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作品名:「継母長田多香子の憂鬱」 作者:小原ききょう

第37回   再会


「よっ、多香ちゃん、久しぶりやなあ!」
 三宮の人ごみの中、町田さんが私を見つけると手を上げた。
「髪、えらい短かくなったなあ・・でも、よう似合ってる」
 いつもの顔だ。若い頃、何度この笑顔に救われたことだろう。二重あご、大きく出たお腹、冬でもかいている汗。最近、増え始めた白髪、色んな会社を動かしているのに決して偉ぶらない人。
 私の前の職場、水原通商で町田さんに会社の改善案を見てもらったことから二人の縁が始まった。この人なら信頼できる。そんな確信めいた感のようなもので私は町田さんに近づいた。互いの事業の利益なども関わりながら現在に至っている。
 私は三宮駅を南に下った所にある公園で町田さんと待ち合わせをしていた。
 私は軽く頭を下げ「また、町田さんにお世話になりことになりそうです」と言った。
「先方さんの予定が変わってもうてな・・ちょっと時間ができたから、いつもの店でお茶でも飲んで行こか」と太い親指を立て、くいと南に向けた。
 歩きながら町田さんは「事業を東京中心から神戸に舞台を移す・・そういうことやな?」と訊いた。
 私が「はい」と応えると町田さんは「わしの名刺、また増えそうやな」と言って笑った。
 町田さんには長田商事の神戸支社の「顧問」もしくは「相談役」に就いて頂く予定だ。
 私たちは駅から南に長く伸びる公園の中を南に歩き、噴水のある広場まで出ると公園を出て小さな喫茶店に入った。
 南の窓からは神戸港の一部が見え、山側には六甲山の山々が広がっているのが見える。
 そして、東には先ほど通ってきた公園が見える。コの字の三面に窓があるので気に入っている店だ。何より、コーヒーと紅茶のどちらも美味しい。
 席数は20席ほどあるが、今はその二割も埋まっていない。ゆっくり話せる。
「時間はかかりますが徐々に、そして確実に進めていきます」
 私は町田さんに今後のプランを語った。町田さんは私の言葉に耳を傾けている。
「それで、グストフ君のこと、おさまりそうかいな?」
「ええ、彼には徹底して自分の犯していることの重さを伝えたつもりです・・けれど、長田グループの社員の中で立ってしまった噂だけはどうしようもないです」
「火の元を消してしもうたら、煙も出えへんようになるかもなあ」
「火の元が消えればの話ですわ」
 火の元という言葉が町田さんと私では意味が違うことにすぐに気づいたが、あえて触れないことにした。
 私のとっての火の元というのは一般的な噂の元を指したつもりだが、町田さんにとっては邪魔な存在が消えることを意味しているはずだ。
 私も事業者だが、彼も今は大きな事業者だ。言葉のすれ違いをそのままにしておくのも大切なビジネスマナーの一つだ。あえて突っついても、そこに意味は生まれない。
 おそらく、それ以外にもすれ違っていることは多くあるだろう。
 お互いに私の父が経営していた水原通商にいた頃はまるで父娘のような信頼関係を築いていたが、今では彼の方は長田グループや水原通商とは縁のないビジネスの世界にも手を広げている。一方、私の方は長田グループ一筋だ。
 そんな町田さんとの関係は、すれ違いこそあれ、よきビジネスパートナーになっている。今日みたいに町田さんの仕事の懇意先を紹介してもらうこともその一つだ。
 ただ残念なことは、お互いの仕事が増え、こうして会う機会が減ってしまったことだ。
 私が結婚してからはそんなに数多く会ってはいない。
 特に夫が亡くなってからは私の方が一方的に忙しくなり打ち合わせの電話ばかりになっていた。
 本当は、私が結婚してからのヒルトマンとの関係や、現状のことも報告したかった。だが私が事業に専念し過ぎたせいか、プライベートな話はいつも後回し・・それどころか全く話せずにいた。
 しかし、今思えば話さない方がよかったと思う。話していたら私の不幸話やただの愚痴になって町田さんも気分を害しただろう。
 だが、それから歳月の経った今は少しは話せる気がした。それは私が少し変わったせいだ。
 ウエイトレスが注文を受けに来ると町田さんと私は「いつものを」と言った。
「多香ちゃんも、この店、よう使ってるようやな」
「町田さんも、ですね」
 それぞれが神戸に来た時にはよく利用している店なのでマスターも女の子も顔見知りだ。
 といっても町田さんの場合はこの店以外にも東京や神戸、大阪でも常連となっている店は数多くある。町田さんの仕事の増加に比例して、行きつけの店や知り合いは増えていく。
 私は神戸でよく使うのはこの店くらいだ。
「こうやって多香ちゃんとゆっくりできるんは久しぶりやなあ」と言って町田さんは上着の内ポケットから煙草を取り出しライターを探し出しているので、私は手持ちのライターをバックから出し火を点けてあげる。煙草は止めたが、ライターは持っていればこんな時に活躍する。それにこのライターは主人の形見でもある。手放さずにいつでも持っている。
「町田さん、ひょっとして、私のことを、遠野さんに何か話しました?」
 町田さんは「いいや、特に何も」と首を振ったが 主人、ヒルトマンの話は話題にのぼったのに違いない。
「そやけど、あの子、遠野さん、優秀な家政婦やなあ。機転もきくし、ほんま、聞き上手で、長い話も嫌な顔一つせんと付き合ってくれるし、それに何ていったって別嬪さんや・・家政婦にしとくんは、ちと勿体無いなあ」
「聞き上手って・・町田さん、やっぱり、私のことを遠野さんに・・」と言うと町田さんは「かなわんなあ。多香ちゃんは言葉をひとっつも聞き逃さへんなあ」と笑い「わしと多香ちゃんとの腐れ縁についての説明を懇切丁寧にしただけやがな」と言った。
 私はそれ以上は訊かないでおくことにした。それも二人の間に自然とできたマナーの一つ。
 運ばれてきたコーヒーと紅茶に二人とも手を伸ばす。町田さんはいつもコーヒーに砂糖が多め。私は紅茶にミルクを入れスプーンを二回だけ回した。
「それで、多香ちゃん、なんでまた、神戸在住の役員をすることにしたんや?・・あんなにずっと東京のマンションにおったのに」
「東京のマンションは売ることにしました。少し手狭にもなっていましたし。これからは東京の出張はホテルにします」
 町田さんはコーヒーを口にしては煙草を美味しそうに吸って煙を静かに吐き出している。
「娘さん・・恭子ちゃんのことか?」
 恭子のことはもちろんの理由だが、やはり仕事の占めるウェイトが高いだろう。
 神戸の会社で私の常駐を望む声が高かったということもある。それに神戸を足場にして事業を伸ばすのはヒルトマンの望んでいたことだ。
「娘のことだけで神戸に越すわけにはいきませんわ。長田グループの神戸側の都合が主な理由です」
「そっか・・」
 あえてそれ以上町田さんも私に訊かない。
「あのでかい家、使わんと勿体ないもんなあ」
 私一人が増えたところであの邸宅がどうこうなるものでもない。広すぎることには違いない。だからといって賑やかにするためにパーティーを多く開くには更に使用人が必要となってくるし、こちらも体が続かない。
 邸宅本体と芝生はまだいいが、桜の木の並ぶ小道は少し余計だ。だが、亡き夫の意向で作られたものなら仕方ない。
「ようやく、あの人の夢でもあった神戸での本格的な事業を起こせそうです」
「そうやなあ、多香ちゃんが舞台を移せば、自然と神戸の方が本格的になってくるなあ。ヒルトマンくん、神戸の事業はやりかけやったから、残念がってたと思うで・・彼も多香ちゃんがその気になってやるんやったら、きっと天国で喜んでくれるはずや」
 そう言って町田さんはにこりと笑った。
「そうでしょうか」
 神戸での事業展開を滞らせていたのは私だ。それが何故なのか町田さんはそこまでは知らない。あえて言うこともない。町田さんは私がヒルトマンと結婚する道を開き、祝福してくれた人たちの中の一人だ。
 夫や娘、私たち家族の個人的な事情を話したりするのは遠野さんまでだ。

 「ヒルトマンくんが亡くなって、もう一年半か」町田さんは感慨深い表情で言い窓の外を眺め「ええ男やったな」と言って窓から視線を私に戻して笑った。
 なんだが気恥ずかしくなって私も窓の外を見た。
 窓から視線を町田さんの顔に戻すといつもの笑顔があった。
「あの人が亡くなってから、私の恋が始まったような気がするんです」
 思わず、そう言った。
 遠野さんまでしか話さないと思っていたのに町田さんの朗らかな笑顔を見ていたら、そんな言葉が口をついて出た。
 きっと恭子や遠野さんとじっくり話したり、初めて会った芦田くんたち、少年少女と話したせいだろう。
「死後の恋・・というやつかいな?・・けどな多香ちゃん、それを言うてしもうたら、それまでは恋していなかったことになってしまうがな」そう言って町田さんは苦笑し、「そこまでではなくても、生前、二人の間に何かあったんかいな、と人は思いよるで」と言った。
 その言葉で私たち夫婦のことを話さなくても、察しのいい町田さんならおよそのことが見当がついてしまう。
「特に深い意味はありませんわ。ただ、最近、私の中であの人の形が少し変わった。そんな気がするだけです」
 少し言い訳めいたことを言う。
 町田さんは煙草を灰皿に押しつけるようにして消し、少しの間、腕を組み思案するような表情を見せた。
「多香ちゃんの中でヒルトマンくんの形が変わっても、彼の中では多香ちゃんの形は変わってへんかったと思うで」
「そうでしょうか?」
 よくわからない。
 ―向き合っていなかったのはお母さまの方よ・・
 恭子にもそんなことを言われた。
 長い時間を一緒に過ごしても、向き合おうとせず、最後までわかりあえなかった。
「ヒルトマンくんの中では、多香ちゃんはずっと変わっておらへん」
「はあ・・」
 その言葉に特に返事をしないでいると、町田さんはコーヒーを美味しそうに飲みながら、突然こう言った。
「多香ちゃんはヒルトマンくんにとって『桜の花のような人』らしいからなあ」
「え?」
 飲みかけの紅茶を吹き出すところだった。
 いきなり、町田さんは何を言っているの?
 町田さん流の何かのジョークかしら?
 私は無理におかしな笑顔を作り、
「町田さん、そのセリフ、あの人が前の奥さん・・由希子さんを称える言葉ですわ」と強く訂正した。
 別の女性を賞賛した言葉を私と間違えるなんて、ちょっとひどい。
「そやったかいな」町田さんは納得いかないのか首を傾げ、またコーヒーをすする。
 きっと町田さんは夫との会話、もしくは噂話を耳にし私と前妻を混同したのだろう。
 ―由希子は桜のような人だった。
 何度か人づてに聞いた夫の言葉だ。決して私にとってはいい言葉ではない。
 できればもう思い出したくもない。心の奥底に封じ込めておきたい。

 町田さんは「たまには、わしの思ってる、いや、思ってたことを言うてええか?」とたいそうに前置きをして私が頷くのを確認すると「多香ちゃんが結婚してからはあんまりプライベートの突っ込んだ話はせんようになったからなあ」と感慨深く言った。
「そうですね、お互いに忙しい日が続きましたから」
「多香ちゃんが仕事ができる子やって、わしはようわかってるつもりや」
「私をおだてたって何も出ませんわ」
「ただな・・」
「ただ・・何ですか?」
「多香ちゃん、今の神戸、岡本の邸宅を建築する際、打ち合わせに一度も神戸に来えへんかったんとちゃうか?」
「ええ、私、一度も神戸に出向きませんでした」
 自慢できる話ではない。普通の人間だったら行くだろう。そして、現地を自分の目で見て、家具を選んだり、夫や業者と意見を交わして、自分好みのデザインや色調等を取り入れてもらえうように口を出したり、料金の交渉をしたりする。
 しかし、私はそのどれにも参加しなかった。
 参加しないのではなく、行きたくなかったし、関わりたくなかった。前妻の家の近くに建てられる家をわざわざ見る気にもなれなかった。
 遠野さんすら取引する業者の選定や家具の配置を指示するために数回足を運んだ程度で、そのほとんどは主人が仕切っていた。
 町田さん、その時のことをまだ怒っていて・・私、今から説教されるのかしら?
「多香ちゃんが何でいっこも神戸に来えへんかった理由は知らへんけど、わしは神戸の不動産業者を紹介した手前、何度か、神戸に足を運んだんや」
「すみません、その節は色々として頂いて」いまさら謝っても仕方ないこと。
 その頃の夫の話の中に町田さんがよく登場した。町田さんとどこに食事に行ったとか、大阪まで行って朝まで遊んだとか機嫌よく話していた。
 その時の彼の顔がすごく楽しそうだったのを憶えている。
「多香ちゃんらしくないなあ、とわしは随分思ったもんや。多香ちゃんやったら、調度品はなおさらのこと、家の方位やら、縁起担ぎとか、よう知ってるから、真っ先に自分から口を出して来ると思ってたからなあ」
 そういえばその頃、何度か電話が町田さんからあった記憶がある。
 いくら恩師のような存在の町田さんからの電話でも内容が推察されたので、私は色々言い訳を並べ立て、結局のところ、神戸には行かない方向に話をそらした。
「忙しかったからだと思いますわ」
 行こうと思えば行けた。私は逃げていただけだ。
「自分の家のことやで」
 町田さんと目が合う。
「ええ」
 少し気まずい。
「自分の住む家やと思ってへんかったんとちゃうか?」
 見透かされてる・・町田さんの言う通りだ。
 その頃、私は家のことも夫や娘のことも考えていなかった。
 町田さんは私とあまり会っていなくても、人の噂や、私の行動で、私の心理状態を把握していたのだろう。
「恭子ちゃんは、来よったで」
「えっ?」
 あの子が・・それは知らなかった。
「やっぱりな・・」
 町田さんは「その顔やったら、知らなかったんやな」という表情をする。
「お嬢ちゃん、ヒルトマンくんに連れられて神戸まで来たんや」
 神戸に行くどころか、東京の家に帰ることも避けて出張先のホテル暮らしを続けていたから、あの子の行動すら把握していなかった。遠野さんとの電話のやり取りだけで家の様子を知るだけだった。恭子の行動を気にも留めず聞き逃していたのかもしれない。
「そないに数多くは来てなかったけどな、冬の休みと春休みの計二度ほどやったかいな」
 それでも全く立ち寄らなかった私とは違う。
「あの頃、お嬢ちゃんは?・・」
「小学二年生の頃ですわ」
「もうだいぶ大きくなったやろな」
「ええ、来年、小学6年生です。背の高さはもう中学生並みですわ」
 私がそう言うと「わし、何が言いたかったんやろな」と呟き、「そや」と手を打った。 
「わしが言いたいんは、あの、神戸の家はお嬢ちゃんの意向も組み込まれていた家やということや」
「あの子の意向?」
 何だろう?・・装飾品とか、かしら?・・わからないわ。
「町田さんは家を建てる際の恭子の意見をご存知なのですか?」
 町田さんは答えずウエイトレスが脇を通ると声をかけ「ねえちゃん、コーヒーのお替り、ちょうだい」とカップを少し上げて言った。
 ウエイトレスは「かしこまりました」と言って私の方には水を注ぐ。
「ヒルトマンくんは前妻と結婚する前、神園由希子さんの実家、つまり神園邸に挨拶に行った時に近くの小さな川の散歩道に咲いていた満開の桜が忘れられない、と言っとったことがある」
 話が変わった。
「人づてに聞いたことがありますわ」
 その噂を聞いた時「ああ、やっぱり」と思った。
 夫はその場所の近くに家を建てたかったのだ。
 ―僕はね、神戸の町が好きなんだ。
 新幹線の中で彼が言った言葉を憶えている。
 それは神園由希子がいる町だからだ。
「多香ちゃんとのお見合いの席でも桜が満開やったそうやな」
 町田さんに縁談の成立の報告に行った際には話さなかった話だ。それを話すと町田さんの祝福の表情に水を差す気がした。
「どっちも、ヒルトマンくんから聞いた話や」
 夫は町田さんにそんな話を?それほど親密な仲だったのか。
「そして、恭子ちゃんが神戸に二回目に来た時・・丁度、春休みやったな、神戸の岡本の天井川沿いに・・」
「まさか、その時も桜が満開だったのですか?」と私が続けて言うと「そや」と答えた。
 あの子は神戸の桜も見ていたのか・・そして、東京の桜もあの子は見ている。
 けれど、どうして・・
「町田さん、さっき言われた恭子の意向のこと・・全然わかりません」
 私がそう言うと「うーん」と唸るような声を出し、しばらく黙った。
 そして顔を上げると、
「人が桜に似てる・・なんて、そんなことあるかいな」と言って笑った。
「それはそうですけど」
 私の心に長い間、重くのしかかっていた言葉が軽くあしらわれた気がした。
「多香ちゃん、その言葉、ずっと気にしてるんやろ?」
 そう言われてどう答えていいのかわからない。
 答えないでいると町田さんはまた「はっはっ」と少し大きめの声で笑った。
 人の気も知らないで・・
 私が十代の女の子だったら、ちょっとむくれたかもしれない。
「あくまでも、その例え話は噂やろ?」
「由希子さんを賞賛する言葉で・・あの人、色んな人に言っていたらしいです」
 説明する私もなんだか、やきもち焼きの十代の女の子に思えてきた。
 私はただ嫉妬していただけなのか・・
「多香ちゃん、ヒルトマンもただの男で・・そして、大人やで」
「はあ・・どういうことでしょう?」
「ただの男・・というのは、一人の女性を思い続けることはできへんかった、ということや」
「おっしゃっている意味がわかりませんわ」
「大人というのは・・前の女房を褒めちぎるようなこと、他の奴に言うたら、どんな印象を持たれるか・・多香ちゃんやったら、わかるよな?」
「長田グループの企業のイメージが悪くなる、ということですか?」
 企業のトップが別れた妻のことをいつまでも言っているのは確かによくない。
「そうや、大の大人が、わざわざ、印象が悪くなるようなことを言うかいな。ましてや、あのヒルトマンくんやで。その辺のことはよう考えて行動してたと思うで」
「それは私も考えましたわ・・でも、それ以上にあの人が由希子さんのことをずっと愛されていたのだと思いますわ」
 また失言をしてしまった。
 町田さんの表情が硬くなり、肩の力を抜くように溜息をついた。
「多香ちゃん、やっぱり、そう思ってたんかいな」
 私はティーカップを置き直し「町田さん、ごめんなさい」と改めて町田さんに対して謝った。
「けど、ヒルトマンくんは確かに、言っていた・・」
 町田さんが何と言おうと、私は彼の弟、グストフにも言われたのだ。
 ―多香子さんだって、兄に愛されていなかったんだろう?・・と。
 町田さんは一呼吸置き、
「彼が言っていたのは・・多香ちゃんのことや」と言った。
 町田さんは真顔だ。
「ち、違いますっ!」
 大きな声に遠くの席のカップルが私たちを見た。
「確かに桜の主語に、前妻の名前をつけた方が、噂としては面白いもんなあ」と町田さんは言って「噂というのはたいてい、悪意が含まれているものなんや。多香ちゃんもグストフくんの噂を調べて、そう思うたやろ」と続けた。
「ですけど・・」私はなぜだか返せない。
 もし、それが本当だったら、私は何という無駄な時間を過ごしてきたのだろうか。
 ただ、これだけは言える・・町田さんが何と言おうと、もう確かめようもないことなのだ。
「わしはこう思うんや」
 黄昏だした窓の外の景色を見ながら町田さんは言った、
「ヒルトマンくんは、神戸の家が完成しても、もう住むつもりはなかった・・とな」
 あの人、もう神戸で過ごすつもりはなかったっていうの?
 それほど、彼は死を間近に感じていたっていうの?
 だったら、あの場所、元妻の近くに家を建てる・・ということは意味がなくなる。
 あそこはただの場所に過ぎない。
「町田さんは彼の病気のこと、前からご存知だったのですね?」
「わしも事業家のはしくれやで、色んな所から情報を集めていたからな・・多香ちゃんよりもよう知ってたかもしれへんで」
 そういえば、夫は神戸の土地を探している頃「なかなか、神戸でいい場所が見つからないよ」とよく洩らしていた。
 あの場所は必然ではなかったのか。
 もし、そうだとしたら、桜の木と同様、私は何にこだわって生きてきたっていうの。
「多香ちゃん、あの場所に彼が家を建てたこと、まだ気にしてるみたいやけど、彼が離婚してもう何年経ってると思ってんねん」
「そ、それは、そうですけど・・」
 それくらいはわかっている・・でも・・
「町田さん、それが神戸の家に恭子の意見が取り入れられたということと、どう関係があるのかわかりませんわ」
 私がそう言うと町田さんはまた笑い、
「そやから、わし、さっき、言ったやないか、多香ちゃんは桜のような・・」とまた言おうとしているので私は「町田さん! ですから、それは」と強めに制した。
 町田さんは「すまん、すまん、よっぽど、多香ちゃんはその言葉、よっぽど気に入らんみたいやなあ」と頭を掻きながらった。
「あたりまえですっ」
 もう二度と言わないように町田さんに釘を刺すと「もう言わへん、言わへん」と頭を掻いた。
 私は話を元に戻して「町田さん、それで、あの子の意見って?」と訊ねた。
「ヒルトマンくんはもうあそこに住むつもりがなかったから、恭子ちゃんの意見を取り入れて作ろうとしたんやないかな」
 それは父親としての気持ちだったのだろう。「恭子はこの家をどんな家にしたいんだい?」とあの人の声が聞こえてくるようだ。
「ほんまは恭子ちゃんの意見もそうやが、多香ちゃんの意見を取り入れたかったはずや」
「私の意見なんて・・」
 私は続けて「そんなもの、どっちでも」と言いかけ、はっとした。
 それで夫婦と言えたのだろうか?
 彼の良き妻になろうと、結婚前、週に一回の手料理をお願いしたりしたのに、結局そんな約束は最初だけで一年も経てば忙しい日々に流され忙殺されてしまった。
 そんな私のことを彼は何と思っていたことだろう。
「ヒルトマンくんは日本が好きだと言った」淡々と町田さんは続ける。
「ええ、何度か聞きました」流すように応える。
「ヒルトマンくんは、神戸の家が完成する前、わしとテラスに座って庭を眺め、こう言うたんや・・『病院ではなくこの場所で死ねたら、日本のこの家の庭で死ねたら』・・とな」
「あの人、そんなことを・・」
「その時、わしが何を考えていたか、多香ちゃん、わかるか?」
 私は首を振った。
「何で、この場所に多香ちゃん・・彼の嫁である多香ちゃんが、そばにおらんのか・・と」
 やはり、私は良き妻ではなかった。
「ヒルトマンくんと恭子ちゃんの意向で、あの長田邸は完成した、っちゅうこっちゃ。そこに多香ちゃんはおらへんかった」
 ごめんなさい。
「ただな、家はそんな風に出来てもな、多香ちゃんと恭子ちゃんの人生はこれから先、まだまだ続くんや」と町田さんは言って「恭子ちゃんのために、これから先のレールをきれいに敷いていくのは、多香ちゃんの役目やで」と続けた。
「できるでしょうか?」
 最後まで妻になれなかった女が母親になれるのだろうか?
 町田さんは私の問いに答えずに、
「わだかまりが全部、消えてしまうと、残るのはきれいな気持ちだけかもしれへんな」と言った。
 私のわだかまり・・町田さんに言わせれば、そんな一言で片付いてしまう。
 私は町田さんの言葉に少し落ち着き、
「私、いつか、あの子と二人でドイツに行こうと思っているんです」と言った。
 町田さんは「恭子ちゃんはドイツは初めてなんか?」と訊ねる。私は「はい、これも私の不精かもしれません」と応えた。
「ほんまは、家族三人で行けたらよかったのになあ・・」
 町田さんの言葉に胸の奥に熱いものが込み上げてくるのを感じた。
 家族三人・・それは不可能となってしまったが、恭子と二人でも出来ることがある。まだ遅くはない。
「少し回り道をしましたけれど、私、母親になりたいんです」
「母親?・・」
「ええ、母親・・もっと母親に・・」
 上手く説明できない。
「多香ちゃん、今でも十分母親の顔をしとるでえ」
 私は「私、どんな顔してるの?」と思いながら「顔だけじゃダメなんですよ」と言って笑った。
「きっと、それは夫婦みたいな親子関係かもしれんなあ・・血の繋がらへん者同士の信頼関係やな」
「うふっ、町田さんはいつも例えがお上手ですね」と私が言うと町田さんは「多香ちゃんは今でも運命のレールに乗っかってるんやと思うで」と言った。
「町田さん、レールという言葉、好きですね」
「昔より、もっと真っ直ぐなレールかもしれんな」
 町田さんはお代わりのコーヒーを飲み干し、改めて私を見た。
「多香ちゃん、さっき、桜のことできつう多香ちゃんに怒られたけど・・」
 町田さんは私の胸の辺りをじっと見ている。
「何ですか?」
「多香ちゃん、そのブローチの・・花・・」
 町田さんは私の胸を指した。
「あ・・これは娘から、私の誕生日のプレゼントに、と・・」
 町田さんが指したのは恭子からもらったブローチだった。
 桜の花が模られている。
「多香ちゃん、とっくに気づいてて、わしにしゃべらせてたんやろ?」
 しゃべらせたわけではないが、私は自分でも知らないうちに気づいていたのかもしれない。
 私は町田さんの顔をまともに見れずに窓の外を見た。
 喫茶店の北の窓の向こうに大きなデパートが見える。
 アドバルーンが何本も浮かび、屋上の遊園地が賑やかなのがここからでも目に浮かぶ。
 冬休みが始まったばかりだから、きっと親子連れも多いことだろう。
 ・・あの子、まだ憶えてくれているかしら?
 このブローチをくれた、ということは・・恭子はきっと憶えている。
 やっぱり、あの子、あの時のことを・・
 恭子とあの場所に行ったのは、ヒルトマンとの縁談が成立し、結婚式をあげる前だ。
 東京、季節は春・・そう桜の季節だった。
 あの日が私たち母娘のスタート地点だったわね。そして、それは今も続いているのかしら?
 最後まで言わなかった町田さんの言葉。神戸の家にはどんな恭子の意見が取り入れられたのか、という私の問いの返事。
 それは、今ならわかる。
 ―神戸の邸宅に誰が桜の木を?
 私が今まで夫と向き合おうとせず、誰にも聞こうとしなかった問いだ。
 ―今の多香ちゃんやったら、もうわかるんやないかな。
 町田さんだったら、きっとそう言うだろう。
 そして、私はこう答える。
 ―そんな人・・いえ、そんな子は一人しかいませんね・・と。
 その答は、私とまだ幼かった頃の恭子との思い出の中にある。 

「多香ちゃん、今の顔、わしにヒルトマンくんとの縁談の成立の報告をしに来た時の顔をしとるで」
 また恥ずかしくなるようなことを言うので「町田さん、もう約束の時間ですね」と腕時計を見ながら誤魔化した。
 町田さんは「ほんまや、そろそろ、行こか」と言った後「多香ちゃんともっとしゃべっていたかったなあ」と続けて言って吸いかけの煙草を灰皿で潰した。
「あの、町田さん、今さら、言っても仕方ないですけど、色々、ご面倒をおかけしてすみませんでした」私は深く礼を述べた。
「わしは何も気にしてへん」
 それは本当だ。町田さんは恩を売るような人ではないことをよく知っている。
「わしは多香ちゃんに幸せになって欲しい・・ただ、それだけや」
 そして、この人はいつも必要以上に私を喜ばせる。


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