
 彼は普通の暮らしでは飽き足らず前に進み続けた。そして進み過ぎた。
 栄華の頂点を極めはしたけれど信用していた人々に裏切られ、ヘルマン一家はこの地を去ることになり家族は崩壊する。
 その跡には廃墟となった大きな屋敷だけが残った。
 けれどその屋敷は水野さんという一人の少女に夢を見させてくれた。
 水野さんはこの地を「銀河ステーション」と勝手に呼んでいた。
 僕と水野さんが初めて出会ったのもここだ。
 それから何年かが経ちこの地とは関係なく水野さんと橋本さんたちは友達同士になった。
 僕にはなぜか水野さんの長い間持っていた夢が、ビクトル・ヘルマンの残していった忘れ物のように思えた。
                                     (了)


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