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作品名:「継母長田多香子の憂鬱」 作者:小原ききょう

第35回   佐伯の過去
 多香子さんがいない間、遠野さんが俺たちの相手を務めた。
「友也さまのご用は恭子さまの方だったのですね」
「俺たちが勝手に恭子ちゃんに神園を会わせたりしたら、あかんと思って」
「それでもよかったと思いますよ。私から奥さまに報告することもできますし」
 神園が「佐伯くんから、多香子さんは鬼のような人だと聞いてたから、無断で会ったりしたら、怒られると思って」と言うと、遠野さんはぷっと吹き出すように笑った。
 佐伯が慌てて「神園さん、あくまで噂話なんだから、言っりしたらダメだよ」と制した。
「あれでも奥さまは以前とずいぶん変わられたのですよ」
 やっぱり、以前は「鬼」・・だったのか?
「多香子さんはよく私たちみたいな子供相手の話し相手になってくれましたね」と神園。
 その言葉に遠野さんは「たぶん、奥さまは、この町のことをお知りになりたいのだと思います」と答えた。
「これから奥さまは神戸にいて事業を動かしていくのですから、色んな方とも出会って吸収されていくと思います」と遠野さんは続けた。
 佐伯が「すごいですね」と切り出し「この家も大きくてびっくりしましたけど、多香子さんも、何かすごく大人の女性っていう感じで、私、少し憧れます」と言った。
 遠野さんは「あの方は、これから少しずつ恭子さまの母親になられるのです」と力強く言った。
「これから?」神園と佐伯が声を揃えて言う。ついでに俺もだ。
「これから」という事は今まで母親ではなかった、ということだ。
「ええ、『これから』です・・奥さまは努力をされる方ですから、確実に恭子さまのいい母親になれると思います。そして恭子さまも」
「世の中にはいろんな母親がいるんですね」と佐伯が呟くように言う。
 遠野さんが佐伯の言葉を拾うように「佐伯さんのお母さまはどんなお人なのでしょうか?」と訊ねた。遠野さんは先ほどから佐伯に興味を示したようだ。
 佐伯が黙っていると、神園が佐伯の脇腹を肘で小突き「佐伯くん、訊かれているわよ」と耳打ちした。佐伯が少し驚く。佐伯にしたら神園との初めてのスキンシップだ。
 佐伯は「あ、あの、僕の個人的な話なので・・」と顔を少し赤らめる。
 遠野さんが「佐伯さん、お聞かせください」と促す。
「僕の母はいつも微笑んでいます・・そんな母親です」
「どういうことですか?」遠野さんが首を傾げた。
「佐伯くん、全然わからないわ」と少し怒り口調の神園。
 俺が「お父さんのことだろ?」と言った。佐伯は母親のことを語れば、自然と父親の悪口を言ってしまうことになると思っている。
 佐伯にとって父親は家族を捨てた男だということだ。
 佐伯は俺に「あまり父の悪口を言いたくないんだ」と予想通りの返事をする。
「ずるいわよ、佐伯くん」神園が口をとがらせる。
「えっ・・」佐伯が戸惑いの表情を見せる。女の子にそんな言葉、言われたこともないのだろう。
「私にばっかりしゃべらせて・・散々、さっきまで私の話を聞いていたくせに」
「だって、それは・・」
 佐伯なりの精一杯の抵抗に神園は頬を膨らませて応える。
「私、佐伯くんのこと、もっと知りたい」
 佐伯には悪いが俺も神園に「芦田くんのことを知りたい」とか言われたくなった。ただ、そう言われても話す内容はそれほどないが。
「でも、ここじゃ・・」
 遠野さんがいるからか?・・俺もいるからか?
 でも神園にいろんな話を聞いてもらえるチャンスなんてめったにないぞ。
「佐伯、遠慮するなよ。俺にいつも話しているように話せよ」
「そ、そうだな」佐伯は自分を納得させるように呟く。
 佐伯には悪いがここにいる人たちの好奇心が佐伯の話に移ったようだ。
「少し寒くなってきましたね」と遠野さんが間に入って「中に入りますか」と訊ねた。
 寒いと言ってもそこまで寒くはない、それに俺たちは中学生だ。何ともない。
 すかさず神園が「ここでいいです」と答え、俺たちに「ね、芦田くんたちも」と言った。
「みなさん、見てください。ここのお庭、とても綺麗でしょう?」
 急に遠野さんは庭の方を見て俺たちに言った。
 神園は庭を眺めながら「そうですね、芝生も丁寧に手入れされているし、花壇も色んな花を見れそうで綺麗です。遠野さんが全部管理しているんですか?」と訊いた。
「芝生は広すぎて業者に頼んでいるのですけど、花壇は私がみています。奥さまの好みや恭子さまの意見も取り入れていますから」
 そして、
「私、毎日ずっと、このお庭を見続けているんです。何も考えずに見ることもありますけど、テラスで本を読みながら、思いに耽ったりもしています。すごく楽しいんですよ」
 遠野さんは何が言いたいのか?
「そして、今日はみなさんとこうしてお話できて、いつもより楽しい時間を過ごさせてもらっています」
「私もです・・」神園が遠野さんに同調したように合わせる。
「こんな綺麗な景色を見ながら佐伯さんの話をお聞きするのも悪くありませんね」
「そうですね・・」
 神園、遠野さんの誘導作戦に引っかかっているな、そして、佐伯も・・
「そ、そうだね、たしかにこの庭はひろくて綺麗だ・・家のことや学校のことが遠く感じてしまうくらいに・・僕の悩みなんてちっぽけなことに思えてくるよ・・不思議だ」
 佐伯は少し俯いて顔を上げ、
「ただ、この庭は広すぎて、少しさびしい・・」と言った。
 佐伯なりの評価の仕方だ。普通の人間はそう思っていても言わない。
「そう感じますか?」遠野さんは佐伯の独り言のような言葉をすくい上げて訊いた。
 遠野さんは気を悪くはしていないようだ。
「何となく・・ですよ・・綺麗に管理されているからそう思うのかもしれないし、広い割には住んでいる人が少ないからそう感じるのかもしれない」
 おそらく両方だ。俺の知っている限り、ここには長田恭子と遠野さんしかいなかった。そして、来年からは多香子さんが増える・・といっても3人だ。この場所は3人の人間たちにとって広大すぎる。
 まるでここに住む人たちを映す大きな鏡のようだ。
 遠野さんがそれぞれの空いた湯呑みにお茶を注いでいく。そのしなやかな手先を見ると、手がひどく荒れているのに気づく。俺の母ちゃん以上だ。この大邸宅を維持するための小さな代償をそこに見た気がする。
「神園さん、僕の家の話を聞いても、僕のことを・・」急に佐伯が口調を変える。
「そんなことで佐伯くんのことを変に思ったりも、嫌いになったりもしないわよ」と神園は先回りして佐伯の言葉を切った。
 佐伯は他人を正確に、しかも強気に評価できても自分のこととなるとてんで気弱になるみたいだ。
「僕の母は、元から気も弱いせいか、言いたいことを言えない性分だと思っています」
「お母さんは息子さん・・佐伯さんにも言わないのですか?」
「はい、僕に言いたいことの半分も言っていないように思えます」
 遠野さんは佐伯の話に受け答えしながらお茶を呑む。俺は俺でもうすぐご令嬢が帰ってくるのでは?と思い、時折門の方を眺める。神園は佐伯の話を「うん、うん」と聞く体勢になっている。
「僕の母は、日曜日以外はずっと働いています・・残業も入れると普通のサラリーマンくらいは働いているはずです・・母が働かないと僕の家は成り立ちませんから」
「お父さんはどうされているのですか?」
 事情を全く知らない遠野さんの質問でいきなり本題に移ってしまう。
「父は亡くなりました」
 遠野さんの表情が翳る。神園は静かに佐伯の話を聞いている。
 一度聞いた話だったが、今日は神園がいる。おそらく佐伯は遠野さんに話すよりも神園に聞いて欲しいのだと思った。声も少し上ずっている。
「僕は幼い頃から父が憎くてしょうがなかった」
「お父さんのことを?」
 遠野さんの声に佐伯は頷く。珍しく佐伯はメガネの縁を上げずに話し始めた。
「母は四六時中、強引な父に引っ張りまわされていました。父が母を大声で怒鳴ることはもちろん、殴っているのを何度か見たことがあります。父が母の何が気に入らなかったのかはわかりません。その頃はまだ僕は小学校の三、四年生です。母は自分が殴られる時は事前にわかるのか、僕に『押入れに入っていなさい』と声をかけます。決して『外に出ていなさい』とは言いません。僕には外で遊ぶような友達がいないことを母は知っているからです」
 そういや、さっき佐伯を外に引っ張り出した時、母親の声が弾んでいたような気がしたな。俺という存在が家に来たことが嬉しかったのだろうか?
「僕は父が怖かった・・そんな時には僕は父の声や物音・・母が殴られる音や呻き声が聞こえないように布団にくるまって耳を手や毛布で押さえてじっとしていました。時間が過ぎるのをひたすら待っていました」
「ひどいわ・・そんなお父さん・・」神園が興奮気味に呟く。
「挙句の果てに父は、僕や母の知らない、どこの誰ともわからない女の人と出て行ってしまいました」
 俺は「佐伯、何で、その女が知らへん女やってわかるんや? 顔は見たことあるんか?」と訊ねた。
「その女、家に来たからね」佐伯が俺の方を見た。少し口調が荒い。
「あの団地の家にか?」
「ああ、そうだよ」佐伯の目にはもうその女が映っているようだ。
 そして再び、遠野さんの方に向き直り言葉を続けた。
「その女の人は父と一緒に父の荷物を取りにやってきました。その年の暮れでした。父が出て行って一ヶ月くらい経った頃だと思います。母が正月の準備をしていましたから」
 神園が「その二人、荷物を取りに来たって、何を取りに来たの?」と訊ねた。
「よく憶えてないけど、金目のものとか、じゃなかったかな・・あと、冬物の服とか・・父とその女が家の中をあさっていた時、何度か女と父が顔を合わせて笑っていたのをよく憶えてる・・なんだか、家や母がバカにされているようでイヤな気分だった」
「お母さん、文句を言わなかったの?」再び神園が訊く。
「言わなかった・・父と女が家の中を歩き回っている間、母は晩御飯のこしらえをしていました・・今、思い返せば、母は泣いている顔を誰にも見られたくなくて流し台に向かっていたんだと思います」
 神園が「私だったら、文句を言ってやるのに」と言うと「僕の母は神園さんほど・・」と言いかけ口ごもった。たしかに神園だったら強いし、騒ぎ立てそうだ。
「お母さんは何で何も言わなかったのかな」と神園がまた訊ねると「これは僕の推測だけどね。事前に父から電話があったのだと思う。急に父と女が来ても母はそんなに驚いた様子でもなかったからね」と答えた。
 そして佐伯は話を続けた。「情けないことに僕も何も言い出せず、ただ見ているだけでした。そして、その女、家の中をあさり終えると父に言ったんです」
「何て言ったの?」神園が訊ねた。
 佐伯は一呼吸置いて、
「あの女こう言ったんだ。『思ったより、少ないじゃない』って・・」と言った
「女の言ったのが金目のものなのかどうかはわかりません・・ただ、その時、その女の一言で、僕と母の暮らしが全部、否定されてしまったような気がしたんです」
 遠野さんが「それで、佐伯さんの感情が切れた・・のでしょうか?」と訊いた。
「はい」と佐伯は頷き「気がついたら僕は父とその女に怒鳴っていました『出て行け!』と・・」
「佐伯くん、お母さんの代わりに言ってやったんだね」と神園が少しすっきりしたように言った。
「でもね、子供の声だからね。小さいし、声変わりもしていない頃のことだよ。迫力も何もない」
 その時の感情を思い出しているのか、佐伯の声が泣いているように聞こえる。
「でも、その女は『言われなくても出て行くわよ』とおどけるように笑って、父より先に荷物を抱えて玄関に向かっていきました・・水商売でもしているのか、香水の匂いがすごくきつかったのを憶えています。今まで嗅いだことのないような強烈な匂いでした」
「きっと水商売の女よ」と神園が嫌悪感剥き出しの顔で言うと、佐伯は苦笑いをして、
「お母さんはね・・父が出て行ってから、香水なんてつけることなくなってしまっていたんだ・・それなのに、その女は僕たちの家を、母の家を・・きつい香水の匂いで一杯にして・・」
 佐伯はその女に怒り、そして母親の気持ちを思い、悔しくて心で泣いている。
 佐伯は遠野さんの方に向き直り「気がついたら家の中の隅から隅までその女の匂いで一杯になっていました。台所にいた母もその匂いを嗅がされていたんだと思います・・母は悔しくてしょうがなかったと思います。けれど、母は・・」
「お母さんはどうされたのでしょうか?」
 遠野さんは感情の高ぶる佐伯とは逆の落ち着いた優しい口調で訊ねる。
「母は女と一緒に家を出て行こうとする父を追いかけ、父の背中を軽く叩いて『あなた、これを持っていって』と声をかけました・・母はその手に父の厚手の上着を持っていました。冬になると父がいつも着込んでいた黒のジャンパーです」
 神園は佐伯の母親のした行為が信じられないという風に「何でよ・・」と震える声で言った。
 それまで黙っていた佐伯の母親は何を考えていたのだろうか?
「そして母は父に『北の方は、寒いといけないから』と優しいけど途切れるような、消え入ってしまいそうな小さな声で言いました」
 気がつくと神園が横で少し泣いていた。
「たぶん、それは女に『思ったより少ない』と言われた母の精一杯の・・精一杯の気持の表現だったと思います」
「佐伯さんのお父さんは、上着を受け取った・・のですね?」
 遠野さんが自分の推測を確かめるように訊くと佐伯は「はい・・そして何も言わずに女と出て行きました」と言った。
「そんな母は最期まで父を悪く言うことはありませんでした」
「わかるような気がします」遠野さんの長い髪がふわりと風に揺れた。
「僕は二人に『出て行け』と言った自分のことが少し恥ずかしくなりました・・その時の僕には女に対する憎しみの感情しかなくて、父のことも母のことも考えていませんでした・・母はその場にいた誰よりも父のことを思っていたと思います」
 圧倒的な妻の愛情を目の当たりにした佐伯の言葉なのだろう。
「その場にいた母はどんなに悲しい思いをしていたのか想像することもできません・・それから母は今までの慣れていた短時間労働の仕事を辞め、もっと収入のある長時間の仕事に就きました」
「お母さん、大変じゃない」と神園が言うと「僕、お母さんに言ってしまっていたからね。大学まで行きたいって・・もちろんこんなことになるずっと前だよ」と答えた。
「母はそれまでは父が帰ってくる期待をわずかにでも持っていたんだと思います。でも女と出て行ったとなると、父からの収入は絶望的になりました。僕を大学に入れるには母が一人で頑張らなければならない。他に方法がありませんから・・僕は何で大学に行きたい、なんて言ったのだろう、と何度も何度も後悔しました」
 遠野さんは佐伯の後悔を打ち消すように「お母さんは佐伯さんが進学を希望することをお喜びになっていたと思いますよ」と微笑んだ。
「私もそう思うわ」神園が後を押した。
 いつも仏頂面の佐伯の顔が感情の放出で悲しい顔に見えたり、どことなく嬉しそうに見えたりする。
 こんな出来事を誰にも話さず、いや、話せず、心の奥に封じ込めていたのだから、ある種の開放感があるのかもしれない。
 そして、佐伯は再び遠野さんの方を向いて話を続けた。
「父が生きていた頃、僕はよく父の悪口を言いました。『無責任』だとか、『あんなのお父さんじゃない』とか、恨みつらみが溜まって、ののしるように言い続けていました・・でも母は僕の話を聞き流すだけでした。特にいやな顔もせず、怒りもしませんでした。それどころか、いつも笑っているだけでした。『何で笑っていられるんや』と怒ったら、母は『お父さんもいろいろあるからねえ』と答えました。すごく誤魔化された気分でした。僕のことを子ども扱いしている、と母に怒りすら覚えました」
 そして、遠野さんはこう佐伯に言った。
「お母さんのお気持ち、佐伯さんに何も答えなかった理由、わかりましたか?」
 遠野さんの問いに佐伯は「気づいたのはずいぶん時間が経ってからです」と答えた。
「時間が経って僕は気づきました。僕が父を憎むことも、女の人を憎むことも、母を傷つけることなんだ、と」
「佐伯さんのお母さんはご主人を心から愛されていたのですね?」
「はい、母は父を憎んでもいませんし・・ましてその女をも憎んでいなかったと思います。ただ、ひたすら母は・・」
 そこまで言うと言葉が出にくくなったのか、少し俯き、また顔を上げた。
「父が女と出て行った後、僕は『早く大きくなって働いてお母さんを助けてあげる』なんて偉そうなことを言ったことがあります・・いつだったか、母が風邪をひいて熱が出た時です。母はそんな時でも仕事を休みませんでした。当たり前です。正社員じゃないから、休んだ分だけ給料が少なくなるからです。母は『こんな熱、平気、平気、大したことないわ』と笑って会社に行きました。出勤する母を見送りながら僕は思いました。きっと母は僕が働くことなんて望んでいない。母がずっと思っているのは・・やっぱり、父に帰ってきて欲しいことなんだ、と」
 神園が「お母さんも大変だけど、佐伯くんも毎日一人で寂しいよね?」と佐伯を見る。
 改めて神園を見る佐伯は嬉しそうだ。
「だから、僕はよく本を読むようになったんだよ。小学校の頃なんて、同世代の子のように父と遊ぶこともなかったし、母も帰りが遅いから、勉強と読書以外にすることもなかったしね」
「今は芦田くんがいるじゃない」と神園が笑った。
「そ、そうだね・・」佐伯がどもりながら返した。本当は「私がいるじゃない」って神園に言って欲しかったんじゃねえのか?
 俺は佐伯が「神園を好きだ」と言ったことを思い出し、更に佐伯が話してくれたスタンダールだっけ?・・の恋愛論を思い出していた。 あの時は俺もそうだが、神園とこんなに親しくなるなんって思ってもみなかった。おそらく佐伯もそう思っているだろう。
 佐伯はクラスのみんなが神園のことを好きだから自分も好きだと言っていたが、それは明らかに嘘だ。佐伯は純粋に神園のことが好きなのだ。
「それから何年か経って、丁度去年の今頃です。父が遠くの地で亡くなったことを警察から連絡がありました。父は母との籍は置いたままでしたから」
 俺が「佐伯の親父、その女とは一緒にならなかったのか?」と訊ねると「ああ」と答えた。
「亡くなった父に僕と母は会いに行きました。遺体の確認をしなければならないからです。場所は群馬でした。女と出て行った先は秋田県だと聞いていましたが、全く関係のない場所で父は亡くなっていました。心臓発作だったそうです。電車を乗り継いで何時間もかけて行きました。道中、母は終始無言でした。食事もほとんど摂っていませんでした。ひどく寒かったのを憶えています」
 そう言った後、その頃の寒さを思い出したように佐伯はぶるっと身を震わせた。
「父がいたのは暗く寒い部屋でした。母は『お父さん、きっと寒いでしょうね。あの人、寒がりだからね』と僕に言っていました・・死んでいるのに、寒がるはずはないのに、それなのに、母は何度もそう言っていました」
「だから、お母さん、ジャンパーを?」と神園が言う。
 佐伯は頷くと「父の遺体を二人で確認しました。久しぶりに見た父の顔は、静かで、すごく年老いて見えました。僕は父の死に顔を見ても不思議と涙も出ませんでしたし、悲しくもなかった。腹も立たなかった。変な感情だったけど、ようやく父を許せた・・そんな気持ちでした。そして、あんなに怒鳴り散らしていた、あのでっかい声、どこに行ったんだ、と父に問いかけました。でも僕の前には冷たくなった無言の父がいるだけでした。父親の体ってこんなものなのか、こんなに小さかったのか・・僕はそんなことを考えていました。以前より痩せこけていて、以前、母を殴っていた手はとてもそんな風には見えませんでした」
 わかるような気がする。佐伯の母親は夫を愛していた。そして佐伯は息子なりに父親のことを思っていたのだろう。
「父の遺品を見ました。腕時計や財布、手帳、そして、その中に、かなり傷んだ写真が二枚ありました。ずっと持ち歩いていたんだと思います・・一枚は母一人の写真でした。場所は団地の中にある公園で、たぶん父が撮影したのでしょう。写真の中の母はとても若くて僕が見たことのないような顔で父に微笑みかけていました。もう一枚の写真は旅行先で誰かに撮ってもらったような二人の写真で、母も父もピースサインなんかしたりして笑っていました。たぶん二枚とも僕が生まれる前の頃の写真だと思います。その頃が二人のスタート地点で・・父にとっては心のより所だったんじゃないかな、と勝手に思いました」
 佐伯の話からの推測だが、父親も妻である佐伯の母親を愛していたのではないだろうか?俺には男と女のことはわからないが、その香水の強い女とはただの浮気だったのだと思う。ひどい浮気であることには違いないが。
 父親は曲がった道を進み続け、最期には、また元の位置に戻ろうとした。だがそれはかなわず、一生を終えた。
「僕は泣かなかったけれど、横で大きく咽び泣くような声が聞こえました。僕は初めて母が泣くのを見ました。父に怒鳴られても、殴られても、浮気をされて女と出て行かれても泣かなかった母が父の遺体を、その顔を見て、しばらく黙っていた後、泣き崩れました」
 神園は泣いていた。泣きながら「佐伯くん、あの女はどうなったの?」と訊ねる。
「相手の人は、どこにもいなかった・・のですね?」と遠野さんが問う。
「はい、父が付き合っていた女の人はいませんでした。父を看取った病院の人の話によれば父はずっとアパートで一人で暮らしていたそうです」
「母は呟くように『お父さん、かわいそうに』と何度も言っていました。その言葉が死んで可哀想ではなく『お父さん、ずっと一人でかわいそうに、寂しかったでしょうね』という意味だと後で理解しました」
「お父さん、家に戻ってくればよかったのに・・」と神園が涙声で言う。
 遠野さんが「おそらく、お父さんは、ひどいことをしてしまったあと、妻の元に帰りづらくなったのかもしれませんね」と言った。
「はい、僕もそう思います。あんな風に出て行ったら誰だって」
「格好悪かったのかな?」と神園が言うと、遠野さんが、
「それでもお母さんは、ご主人に帰ってきてほしかったでしょうね」と言った。
「母が心の中ではどう思っていたのか、僕にはわかりません。母にとって何が幸せだったのかもわかりません。父がいなければ母はもっと幸せだったかもしれません。少なくとも今よりは・・でも、やっぱり違う、と思ったんです・・最近になってようやく、それに気づきました・・母は自分でも気づかないうちに選んでいたんだと思います」
「佐伯さんのお母さんはご自分の道を選んでいたのですね」
 神園が「他の女に奪われてもですか?」と遠野さんに訊く。
「でも、佐伯さんのお母さんはご主人を追いかけなかったのでしょう?」
 佐伯が頷くのを確認した後、遠野さんは佐伯にこう訊いた。
「佐伯さんのお母さんは今でもご主人を愛している、と思われますか?」
 佐伯はすぐに「はい」と答えた。
 その後、すぐに佐伯は頭を掻きながら「遠野さん、さっきから僕は母を美化しているように言いますが、勘違いをしないで欲しいんです。母はごく普通の人間です。収入が少ない時に望まない借金だって作っちゃったし、さっき、神園さんに言ったように僕は集金の人に居留守を使わされたりします」と苦笑した。
「でも、生きるために、しょうがないじゃない」神園が弁護する。
「そうですね。人って、不完全な生き物ですから、そんなにきれいに生きれるものではありません」
「あの、遠野さん・・多香子さんなら、多香子さんが僕の母親の立場だったら、違っていたと思いますか?」
 神園が「多香子さんなら黙ってないんじゃない」と笑うと、
 俺は「多香子さん、少し気が強そうだしな」と付け足した。
 けれど、遠野さんはそんな俺たちの言葉を全て打ち消すように言った。
「奥さまも、佐伯さんのお母さんと同じ道を選んだかもしれませんね・・いえ、もう選んでしまっているのかも・・」
 神園は「遠野さん、それ、本当ですか?」と驚く表情を見せる。
 多香子さんの好きな人、その人はもうこの世にいない。
「奥さま、あんな気高い風に見えていても、好きな人にはとっても一途なのですよ」
 遠野さんは俺たちにそう言って微笑んだ。
「それ以上は言えません」という微笑みにも見てとれる。
 一途だから追いかけない・・
 俺にはとても理解できない。俺が男だからか?
 それとも佐伯や神園には理解できたのか?


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