20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:「水をすくう〜少女の闇と光」 作者:小原ききょう

第18回   橋本妙子


 家の中でニコンの一眼レフを持って構える。このカメラは今年の誕生日に父に譲ってもらったものだ。型式は古いが充分に実用に耐えそれなりの貫禄もある。長田さんの持っているライカほどではないがこのカメラもかなりマニアックなものだ。
 ファインダーを覗き込むと居間の風景が見える。壁に掛けられた水墨画や柱時計、土産物が並ぶガラスのショーケース。
 テーブルには父の灰皿、パイプ、楊枝立て。
 体を回転させると庭先の木々が見える。
 庭の物干しに布団をかけている母が見える。
 庭の地面には陽が射していてレンズを拡大させると蟻が地面を歩いているのが見える。
 その上にはどんよりとした冬の空がどこまでも続いている。
 誰かが空から見下ろせばこの町が全て収まっているのだろう。
 けれど時間が経って過ぎてしまったものまでは収めることはできない。
 消えていくもの。去っていくもの。
 遠野さんは言っていた。
 人は時の流れを止めようとする、と。
 その手段は場合によっては写真だったりする。
 それならば僕のこのカメラでも時の流れを止めることができるのだろうか?
 永遠ではなくても少しの間だけでも。
 「ヘルマン屋敷」が近々解体されるのなら、その姿をもう見ることができなくなるのなら写真に残して置くのもいいかもしれない。

 僕は展望台の喫茶室での長田さんとの会話を思い出していた。
 写真の撮影の日『芦田堂』に連れてきて欲しい子がいると長田さんは言った。
 それは誰のことだと訊くと二組の橋本さんと伊藤さんという女の子、そして僕たちのクラスの水野さんだと答えた。
 話をよく聞くと芦田さんはこの三人を仲良くさせたいということだ。その場が「芦田堂」だというわけらしかった。
 遠野さんは黙って長田さんの話を聞いていた。
 水野さんと橋本さんは四年生の時に友達だったけれど橋本さんの親に仲を裂かれた。
 まるで男と女のようだと僕が言うと長田さんは少しむくれたように「村上くんには男と女のことがわかるの?」と返された。
 長田さんにそう言われて気づいたが、僕はそのどちらもわからないのかもしれない。
 男と女のことも、女と女のこともよくわからない。
「智子はこの二人、橋本さんと伊藤さんには断られたの」
 芦田さんが断られたのなら無理だろう、と思いつつも長田さんは話を続けている。
「それに智子は水野さんとは知り合いじゃないから頼むのは無理なのよ」
 僕だって橋本さんと伊藤さんという女の子はクラスも違うし顔も知らない。
「智子は人見知りする方だし」
 それ、本当か?
 芦田さんの明るさなら知らない人にでも何でも言えそうだけどな。
「智子が言うのには『村上くんしかいない』ということなの」
 何で僕が?
 そもそも芦田さんはそこまでして三人を仲良くさせてたいんだ?
 赤の他人のために。
「僕が三人とも?」
 僕も人見知りする方なんだけどな。
「そうよ」
 僕の問いに長田さんはいとも簡単に頷く。
「芦田さんはどうしてそんなことをしたいんだ?」
「それが智子のいい所よ」
 長田さんは誇らしげに答えた後、ミルクティーを啜った。
「しかし・・」
 しかし、僕は関係ない、そう言おうとすると、
「知っていて放っておくことも罪だからではないでしょうか?」
 それまで黙っていた遠野さんが口を開く。
「智子さんはそう思ったと思います」
 コーヒーのカップはとっくに空になっている。
「以前、村上さんは恭子さまにカメラの使い方を教えてさしあげました。それはどうしてでしょう?」
 あの時は石谷さんに頼まれたからで・・
 けれど、僕はなぜ石谷さんの願いを聞いてあげたんだ?
「静子さん、コーヒーのお代わりはいいの?」
 空になっているコーヒーカップを知らずに持ち上げた遠野さんに気づいた長田さんが訊ねる。
「すみません。恭子さま」遠野さんが答えると長田さんは手でウエイトレスを呼んだ。
 その仕草はまるで大人のように見える。
「静子さんの言う通りよ」
 ウエイトレスが来ると長田さんもミルクティーのお代わりを注文し「村上くんはココアのお代わりはいいの?」と訊かれたので僕も「じゃあ」と言ってお代わりを頼んだ。
「村上くんはこのことをもう知ってしまったし、私も村上くんのいい所を知ってしまっているの」
 いい所?
 一体長田さんは僕の何を見ているんだ?
 思い起こせば長田さんとも不思議な縁だ。
 初めて話したのは長田さんの誕生会に誘われた時だ。
 そして、運動会のフォークダンスで一緒に踊った時。
 公園でカメラの操作を教えた時。
 僕はそのどこかでいい所を見せたか?
 そういえば秋の遠足の時、長田さんをライカのカメラで撮ってあげたっけ。

「長田さんが水野さんに言えばええやん。同じクラスやし」
「私はもう彼女と話したわ」
「何を?」
「押し花を返して欲しい・・って」
 よくわからない。たぶん訊いても僕には理解できないだろう。
「それに私は人と話すのが苦手なの」
 僕も長田さんと話すのは苦手だ。
 というよりも女の子全般と話すのが苦手だ。僕が遠慮なく話せるのは母と叔母さんくらいだ。
「でも長田さんは歌は上手いよな。あと、ダンスも」
 僕は誕生会の時の長田さんの唄を思い出して言った。
 少し長田さんの頬が赤くなる。
 照れてるのかな?
「そ、それに私はこんなことを頼む相手は村上くん以外に誰一人いないのよ」
 なんだか迷惑のような光栄のような気がした。
「考えておくよ」
 その時はそう答えたけど僕は長田さんと芦田さんの願いを引き受けることにしていた。
 遠野さんと叔母さんの言葉が重なって聞こえたからだ。
 遠野さんは放っておくことも罪だ、と言った。
 叔母さんは水野さんとは関係がないのに心配している。
 そして、僕こそが最も水野さんと関係がある。



 小学四年生の春の遠足のバスの中で私は水野明美さんと席が隣同士になった。
 私にとっては絶好のチャンスだった。この機会に水野さんと絶対に友達になるんだ。
 それまで私には親しい友達が一人もいなかった。
 私が何にでも消極的だったせいもあるのかもしれない。お母さんに「何か委員になったら」なんて言われていたけれどとんでもない話だ。
 正直学校に行くのもイヤなくらい私は内気で引込み思案な性格だ。
 それに小さい頃から体が弱くて冬になれば何度も風邪をひいて学校を何日も休む。
 低学年の頃は冬でもないのに熱を出して学校を休んだりして授業に次第についていけなくなった。
 それが言い訳ではないけれど私は勉強もできない。
 宿題もせずによく廊下に立たされる。
 小さい頃から「おはじき」も下手だったし、「綾取り」もいまだに覚えられない。
 しかも運動音痴で体育の授業もずる休みをするほどだ。
 要するに何にもできない、私には何一つ取り柄がないのだ。

 休み時間、校庭でみんなとボール遊びをするのも気が引けて仲間に寄らないでいた。そんな風だから友達なんて出来るはずもない。
 同級生に「あの子と一緒に遊んでもあんまり面白くない」ともよく言われた。
 三年生の三学期でようやく友達になりかけた子ともクラス替えで離れてしまった。
「四年生になっても友達でいようね」とお互いに言っていたけれど家も反対の方向だしどうやって会えばいいのかも分からなかったのでそれっきりになってしまった。向こうから連絡もない。
 四年生になって今度こそ友達をつくろうと思ったけれど、そう簡単にできるものではない。
 そんな時だった。教室の窓際に座って外を眺めている水野さんの存在に気がついたのは。
 水野さんはクラスの子とは遊ばずに一線を画していつも自分の机で本を読んでいる。
 そんなマイペースの水野さんを見て、なんて意志の強い人なんだろうと思った。
 同じ女の子としてちょっと格好いいとも思っっていた。
 私にはとても真似できない。
 私は水野さんのような強さが欲しかった。
 水野さんと友達になろう、次第に私は水野さんしか見なくなった。
 だから今日は最高のチャンスだ。
 何てたって水野さんの隣に座ることになったからだ。
 けれど水野さんは何かを気にしているようだ。
 バスの席でお尻をもぞもぞと動かして私との距離を遠ざけようとしている。
 こんなに狭い空間で何をしているのだろう?
 でもそれはすぐにわかった。水野さんは自分の匂いを気にしているんだ。
 前にクラスの誰かが「あの子、臭いわ」と言っていたのを思い出した。
 私はそんなに匂うとも思わないけれど、女の子なのだから本人にとっては深刻な問題なのだろう。
「水野さん、これ、食べる?」私はリュックから持ってきたお菓子を取り出して見せた。
「いいの?」水野さんは恐る恐る私に訊いた。
「水野さんの持ってきたお菓子と交換しょうか?」
「う、うん」水野さんは頷くと小さなリュックからお菓子を出してきた。
「橋本さん、ごめん、私のはこんなのしかないの」
 すまなさそうにして水野さんはお菓子を私に差し出すのを躊躇っている。
「水野さん、それ、ちょうだいっ」
 私は水野さんが出し渋っている駄菓子の袋を取って封を開けた。
 お菓子の匂いが辺りに広がる。
 これでもう水野さんの匂いは誤魔化される。
(これで、もう匂いを気にしなくていいよ)と私は心の中で言った。
「はいっ」私は自分のお菓子の封も開けると中からスナック菓子を取り出してあげた。
「おいしい、私、こんな美味しいの食べたのはじめて」
 前の日にお母さんが買ってくれた只のおやつだけれど、水野さんはまるで何かのご馳走のように美味しそうに食べてくれている。

「ねえ、水野さん、普段は何をして遊んでいるの?」
 お菓子を食べながら訊ねる。
「ほ、本を読んでるの」
 水野さんはお菓子を頬張っていたので慌てながら答えた。
「ふーん。それで、何を読んでるの?」
「『銀河鉄道の夜』・・橋本さん、知ってる?」
 水野さんはメガネの縁を上げながら訊ねる。メガネの度が合っていないみたい。
「ごめん、水野さん、私、全然、知らない」
「宮沢賢治さんの本なの」
「あっ、もしかして『よだかの星』の絵本の作者? あの人が書いた本なの?」
「そ、そうよ!」
 水野さんは席から飛び出しそうなくらいに喜んでいる。
「あの本は本当は絵本じゃないのよ。文章だけなんだけど、子供向けに絵本にされているの」
 水野さんはそう説明する。
「あの話、よだかって鳥、可哀想だよね」
「そうでしょ、今でもよだかの星は空で燃えているんだよ」
「本当なの?」
「私の心の中にだけなんだけど。夜になると私には空を眺めると見えるのよ」
 本の話をする水野さんはとても生き生きとしている。
 何か夢中になるものがある人って羨ましい。

 水野さんは運動神経はいい。逆上がりだってできたし、跳び箱も私より数段高くても飛べていた。成績も上位クラスだ。
 水野さんはそんな私のことをどう思うのだろう?
 でも、そんなことはもうどうでもいい。
 水野さんといるとすごく安心できる。まるで暖かな春に包まれているように感じる。
 水野さんとまだ話し始めてそれほど経っていないのにそう感じる。
 けれど、何ヶ月も一緒にいても親しくなれない人だっている。
「ねえ。バスから降りたら、水野さんのこと。明美ちゃんって呼んでいい?」
 私はそう自然と声に出していた。
「いいよ。だったら、私もこれから橋本さんのことを妙ちゃんって呼ぶ」
 明美ちゃんは笑顔を浮かべた。
 バスを降りるのがすごく楽しみになった。

「ねえ、橋本さん、こっちに来て一緒に遊ぼうよ!」
 ラケットを持ったクラスの女の子たちが手を振っていた。
 運動音痴の私にはバトミントンなんてちっとも楽しくない。仲間に加わってもまた邪魔者扱いされる。
 それに私の心はもうとっくに決まっていた。
 私は明美ちゃんと一緒にいるんだ。もっと明美ちゃんと話したい。

 公園で理科の中田先生に似た鹿を見つけたけれど鹿と私たちの間には小さな小川が横たわっている。川には置き石があって渡れるようになっている。
 明美ちゃんは一つ目の石の上にポンと飛び移った。
えっ、そんなの怖いよ。私、飛べない。
「大丈夫!」こっちを見ている明美ちゃんの顔がそう私に話しかけているようだった。
 明美ちゃんは私の方に手を差し出した。明美ちゃんは私が怖がりなのをどうしてわかるのだろう?
「えいっ」恐る恐る私は明美ちゃんの手を掴むと思い切って石の上に飛び移った。
「明美ちゃん、絶対に私の手を離さないでね」
 石の上に渡ると私は震えながら言った。少しぐらぐらする。
「離さない。友達の手は絶対に離さない」
 そう言う明美ちゃんの声が聞こえた気がした。
 私の手を掴んでくれたのがすごく嬉しかった。私の手をこんなにぎゅっと掴んでくれたのは明美ちゃんが初めてだった。
 私も、ずっとこの手に掴まっていたい。
 明美ちゃんもそう思っていてくれたら嬉しいな。
 土産物屋があったので家のお土産を買った後、明美ちゃんとお揃いの鹿のマスコットが付いたキーホルダーを買った。
 これはずっと大事にしていよう。

 けれど、私たちの仲はすぐに終りを告げた。
 明美ちゃんが初めて家に遊びに来たその日の夜のことだった。
「妙子、今日、家に来ていた子、この子だろう」
 お父さんはテーブルにクラスの連絡網の表をドンと置くと明美ちゃんの連絡先の箇所を人差し指で指した。
 先生から連絡の矢印が伸びて明美ちゃんの家で止まっている箇所だ。明美ちゃんの家からはどこにも矢印が出ていない。
「そ、それがどうかしたの?」そんなのとっくに知っている。
「妙子はこの家がどんな家か知っているのか?」
「知っているわよ。貧乏なんでしょ!」
「ただの貧乏じゃない。母親がおかしな宗教に入信していて、この町では嫌われ者なんだ。あの家とつき合うとこの家まで同じように思われる」
「そんなの娘の明美ちゃんとは関係ないよ!」
「とにかくもう会うな!」お父さんは自分の言うことが聞けないのか!という勢いだ。
「私、絶対、お父さんの言うことなんて聞かないから!」

 お父さんと喧嘩して後味が悪かったけれど、次の日曜日、明美ちゃんと駅で合わせをした。二人で隣町まで遊びに行くんだ。
「妙子!どこに行くっ」
 玄関で靴を履いていると、お父さんが居間から出てきて大きな声で訊ねた。
「遊びに行くの」淡々と答える。
「誰とだっ!」
 お父さんは最初から水野さんだと思っている。
「誰とだっていいでしょ!」
「あの子だろっ」
「あの子って何? 水野さんにはちゃんと苗字も名前もあるのよ」
「やっぱりそうじゃないか。この前に会うなと言ったばかりだろ!」
「お父さんなんて大嫌いっ!」
 お父さんの平手打ちが飛んできた。
「きゃっ」私は反射的に顔を押える。
 そんなっ、どうしてそこまでされなくちゃならないのっ。平手打ちは当たらなかったけれどお父さんにそんなことをされるのはショックだ。
「なんでぶつのよっ、明美ちゃんはやっとできた私のたった一人の友達なんだよっ。それなのにぶつなんてひどいよ!」
 私は玄関で外に出られないままその場で泣き続けた。
 こんな顔で明美ちゃんとは会えないよ。
「とにかく今日は家を出るな。あんな子、縁起が悪くてしょうがない」
 お父さんは玄関先に立ち塞がった。
 明日、学校に行って駅に行けなかったことを説明しよう。明美ちゃんならきっとわかってくれるはずだ。
 けれど、次の日、明美ちゃんは私のことを「妙ちゃん」と言わずに「橋本さん」と呼んだ。そして「私、他に友達ができたの」と言われた。
 そんなの嘘に決まってる。明美ちゃんの顔を見ればわかるよ。
 それから学校でいくら明美ちゃんに声をかけても返事をしてくれなかった。
 お父さんに「明美ちゃんに何か言ったのっ」と訊いても「妙子は何も知らなくていい」と誤魔化された。

 季節は過ぎて行ったけれど明美ちゃんは絶対に私とは話してくれなかった。
 きっと明美ちゃんはお父さんに何か言われたはずだ。
 明美ちゃんはお父さんに言われたことを忠実に守っている。
 そんな明美ちゃんはすごく悲しい子だと思う。お父さんに言われても、そんな事は無視して私と話してくれればいいのに。内緒にしていればわからないのに。
 辛かったけれど、明美ちゃんは私とは違ってすごく意志の強い子なんだと思った。
 皮肉なものだ。明美ちゃんの意思の強さに惹かれて友達になろうと思ったのに。
 もう私にはどうすることもできなかった。
 私は弱い子だ。
 そして明美ちゃんと話すこともできないまま私は小学五年生になった。
 明美ちゃんとはクラスが別々になってしまった。
 これでもう本当に明美ちゃんとお別れなんだと思うと悲しくてクラス替えのあったその日、私はお布団の中で一晩中泣いた。
 明美ちゃん以外誰とも話したくない・・そんな日が続いた。
 新しいクラスにも中々馴染めずに一学期を過ごした。

 そして、夏休みに入る前、お父さんの会社が倒産した。
 お父さんの会社は布団や寝具を扱っている会社だった。
 布団ってすごく高いものなんだと私は後で知った。
 まだ始めたばかりの会社でお父さんは毎日張り切って営業活動をしていた。
 休みの日には必ず近くの神社に事業の成功を祈願しに行き、時々仕事の帰りには和菓子屋の「芦田堂」に寄ってお饅頭を買ってきてくれた。
 けれどこの春、お父さんは悪質な取引先の会社に騙されてしまい、お金を融通してもらっていた会社にお金の代わりに商品である在庫の布団を持っていかれてしまった。
 後々わかったことらしいけれど、取引先もお金を貸してくれた会社もグルだったということだ。
 このたちの悪い二つの会社がグルであるということが証明できればなんとかなったのに、とお父さんは今も悔しがっている。
 お父さんはまた個人で仕事を始めたけれど家の暮らしは一向に楽にならない。
 事業をするのに縁起担ぎを気にしたりしていたお父さんだったけれどダメになる時はだめになるものなんだ。
 お父さんは「仕事はまた一からやり直せばいい」とお母さんに言っていたけれど、私は明美ちゃんとやり直しがもうできない。
 明美ちゃんとしたいこと。遊びたいことがまだまだたくさんあった。まだ何もしていなかった。
 駄菓子屋にも二人で行きたかった。「芦田堂」に行ってどら焼きを一緒に食べたかった。
 お互いに家が貧乏だけれどいつか遊園地にも行きたかった。
 全部、叶わない夢に終わった。

 明美ちゃん以外誰とも話したくない・・そう思い続けていたけれど、秋が来て同じクラスの子の伊藤早苗さんとひょんなことから話すようになり、友達になった。
 伊藤さんは三つ編みの似合うしっかりした感じのする子だった。
 伊藤さんにも友達がいないことを私は知っていた。いつも給食を一人で食べていたからだ。
 話すようになったきっかけは私の給食のスープにウサギの餌が入っていた事件からだ。
 その時の給食の当番をしていたのが伊藤さんと「芦田堂」の娘さんの芦田さんだった。
 最初はウサギの餌なんて私のスープに入っていなかったはずだ。たぶん誰かがあとから入れたのに違いないけれど、その時は自分がボーっとしているからそんなことをされるのだと思っていた。
 その後、宿題のプリントを忘れて芦田さんと一緒に廊下に立たされた時、
「最初はスープにウサギの餌なんて入ってなかった気がするの」
と言ったけれど芦田さんは虚ろな目をして私の話を聞いていないように見えた。

 それからしばらくして伊藤さんが耳打ちするように小さな声で話しかけてきた。
「橋本さん、ちょっと話がしたいの、いい?」
 私は教室からは少し離れた廊下で話を聞くことにした。内緒話ではないかと思ったからだ。
「伊藤さん、何かあったの?」
「ウサギの餌の事件の時の話なの。スープを入れた私が訊くのも何だけど、橋本さんのスープに最初からウサギの餌なんて入ってた?」
「最初はスープにそんなもの入ってなかったわ。その話を芦田さんに言ったんだけど、芦田さんはぼんやりしてたみたいで聞いてくれなかったの」
「やっぱりね。他の子に聞いたんだど、川田さんが入れたのを見たって言う子がいるの」
「川田さんが?・・ああ、そういえばあの時、私の近くにいたわね」
 うっかり私が食べてたらどうなるんだろう?別に死にはしないだろうけど。世の中にはひどいことをする人がいるものだ。
「それって、私への嫌がらせなの?それともスープを入れた伊藤さんへの?」
「たぶん、芦田さんへの嫌がらせだと思うわ」
 芦田さんへの?
「でも、スープを入れていたのは伊藤さんよね?」
「川田さんにはわかっていたのよ。芦田さんが私をかばうだろう、って」
「そんな・・」
 芦田さんの性格なら給食当番の相方の伊藤さんをかばうだろうと予想してそんなことを。
 それは川田さんたちの芦田さんに対するイジメだ。
「私ね、芦田さんって、すごい人だなって思ったの」
 伊藤さんは芦田さんのことを話し始めた。
「芦田さんは友達でも何でもない私をかばってくれたのよ。給食の当番で実際にスープを入れたのは私なのに」
 芦田さんって正義感が強いんだ。私にはそんなことはできない。
 でも明美ちゃんだったら、私をかばってくれそう。
「それに私、川田さんが芦田さんのランドセルから宿題のプリントを抜き取るのも見たの」
「それ、本当なのっ?」
 私が思わず大きな声で訊ねると伊藤さんは周りを気にしたあと強く頷いた。
 川田さんって、すごく悪い人なんだ。芦田さんってそんな人に虐められてるんだ。
「でも、私、それを見ていても誰にも言えなかった。それがすごく辛くて、誰かに言おうと思って」
 伊藤さんは悔しそうに話す。
「川田さんに直接言ったら、今度は私が何かされそうで言えないの」
 伊藤さんは自信なさげだ。けれど、私だってそうだ。
 こんな時、明美ちゃんならどうしたのだろう?
「うーん。私も言えないかもしれないわ。あの人、赤坂さんというもっと意地悪そうな子とも仲がよさそうなんだもの。何だか怖いわ」
「橋本さんもそうなの?」
「うん、怖いのは伊藤さんと一緒かも」
 私も伊藤さんもクラスの中では大人しい部類だ。気の強い子に向って強くは言えない。
 そこで疑問が浮かぶ。
「でも、どうして私にこの話をしたの?」
「な、なんとなくよ・・」
 伊藤さんはそこで言葉を詰まらせる。さっきまでたくさん話していたのが嘘のよう。
「ただなんとなく?」
 伊藤さんの頬が少し赤くなっている。
「わ、私、給食の時間、誰かとお話しながら食べたいな、って思って。そ、その・・」
 しどろもどろになって伊藤さんは答えている。
「えっ、でもそれって、芦田さんの話とは関係がないじゃない!」
 そう言いながらも伊藤さんの言葉に私は次第に体が熱くなるのを感じていた。
 私も同じだったからだ。一人で給食を食べるのは変に周りの視線を感じるし、時間が経つのも遅く感じる。食べ終わった後はもっとつらい。
「橋本さん、ダメかな?」
「いいよ。伊藤さん」
 私は伊藤さんに笑顔を見せた。久しぶりにクラスメイトに見せた笑顔だ。
「橋本さん、本当にいいの?」
 念を押すように伊藤さんが訊ねる。
「伊藤さん、明日から給食を一緒に食べようよ」
 うん、うんと伊藤さんは嬉しそうに頷いた。
「あ、ありがとう。それで、私、芦田さんの話は芦田さんの友達の石谷さんに言おうと思ってるの」伊藤さんは続けてそうアイデアを出した。
「それはいい考えだと思うわ。私が芦田さんに言っても話を聞いてなかったし」

 私はようやく自分の居場所を見つけた気がした。伊藤さんも同じ気持ちだったと思う。
 伊藤さんは芦田さんのイジメのことを石谷さんに全部話した。
 その時、伊藤さんは石谷さんに「大事な人は一人でいい」と言ったそうだ。
 その言葉は伊藤さんにとっては私とちゃんとした友達になったという証のような言葉なのだと理解した。
 けれど、その言葉は私にとっては明美ちゃんとの決別の言葉だった。
 せっかく伊藤さんが友達は一人でいい、ということを言ってくれているのだから、もう水野さんのことを思うわけにはいかない。
 もう過ぎ去ったことを思うわけにはいかない。
 明美ちゃんのことは早く忘れよう。

 日曜日、伊藤さんに家に遊びに来てもらった。
 以前、明美ちゃんを家に呼んだことがあるのだから伊藤さんを呼ばないわけにはいかない。お父さんは伊藤さんを見てどんな反応を示すのだろう。
 明美ちゃんが来たその日の夜にお父さんは「明美ちゃんと会うな」と私を叱りつけた。
 ここでまた私は明美ちゃんのことを思い出した。何かのきっかけですぐに明美ちゃんのこと思い出す。
 明美ちゃんのことは早く忘れようと思っているのに。
「伊藤さん、私の家は結構貧乏なのよ。お父さんの会社は倒産したし、そのせいでお小遣いも少なくなったの」
 私のお父さんが仕事が上手くいかず、更に借金に負われているのも知っている。
「あら、橋本さん、私の家も貧乏よ。お小遣いは当分上がりそうにないわ」
 伊藤さんも同じように私に合わせて言ったけれど人の家のことだ。比べようもない。
「伊藤さんは普段は何をしているの?」
「家では弟の面倒を見ているの。弟はまだ一年生なの、勉強を教えたり、ドッジボールで遊んであげたりしてしているわ」
 伊藤さんは明美ちゃんみたいに本を読むのかな?
「へえ、伊藤さんには弟がいるんだ」
「弟って、結構面倒なものよ。どうせならお兄さんがいた方がよかったなあ」

 伊藤さんには隠し事はいけないと思って明美ちゃんの話もした。
「ふーん。橋本さんのお父さんって結構厳しいんだね。私のお父さんだったら、そんなことは言わないだろうな」
「いいなあ・・」
 私は今でもお父さんが明美ちゃんを拒否したことを恨みに思っている。
「だってさあ。橋本さんのお父さんにはちょっと失礼な言い方かもしれないけど、人の事をとやかく言う前に自分がそんなに偉いのかって思うのよね」
 確かにお父さんには失礼だけど、伊藤さんの言うことはすごく当たってる。
 それに水野さんはお父さんがいなくて、お母さんと二人きりで生活するのも大変なんだ。
「けれど、これでようやくわかったわ」
 伊藤さんは納得したようにそう言うと深い息を吐いた。
「何がわかったの?」
「橋本さんが時々ぼんやりして何かを考えている理由よ。私、前から気になっていたの」
「そんなに私ぼんやりしてたかなあ」
 やっぱり伊藤さんには気づかれていた。
「そういうのって、案外自分では気がつかないものなのよ」
 そうだったのか。伊藤さんに悪いことしていたな。
 そう思いつつ、また明美ちゃんのことを思い出している自分に気がつく。

 お父さんは伊藤さんが帰った後「挨拶もちゃんとしてるし、なかなかいい子じゃないか」と言った。
 何で?明美ちゃんもおんなじ私の友達じゃない、どこが違ってたっていうのよ。
 明美ちゃんも挨拶はお父さんにちゃんとしてたわよ!

 図書室で宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を手にしたのはその頃だった。
 明美ちゃんと初めて話をするようになったバスの中で教えてもらった本だ。
 図書室に置かれていた二冊のうち一冊はボロボロになっていた。背表紙も取れかかっている。
 きっと明美ちゃんが何度も借りて読んでいたんだ、と勝手にそう推測した。
 私はぼろぼろになった方の本を手にした。
 裏表紙に付いている図書カードのたくさんの日付のスタンプを見て驚いた。
 返却日と同じ日にまた借りている。それが何度も続いている。
 そして、それは去年、突然途切れている。
 その後は誰もこの本を借りていない、きっとぼろぼろになっているからだろう。
 もう一冊の方がずっと綺麗だから誰だってそっちを借りる。

「銀河鉄道の夜」の図書カードのスタンプの最後の日付を見た途端、私は涙が込み上げてくるのを感じた。
 同時にこの本は絶対に明美ちゃんが何度も借りて読んでいた本だと確信した。
 最後の返却日の日付は明美ちゃんに「橋本さん、もう私に話しかけないでくれる」と言われた日だった。
 あの日、明美ちゃんはこの本を返却するとそれを最後にもう「銀河鉄道の夜」を読まなくなった。
「銀河鉄道の夜」は友人カムパネルラと銀河鉄道に乗って「本当の幸い」を求めて旅をする話だ。
 明美ちゃんはこの話を何度も読んで親友と銀河鉄道に乗ることを夢見ていたのだろう。
 その夢が壊れた。
 夢を壊したのはきっと私だ。
 明美ちゃんはどんな気持ちでこの本を返しに行ったのだろう。
 私はその時の明美ちゃんの気持ちを想像した。
 ―明美ちゃん、本当にごめんね。

「伊藤さんは『銀河鉄道の夜』って読んだことある?」
「ああ、教科書に一部が載ってた小説よね、私は読んでないわ」
 そっけない返事が返ってくる。伊藤さんはこの話題に興味がなさそうだ。
「そ、そう・・」私の声が小さくなる。
「水野さんが読んでいたのね?」
 伊藤さんに言われてまた明美ちゃんに関わる質問をしてしまったことに気づかされる。
「う、うん」
 私はこくりと頷いた後「ごめんね、伊藤さん」と謝った。
「橋本さん、どうして私に謝るのよ」
「私ね、やっぱりダメなの、思い出してしまうの」
「水野さんのことでしょ?」
「そうなの、伊藤さん、本当にごめん」
「別にいいわよ。そんなことを謝らなくても」
「私、どんなことでも伊藤さんに隠しておくのはイヤなの」
 言っておかなくてはいけない。
「どうして?」
「だって伊藤さんは私の大事な友達だから・・」
「水野さんのことは?」
「水野さんも大事な友達だったの、私は今でも友達だと思ってる」
 こんな話を聞かされる伊藤さんはどんな気持ちがしたのだろう。
 きっと気を悪くしているのに違いない。
「それを聞いて少し安心したわ」
 そう言うと伊藤さんは少し笑みを浮かべた。
「えっ?」
「だって、そんな橋本さんだから、私は友達になろうって思ったの。橋本さんが以前のことを忘れてしまうような人だったら、私、そんな気持ちにはならなかったと思うの」

 そんな時だった。伊藤さんと「芦田堂」を訪れた時に芦田さんにこう言われたのは。
「ねえ、橋本さん、水野さんとまた話したい?そして、また友達になりたいってまだ思ってる?」
 芦田さんはそう言うと今度は伊藤さんの方を向いた。
「そして、もしそうだったら、伊藤さんは橋本さんの気持ちを許せる?」
 芦田さんの優しそうな丸い顔が印象的だった。
 けれど私は芦田さんの問いかけに答を出せずにいた。
 伊藤さんも芦田さんの問いかけに困ったような顔をしている。
 私は伊藤さんに悪い気がしてすぐには返事ができなかった。

 私は明美ちゃんのような強さを持ち合わせていたのだろうか?
 私にどんなに話しかけられても無視し続けた明美ちゃんのような意思の強さを私は持っていただろうか?
 今、明美ちゃんはどんな気持ちで日々を過ごしているのだろう?
 もう友達できたかな?・・私みたいに・・


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 406