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作品名:「水をすくう〜少女の闇と光」 作者:小原ききょう

第20回   井口さんの話


 アツシくんと呼ばれていた男の子が「ヘルマン屋敷」の二階から落ちて大怪我をした。
 僕が小学二年生の時だ。
 アツシくんは僕の記憶では一年生だったと思う。
「ヘルマン屋敷」は管理する人もいなくて危ない場所だと町の人たちは前から言っていた。 そしてついに怪我人が出てしまったのだ。
「ヘルマン屋敷」は屋敷の形が崩れかけていて壁も崩落している箇所があったのでそこから落ちたようだった。
 その時、僕は生まれて初めて怪我人が救急車に運ばれるのを見た。
 同時に血を見た。人の血はあんなにたくさん出るんだと思ったくらいの量だった。
 アツシくんは勝手に二階に上がって足を踏み外して勝手に落ちてしまったのだけれどその場にいた子供たち数人は警察から事情を訊かれた。
 母にはすごく怒られ「もう二度とあそこに行くな」と言われた。

 それまで「ヘルマン屋敷」は僕たちの唯一の冒険の場所だった。
 ある時はかくれんぼをするのには絶好の場所だったし、夏には肝試しの場所だったりした。夜には外灯もないし音も全く無いので近所の森やお墓のある場所よりもずっと怖かった。
「ヘルマン屋敷」自体も部屋数が多く迷路みたいになっている。
 近くの公園なんかよりずっと面白い場所だ。
 ブランコや滑り台とかは無いけれど子供にとっては宝箱のような魅力が詰まっていた。
 近所の子供たちが昼間に大勢集まる。川向こうの隣町から来る子もいた。
 アツシくんもその一人だった。
 近所の子達は名前を知っていたけれど校区が違ったりしていたら下の名前しかわからないし当然漢字もわからない。
 だからその男の子もアツシくんと呼ばれていた。
 僕のことも苗字で呼ぶ子なんて誰一人いなかった。

 そんな楽しい場所だったのにアツシくんが救急車で運ばれて行った日から僕の記憶の中では早く忘れたい場所になっていた。
 いや、他の子供たちもそうだったかもしれない。
 同時に一緒に遊んでいた子供たちの顔も忘れたかった。
 アツシくんのたくさん流れる血をみたせいかもしれない。
 早くアツシくんのことも忘れよう。

 早く忘れたい顔の中には水野さんもいた。
 アツシくんの事件の後、僕は水野さんとの約束を破った。
 たぶん僕は水野さんを記憶の海の中に封じ込めていたのかもしれない。
「水野」という苗字は知らないから、みんなは水野さんのことを「アケミちゃん」と呼んでいた。
 水野さんは集落に住む子で「臭いから、あっち行け!」とか他の子に言われたりしてからかわれていた。
 それでも水野さんは懲りずに毎日のように来た。
 僕には水野さんの匂いは全然気にならなかった。
 それよりも遊びの合間に話す水野さんとの会話、本の話をするのが楽しみだったのだ。
 本の話ができる相手は叔母さんと水野さんだけだったから初めて話した時には嬉しくてしょうがなかった。
 本と言ってもその頃僕が読んでいた本は絵本や小学低学年向けの本くらいだったけれど水野さんは漢字が多い高学年の本も読んでいたので彼女の話を聞く方が多かった。
 わざわざ「ヘルマン屋敷」で本の話をするなんて今思えばおかしかったけれど日が暮れてみんなが帰った後も話し続けている時もあったくらいだ。

 そんな時にアツシくんが二階から落ちたのだ。
 僕は母からもうあそこには行くなと言われていたのでもうここには来ないでおこうと思っていた。
 他の子供たちも同じだったと思う。
 けれど、ここにしか居場所のない子が一人いることに気づいた。
 水野さんだ。
 僕は母には近くの公園に遊びに行くと言って「ヘルマン屋敷」に行った。
 子供は来なくなったとはいえまだ数人は来て遊んでいた。
 水野さんは来ていたがさすがに女の子は水野さん一人だけだった。
 クリスマスが近づいた日、僕は「銀河鉄道の夜」の話を水野さんから聞いた。それは真の友達と銀河鉄道に乗って旅をする話だった。
 水野さんはこの場所が銀河鉄道の発車する銀河ステーションのようだと言った。
 僕には到底そんな想像は出来なかったけれど彼女の真剣さにどこか心を打たれていたのだろうか。僕は水野さんの話を聞いているうちにお互いに友達になった気がしていた。
 そしてクリスマスの前日、「ヘルマン屋敷」で遊んでいるのはとうとう二人だけになってしまった。
 彼女の不安が手に取るように伝わってきた。
 ―明日は僕も来なくなり一人きりになってしまう。

 僕は俯いている水野さんと約束をした。
「明日も絶対にここに来る」と。
 ―だからそんな不安な顔をしなくていい。
 僕は水野さんに心の中で言った。
 水野さんは顔を上げ嬉しそうな表情を僕に見せた。

 けれど、僕は冬休みが始まった次の日「ヘルマン屋敷」に行かなかった。
 行くことができなかったのだ。
 一度、約束を破ってしまうと僕は怖くなってしまった。気がつくともう年が変わって三学期になっていた。
 あの時から僕は「ヘルマン屋敷」には一度も行っていない。
 僕は記憶の中で水野さんのことを忘れ去ろうとしていたのだ。
 けれど、五年生になって同じクラスになり山中くんと水野さんが話しているのを見て
封じ込めていた遠い記憶を僕は思い起こしてしまった。



 同じクラスの井口さんに昼休みに声をかけられたのは二学期の終業式が近づいた日だった。
「村上くん、ちょっと時間ある?」
 井口さんは長田さんの押し花のことを投書した女の子だ。
 そして学校にイジメがあるかもしれないと僕に教えてくれた。
 すごく感のいい女の子だと思う。
 今は水野さんの後ろの席に座っている。
 そういえば小川さんが井口さんと一緒に帰っていると香山さんが言っていたっけ。
 井口さんは小川さんの住んでいるアパートの東側の市営住宅に住んでいて確か連絡網が小川さんの前だ。
 何の話だろう?井口さんの話には興味が沸く。
 僕たちは運動場に面した大きな階段の端に腰かけた。
 運動場で遊んでいる生徒たちから見れば仲睦まじげに話し込んでいる男女に見えるかもしれない。この場所を選んだのはまずかったかな?山中んと水野さんみたいに校舎の裏にすればよかった。
「ここ、寒いわね」井口さんは寒そうにして両膝を抱え込んだ。
 井口さんの長い黒髪がカーディガンを羽織った背中に綺麗に流れている。
「私のよけいなおせっかいかもしれないけど」
 井口さんはそう口を開き話を続けた。
「香山さんから村上くんが『芦田堂』の撮影の日にうちのクラスの水野さんと二組の橋本さんと伊藤さんを呼ぶって聞いたからちょっと気になったのよ」
 そっか、井口さんは小川さんと一緒に帰るようになって香山さんとも色々話す仲になっていたんだ。
「水野さんには、沢井さんと仲良くし始めた時に沢井さんに『からかわれてるんじゃない?』って忠告したんだけど」
 えっ、何の話?
 沢井さんって誰?
 井口さんの話はこういうことだった。
 沢井さんというのは二組にいる女の子で、三年生だった頃、数人の女の子に友達になろうと近づいては買い物をして相手の子に支払いをさせたり、万引きを無理やりにさせたりしては自分だけは逃げてその子のせいにしたりしていた。
 沢井さんの残酷な遊びだった。
 水野さんも同じように沢井さんが親しくなろうとしているのを見たと井口さんは言った。
 他の女の子同様に水野さんも沢井さんに万引をさせられた。
「それ、本当なんか?」
「だって、沢井さんはみんなの前で言ったのよ」
 給食費の盗難があった時も水野さんのせいにしようとして誰も知らないはずの万引のことを教室でみんなに聞こえるように大きな声で言ったというのだ。
 ―盗ったのは水野さんじゃないですか?あの子、万引きもしたことあるし、と。

「その後、どうなったんや?」
「沢井さんは万引をさせられそうになった生徒が先生に言ったから、怒られたって聞いたわ。万引までさせられたのは水野さんだけだったみたい。そのことは後で水野さんに言ったわ」

 水野さんはどれだけ傷ついたことだろう。
 小学校三年生の女の子が受ける嫌がらせにしては重過ぎる事件だ。
 僕ならその時点でひねくれて非行に走っていたのかもしれない。
 けれど水野さんは非行なんかに走ることなく夢を見続けた。
 銀河鉄道に一緒に乗って「本当の幸い」を見つける旅に出かける相手を探し続けた。
 そして四年生になって橋本さんという女の子と念願の友達になった。
 どれだけ嬉しかっただろう。
 でもそんな幸せはあっという間に終りを告げる。
 橋本さんの親の反対で引き裂かれることになった。
 井口さんという一人の女の子の話を聞いただけで水野さんにこんなひどいことがあったことを僕は知った。
 まだ僕が知らないところで水野さんはもっと辛い経験をしているのではないだろうか?
 この前、叔母さんが言っていたことを思い出した。
 長い孤独が水野さんを次第に変えてしまったのではないか、と。
「このことを村上くんに言っておこうと思って、今日は話しかけたの」
「井口さん、色々教えてくれてありがとう」
 それにこんな寒いところで話してもらってごめん。

「それにしても沢井さんっていう女の子、ひどい奴やな」
「私、あの子が大嫌いなの。だから水野さんに沢井さんが近づいているの見て、ほっとけなくて水野さんに忠告したのよ」
 もう小学三年生の時の話だ。
 けれどそう言う井口さんを見て僕は思った。
 ひょっとして井口さんは水野さんと友達になりたかったのではないだろうか?
 ほっとけないという感情も友達になりたいという気持ちからくるものではないだろうか?
 しかし、運命はそんな感情と別のところで回っているのだと思う。
 現実には水野さんには井口さんを友達としては見ていなかった。
 もし井口さんの方をを見ていたら水野さんはもっと違う道が開けていたのだろうか?
「井口さん、たとえばやで、水野さんと友達になったとして、井口さんの親やったら反対するか?」
「ああ、水野さん、あの集落に住んでいるから、ということね。うちの親はそんなことは言わないわ。うちにはそんなことを言える資格もないわ。私の家も色々あるのよ」
 やっぱり、水野さんは井口さんを選んでいた方がよかったんだ。
 けれどそんなことは僕が決めることではない。
 それにしても今、井口さんが言った色々って何だろう?
「水野さんは親に反対されていたの?」
 僕は井口さんに橋本さんと友達になりかけたけど親に反対された話をした。
「ああ、それで・・村上くんが仲直りをさせてあげようってわけね」
 香山さんにあらかじめ聞いていたのですんなりと話を呑み込み納得したようだった。
「井口さんにはいつも助けてもらっているよな。長田さんお押し花の時も」
 井口さんは首を振った。
「私も村上くんと同じかもしれない。知ってしまったら、なんだかほっとけないの」
 遠野さんも同じようなことを言っていたっけ。
 ―知っていて放っておくことも罪だ、と。
「ただ、村上くんの場合は私と違うわ」
「どう違うんや?」
「村上くんには多くの仲間がいるわ」
「そんなことないやろ、井口さんにも香山さんと小川さんもおるやんか」
「それもそうね」
 井口さんはにこりと笑った。
 笑うと意外と可愛い。
「でも私、あの二人の中に入っていけないの」
 井口さんはそう言って立ち上がると体をぶるっと震わせた。
 それはあの二人が本当は姉妹で・・それは誰にも言えないことで・・そう思った時、
「休み時間、もう終りよ、教室に早く戻りましょ」
 井口さんは僕の思考を遮るように言った。

「そうそう、この前、村上くんが女の人と歩いているのを見たわよ」
 叔母さんのことだ。
「あれ、僕の叔母さんや」
「叔母さん?」
 井口さんが首を傾げ不思議そうな顔をする。
「よくお姉さんに間違えられるけどな」
 みんな間違える。
「でも、全然、似てないわよ」
 別に姉弟やないし。そんなに似るわけがない。
「よく言われる」
 井口さんは少し考えたような顔をした後、
「私が言っているのはそういうことじゃなくて・・」
 その時、チャイムが鳴って会話を遮断した。
 井口さんは感のいい子だ。他の人が感じ得ないこともわかるのだろうか?

「村上、そんな所で何してんねん!」
 同じクラスの文哉くんや松下くんがドッジボールを突きながら走ってきた。
「女の子としゃべっとらんと、はよ、教室に戻ろうや」
 女の子と教室に戻るの冷やかされそうなので僕は文哉くんたちと教室に戻ることにした。
「井口さん、またな」
「ええ、水野さんのこと、頑張ってね」



 水野さんは確かに山中くんを脅迫した。
 それは悪いことだ。山中くんを悩ませていた犯罪だ。
 しかし、誰も水野さんの孤独を救おうとしなかった。
 水野さんがもっとひどい犯罪をしていたらどうなっていたのだろう。
 水野さんの親は何も知らないのだろうか?

 最初は長田さんに頼まれたことだったけれど、これは僕にとっては罪滅ぼしなのかもしれない。
「ヘルマン屋敷」で最後の約束をしてから数年経ったけれど水野さんは僕の想像もつかないほど辛い日々を送っていた。
 けれど僕は何事もなく平穏な生活を送ってきた。
 僕は学校からの帰り道、そんなことを考えながら歩いた。

 家に帰ると居間で母と叔母さんがクリスマスツリーの飾り付けをしていた。
 毎年、押入れにしまってあるクリスマスツリーを出してきて星やサンタの長靴やトナカイの角なんかを引っ付ける。
 一番上には大きな星がでんと構えている。
 夜になると小さないくつもの豆球が明るく灯ってクリスマスの雰囲気が十分に出る。
「おかえり、陽ちゃん、何か願い事、書く?」
 叔母さんが僕が帰ってきたことに気づいて話しかける。
「叔母さん、それって七夕とちゃうん?」
「細かいことは気にせんでええやん」
 からかうような笑みを見せたあと叔母さんは再び飾り付けの作業に戻る。
「優美子、そっち側、星を付けすぎや」
 ツリーの反対側で飾り付けをしている母が不満そうに言う。
 叔母さんはぺろっと舌を出したあと「そやかて派手な方がええやん」と答えた。
「そういうことやないって、こっちにも星を寄こしいな」
「はい、ねえちゃん」叔母さんは取り込んでいた派手な金色の星を数枚母に渡した。
 そんな母と叔母さんの微笑ましいやりとりを見ながら考えていた。
 こんなささやかな会話も手に入れることができない子が僕の身近にいることを。
 僕は以前、そんなことは僕とは関係ないと考えていた。ほっとけばいいと。
 それが今は叔母さんや井口さん、そして芦田さん、長田さんと同じように何とかしたいと考えている。
 家に帰る途中にも庭先に大きなクリスマスツリーを飾り立ててている家があった。庭が広くて三階建ての家だ。たぶんすごく金持ちなのだろう。
 僕の家のつましいクリスマスツリーとは比べ物にならなくらい大きかった。
 そんな大きなツリーを見て羨ましいと思うだろうか?少なくとも僕は思わない。
 母も叔母さんも何も感じないだろう。
 けれど、家にクリスマスツリーや何もプレゼントがなければ、やはり人はクリスマスツリーやプレゼントのある家を羨ましいと思うだろう。
 ないのとあるのとでは大違いだ。

「陽ちゃん、ぼーっとして考え事?」
 気がついたら僕はランドセルも降ろさないままクリスマスツリーを見ていた。
「あ・・うん」
「優美子、陽一も考え事くらいするわよ。ほっときいな」
 母が叔母さんから渡された星を結いつけながら叔母さんを制した。
「あ、ひょっとして、陽ちゃん、プレゼントのこと、考えてる?」
 叔母さんはそう言いながらツリーから離れこたつに入った。
「ちゃうっ!」
 そんな子供やない。
「陽一はプレゼントは図書券でいいって言ってたわよ」
 クリスマスツリーの出来栄えを少し離れて見ている母が言った。
「なんや、色気のない」
 叔母さんがつまらなさそうな顔をする。
「優美子、そやから今年はもうサンタさんの格好はしなくてええから」
 サンタの叔母さんはまた見たい気もする。
 それに叔母さんの言うとおりプレゼントが図書券というのは色気がないなあ。

「そやそや、陽ちゃん、この前、電話で言ってた『明暗』の結末は結局どう推測することにしたん?」
 叔母さんはこたつに両手を突っ込んだまま訊ねる。
 僕もランドセルを置いてこたつに入って両手をこたつ布団の中に入れた。
 そういえば僕は夏目漱石の未完小説「明暗」の結末を叔母さんならどう推測するか知りたくて電話したのだった。
 妻のある男が結婚する前に好きだった女の人の元に走るか、奥さんの元に留まるか、どうなるかというところで途切れている未完の小説の話だ。
 叔母さんは奥さんを裏切らずに浮気心は封じ込めて今まで通りに日々を過ごす方を選んだ。その方が誰も傷つかない。小説としては面白くないかもしれないが叔母さんはその方が現実的だと言った。
 前に好きだった女の人を忘れられなくても我慢すればいい話だとも言った。
 僕は「そんなの面白くない」と答えた。

「叔母さん、やっぱり、僕はイヤや!」
 僕はこの小説の主人公に前に好きだった女の人の元に言って欲しい。
「僕は叔母さんの言う結末に納得できへん」
 僕は別に男の浮気心を進めているわけではない。
 我慢しながら奥さんとの生活を営み続けるのは奥さんに対して失礼だと思うからだ。
 それにこの男は前に好きだった女の人の所に一度は行ってみて自分の本当の気持ちを確かめなくてはならないのではないだろうか。
 ―一度は行ってみる。
 そうしないと見えてこないものもあるのではないだろうか?

「ふーん・・」
 叔母さんはこたつの中で両手を擦り合わせながら暖めているのか、両肩がしきりに動いている。
「陽ちゃんはやっぱりそっか・・」
 叔母さんはこたつの上の蜜柑に手を伸ばした。
「なんで、やっぱりなんや?」
 丁寧に蜜柑の皮を剥き始める。
「そやかて、叔母さんが言った結末の方を選ぶ陽ちゃんなんて、叔母さん、ちっとも面白くないもん」
 叔母さんは蜜柑を口の中に放り込んだ。
「面白いとか、そういう問題やなくて」
 そういう僕に叔母さんは「そういう問題よ」とすぐに返した。

 それまで黙って僕たちの会話を聞いていた母が「ほんま、今日は寒いなあ、雪、振るんとちゃうかなあ」と言いながら自分もこたつに入って両手を擦り合わせはじめた。
「ねえちゃん、私、熱いお茶が飲みたい」
 叔母さんが母に言うと「優美子、自分で煎れてきいな、私は今、こたつに入ったばかりや」と返された。
「はあーい」叔母さんは名残惜しそうにこたつから出ると台所に行った。
「陽一も優美子叔母さんと難しい話をするようになったんやなあ」
 母が感心したように僕の顔を見る。
 少し気恥ずかしい。
「それで何の話?」
 僕は「明暗」の男と女のどろどろした話を母にするのは気が引けたのでとっさに「銀河鉄道の夜」の話にすげ替えた。
「『銀河鉄道の夜』の結末について話してた」
 今、思えばどうして夏目漱石の「明暗」と宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にすげ変わったのかと不思議に思う。
「ほんまにその話やった?」
 母は首を少し傾げたあと言葉を続けた。
「『銀河鉄道の夜』やったらお母さんも昔、中学校の頃に読んだことあるわ。もうだいぶ昔のことやねえ」
 母は蜜柑を口にしながら遠い目をする。母の中学時代なんてとても想像できない。
 叔母さんは湯を入れたやかんを持ってきて三人の湯呑みにお茶を入れた。
「銀河鉄道にお友達と乗って旅に出るっていう話やったわね」
 母と本の話をするなんて何年ぶりだろう?
「でもそのお友達、たしか死んでたのよねえ」
 そう母は小さく言うと熱いお茶を啜った。
「お母さん、ちゃんと憶えてるやんか」
 母の言うとおり現実の世界ではカムパネルラは死んでいた。
 叔母さんも同じように熱いお茶を啜りながら黙って僕と母の話を聞いている。
「それにしてもなんでまた主人公は銀河鉄道なんかに乗ってお空に行くんやろねえ」
 母には主人公の気持ちは理解しがたいようだ。
「それは『幸せ』を探しに行きたかったからとちゃうんか」
「そんなもの鉄道に乗って行ったからってあるわけないやないの・・」
 母の言葉に僕は答える言葉を見つけられないでいた。
 母の言うとおりなのかもしれない。
 ―幸せは銀河鉄道に乗って旅に出ても見つからない。
 おそらく作者である宮沢賢治もそのことを知っていた。
「ようわからへんけど、お母さんはここにこうしているのが一番幸せやけどねえ」
 母は体が暖まったのか、ほっこりした顔を見せた。
 そして母の言うことが全ての解答であるかのように僕には思えた。
「ねえちゃんは今が一番幸せやもんね」
 叔母さんが口を挟む。
「優美子は今、幸せと違うのんか?」
「私は・・」
 叔母さんは言いかけた言葉を言わないで、こたつから出てクリスマスツリーのそばに寄った。
「ねえちゃん、こっち側、やっぱり星を付け過ぎたわ」
 叔母さんは自分が飾り付けた方の星を取って母の付けていた反対側に付け始めた。
 僕には叔母さんが幸せの配分を変更しているように見えた。


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