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作品名:「継母長田多香子の憂鬱」 作者:小原ききょう

第32回   後悔


 あれは私の中にまだ「迷い」があった時のことだ。ヒルトマンと結婚して一年になろうとしていた。
 その頃、私は目の前に敷かれたレールから降りようと懸命にあがいていた。結婚して、妻、そして、仕事だけではなく私は恭子の母親になろうとしていた。
 縁談が成立した後、ヒルトマンの邸宅に呼ばれ、彼に「ビジネスのパートナーになる気はないか?」と問われ、その場の勢いで頷きはしたが心の底には大きな迷いがしこりのように澱んでいた。
 あの日、ドアの向こうに隠れて私の様子を窺っていた恭子の顔を初めて見た時、それまで気を張っていた心が和らいでいったのを憶えている。
 そして、私は「そうだ、私はこの子の母親になればいいのだ・・結婚すれば私は母親になれる」と思った。
 そうすれば自然と私は運命のレールから少し離れた所に降りることができるかもしれない。
 恭子を初めて見た瞬間、私は恭子の澄んだ青い瞳に救われたような気がした。
「私、もうすぐ、あなたのお母さんになるのよ」
 そう言うと、恭子が少し微笑んだように見えた。あの子は初めて見た私のことをどう思っただろう?
 妻、仕事と親の両立・・十分可能だ。
 私は頭の中で将来の設計を組み立てていた。
 だが、私のそんな思いはある日を境に無残にも消えた。
 長田グループ主催のパーティが東京の邸宅で催された時のこと。私にとっては初めての来賓客を接待する懇親会だった。
「どうもヒルトマンは先が長くないみたいだぞ」
「今日もトイレで吐血していたっていう話だ」
「客人用のトイレでか?」
「長田グループは、金にだらしない弟の方で大丈夫なのか?」
「グストフは無能だっていう話だ」
 控え室でドレスの腰を緩め、酔いを醒ましている時、来賓の男たちが廊下で無神経な立ち話をしているのを私は聞いてしまった。
 何の話?・・・吐血?・・長くない?・・言葉を繋ぎ合わせていきながら、お酒に酔った私の頭から血が音を立てて引いていくのを感じた。
 その時、私はまだ彼の持病のことを知らなかったし、彼自身からも知らされてもいなかった。
 時々、彼のスケジュールに病院行きが組み込まれていることを知っているくらいで、仕事を覚えかけで忙しかったせいか、定期的な健康診断程度にしか考えなかった。その時は重い病気だとは考えも及ばなかった。
「島本さん、あなたは知っていたの?」
 私は厨房に行き家政婦の島本さんを見つけるとすぐに問い詰めた。私の問いに「何のことですか?」と言うような島本さんの顔を睨みつけた。
 私はあの人の妻なのだ。知らなくてはいけない。島本さんも知っていることは私に教えなければならない。
「あの人、何の病気で、いつも病院に行っているの?」
 島本さんは困惑した表情を見せた。
「奥さま、ご主人さまは最近は大丈夫だったのですよ。昔から患っていた病気ですけど、仕事にも支障はなかったことですし・・人にも移らない病気ですから、それに仕事も何ら不自由なくできますし・・ただこの数ヶ月、また以前の胸の症状が再発して・・」
 よほど主人に口止めされていたのか、言葉の端々でかなりの動揺しているのがわかる。
「移らないとか、そんなことより・・」
 血を吐くって、すごく重い病気じゃないの、そんな病気のことを主人も島本さんも私に黙っていたなんて。私って一体何なの?
「ご主人さまも奥さまには・・」
 口止めされているっていうの?
 私は島本さんの言葉を切り「あの人の病気、重いの?」と訊ねた。
「申し訳ありません・・島本には分かりかねます」
 島本さんは俯いた。私の問いに頑なに顔を上げなかった。
 この人はただの雇われの家政婦だ。それ以上言うことができないのだろう。おそらく彼の口止めを忠実に守っているだけ。
 だが、男たちの陰口や島本さんの動揺を見て、ある程度のことは判断がついた。
 あの人の病気は決して軽いものではない・・と。

 パーティが終わりかけた頃、ヒルトマンがワイングラス片手に声をかけてきた。
「こんな大勢のパーティは初めてだから戸惑っただろう?」
 少し酔っているのか顔が赤く足元もふらついている。
 お酒、そんなに飲んで大丈夫なの? タバコは?・・吸っていいの? お医者さんは何て言っているの?
 訊きたいことが山ほどある。
「ええ・・」私は軽く頷くと「そんなことより」と続けて言った。
「どうして言ってくれなかったの?」
「何をだい?」
 長らく見ていなかった青い瞳が私の目の前にある。
「病気のことよ」
 その言葉を発すると同時に彼の顔がみるみる硬くなった。
 私だってこんな場所で訊きたくなかったわ。たまたま聞いた悪口のお陰で私は知ることができたけど、ずっと黙っているつもりだったの?
 いつまで私に隠し通すつもりだったの?
 その病気・・治るの?
「また、あとで話すよ・・今夜はパーティーを・・」
 彼は逃げるつもりだ。
 そして、また私はのけ者にされる・・そう思った。
「私はあなたの妻なのよっ!」
 おそらく周囲にいた何人かは私の声に気がついただろう。パーティーの主催者としてはあるまじき行為だが大声を出さずにはいられなかった。
 彼の驚く表情をあとにして私はドレスを翻し大広間を出た。
 廊下を抜け、私は空いている応接室に駆け込むとドアも閉めずにドレスのままソファーに突っ伏した。
 悔しかった・・どうしてそんな大事なことを家政婦が知っていて、妻の私が知らないのだ。
 私は母親どころか、妻にさえなれなかった自分を不甲斐なく感じた。
 悔しくてしょうがなかった。悔しくて泣いた。泣き続けた。勢いあまって指をがりっと齧ってしまった。激しい痛みと同時に血が溢れ床に零れた。
 彼との見合い以来、押し殺していた感情がどっと溢れ出てくるようだった。
 泣いているところを誰かに見られるとか、もうどうでもよかった。パーティーが続いている大広間に戻る気もしなかった。ひたすら一人になりたかった。
 誰かが近くにいる気配がした・・あの人?・・今は誰の顔も見たくない。
「お母さま・・どうかされたの?」
 私を呼ぶ声にソファーから顔を起こすとドアのところに恭子が立っていた。
 そして小さな声で「お母さん・・」と言い直した。
 恭子が私のことを呼び直すのが聞こえたのと同時に、私は次の言葉を発していた。
「一人にさせてっ!」
 私は自分の娘に怒鳴っていたのだ。
 恭子が私のことを初めて「お母さん」と呼んでくれた時に、私はなんてひどいことを言ってしまったのだろう。
 親が娘に言う言葉ではない。
 その言葉がまだ幼かった恭子の心にどれだけ重く響いたか、はかり知れない。
 恭子が部屋を出て行く足音だけが耳に残った。
 おそらくあの子なりに私のことを気にかけて声をかけたのだろう。私はその行為を無為にしてしまった。決して許されることではない。
 だが、その時の私は、物事の優先順位が確実に変わってしまっていたのだ。
 縁談の時にどうして病気のことを彼も他の誰も私に言わなかったのだ、とか。
 もしかすると、前の妻とは病気が原因で離婚したの?とか。
 週に一度の私の手料理は彼の病気に差し障りなかったのだろうか、とか。
 その時の私にはどれも小さなことに感じられた。
 現実は私の中でもっとひっ迫したものとしてとらえられていた。
 あの人の妻であること、恭子の親であること、
 それよりも、どんなことよりも、彼が病に臥してしまうことを考えた。あってはならないことだが、彼が仕事を続けられなくなるような事態も考えた。
 そんなことがあったら、もしも彼に何かあったら、いったい誰がこの会社を運営するというのか?
 ・・私しかいない。彼の弟ではダメだ。
 あの人の作り上げた会社は、私が絶対に守ってみせる。
 そう、私は恭子の母親になるという道を途中で自ら曲げてしまったのだ。

「隠すつもりじゃなかったんだ」パーティの後、彼は謝るようにそう言った。
 その時にはもう私の心は平静を取り戻していた。
「詳しく教えて」
 彼の説明や病院の診断書を見せてもらってもどこか私の心は虚ろだった。
 彼を診る掛かりつけの医者も変えようと試みたが、彼は頑として聞き入れてくれなかった。そんなことも私を妻として受け入れていない証のように思えた。
 夫にも愛されず、母親になることもできない私は仕事に勤しむだけだった。
 翌日から恭子の態度が私によそよそしくなるのも感じていた。朝食時「昨晩はごめんなさい」と謝るとあの子は首を横に振って「もういい」と答えた。こんな時、どう対応すべきなのか、わからなかった。
 母娘になってまだ半年しか経っていないせいなのか、どう言っていいのか、何の言葉も思い浮かばない。自分の産んだ子であればこんなことはないのだろうか?
 あの子の気持ちが遠のくのと比例して私の気持ちも遠い所に置かれるようになっていた。 血の繋がった親子であればありえないことなのだろう。お腹を痛めた子という存在が私にはないが、その差はどんな差よりも大きいのだろう。
 誰がどう見たって母娘に見えない私たち。髪の色も肌の色も目の色も全て違う私たち。
 当然ながら恭子が私のことを「お母さん」と呼ぶことなんてもうなかった。
 丁度その時期、長田グループの新しい商事部門の会社「長田商事梶vを立ち上げることになった。私は資金の調達や株主の根回し、役職員の選定、度重なる接待や出張に日々追われるようになった。家に帰ることも少なくなり、仕事が私の四肢を絡めとるように私は身動きがとれなくなっていった。心が日常の中になくなり、新会社の構想にその心も身も置くようになっていった。
 彼の会社を守ろうとして、彼の体を守ることを怠るようになっていた。
 彼の度重なる入院の見舞いにも仕事が忙しく中々行けなかった。たまに見舞いに行くと彼は「忙しいのに悪いね」と笑った。
 私の剥いたリンゴを食べながら彼は新会社について熱く語った。私は手帳に彼の構想や指示を書き写した。ささやかながら夫婦の時間だった。
 あとで島本さんに聞くことになったことだが、彼は果物の中ではリンゴが嫌いだったらしい。他の見舞い客は彼の好みを知っていてリンゴは避けていた。妻の私が一番、彼のことを知らなかったのかもしれなかった。
 そして、彼の病気は快方に向かうどころか、年々悪くなっていくばかりだった。病院の報告も島本さんを通して入ってきた。
 だが彼の病気の悪い報告がよけいに私を仕事に駆り立たせた。
「なんや、多香ちゃん、雰囲気が変わってもうたなあ」
 久々に会った元上司の町田さんがそう言った。外見で分かるくらいだから、その中身、私の心も変わってしまっているのだろう。
 当然ながら私に対するよくない噂も耳に入ってくる。
「やっぱり、財産目当てだったんだ」とか「弟の無能なのをいいことに事業を横取りする気」だとか。「感情のない氷の女」とか。
 そんな陰口を聞いても、どこか心地よく感じている自分がいた。私自身がそういう女として仕上がっていっているのだと思った。どんな悪口を言われても平気になるくらいもっと強くならないといけない。そうでないとこの会社を守ることができない。
 彼のアドバイスを受けながらも新しく作った商事部門の会社を軌道に乗せることができた。ただその頃には彼の病状は以前より悪化し役員としての不在も多くなってしまっていた。
 彼の不在中、弟のグストフが口出しするのを防ぐため私が一歩前に出て事業を進めていった。彼では長田グループを守れない。
 家政婦も島本さんから遠野さんに変わり、邸宅も神戸に移ることになったが、そのことに私はほとんど首を突っ込まなかった。関心がなくなっていたのかもしれない。
 私が気にかけるのは仕事のことだけになっていた。
 そして、病院から彼の最期を知らせる連絡が入った。
 私は親族の中で一番最後に病院に着いた。私の方を振り返った人たちの視線が鋭く刺さった。彼の意識はもうそこにはなかった。せめて彼の声を最後に聞きたいと思ったが、病室にあるのは感情のない機械の音とざわつく人の声だけだった。
 立ち尽くす私の視界に見えたのは、クマさんのぬいぐるみを抱えた恭子の姿だった。
 おそらく遠野さんが恭子の悲しみを少しでもやわらげようと家から持ってきてくれたのだろう。
 私が守ろうとしていたものは一体何だったのだろう?
 あなた、ごめんなさい
 恭子、ごめんなさい・・
 私は妻にも母親にもなれなかった。

「トモヤさま?」
 遠野さんの声に記憶の底に心を沈み込ませていた私はハッとして前を見た。
 天井川の橋の手前に二人の男の子と、一人の少女がいた。
 一人はさっき芦田堂で挨拶を交わした芦田智子さんのお兄さんだった。確か中学二年生と言っていたから他の二人も同じだろうか?
 メガネの男の子は初めて見る顔だ。そして、あの女の子は・・
 3人を見た時、私は更にこの町の一端に触れた気がした。
 私の神戸での生活が始まる。


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