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作品名:「継母長田多香子の憂鬱」 作者:小原ききょう

第7回   工藤ルミ


「あの・・長田専務・・」
 工藤さん書類を役員室に持ってきた後、退出せずにが何やら言いにくそうな表情をして立っている。
「工藤さん、どうかしたの?」
 私は回転椅子を前にせり出し足を組み直し訊ねた。
 部下が何かを言おうとしているのを上手く引き出してあげるのも上に立つ者の役割だ。
「私、今度、結婚することになりました」
「結婚!」
 いきなりね。何の心の準備もしていなかったわ。てっきり仕事の話だと思っていたわ。
「はい、専務には可愛がってもらいましたから、先にお伝えしようかと・・」
「それで、相手は誰なの?・・お見合い?」
それとも恋愛?
「営業二課の田辺くんです」
 えっ、営業の田辺君?
 職場結婚じゃない! それも年下!
 驚きを隠せない私はその時、口を開けっぱなしだったかも。
 ああ、それでこの前の稟議書の誤字のこと、本人に言いにくそうにしてたのね。
 なんとなく合点がいった。
「ちょっと驚きね、全然気づかなかったわ、それでいつ?」
「来年の四月です」
 もう半年もないわね。
「専務、ごめんなさい」
 工藤さんが深々と一礼する。
「謝ることはないわ・・工藤さん、おめでとう!」
 工藤さんは私の言葉にまた一礼すると、
「ごめんなさい、というのは、私、結婚退職することにしましたので」
 女性の地位はまだまだだ。当然といえば当然、仕方ない。
「そう・・残念だわ」
 ちょっとお気に入りの子だったから残念。
「ごめんなさい」
「いいじゃない、田辺君、ハンサムだし」
 その言葉に工藤さんは恥ずかしそうにする。
 よし、それなら今晩は・・
「工藤さん、今晩、空いてる?」
「はい、特に何も予定はありません」
「今晩、私、暇なのよ。たまには、ご馳走してあげるわ・・というか、私にご馳走させてちょうだい」
 工藤さんと食事に行くのは初めてだ。
「よろしいのでしょうか?」
「いいに決ってるじゃない・・そうそう・・田辺君が一緒の方がいいのかな?」
「彼は今週、出張で、戻るのは日曜日なんです」
「それでは、今夜は女同士、ということにしましょう」
 彼女の承諾を得ると私は近くのレストランに電話予約を入れた。
 定時を過ぎると一階の文具屋の前で工藤さんと待ち合わせをして店に向った。
 退社する他の社員たちが遠くから私たちを好奇の目で見る。
「専務、少し、恥ずかしいですね」
 工藤さんは俯き加減で小さくなっている。
 風が強いせいもあって工藤さんはコートの襟を立てその中に顔を埋めた。
「そうね、私が部下を誘うなんてこと、めったにないことだもの」

 予約を入れたレストランは会社の接待でよく使うフランス料理店だ。
 けれど、あろうことか、予約を入れておいたにも関わらず何かのミスで予約は入っていなく、しかも店は満杯状態だった。
「長田さまっ、も、申し訳ございませんっ!」
 レストランのドアの前で店長がぺこぺこと平謝りに謝り続ける。
 私はふーっと溜息をつき「満員なら仕方ないわ、他の店に電話してみるわ」と言った。
 会社で使うレストランはまだまだある。まだ6時だ、この時間なら空いている店は一軒くらいはあるだろう。
「店長、電話を貸して欲しいのだけど」
「は、はいっ、奥へどうぞ!」
 私が店長とやり取りをしていると、私の背中をツンツンと指でつつく人がいる。
 振り返ると工藤さんが、
「あの、専務、私のよく知っている店でしたら近くにありますけど」
「そう・・それじゃ、そこに行こっか!」
 すぐに答えると工藤さんは微笑んで「専務、案内させていただきます」と言った。
「そこ、予約をいれなくても大丈夫なの?」
「はい」と言って工藤さんは頷いた。

 工藤さんが案内してくれた店は路地裏に入った所にある炉辺焼きのお店で、会社の接待ではとても使えそうにない少し貧相なこじんまりした店だった。
 店の主人らしい六十歳くらいの男の人と、その奥さんらしい人がいるだけだった。
 同じ会社の人間同士だから、私はいっこうに構わないのだけれど、工藤さんは「専務、こんな所で申し訳ありません」と小さくなっている。
「気にしなくていいわ、私、こういうお店、一度、来てみたかったのよ。それと、今夜は無礼講にしてちょうだい。私のことは『長田さん』でいいわ」
 そう言うと工藤さんは「そんなっ」と言ってかしこまる。
 掘りごたつ式の座敷に向かい合わせで座り私たちはまずビールをジョッキで頼み、肴をご主人に適当に見繕ってもらうことにした。
 乾杯をして「何か食べたいものがあったら、どんどん言ってちょうだい」と言って私は煙草にに火を点ける。
 ふーっと静かに煙を吐き「この店、よく来るの?」と工藤さんに訊いた。
「はい、彼との初めてのデートがこの店でした」
 少し恥ずかしそうにしながら言う。
 ここで初めてのデート・・か。
 ちょっと羨ましい。
「それでプロポーズは?・・もちろん、田辺君からよね?」
 工藤さんは頷いたが、力が入っていない気がする。
 厨房ではお店の主人と奥さんらしい人が言葉もほとんど交わさず淡々とお酒の肴を作っている。手際がいいのかどうかは見ていてもわからない。
 運ばれてきた切干大根を食べるとすぐに趣味のいい店だと感じる。
「あの・・専務・・」
「専務じゃなくて『長田さん』でしょ!」すぐに訂正する。
 工藤さんのビールが半分になったところで、なみなみと注いであげる。私のビールが空になっているのを見て「ごめんなさい、気がきかなくて」と言って工藤さんは私のジョッキにビールを注ぐ。そして改め直して、
「やっぱり、『長田さん』とお呼びするのはちょっと・・」
「そう・・」
 私ががっかりしていると少し間を置いて工藤さんは改めて私の方を向き直った。
「・・『多香子さん』とお呼びするのはダメでしょうか? 長田さんとお呼びしても上司の感じが拭えませんから」
 えっ・・
 多香子さん・・それは、最後まであの人に呼ばれることのなかった呼び名、
 私は「多香子さん」ってそんな呼び方をされたことは一度もない。
 小さい頃「多香子ちゃん」とか言われることはあっても「さん」付けはない。
 会社の人間は「専務」で、父や母は「多香子」お手伝いの遠野さんは「奥さま」・・恭子は「お母さま」・・そして、あの人は「君」だ。
 仕事関係でも「長田さん」と呼ばれるのがほとんどだ。
「いいわよ・・その呼び方で、・・『多香子さん』でいいわ」
 工藤さんはにこりと微笑むとビールのジョッキを手にして、
「あの、多香子さん、前から気になっていたのですけど、というか私たちのような平社員のただの噂話ですけど・・」
 工藤さんは何やら言いにくそうにしているのでまたビールを注ぐ。
「何でも言って頂戴。何なら、ここだけの話、ということでもいいわ」
 私がそう言うと工藤さんはくいとビールを飲み空けた。私はまたなみなみと注いであげる。工藤さんは「すみません」と言うと話をし始めた。
「私は、専務・・いえ、多香子さん・・多香子さんのお仕事のやり方、すごく好きなんです。とても理にかなった方針をいつも社員に示されるし、仕事の進め方もスマートですし、
仕事が上手くいった社員にはちゃんとお誉めの言葉を言われますし・・」
「工藤さん、私を煽てても何も出ないわよ」
 工藤さんは笑うと「多香子さんはあまり、遊びませんよね?」と言った。
「遊び?・・遊びって・・」
 遊びといえば私ぐらいになるとゴルフのことくらいしか思い浮かばない。それとも競馬とか賭け事のこと?
「遊びです」
「ちょっと待って・・工藤さん、さっき言ってた噂話っていうのはどうなったの?」
「同じです・・」
「ごめんなさい、私、わからないわ」
 噂って言って話を切り出した後、私を誉めるかと思えば私が遊ばないって言い出して。
「噂っていうのは社長はよく遊ぶけど、専務、多香子さんはあまり遊ばないって言うことです」
 ああ、そういうことね。
 社長、ヒルトマンの弟グストフ氏のことが社員の間で何か言われているらしい。
「前の社長、ヒルトマンさまと比べられてもよくは言われていないようです」
 ああ、わかる・・わかるけれど、それは仕方のないことかも。
 夫であるヒルトマンと弟のグストフとではタイプが全く違うし、その能力も異なる。
 当然ながら仕事で秀でていたのはヒルトマンの方だ。
 社長の座にグストフ氏に就いてからは事業の展開も右下がりとなっている。
「彼、ゴルフが好きだものね。私はゴルフは全然しないし」
 グストフ氏が必要以上に接待ゴルフをしているのは知っている。
「ゴルフだけじゃありません」
「工藤さん、社長の悪口は・・」
 私が戒めると「もう辞めるから、この際、多香子さんに言っておきたかったんです」と激しい口調で返した。
 少し私も聞きたくなったので止めないておくことにした。
「田辺君は入社当時は経理に配属されていたから、経理に仲のいい知り合いの子がいるんです。よくその子から愚痴を聞かされていたらしくて」
 グストフ氏のお金の問題?
 何となくお金にはだらしないとは思っているけれど。
「グストフ社長は丸の内で接待で使った領収書の伝票を回しておきながら、神戸の方にも同じ伝票を渡しているんです」
 それはちょっとひどい。
「それ、複写か何か?」
 誰も気づかないのかしら?・・いや、気づいていても言えないのかもしれない。
「複写なのかどうかまではわからないんです。他にも空出張をしている形跡もある、と聞きました」
 これ以上、聞いたら、私ちょっと逆上するかも。
「それに、神戸の業者からは賄賂を受け取っているという話もあります」
「賄賂!」
 それは聞き捨てならない。それだけは絶対にダメだ。
 空出張や二重接待伝票ならまだ額も小さいだろうし、会社の内部での問題として処理することができる。ある意味、お金にだらしない者がする常套手段だ。
 だが賄賂はそういうわけにはいかない。会社の信用や存続にもかかってしまうことだ。
 私は夫であるヒルトマン、前社長とは私的な話こそなかったが。仕事の話はよくした。
 いや、仕事の話しかなかったと言ってもいいほどだったけれど、その中で印象に残っているのが賄賂の話だった。
 故郷のドイツで一緒に事業を行っていた仲間に裏切られるということがあったらしい。
 その仲間がヒルトマンに内密に受け取っていたのが賄賂だった。
 また過去に同胞のドイツ人が巨額の収賄事件を起こして身を滅ぼす、という事件があった。
 有名な「シーメンス事件」だ。
 だから夫は賄賂だけは激しく嫌っていた。
 もしそれが事実なら・・
 それも社長であるグストフ氏自身が・・
「工藤さん、それって何か証拠はあるの?」
「多香子さん、申し訳ありません。証拠はありません。ただ・・」
「ただ?」
「誰かに調べてもらうことはできると思います」
「でもねえ、社員にさせるわけにもいかないわ。下手に業者に頼めば、会社の弱みを握られることにもなるわねえ」
 ことがことだけに慎重に行動しないと。
 それにしても、今夜こんな大きな話を聞くことになるとは思わなかった。ビールを飲む手が止まり、箸の動きも止まった。
 私は二本目の煙草に火を点ける。
「神戸の遠野さん・・多香子さんのお嬢さまの家政婦をされている方なら、きっと・・」
 遠野さん?
「遠野さんのこと知ってるの?」
「社員の間では有名ですよ」
「彼女、そんなに有名・・なの?」
 遠野さんは長田家の家政婦、兼、恭子の家庭教師。
 だが彼女の仕事はそれだけではない。
 長田グループを守るための事業以外の仕事・・彼女は長田グループの事業の関係者が離反する動きなどがあると感じられる場合、それらを調査する。
 今までに遠野さんの調査によって救われたことが何度かあった。
 だが、そのほとんどが神戸方面で、東京の会社、長田商事のことにまで首を突っ込むことはできない。
 だが、グストフ氏のこととなれば話は別だ。

「神戸の社員からよく聞くんです」
 遠野さんは優秀だ。家政婦としてはもちろん、家庭教師、そして調査方面も・・おそらくいろんな調査会社を使っているうちに遠野さん自身も腕を上げたのだと思う。
 その評判が神戸の社員から東京にまで声を広めていったのに違いない。
「内密にしていても、噂って結構広まるものね」
「男性社員の中でも遠野さんのファンがいるほどです。お綺麗な方らしくて」
 そう言って工藤さんは微笑んだ。
「それ、ほんと?」
 それは驚きだ。
 遠野さんを慕っているのは恭子ばかりではないみたい・・それはそれでいい。
「工藤さん、社長のこと、賄賂のこと、あまり言わない方がいいわ」
「ええ、多香子さんがそう言われるのなら・・でも噂って怖いですよ」
「そうね。わかるわ・・でも、その話、私に一任してちょうだい」
「はい」
 工藤さんは頷いた。
「じゃあ、工藤さん、この話はこれでお終い。さあ、もっと呑んで食べましょう」
 私は主人を呼んでお品書きからお腹が膨れるものを適当に注文した。
 厨房の中では店の主人が黙々と魚を捌いている。その横で女の人が洗い物をしている。
 ご主人の料理がお皿に盛付けられると女の人がカウンターから出てきて他のお客に配膳する。ご主人も何も言わないし、奥さん、に見えるその人も何も言わずに作業をしている。
「あうんの呼吸」という言葉がピッタリの様子に微笑ましくなる。
 これからも二人でずっとお店を続けていくのだろう。あと何十年続けることができるのかわからないが、ともあれ「この二人に未来あれ」だ。
 厨房から工藤さんに視線を戻し、
「ねえ、これから私たち私的に会う時は、私も工藤さんのこと『ルミちゃん』って呼んでいいかしら?」と言った。
 工藤さんの表情が面白いくらいぴりっとなる。
 工藤ルミ子、それが彼女のフルネーム。
「いいですけど、少し、くすぐったいです」
 本当に恥ずかしそうに工藤さんは笑った。
 もうそんな風に呼ぶ時間もあまり残されていない。
 私はただこの心地いい時間を少し先まで延ばしたいだけだ。
「それで、ルミちゃん、田辺君とはこの店以外にどこに行ったりしたの?」
「まだそんなには・・あまり行ってないんです」
「あら、そうなの?・・もっとデートを重ねてるんだとばかり思ってたわ」
「いえ」と言って工藤さんは申し訳なさそうに俯く。
 何もそんな顔をしなくても・・
 と思っていると工藤さんは私を見つめこう言った。
「多香子さん、さっきの話とは別に、多香子さんにはもっと遊んで欲しいんです」
「遊び・・ねえ」私は工藤さんの視線を外して呟く。
 さっきも聞かれたけど、私、どうすればいいのかしら?
 更に工藤さんは私の目を見た。
「多香子さん、再婚、なされないんですか?」
 工藤さんは視線を外さなかった。
「えっ?」
 工藤さんの予想外の質問に、この店の中の風景が一瞬止まったように見えた。
 けれど、私はすぐにこう答えた。
「私、あの人・・ヒルトマンのことが、まだ忘れられないの・・」
 その時、どうしてそう言ったのかわからない。
 言葉が独り歩きのように勝手に出ていた。
 いずれにしろ今夜、工藤さんと食事をしてよかった、と思った。
 お茶漬けを食べ終えるとお愛想をすることにした。
 工藤さんは「申し訳ありません、今夜は失礼なことばかり言って」と何度も謝った。
 私は「悪いと思ってるのだったら、又、私に付き合ってちょうだい」と冗談ぽく返した。
 支払いを済ませる時、あまりにも無口な店の主人と奥さんらしい人がちょっと気になったので何となく聞いてみた。
「あの、ご夫婦でお店をやられて、もう長いのですか?」
 奥さんに見えるその人は私の質問にぷっと吹き出したように笑いだし、店の主人も向こうで笑いだした。
 今まで無口だった二人が私の質問で何かが崩れたように笑い出した。
 その瞬間、この人は店の主人の妻ではないと認識した。
「違いますよっ、よく言われますけど、違います。私はただのお手伝いですよ」
 女の人は目の前で手を大きく振りながら全否定している。
「この人はもうここで三年になるからね。そう見えるのかもしれないなあ」
 後方でご主人が付け足す。
 思わず私も自分の言葉の愚かさにその場で笑った。

 夫婦に見えるけど、夫婦ではない人たち。
 夫婦なのに夫婦に見えない・・見えなかった私たち。
 私とヒルトマン・・


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