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作品名:「継母長田多香子の憂鬱」 作者:小原ききょう

第34回   友也、佐伯、純子、長田邸へ
 断ることのできない迫力がその場にあった。長田恭子の母親の覇気のある声の響き。遠野さんの主人の意図を即座に汲み取る判断と実行力。
 俺たちは誰も断ることなく「はい」とか言ったり、頷いたりして長田家に行くこととなった。
「いいのかな・・」神園は不安そうな顔をし、佐伯は好奇心に満ちた顔をしている。その実、俺も少しご令嬢の家には興味があった。
 いや、むしろ今はご令嬢の母親の方に関心がある。
「芦田くん、娘さんの方はどこに?」神園は元々ご令嬢の方に関心があった。
「たぶん、まだ芦田堂にいると思う。智子と一緒におるはずや」
 長田邸は天井川を挟み神園邸の北側斜め向かいにある。神園邸の方が見下ろされている形だ。徒歩で5分あるかないかだ。
 俺たちの前を長田恭子の母親、その斜め後ろを遠野さんが颯爽と歩いている。歩くことで主従関係を表してるようだ。
「私、この辺りまで来ること、あんまりないの」と神園が言った。
「ここを通るのは住民か、十文字山を登る人くらいだからね」佐伯が解説する。
「佐伯は十文字山によく来るのか?」俺が訊く。
「十文字山の神社にお参りにね・・ちょくちょく」
「佐伯くん、信心深いのね」
 佐伯は「そうでもない」と言って一息置き「僕はいつも神様に謝りにいっているんだ」と続けた。
「神様に謝ってるの?」佐伯の言葉に神園が興味を示したようだ。
「うん。僕はよく嘘をつくからね」佐伯は苦笑いをする。
「お前・・嘘って・・」俺も興味を示したが、すぐに訊かない方がよかったと思った。
「家にね。時々、知らない人が訪ねてくるんだ。それは借金の取り立てや、集金の人だったりする。家にお金の持ち合わせがない時、お母さんは僕に出るように言うんだ。いつも僕はこう言わされる・・『お母さんはいません』って」
 親に居留守を言わせられているのか。
「小さい頃から嘘はついてはいけない、と母にも亡くなった父にも口を酸っぱくして言われていた。その母自身に嘘をつくことをしょっちゅう頼まれる」
「ひどいお母さんだね」神園がそう言うと佐伯は、
「そうじゃない。嘘をつかなければならないから、母も僕に頼むし、そんな場合には僕も嘘をつく。必要な嘘だ・・けれど、やっぱりそれは悪いことだから、神様には謝っておくことにしている」と答えた。
 
「それでいいんじゃないかしら?」
 中学生同士の会話に突然、大人の声が舞い込んだ。
 長田恭子の母親が俺たちの話を聞いていたのか、顔を少し横に向け歩調を落としている。
「えっと・・」長田恭子の母親がまだ名前の紹介のない佐伯を見ていると佐伯が「佐伯です」と名乗った。
「サエキくんも、ちゃんと物事の良し悪しを理解できているし、そんなに神社にお参りをしているのだったら、きっとお母さんの方もいつかは気づくはずよ」
 それがこの人の回答だ。それ以上の言葉もない気がした。
 長田恭子の母親はそれだけ言うとまた歩調を戻して先に進んだ。
「私、あの人に俄然と興味が沸いてきたわ」と神園が小さな声で俺たちに囁く。
「神園さん、僕もだよ」佐伯も同調する。
 当然、俺もだ。俺の場合はもっと前からだったが。
「あの人、長田商事の社長さんだっけ?」神園が俺に訊ねる。
「専務さんらしいぞ」と俺が答える。
 その時、
「ここが私たちの家よ」長田恭子の母親が俺たちの方を振り向いた。
 長田恭子の母親はすっと手を上げ邸宅の門を差した。
 大きな門の支柱に埋め込んである重厚なプレートに横書きの英文字で「NAGATA」と書かれ、その下に日本の漢字「長田」が併記されている。
 大きな門は開けずに遠野さんが門の横の勝手口を開け俺たちを迎え入れる。
 以前、外から見たことのある長田邸の庭を進んだ。大きな木が立ち並んだ小道を進むと、ゴルフでもできそうな広大な芝生が広がっていた。池があり噴水まである。噴水は家に誰もいない時でも水を噴き出しているのだろうか? 噴水の池から先ほど通った小道まで小川が流れている。
「すごい!」と神園は驚嘆の声を正直に出す。
「これではまるでおとぎ話の世界だよ」佐伯は別の視線で見ている。
 それはそうだ。普通に生活して学校に行っていればお目にかかれない光景だ。
 俺たちの視線の先には三階建ての小さなホテルのような大洋館があった。神園が見たという三階の窓もすぐにわかった。
 洋館の南側には大きなテラスが張り出し、いくつかの丸テーブルに椅子が並べられている。その色調は全て白で統一されている。
「今日は少し暖かいし、テラスでお茶を頂きましょうか?」
「はい、奥さま」
 昨日降った雪が嘘のように今日はぽかぽか陽気だ。
「君たち、テラスでいい?・・初めてのお客さまにはテラスは失礼かしら?」
 俺たちの顔ををそれぞれ見ながら長田恭子の母親が言った。
「全然、かまいません」と声を揃えて言う俺たち。お客さまというほどでもない。ただの中学生だ。
 遠野さんが「それでは奥さま、私は」と言ってお茶の仕度に先に邸宅に入った。
 テラスは邸宅の中に入らずとも、庭の方から5段ほどの小さな階段を昇り入ることができる。白が基調の綺麗なテラスだ。見晴らしもいい。邸宅側には大きな窓のようなスライド式のドアがあり邸宅と行き来が出来るようになっている。
 長田恭子の母親は俺たちを丸テーブルを囲むように座らせた。
 神園が真ん中で左右に俺と佐伯。佐伯は庭側で、俺は邸宅側だ。真正面にこの家の主である貴夫人が座った。
 神園は座るなり佐伯に「全然、聞いてた噂のイメージと違うじゃない」と耳打ちした。
「だから、噂はいつも正反対なんだよ」と言い「そして、真実は予想もつかない」と続けた。
「何か 言った?」とご令嬢の母親。
 ひそひそ話をしていた二人は「いえ、何も」と言って背を正した。
 そんな二人を見ながら俺は視線を広大な庭園に移した。テラスから門まではかなりの距離がある。目で測っただけでも芦田堂の前の通り位の長さがある。これだけ広大な庭園を管理するのも大変だし、中学生の俺の目はこの庭を遊ばせておくのが勿体無いと考えてしまう。サッカーボールを芝生の上に転がしたくなる衝動にかられる。おそらくすごく気持いいだろう。さっき通ってきた小道の脇に並んでいたのは桜の木だと気づいた。春になればあの小道に向けて思いっきりサッカーボールを蹴りたい。ボールは小道を真っ直ぐに抜けて門にぶち当たることだろう・・などと家の主には大変迷惑な妄想にふけった。
 そんな俺の妄想とは関係なく、ご令嬢の母親は腰掛けるとタイトスカートのしなやかなに伸びた足をひょいと上げ組み「みんな同じ中学なの?」と訊いた。
「はい、そうです」神園が代表して伸ばした背筋のまま答える。生意気な委員長も緊張するんだな。そういう俺も佐伯も緊張して足をまっすぐに揃えている。
 長田恭子の母親は足を組んでいても体の中心の線が曲がっていない。タイトスカートは短めだが決して品を欠く短さではない。むしろ健康的にさえ感じる。
 髪は短く、その行動力を表しているようだ。
 俺の母ちゃんには悪いが、これが魅力ある大人の女性なんだ、と思った。学校の数学のメガネ先生や天然パーマの音楽の先生とも違う。
 何がそんなに、こうも違って見えるんだ?
 品格の差か?
 普段、サッカー部のがさつな連中や店の周りのおばちゃん、おっちゃんばかり見ているせいか?
 ここにはいないが、ご令嬢の方も多香子さんに負けずと劣らず気品に溢れている。だが、世間的な視点で見れば、高貴な二人は母娘には見えないだろう。そう見えるようになるには普通の親子以上の努力、そして多くの時間が必要だ。
「芦田くん、可愛らしい妹さんね・・恭子も友達になってもらってすごく喜んでいるわよ」
「・・みたいですね」
「『お兄ちゃんはサッカー部に入ってて、すごく格好よくて優しいの』って言っていたわよ」
 妹のことを「ブス」と言っていた俺は恥ずかしくなった。これから妹のことを何て言ってからかえばいいんだ?
「それで・・芦田くん、さっき、お店から急に姿を消したのは、このためだったのね?」
 このため?
 長田恭子の母親と話すためなら、ご令嬢のいる芦田堂の中でもいいはず。だが、神園の願いでもあるわけだから芦田堂という場所はそぐわない。やはり長田恭子の母親と話せる場所はここしかない。
 俺はしっかり頷いた。
「そちらのメガネの君は読書家みたいね?」
 ご令嬢の母親の問いに佐伯は少し目を大きくした。そしてすぐにメガネの中心をくいと上げ「僕がメガネをかけているからそう見えたのですか」と訊いた。
 佐伯の質問に長田恭子の母親は「うふっ」と笑って「違うわよ」と続けた。
「メガネをかけている子がみんなそうだったら、日本中に文学青年が溢れていることになってしまうわよ」
「そうじゃないのですか?」
「さっき、君が神園さんと歩きながら話をしているのを訊いたからよ。物事の捉え方が中学生らしからないなって思って、ひょっとしてよく本を読む子かな、って思っただけ」
「ただの中学生です・・確かに本はよく読みますけど」
 そこで俺が「佐伯は恋愛論にも詳しいみたいですよ」と間に入れた。
「恋愛?」長田恭子の母親が興味を示す。
 同時に佐伯が「芦田くん!」と俺を制した。神園が「佐伯くん、そうなの?」と訊いた。佐伯は頬を赤く染めながら「それほど詳しくもない」と言って冷静さを保とうとしているが神園に問われ少し照れているようだ。
 そこへ遠野さんが邸宅側のドアを開け、ティーワゴンをカタカタと押しながらテラスに現れた。
 遠野さんはそれぞれの前に紅茶のセットを並べ、中央にシュガーとミルク、そしてレモンを配した。
 ご令嬢の母親は遠野さんの仕度を見ながら「さあ、頂きましょう」と言った。俺たちは声を揃えて「いただきます」と言って、それぞれティーカップを口にした。
 おいしい・・鼻腔につんとした感覚が広がった。炒れる人も違い、場所も違うと紅茶の味はこうも変わるものなのか。
 ご令嬢の母親は俺たちが何のお願いをするために現れたのか、まだ訊ねない。
「あ、あの・・」
 神園が口ごもりながら声を出す。おい、神園、何を言おうとしているんだ?
「私のことは『タカコさん』って呼んでくれていいわ・・多い香りに子供の子よ。長田多香子・・こんな大きな家に住んでいるけど、ただのおばさんよ」
 多香子さんはそう言って微笑みを浮かべた。
 この人は神園の「あなたのことを何てお呼びしたらいいのですか?」という質問を先に推測して言ったのだろうか?神園は続けて言わないところを見るとどうもそのようだ。
 多香子さん・・俺が住む世界とは全く異なる人だ。
 外見だけでなく、その身のこなし、礼儀作法、知識、話術、あらゆる能力が上をいく。 
 だが俺の住む世界とは違っても神園とは何か共通するところもあるだろう。
「多香子さん、私、純子です・・神園純子と言います」
 神園の自己紹介を受け「神園純子さんに・・芦田友也くんね」と言い「そして佐伯・・」と佐伯の顔を見ながら言うと、佐伯も遅れをとることなく「佐伯ユウイチです」と自分の名を紹介する。
「あ、あの、多香子さん、どうして、私たちを・・そ、その・・初めて会ったのに、家にまで招いてくださったんですか?」
 多香子さんはティーカップを口元に寄せた。ミルクもレモンも入れないようだ。細い薬指に指輪が光っている。
「私、今日、ちょっと、いいことがあったの」多香子さんが微笑む。
「いいこと?」
「娘にね、プレゼントをもらったものだから」
 そう言って胸のブローチを指し「だから、ちょっとした気まぐれかもしれないわね」と続けて言った。
 多香子さんは気まぐれ・・俺たちには長田恭子に会わせてもらう許しをもらわなければならない理由がある。
「でも、それだけのことで・・」
 そう神園が言った時、
 遠野さんが「奥さま、頂き物のマドレーヌがまだありましたので」と言ってワゴンからマドレーヌを取り出し中央に大皿を配して人数分のマドレーヌを置いた。
 なぜか神園の視線がずっとマドレーヌに注がれている。
「神園さん、見たことのあるマドレーヌでしょう?」多香子さんが優しく言う。
 神園はこくりと頷き「これって・・」と呟いた。
「これ、神園さんの家からのお歳暮よ・・正確には『神園興産』からだけど」
 えっ、どういうことだ?
「神園家が仕入先に特別に作らせているものだから、神園家の出しているものとわかるようになっているわよね?」
「はい、そうです」
 特別に作らせているお菓子、芦田堂にも何点か、そういう和菓子がある。人目で芦田堂製だとわかるものだ。
「お歳暮以外にも色々と頂いているわ、もちろん、こちらからも」
 これまで思いもしなかったが、考えてみれば当然かもしれない。長田邸と神園邸はこんなにご近所さんだし、長田家は神戸でも手広く商事会社を営んでいる。取引先は多いはずだ。神園家もそこそこの事業はしているだろう。何かの接点があってもおかしくない。
「神戸にこの邸宅を移してから、半年ほど経った頃かしら、ご近所づき合いができたのよ、長田家の方が仕事上のお客さんになったの・・と言っても、私はほとんどここにはいなかったから、ご近所さんとのやり取りは遠野さんにまかせているんだけど・・持ってきて頂いている方の名前は・・」
「雪さんという方です」即座に遠野さんが気持ちのよい声で答える。
「私、知らなかった・・」神園が小さく言う。
 神園は家の人たちが、自分たちの娘、つまり長田恭子の実の母のことを別れた夫である長田ヒルトマンが追いかけてきたように大邸宅を近くに建てたことが大迷惑であるかのように言っていた。
 神園家にとっては自分の娘が養子を迎え平和に暮らしていたところにやって来られたのだ。普通はそう反応する。
 元妻の方もきっと迷惑だったに違いない。夫のことを忘れ、きっと自分の娘のことも忘れて新しい家族との愛情を育んでいこうと努力していただろうから。
 だが、今は長田ヒルトマンは亡くなり、長田恭子の実母も神戸にはいない。嵐はとっくに過ぎ去っているのだ。諍いの種はもうそこにはない。今はただのご近所さん同士だ。
 マドレーヌがきっかけで話が深くなっていく気がした。
「私、おじいちゃん、おばあちゃんともあまり話すことがなくて・・」
「おい、神園、おまえ、いつも家で誰と話してるんや」
「おしゃべりは雪さんとばかり・・」神園の小さな声。
 佐伯が「神園さん・・」と神園の消え入りそうな声を支えるように言った。
 遠野さんが仕度を終え多香子さんの椅子から一つ、椅子を空けて腰掛ける。もちろん足を組むことはせず、きちんと足を揃えてその上に手を置く。
「あら、芦田くん、同世代の女の子に『おまえ』呼ばわりはいけないわよ」多香子さんが俺を優しくたしなめ「それに、家の中であまり会話がないのなんて、今時、珍しくも何ともないわ」と言って「でも神園さんはそのことを気に病んでいるようだから、そこを指摘するのもよくないわ・・とくに女の子に対してはね」と続けた。
「すみません・・」
 情けないことに俺はそれだけしか返せなかった。「すみません」とは誰に言ったのだろうか・・多香子さんか? 神園に対してか?
「人って繋がっていないようで、何らかの接点があったりするものよ」と多香子さんは話を戻し「繋がっている人とのおつき合いは大事にしないといけない・・これは私の元上司のマチダさんっていう人から頂いたお言葉」と言って微笑んだ。
 ここにいる人たち、全て何かで繋がっている。
 だが、それだけでは・・
 俺は「それが自分にとって不都合な相手であってもですか?」と訊ねた。
 繋がっているからといって大事にしていたら、きりがないし、都合の悪い事だってある。
「芦田くんはサッカーをやっているからわかるわよね?・・ライバルでも、競争相手の敵でもサッカーというスポーツで繋がっているし、他の何かで繋がっているかもしれない・・敵もいないと困るし、ライバルだっていなくなれば張り合いもない、だから・・」
 多香子さんがそう語っている時、
「あの・・」と声が入った。
 佐伯は得意のメガネを上げる仕草をした。
 多香子さんが佐伯の方に目をやると、
 佐伯は「それは違うと、思います・・」と遠慮がちに言った。
 佐伯の言葉に多香子さんは興味を示したようだ。遠野さんもティーカップを静かに置いて話を聞く姿勢になる。
「そんな簡単に、繋がっているものを、そんな風に簡単に思えたら、この世の中、面倒なことは起きませんよ」
 確かにそうだ。俺の思っていたことを佐伯が代弁してくれた。
「そうね・・確かにね・・」
 俺の思考が巡りだす前に多香子さんが呟いた。
 ひょっとすると多香子さんは俺たちが自分の言葉を否定するのを待っていたのではないだろうか?
 そして多香子さんは「ごめんなさい、君は恋愛論のエキスパートだったわね?」と改めて言って足を組み直した。
 多香子さんの背景は広大な庭園だ。そんな風景が似合うエレガントな女性も中々いないだろう、と思った。これが同クラスの品格のある男と女であればもっと映える。
 そこまで考えた時、遠野さんが多香子さんから椅子を一つ空けて座った理由が分かった気がした。
 多香子さんと遠野さんの間の空いている椅子は亡き夫の席ではないだろうか?
 いや、考えすぎだ。おそらく、ご主人の席の間を詰めるのは失礼だからだろう。
「恋愛・・って、それは芦田くんが言ったことで、僕は一般的にそう思っただけですよ」
「俺はお前から随分と恋愛の講釈を受けた気がするけどな」
「伊豆の踊り子やスタンダールの「結晶」とやらの話も聞いたぞ。
 そんな俺たちを見て、
「佐伯くん、芦田くん、お二人、面白い取り合わせの友達ね」と多香子さん。
「そうですよね、私もそう思います」神園が微笑み同調する。
「それで、神園さんは、どうして恭子に会いたいの?」と、不意に多香子さんが神園に向かって言った。
「えっ」
 不意に心の中を覗かれたような神園が、「どうして、わかったんですか?」と訊ねた。
 多香子さんは「すぐにわかったわけではないのよ」と答え一息つき「だって、芦田くんの場合、私に用事があるのなら、さっきお店で言えばすむことだし、佐伯くんの場合は今日初めて、この家に関心を示したのがさっきわかったわ」と説明した。
 その通りだ。
「でも、娘さんの方に用だとは・・」神園が言う。
「うふっ、あなたたちのような若い子が、私みたいなおばさんに用があるはずないじゃないの」と言って多香子さんは笑顔を浮かべた。
 それもその通りだ・・けれど今は俺も含めて神園、佐伯も多香子さん本人に興味を示しているのがわかる。
「恭子なら、もうすぐ帰ってくるわよ」
 多香子さんはそう言って門に向かう小道に目をやり「あの子が帰ってきたら、お邪魔なおばさんは失礼させてもらうわね」とまた笑った。
「多香子さん、いいんですか?」神園は多香子さんが席を外すことについて訊ねた。
「何が?」
「多香子さんは私たちが娘さんと何を話すか、気にならないんですか?」と神園が訊ねると、多香子さんは「ええ」と軽やかに応えた。
 それでも神園は納得できない様子だ。
「神園さんは私が理由もなくあなたたちと娘と会わせる、と思っているのよね?」と多香子さんは小さく言い「そんなわけないわ」と続けて言った。
「神園さんの家に、私の亡くなった主人の別れた奥さんの由希子さんがいたことは知っているし、そこで生まれたまだ幼い娘さんがいること、そして、神園家に養子に入った夫、その娘、つまり、あなたのことも知っているわ」
 多香子さんの横で遠野さんが頷きながら聞いている。遠野さんが調べたのだろうか?
「よく、ご存知なんですね」
「これでも、これからこの町に居座るつもりなのよ・・それくらいは知っていかないとね・・特に懇意の関係先のことは」
 多香子さんは俺たちに正確な情報と冗談を巧みに交えながらしゃべっている。そんな話し方は俺たちには出来ない。
 神園が「父と母が下関に越して、私が両親について行かず、ここに残ったことも知っているんですね?」と訊ねると多香子さんはこくりと頷いた。
「知っているけど、さすがに神園さんが神戸に残った理由までは知らないわ・・神園さんは何か、ここでやりたいことでもあったのかしら?」
「親と一緒にいないのは寂しいですけど、ついて行ったとしても、何かこう、胸の中にわだかまりのようなものがあって、お互いの関係がぎくしゃくしそうな気がして・・」
 相手がそこまで知っているのなら・・と神園は堰を切ったように話し始めた。
「一緒にいることって、とても大切なことだと思うけど」
「そうは思います・・けど、私、すごく中途半端なんです。私はここで、神戸で何にもできませんでした。習い事とかすごくやってるし、委員長とか
何度もしてますけど・・気がついたら、私、何、やってるんだろう・・って、本当にしたいことを見失って見るような気がして」
「何かやらな気がすまんのか?」と俺。
「べ、別にそういうわけじゃないけど・・」俺の問いに神園は口ごもるとマドレーヌに手をつけ紅茶を口にする。
「神園さん、今、何か、やりたいことがあるの?」と多香子さん。
 神園は「スポーツ・・そ、その・・テニスとか・・」とはにかみながら答える。
 テニス・・スポーツ、神園に似合いそうだし、運動神経も良さそうだからすぐ出来るような気がする。
「神園さん、テニス、すごくお似合いそうですよ」遠野さんが微笑む。
「それに本も、たくさん読んでみたいし・・けれど、今は習い事で時間がとれなくて」
 遠野さんが「この家にもたくさん、本があるんです。ぜひ、読みに来てください」と言った。多香子さんが「文学青年の佐伯くんもね」と併せて言った。
 本・・もしかして、それって・・
 俺のスポーツ、佐伯の文学好き・・いや、考えすぎだ。
「でも、私、神戸に残ったことに後悔してないんです。むしろ、良かった、って思ってるんです」
 神園は感情的になっているみたいだ。神園を家から連れ出したのは正解だったと思う。
 こんな私的なことを、先日、俺と佐伯に話したり、今日、多香子さんに話すようなこと、今までなかったのだろう。そんな気がする。
 けれど、そもそも俺はどうして佐伯まで引っぱり出し、神園を長田家の人たちに引き合わせようとしたんだ?
 俺はだんだん自分の感情が整理がつかなくなってきた。改めて庭を背景に神園の横顔を見た。そういや、こんな近くに神園の顔を見ることなんてなかった。
 よく見た顔のはずなのに広大な芝生をバックにした顔はすごく絵になって、いつまでも見ていたい気持にさせられた。ただ、残念なことにその向こうに佐伯の顔がある。
「何? 芦田くん」神園が俺の顔を見る。「いや、何でもない」と慌てて顔を戻した。一瞬、ドキッとした自分に気づいた。
 そして、気温がずいぶん下がっていることにも気づく。
「あなたは逃げなかったのね?」
 しばらく間が空いた後、多香子さんがそう言った。
「いえ、私は逃げたんです・・たぶん・・」神園がすかさず返した。
 逃げた?
 逃げなかった?・・多香子さんは神園に問うたのか、それとも自分に?
 そして逃げたのは・・神園なのか・・多香子さんなのか?
 どういう意味なのかわからない。俺には難しいことはわからない。
 少なくとも俺は逃げることはない。俺の人生、何の問題もないからだ。恵まれた環境の中でぬくぬくと育ち、そのことで特別親に感謝することもせず、のうのうと生きてきた。 もし何かから逃げる場所があるとすれば、それは家だ。親父、母ちゃん、そして、智子のいる家庭だ。
 神園にとって、逃げた場所が神戸とするのなら、
 多香子さんは・・どこに?
 だが、俺は多香子さんの人生など全く知らない。
 さらにもっと言えばご令嬢のこともほとんど知らないのだ。
 神園のことだってつい最近話に聞いたくらいで実感として沸かないし、佐伯のこともよく知っているとは言えない。
 こんな俺がこの場にいていいのか? とさえ思えてくる。
 でも俺は今ここにしばらく身を置き、みんなの話を聞きたい、と思った。
 俺はマドレーヌを口にして紅茶を飲み干した。洋菓子もいいな・・芳しい。
 遠野さんが席を外し、別のワゴンで日本茶と和菓子の用意をし始めた。見ると芦田堂のものだ。「神園さんと佐伯さんは芦田堂のお菓子は初めてですか?」と訊ねた。
 佐伯は初めてだと答え、神園は「何度か」と答えた。少し嬉しくなる。
「私、このまま下関に行っても、向こうで友達なんて出来ないと思うし・・」
 聞き上手なのか、多香子さんは軽く頷きながら耳を傾けている。
「それに、親について行ったら、また周囲の目が気になって・・」
「周りの目?」
 多香子さんが復唱する。
「私、最初、すごくいやだったんです。最初って言うのは・・多香子さんもご存知の通り、私のお父さんは神園家に入った養子で・・」神園が少し言いよどむ。
 多香子さんが「続けて・・」と神園の話を促す。
「父は政略結婚だとか、お金目当てだとか、会社の人や、親戚にも言われ続けてきました。実際にそうなんです。父は神園の家に入るまでは抱え込んだ借金の返済の目途がつかない状態でした。銀行からも見放された、と聞いています。それを一銭も残さず片付けてくれたのが神園の家の祖父母、そして、私の義理の母です・・」
「神園の家に助けられた・・それが後ろめたくて恥ずかしいってことかしら?」
「父も私も神園の家には感謝しているんです。父は由希子さんを愛していると思うし、私もそれなりに思っています・・でも、やっぱり・・」
 そうだったのか・・俺は神園の家の事情をしっかりと心に留める。
「下関に行っても私の家の事情を知っている人はたくさんいるそうです・・だったら、ここにいた方が、まだいいかなって」そう言った神園は少し間を置き「・・だから、やっぱり逃げたんです」と続けた。
 神園の話を聞き終えると多香子さんは静かに「それで、神園さんは似たような境遇の恭子に会いたかった・・そういうことね?」と言った。
 多香子さんの問いに神園は「はい」と答えた。
 似たような境遇というのは、互いに義理の母を持つ、ということだろうか?
 そして多香子さんは「私もよ」と静かに言い「私も政略結婚よ」とはっきり言って微笑んだ。
 神園もご令嬢も義理の母親との関係に悩む。目の前の多香子さんもおそらく悩んでいるだろう。
 だが、多香子さんにはもう一つ、亡くなった夫との関係がある。それは俺たちには知ることもできない。
 自分と再婚してもなお、前妻の家の近くに大邸宅を建てた夫との関係は容易に想像できない。どんな会話があり、どんな生活があり、そして、多香子さんにどんな葛藤があったのか?
「いえ、多香子さんの場合は違う、と思います」
 佐伯が静かに間に入った。
 多香子さんは佐伯の方を見た。
「初めて会った僕たちにそんなことを言う時点で、それはもう政略結婚などとは呼ばないと思います」
 俺は心の中で「神園も初めて多香子さんに会ったのに言ったぞ」と呟いた。それに多香子さんが俺たちにそう言ったのはおそらく神園の身の上話を和らげるためだ。
 だが、それよりも初対面の人間にそんなことを平気でずばりと言ってみせる佐伯にも感心する。それが佐伯らしいところだけどな。
「そうね・・そうじゃないのかもしれないわね」そう言って笑顔を通し続けていた多香子さんの顔が曇った。
「だったら、私の結婚はどんな結婚だったのでしょうね・・」
 気のせいか、そう言った声が冷たくなりかけている風の中に消えた気がした。
 少し、沈黙の時間が流れる。
「別に何かに当てはめて考えなくてもいいのではないかと・・思います」
 佐伯がメガネの中心を持ち上げ哲学者のように言う。
「それに・・」佐伯が言葉を続けようとする。
「それに・・何?」
 多香子さんが言葉を聞き出そうとした。
「結婚は二人でするものだと思います・・多香子さんは、さっき、『私の結婚』と一人称で言われましたけど・・」
 佐伯の奴、話をよく聞いているんだな。感心する。やっぱりお前はすごいよ。
「ごめんなさい、私の言い方、悪かったわね・・さすが、佐伯くんは恋愛評論家ね」
 いつのまにか、佐伯は評論家に格上げになってしまった。
 多香子さんの言葉に場の雰囲気が和んだ瞬間、邸宅の奥で電話の鳴る大きな音がした。ベルの音は外にいても聞こえるようにしているのだろう。テラスでも庭の方でも音が聞こえた。
 遠野さんが慌てて家の中に立ち去り、しばらくすると「奥さま、・・様からお電話です」と多香子さんに告げた。多香子さんは「ごめんなさい」と言って席を立ち邸宅側のドアの奥に消えた。


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