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作品名:「水をすくう〜少女の闇と光」 作者:小原ききょう

第13回   二人の母親


「ふーん。それで陽ちゃんはどっちなん?」
 僕は叔母さんに電話をかけた。
 夏目漱石の未完小説「明暗」の結末がどうなるか?
 叔母さんならどう推測するか知りたかったからだ。
 叔母さんはちゃんと「明暗」を読んでいた。さすが叔母さんだ。
「そんなん、漱石がどう思ったか、本の中に書いてあるんとちゃうん?」
「そんなこと、書いてへんよ」
「そうやったっけなあ・・」
 叔母さんは電話の向こうでぶつぶつ言っているみたいだ。
「僕は前に好きやった人と結ばれ方が話としては面白いと思うんや」
 叔母さんが先に僕がどう推測するかを訊いてきたのでそう答えた。
 つまりは主人公が奥さんを裏切って浮気、あるいは再婚してしまうことになるという結末だ。そっちの方を僕は望んだ。
「でもねえ、陽ちゃん、前に好きだった人の所に行くのは今の奥さんに対する裏切り行為よ」
「それは浮気やろ」
「そうよ。浮気よ」
 それくらい、いくら僕が子供でもわかってることだ。
「奥さんと今まで通りに過ごすのは、奥さんに対しても、前に好きだった人に対して少しも裏切ってへんことになわね」
「それは当たり前や」
「もし前に好きだった人に対して何か気持ちがあるとしたら、それはもう過去のことやもの、奥さんも知らんかったら、それで済む話やし」
「でもそんなことよりも主人公が前に好きやった人を忘れられへんかったら?」
「それは我慢するしかないわねえ」
「それやったら話として面白くないやんか」
 これは小説の話だ。現実とは違う。面白い方がいいに決まってる。
「面白くなくてもいいやん」
「なんでや」
「だって現実だけを書いて読者を納得させる方が難しいわよ」
 叔母さんの言ってる事はわかるけど、僕は納得できない。

「それで今日、私に電話をかけてきたんはその話?」
 叔母さんが話を変える。漱石の話が電話をかけるただの理由に過ぎなかったことを見抜かれた。
「うーん。実は叔母さんに聞きたいことがあったんや」
 本当は他に訊きたいことがあった。
「やっぱり」
 叔母さんの納得したような声が受話器に聞こえた。
「サンタクロースのことや」
「サンタクロース?」
「クリスマスの日、サンタクロースになった叔母さんに、何かお願い事をしたような気がするんや」
 すぐに叔母さんの返事が返ってきた。



「あのお・・すみません」
 女の人が男たちの前に現れた。
 私は台所に来て包丁に手を伸ばしたところだった。女の人の声に驚いて振り向いた。
 私は外れたメガネを拾ってかけた。
 私の母と同じ位の年に見える。けれど、服装を見れば生活のレベルが違うとすぐにわかる。少なくともこの場の雰囲気には全く合わない。
「誰や、あんたは?」
 男たちが私の代わりに訊いた。
 女の人は今の状況が掴めないらしく戸惑っているようだった。
 私は徐々に落ち着きを取り戻していた。
「山中と言います」
 山中?山中くんのお母さん?
 山中くんのお母さんがどうしてこんな所に来るの?
「達也の母親です」
 山中くん、万引きのこと、お母さんに言ったの?
 私の心が震えだした。

「水野、明美さんですよね?」
 女の人は家の奥にいる私に向かって声をかけた。私はこくりと頷いた。
「なんや、お嬢ちゃんの知り合いか、ほな、これだけ持って行こか」
 男たちは二つの箱だけを持ってこの場を立ち去ろうとしている。
「ま、待ってっ、それは置いていってっ!」
 私は家の外に出て大きな声を出した。
「何を言うてるんや。これは損害分の足しや」
 男たちは全部で五人いた。商品の二つの箱を軽トラックの荷台に積み込んだ。
 エンジンのキーを回す音が空しく響いた。
 他の家の人までドアから顔を出して私たちの方を覗いている。
「そんなっ」
 私は下半身の力が抜けていくようだった。
 箱を持って行かれる。私たち家族にとってはとても大事な箱だ。
 追いかけないといけない!

「私、水野さんにお話があるんです!」
 私は女の人の方を見た。私の関心が男たちに注がれているのを見ていて懸命に存在をアピールしているかのようだった。
「わかってます、ごめんなさい。今は商品を取り戻さないといけないんです!」
 私は女の人にそう言うと軽トラックに向かって駆け出した。まだスピードは出ていない。
「お嬢ちゃん、これはもらっとくって、母ちゃんに言っといてくれ」
 男たちは軽トラックの窓から顔を出して笑った。
 悪魔に見えた。
 女の人が来なければ悪魔を包丁で刺していた。
「待ってっ、お願いっ!」
 車は静かに走り出した。私は荷台の取っ手を両手で掴んだ。
 車のスピードに合わせて足が勝手に動く。
「だめっ!」
 私は足がもつれるのを感じた。
(どうして私はいつもこんなことになるのだろう?)
 荷台の取っ手から両手が離れ、体が変なバランスで宙に一瞬浮かんだ気がした。
 足がつっつっと勝手に地面を走ったかと思うと、前のめりになって体を地面にぶつけた。
 膝や肘、顎にまで激痛が走った。
 軽トラックはそんな私をあざ笑うかのように遠のいていった。
「痛い、痛いよ、お母さん、たすけて!」
 私は何度もそう心の中で呼び続けた。

「いったい、これってどういうことなの?」
 私は山中くんのお母さんに家の中に運び込まれていた。
「警察を呼ばなくてよかったのかしら?」
「いいんです」
 傷だらけで体のあちこちが痛み、血が滲んでいる。
「お薬箱、どこにあるの?」
「自分でとります」
 私は戸棚までいって薬箱を取り出した。
 箱を開けると中は寂しいものだ。中身が三分の一も埋まっていない。
 私は薄っぺらい座布団に体育座りをして膝に赤チンを塗った。
「そんな塗り方はいけないわ、先に消毒しないと」
「消毒液なんてありません」
「だったら、せめて洗ってから塗らないと」
「水道もありません」
「水の汲み置きがあるでしょう?」
 私はこくりと頷いた。
 山中くんのお母さんは部屋の中をきょろきょろして灯油を入れるためのポリタンクを見つけた。中身は汲み置きの水だ。
 山中くんのお母さんは据付のポンプを使ってタライに水を入れた。
 水にタオルを浸し軽く絞ってから私の傷口に軽く当ててから優しく拭った。
「いたいっ!」
「ちょっと我慢してて、土が付いているから、取っておかないと」
「はい」
 汚れを取ると赤チンを付けた。顎も擦り剥いているから同じようにしてくれたけど、顎には赤チンの上から絆創膏を貼った。
「お母さんはいないの?」
 訊かれて当然のような質問をされる。
「ごめんなさい、お母さんは仕事です。お父さんはいません」
 お父さんのことも訊かれる前に答える。
「今日は水野さんに話が会って来たのよ」
「わかってます。山中くんのことですよね?」
 山中くんのお母さんがこんな所まで来るなんてあの話以外には考えられない。
「達也さん、熱にうなされてて、変なことばかり言うものだから、悪いとは思ったけど同級生名簿で調べて来たのよ」
「達也さん」って言い方、本当のお母さんじゃなかったの?
 田中から山中に苗字が変わったから、変わったのはお父さんばかりだと思ってた。
 山中くんは新しいお母さんからお金をもらっていたんだ。

「私の話をする前に訊きたいのだけど、さっきの人たちって、いったい誰なの?」
 山中くんのお母さんはあの男たちのことが気になって仕方がないみたいだ。
「お母さんの大事な商売道具を盗っていったんです」
「やっぱり警察に言わなくちゃ」
 私は首を横に振った。
「警察を呼んでも、ミンジフカイニュウらしいですから」
「水野さん、よく知ってるのね、そんな言葉」
「さっきの人たちが言ってました」
「でも警察に相談した方がいいと思うわ。男の人がそう言ってるだけかも」
 きっちりとした話し方をする人だ。

「少し、痛いかもしれないけど我慢してね」
 山中くんのお母さんは肘の擦り剥いた所をタオルで拭い始めた。
「でも、水野さんは強い女の子そうだから、平気よね?」
 私は頷いた。
 私はこの人が来なかったらあの男の人たちを包丁で刺すところだった。
 脅迫なんかよりも罪の重い殺人を犯していたかもしれないのだ。
 そして、この人がもっと早くここに来ていれば、男の人は商品に手をださなかったかもしれない。
 いずれにしろ私は山中くんのお母さんに助けられたのだ。
 脅迫した相手のお母さんに助けられた。私は、なんて情けない子なんだ。
 友達もできず、母や男たちに悪魔呼ばわりされ、脅迫した相手の親に介抱されるなんて。
 もう救いようがない。
 転んだ時には出なかった涙が込み上げてきた。

「ごめんなさい、拭いた所、そんなに痛かったかしら?」
「違うんです、違うんです」
 私は首を強く振った。
 少し、山中くんが羨ましかった。
 こんなに優しそうなお母さんがいて、本当のお母さんではないにしてもすごく羨ましかった。
「お父さんがいないって、さっき言ってたけど、亡くなられたの?」
「お父さんは友達の借金の保証人になって、その友達に裏切られたんです」
「それで?」
「私たちを残してどこかに逃げました。お母さんはその借金を返すために働いているんです」
 働くと言っても、多くの人を騙して物を売っているだけだ。
 私には人に自慢できる父や母がいない。
「だから、お母さんは『友達』というものを一切信用していません」
「水野さん、あなたも?」
 山中くんのお母さんの大きな目にじっと見られる。
「私は・・」
 私は友達が欲しい。
「あなたは違うのね?」
「私も友達に裏切られました」
 沢井さんのことが浮かんだ。万引きをさせられた事を昨日のことのようにはっきりと覚えている。寒かった。今でもあの凍てつくような寒さを忘れられない。
 山中くんのお母さんは考え込むような表情をしている。
「それで、友達はもうこりごり?」
 私は首を強く横に振った。

「あの、山中くんの本当のお母さんじゃないんですか?」
「ええ、達也の本当のお母さんではないわ」
 山中くんのお母さんはその事には触れず話を変えた。
「そのメガネ、度が合ってないの?」
 私が時々目を凝らしているのを見て気づいたのだろう。
「ええ」
「新しいのを買ってもらったら・・」そう言った後すぐに「お母さんに買ってもらえないのね?」と言い直した。
「水野さん、参考書が欲しかったのよね?」
「そ、そうです、ごめんなさい」
「さっきから何度もごめんなさいって言ってるけど、別に謝ることじゃないわ」
「だって、私は・・」
「参考書を欲しがることは別に誰にも責められることじゃないって言ったの」
「えっ?」
 話がよくわからない。
「山中くん、お母さんに何って言ったんですか?」
「達也さんが本を万引きをしたって言うのよ・・私、びっくりして・・」
 やっぱり、万引きのことをお母さんに言ったんだ。
「参考書をね・・」山中くんのお母さんは続けてそう言った。
 参考書を?
「達也さん、熱でうなされるように「千円」「参考書」とか「水野さん」ってうわ言を言っていたの。よくわからないから熱が少し冷めた頃に訊いてみたのよ」
 そんなに熱を出していたんだ。もしかして私のせいかな?
「水野さんが参考書を欲しがってるから、本屋さんで万引きしたって言うのよ。わけがわからないわ。それにもっと参考書が欲しいから、お小遣いをちょうだいって言うのよ。なんでそんな事をするの?って訊いたら、友達だから、って答えたけど、水野さんとそんなに仲がいい感じも私には受け取れなかったし」
 そんなボランティアみたいなことで万引きをする人なんていない。
 山中くんってなんて嘘が下手なの。
「でも私は、その話は違う、きっと達也さんのついた嘘だと思って、ここに来たのよ」
 そっか。山中くんのお母さんはその為に来たんだ。
「ごめんなさい。私、山中くんが万引きしたのを見て、山中くんを脅迫したんです。私が参考書を買いたくて、千円を脅して貸してもらったんです」
 私は全て正直に話した。山中くんのお母さんが正直に話してくれたからだ。
「・・そうだったのね」
 私の話に納得したのか静かに頷く。
「二回目の千円も?」
「一度買った参考書はお母さんに捨てられました」
 山中くんのお母さんは厭きれたように溜息をついた。
「山中くんが万引きしたっていうのは漫画本なんです。参考書なんて言ったのは格好悪かったんじゃないですか?・・本当のお母さんじゃないから・・」
 そこまで言うと山中くんのお母さんの顔が一瞬震えたように見えた。
 そうして「まだまだ、私はダメね」と言った後「参考書じゃなくて、漫画の本だったのね。達也さんの嘘だったのね」と続けて言った。
「山中くんを責めないでください」
 山中くんのお母さんは首を振った。
「私、家に帰ったら、達也さんを叱らないといけないわね」
 山中くんのお母さんはそう言うと立ち上がった。
「水野さんも脅迫なんてしたことは、悪いことなのよ」
「は、はい。もうしません」
「達也さんが貸した千円を返すのはいつでもいいわ」
 私が返事をしようとしたその時、家のドアがぎいっと開いた。

「な、なに?この人は誰なの?」
 入り口に母が立ち尽くしていた。売れ残った商品を抱えている。
「すみません。勝手にお邪魔してました。もう帰ります」
 山中くんのお母さんは母の異様な雰囲気に圧倒されたのか、そう言うとカバンを手に取り入り口に行って脱いであった靴を履いた。
「お母さん、この人、同じクラスの山中くんのお母さんなの」
 少し顔が怖い母にそれだけを伝える。
 母の服と山中くんのお母さんの服装があまりにも違うので恥ずかしい。
「どうしてこの家に来たの、何の用事?」母は私に訊くと商品を家の中に置いた。
 どうしよう、何て説明をしたらいいの?
「そ、それは」
 山中くんのお母さんも返事に窮している。
 説明しだすと私の脅迫のことにまで触れてしまう。
 その時、
「商品の箱が二個もないわ!」
 母は商品を入れた大きな箱が二つ無くなっているの気づいた。
「お母さん、男の人たちが来て、それから・・」
 母の唇がわなわなと震え始めた。
「あの、お母さん、娘さんは箱を守ろうとしたんです。それで怪我まで」
 山中くんのお母さんが慌てて私をかばう。
「お母さん、私、盗った人の顔を覚えているよ!」
 顔を覚えていたら母が相手の所に行って取り戻すことが出来るかもしれないと思った。
「要するに、盗られたのねっ」
 母の顔が怒りで紅潮している。
「盗られたら、もうどうしようもないのよ、顔なんて覚えていたって何の役にも立ちはしないわ」
「そんなっ、お母さん」
 顔をちゃんと見ていたことを褒められると思った私がバカだった。
「それで、あなたはこの家に何をしに来たの?」
 今度は山中くんのお母さんの方に向かって訊く。
「・・娘さんに参考書を買ってあげてください」
 山中くんのお母さんが出した言葉だった。
 なぜ、ここに来たのか言えなかった。
 山中くんのことも、漫画本の万引きのことも、私の脅迫のことも全部伏せた言葉、残った言葉が母に「私に参考書を買ってあげて」と言う言葉だった。
「参考書って、何を言っているのっ」
 母の表情が引き攣った。怒る前の顔だ。
「今すぐ出て行ってっ!」
 母は山中くんのお母さんに向かって外を指した。
「ええ、出て行きます。けれど、このままでは娘さんが可哀想です」
「他人のあなたに言われたくないわっ」
「娘さんはお友達ができないことを気にしています」
「明美に友達なんてできるわけないじゃないっ!」
「な、なんてひどいことを・・」
 そう言った瞬間、母は山中くんのお母さんの胸をドンと押した。
「あっ」
 一瞬「転ぶっ」と思われたけれど何とか踏み堪えていた。
「私はもう帰ります。けれど、少しは娘さんのことも考えてあげてください」
 山中くんのお母さんは乱れた服装を整えた。
「あんたは先生か何かのつもりかっ!」
 母の怒号が辺りに響いた。山中くんのお母さんを「あんた」と呼んだ。
 初めて会った人に対して言う言葉ではない。
「もうすぐクリスマスが来ます。メガネも娘さんには度が合ってません」
 山中くんのお母さんはそれだけ言うと去って行った。
 その後姿を見送りながら、なんてこの場所に不似合いな人だろう、と思った。

 母がドアを閉め、家に二人きりになった瞬間、
「この悪魔っ!」母は大きく叫んだ。
 母の手が目の前に飛んできたかと思うと、右の頬に鋭い痛みが走った。
 ぶたれた勢いで壁に左の肩をぶつける。
 私の体は壁に沿ってずるずると滑った。
「私が何度、神様に祈っても、明美が変なことをするから縁起が悪いことばかり起きるのよっ」
 縁起?
 ああ、前にも橋本さんのお父さんに「縁起が悪い」と言われたっけ。
 私はぼんやりした頭の中で考えた。
『私は悪魔で、私がいると縁起が悪い・・』
 私はそう何度も復唱した。
「ああ、商品がなくなってしまったっ、なくなってしまったっ」
 母は机に両肘をついて頭を抱え込んでいる。母はいつまでもそうしていた。
 私も壁にもたれこんだままじっとしていた。
 その日の晩御飯は無かった。母も食べなかった。
 山中くんはお母さんに叱られているのだろうか?
 けれど、この家とは違う。
 子供に対しての叱り方も暖かいものとそうでないものがあると私はわかった。

 母が「こんな子に友達なんてできるはずがない」と言ったのには理由がある。
 それはここに住むようになって借金返済の目途がついた頃、母が希望を持ちはじめた頃のことだ。
 ゴミを積み上げられた場所とは反対側、吉水川の方の土地で母は家庭菜園のようなものを始めた。他にもそうしている家はある。自給自足でないと生活できない家が多くあったからだ。あとでそれらも違法なのだとわかったけれど、幼い私にはわかるはずもない。
 母が元気になって嬉しいのもあったし、家に菜園があるというのも嬉しかった。

 私は小学一年生、同じクラスのある女の子と友達になった。
 その頃は自分の家が汚いともあまり思っていなかった。菜園を見せたくて母に断りもなしにその友達を家に呼んだ。
 その子はびっくりして家を中を眺めていた。
 私はそんなに驚いた顔をされるとは思ってもみなかった。
 反対に菜園があるような家を自慢したいくらいだった。けれどその子は菜園を見ても何の反応も示さなかった。
 母がわざわざ来てもらって悪いと思ったのか、その子が帰る際に菜園で採れたトマトを包んで持たせた。

 けれどトマトは次の日、戻ってきた。
 その子の両親がわざわざご丁寧に返しに来たのだ。
 両親は「うちの娘はトマトが嫌いなのだ」と言った。
 母が娘さんがトマトを嫌いなのなら、ご両親が食べるか、他の人へのお裾分けにしてくれたらいい、と言ったけど二人は首を横に振った。
 私はその子が嫌いな物をあげたことが気になって学校に行った時、その子に謝ったけれど、両親から聞いたのとは違う答が返ってきた。
「汚いものは食べられない」と両親に言われたと答えた。
 そして最後に「あの家にはもう行くな」と念を押されたらしい。
 それが両親の本当に言いたかったことなのだと私は理解した。

 話を繋げると「あの家で作られたトマトなど汚くて食べられない」ということだ。
 その子もどんな言葉で相手が傷つくか、まだわからない年だったのだろう、親の言った言葉をそのまま私に伝えた。言えば私がどれほど傷つくかを知らずに。
 そして私は傷ついた。
 母が毎日のように手入れして育てているトマトのことをそんな風に言われたのはショックだった。
 スーパーに売ってる農薬を使ったようなものとは違って無農薬のトマトだと説明してもあの人たちには通じないと思った。
 家に帰って母にそのことを言うと「いっそのこと捨ててくれれば良かったのに」と母は言い「そんな子は友達じゃない、もう会わない方がいいよ。会えば傷つくのは明美の方だ」と続けて言った。
 私が泣き出すと母は「友達なんてできなくてもいいの。お父さんは友達だと思っていた人に裏切られたのよ。だから私たちはこんな目にあっているの」と言った。
 私は母の言葉に頷くしかなかった。
 父は信用していた友達の借金の保証人になったけれど、その友達が逃げてしまい保証人である父が借金を負うことになった。
 そしてその父も逃げ母が借金を負うことになった。
 けれど私は思っていた。「父だって家族を捨てて裏切ったではないか」と。

 それから何度か私に友達が出来そうになったことがあったけれど、いろんなことが原因で続かなかった。
 家のこととか、あまりにも違う環境とか。私の匂いのこととか。
 私はその度に家で泣いた。
 母はそんな私を見ていつも慰めてくれた。
「友達がいなくても、お母さんがいつもそばにいるから」そう言って抱き締めてくれた。

 母の「友達なんてできなくていい」という言葉はいつのまにか「明美には友達なんてできるはずがない」に変わっていた。
 その頃は母の言葉を深く考えなかったけれど、今はわかる。
「こんな所に住んでいる娘に友達なんてできるはずがない」
 そう言いたくいないから母は最初のうち「友達なんてできなくていい」と言っていたのだ。
 みっともない母の負け惜しみの言葉だ。
 けれど、私はそんな母を恨んでも嫌ってもいない。この世でたった一人のお母さんだからだ。
 私を悪魔呼ばわりされるのはもうかまわない。
 母にはちゃんとした仕事をして欲しい、私はそう願っている。

 小学二年生になっても友達も出来ず学校の図書室で本を読み耽ける日々が続いた。
 何冊も読んでいるうちに目も悪くなった。
 しかし目が悪くなっていくことよりも本を読むことの魅力の方が大きかった。
「グリム童話」「アンデルセン」の本、日本昔話、偉人の伝記、「赤毛のアン」「小公女」・・
 私にとっては楽しい時間だった。家にいる時より楽しいと思った。

 そのうちに宮沢賢治という作家の本に出会った。
 最初に読んだのは絵本の「よだかの星」だ。
 ひどい話だ。友達もいない「よだか」は仲間はずれにされ、この世を憂い天に向って飛び、やがては燃えてしまって星になる。その星は今でも輝いているという。
 悲しく救いがないと思った。
 けれど、自分を慰めるように何度も借りて繰り返し読んだ。
 宮沢賢治の作品を読み進めていくうちに、出会ったのが高学年用の本「銀河鉄道の夜」だった。
 漢字が多くて読みづらかったけれど、作者の描いている風景は大体想像することができた。
 主人公ジョバンニは「本当の幸い」を求めて親友カムパネルラと銀河鉄道に乗って旅をする。私にとっては夢のような話だった。
 母にいくら「友達なんてできなくていい」と言われても、この本を読めば、親友というものが欲しくなってしまう。
 いつか私は親友と銀河鉄道に乗って「本当の幸い」を探す旅に出る。

 その頃だった。
 家で図書室で借りた本を読んでいると外に大勢の子供たちの声がした。
 家の窓から外を見ると「ヘルマン屋敷」に向かっていく十人位の同じ年頃の子供たちが見えた。
 まるで「ハーメルンの笛吹き」のように「ヘルマン屋敷」に吸い寄せられるように吉水川を上流に向かって走っている。男の子に混じって女の子もいる。

 私には川の上流の「ヘルマン屋敷」が銀河鉄道の発車する「銀河ステーション」に見えた。みんな銀河鉄道に乗りたくて走っている。
 早く行かないと列車の出発に間に合わない。
 気がつくと私も家を出て走っていた。
 すぐに他の子供たちに追いついた。知らない子ばかりだ。一年生から三年生くらいの子たちだ。自転車に乗っている子もいる。

「おまえ、女の子やのに『ヘルマン屋敷』に行くんか?」
 一人の男の子が話しかけてくると他の子も同じように声をかけてくる。
「怖いぞお、あそこ、幽霊が出るらしいぞ!」
「おしっこ、ちびっても知らんで!」男の子たちが口々に言う。
「私、平気!」
 私は強く答えた。私の家は夜はほとんど真っ暗だ。幽霊なんて怖いと思ったことがない。

「ヘルマン屋敷」に着くと銀河ステーションなんてものはどこにもなく瓦礫だらけの廃墟があるだけだった。
 廃墟はまるで西洋の大きな教会のようだった。
 中心部の高い尖塔の十字架が広い空を貫いているように見えた。
 手前にアーチ状の門がある。高い門をくぐり抜けるとそこは別の世界だった。
 不思議な場所だ。みんながわざわざ遠い所から遊びに来るのもわかる。
 廃墟だけれど数十年前にはここで豪華絢爛な生活があったと容易に想像ができる。
 現実とはかけ離れた空間だ。
 そうか。ここに来れば、みんな、学校や家での嫌なことが忘れられるんだ。
 私もそうだった。
 同じ気持ちをみんなと共有した感覚だった。
 私は楽しかった。友達はいないけれど、こうやってみんなといると色んな不安がどこかに吹き飛んでしまう。
 歩きにくく危ない場所だったけど、みんなで鬼ごっこやかくれんぼ、缶蹴りをして遊んだ。時間が経つのも忘れ夕暮れまで遊んだ。

「おまえ、少し、臭いぞ!」
 しばらくすると一人の男の子が私にそう言った。
「ほんまや、こいつ、くせえ!」
 一人が言い出すと他の子もつられるように言い出した。
 私はみんなに言われる前にわかっていた。
 私の体はゴミの匂いがするのだ。
 ゴミの山に囲まれた家に住んでいるからだ。ゴミの腐った匂いが服や体に染みついていて取れない。それは私にとってどうしようもないことだった。
 私は泣き出しそうになる。
 ここにも私の居場所はなかったんだ。
 私はここからどこへ行けばいいのだ。
 けれど、私は家に帰らなかった。
 やっと見つけた場所だ。この場所を失いたくなかった。
「おまえ、匂うぞ」と言われても遊び続けた。
 鬼ごっこでは鬼ばかりやらされても、追いかけたら、「臭い!」と言われてもみんなを追いかけ続けた。

「おまえ、結構、強いな」
 ある日、その男の子は私にそう言った。
 そう言われてすごく嬉しかった。私にも人に褒められる所があるんだと思った。
 本当は強いのでも何でもない。ここより他に行く所がないだけのことなのに。
 そんなことは男の子には言わないでおいた。
「私、臭くない?」
 私が訊ねるとその男の子は私の周りを嗅ぐ真似をした。
「僕にはわからへん。僕、鼻が悪いんや。だから、気にせんでええやん」
 男の子は鼻の下を指で拭いながら答えた。
 けれど私にはわかった。
 男の子は私に嘘をついている。私を傷つけないように誤魔化していると思った。
 そんな男の子の嘘が私には嬉しかった。
 最初は嫌がっていた子たちも次第に慣れたのか、私の匂いのことを言わなくなった。
「ヨウイチくん」とか「ヨウちゃん」と呼ばれている男の子、「鼻が悪い」と言って私のことを匂うと言わなかった男の子が率先して私と遊んでくれたおかげかもしれなかった。
 私が鬼ばかりしているのを見て「こいつばっかり鬼やったら面白ない。今度は僕や!」と言って鬼の役を買って出た。
 そうすると次の鬼の番は違う子が名乗り出るようになった。
「こっちや」とヨウイチくんに手を引かれて一緒に走って逃げた。
 薄っぺらい運動靴で瓦礫の上を走ると砂利が足の裏に突き刺さるように痛かったけれど、私は笑っていた。


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