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作品名:「継母長田多香子の憂鬱」 作者:小原ききょう

第29回   手紙



 気がつくとドアのところに恭子が立っていた。
「お母さま、お帰りなさい」
 恭子はそう言って手袋を外し、その両手にハアッと息をかけた。
 今日はかなり風が冷たい。挨拶回りをはやく切り上げてよかった。
「恭子さま、ごめんなさい。気づかなくて、お外、寒かったですか?」
 遠野さんが訊くと「すごく・・」と恭子は言った。
「恭子さん、そんなに薄着で寒くないの?」
「お母さま、大丈夫よ」
 恭子はいつも薄着だ。羽織るものはせいぜいカーディガンくらいで、ジャンパーなどを着込むことはない。
 恭子が「遠野さん、部屋のお掃除?」と訊ねると「はい、恭子さま」と遠野さんが返事する。
「お母さまは?」
 今度は私が訊かれたので、微笑んで「遠野さんと昔話かしら?」と返した。
「遠野さん、紅茶が飲みたいわ・・ここで三人で頂きましょう・・恭子さんも一緒にいい?」
 恭子が頷くのを見ると遠野さんは「はい、奥さま」と快く返事をして暖房をつけるとお茶の準備を始めた。
 本棚に囲まれた応接セットに三人で座る。
 私の向かいに遠野さんと恭子・・このような配置は初めてに違いない。遠野さんはいつもソファーの傍に立っているからだ。
 遠野さんの炒れた紅茶を一つのテーブルを囲んで飲む。
 遠野さんが「いつものご近所さんに頂いたマドレーヌです」と言ってテーブルの真ん中に置いた。「ああ、あのお家ね」と私は言った。
 恭子が口に入れ「おいしいわ」と言うと「まだたくさんありますので、芦田さんにもお裾分けしましょう」と遠野さんが微笑む。
 一家団欒・・何度も何度も毎日繰り返されるはずの当たり前のことが、長田家では当たり前ではなかった。
「恭子さん、ちょうどよかったわ、遠野さんには言ってあったけど、私、来年から神戸で仕事をすることにしたの・・だから、その・・私、ずっとこの家にいるの・・」
 心の中で「恭子はそれでかまわないの?・・私はここにいていいの?」と言った。
 私がここにいることは恭子の望むことなのだろうか?・・私には自信がない。あの子にとって、ここは遠野さんと二人きりの場所かもしれない。
 私はいない方がいいのかもしれない。元々私の周りには誰もいなかったのだ。
「ずっと?」
「ええ、ずっとよ・・どうして?」
「こわいから・・」
「怖いって・・恭子さん・・まさか、幽霊、とかじゃないでしょうね?」
 恭子は紅茶を口にしながら頷いた。
「恭子さまは、私では頼りないそうです」
 遠野さんがしょんぼりとする。
「お母さまだったら・・幽霊の方が・・」
「まあっ、恭子さんは、私だったら幽霊が逃げ出すって、言いたいのね?」
 茶目っ気のある女の子だったら、舌でもぺろっと出すところだろうが、恭子は頷いて、少し微笑みを浮かべるだけだった。
「恭子さまっ・・それではお母さまがまるで・・」遠野さんが慌てだす。
「いいのよ、遠野さん、恭子さんの言う通り、私、怖い女だから・・」
 私の言葉に二人が微笑み顔を見合わせる。
 その間、私もマドレーヌを口にして紅茶を頂く。
「廊下が怖いの・・お部屋には『クマさん』がいるから怖くないわ」
 恭子はそう言って微笑んだ。
「クマさん」というのは恭子のベッドの枕元にいつも置いてあるぬいぐるみのことだ。ずっと大事にしている。
 思えば、こんなに時間がゆっくりと流れているのを感じるのは何年ぶりだろう?
振り返ってみても思い当たらない。
 もっとこんな時間を過ごしてみたい。ずっとこれからも。
 暖房が効いてきたのか、恭子がうとうとしだした。遠野さんに体を傾け、目が閉じかけている。
「あのお・・奥さま」小さな声で遠野さんが乞うように私を見る。
 遠野さんが動けなくなっているので、私は自分のコートを恭子の体にかけた。
「寒い外から帰ってきたばかりだから、急に暖かくなって眠くなったのね」
 大きなコートに小さな体が埋もれる。そのまま顔も隠れそう。
「奥さま、色々とおありになられたみたいですね」
 恭子がもたれかかって動けない遠野さんが言った。恭子が安心して体を預けている遠野さんが少し羨ましい。恭子は私にもたれかかることは決してないだろう。
 体も、心も・・
「特に何かがあったわけじゃないけれど、こんな大きな家にはやはり主人であるべき人がいた方がいいんじゃないかって思ったのよ」
 すごく当たり前のことだ。今までそうしなかったのは、私の我侭で怠慢だ。
 そして、夫の前妻に対する嫉妬だ。
「奥さま、この家は、ヒルトマンさまの思いがたくさん残っている家です・・それは奥さまも十分、お感じになっておられると思います」
 恭子のすーっ、すーっという鼾が聞こえ始めた。
 目の奥がつんとした。私は初めて恭子の鼾を聞いたのだ。初めて聞くはずなのに、どこか懐かしい気がする。
「遠野さん、ひょっとして、この家にいると、私がつらくなると・・言いたいの?」
 これからつらくなるかもしれない。東京で仕事に専念していれば、色んなことを思い出さずに過ごすこともできる。ここはもう逃げ場がない。
 そう思って私は東京に逃げていたのだ。だが、これからは違う。ここには恭子がいる。
「いえ・・上手く言うことはできませんが、思い込みというのは、思い込むほど・・そ、その、思いが重くなるものですから・・」
「うふっ、変な言い方だけど、何となくわかるわよ」
 遠野さんが私に何かを伝えたくて言っているのがよくわかる。
「すみません、奥さま・・私、こんな言い方しかできなくて・・」
「いいのよ、それに思い込みでもないわよ」私は遠野さんをなだめ「桜の木だって、あの人に似ていたからでしょう?」と言った。
 以前、私は遠野さんに「あの人ね、お見合いの時に、私ではなく、桜の花ばかり見ているの」と言ったことがある。
 おそらく、遠野さんは私の話を聞いて、大体のことは察していることだろう。
「桜の木はヒルトマンさまのご希望で植えられたと聞いています」
「うふふっ、あの人、桜の木を見て由希子さんを思い出すつもりだったのかしら?」
 あの人は由希子さんを愛していた。ずっと・・
 私の茶化した言葉のあと、
「でも、そんなことってあるのでしょうか?」遠野さんは真顔で言った。
「あるのよ」私は断定した。
「私にはそんなこと、信じられません」
 遠野さんが信じていようと、なかろうと、あの人は・・
「奥さま、以前、付けられていたネックレスはどうされたのですか?」
 突然、遠野さんは私のネックレスに話を振った。
「ああ、あれね・・あのネックレス、留め金の所が痛んじゃって、デパートに持って行って見てもらったんだけど、舶来製で難しいらしいのよ。今はバッグに入れっぱなし・・」
 大事なネックレスだったけど、直せないのなら仕方ない、と諦めている。
 遠野さんは私の返事を聞くと腰のポケットから一枚の紙を取り出した。
「これは、奥さまが付けておられたネックレスのドイツの販売業者の連絡先です」
 えっ?
 遠野さんは更に2枚の便箋を見せた。
「そして、これはヒルトマンさまが書かれた、私、遠野静子宛ての手紙です」
 遠野さん宛ての手紙?
 遠野さんは私に二枚の便箋と業者の連絡先が書かれた紙を差し出した。
「遠野さん、これ、読んでいいの?」
「はい、奥さまに読んで頂くつもりで、ずっと持っていました」
 受け取った手紙は紛れもなく、あの人の字、ヒルトマンの字だった。
 遠野静子様という書き出しでそれは始まっている。
 
 ―遠野さんには色々お世話になったね。
 食事も美味しく頂かせてもらったし、綺麗なシーツで気持ちよく寝かせてもらった。花壇の手入れも欠かさずしてくれて本当にありがとう。
 花壇に植えた花が咲くのは時間がかかるようだね。途中で病気になって枯れてしまうものもあるそうだから大変だろう?
 もし咲いたら、神戸の花壇に移して欲しい。

 これからも大変だろうけど、これからも多香子と恭子をよろしく頼む。できるだけ、二人の傍にいてやって欲しい。
 僕の体もいよいよ危なくなってきたからね、事務的なことを君に託しておくことする。
 多香子に頼んでもいいことだが、事務的な色気のない話ばかりだからね・・と言ったら、遠野さんの方が怒るかな?

 いいかい、ここから書くことは僕が向こうの世界に行ってからのことだ。
 神戸の邸宅の名義は多香子にすることはもう彼女に伝えてあるし、手続きも済んでいる。
 それに君やグストフも了解していることだから、ここには詳細を書かない。
 事業の方は僕に何かがあった場合、弟のグストフがグループの会長、長田商事の社長になる、ということはもう知ってるよね?
 祖国のドイツ関連の事業の対面上、グストフがトップについていないと会社は続かない。
 多香子には長田商事の専務に就いてもらう。これも両名には既に承諾済みだ。
 会社関係の相続のことはグストフと多香子がよく知っているから、都度、二人に訊いて欲しい。
 ここに記するのは、それ以外のことだ。
 遠野さんには家政婦や恭子の家庭教師以外にも調査関連の仕事も頼んだよね。
 今のところ、君の腕を振るう機会はないようだ。その方がいいんだが、事業の柱が折れてしまうとね、色々と問題が出てくるはずだ。
 柱・・つまり、僕のことだ。僕がいなくなると、会社もほころびが生じ始める。
 例えば金銭関係で乱れが生じると、事業の方も上手くいかなくなる。
 僕は若い頃からこの辺のことは細心の注意を払って事業を営んできたつもりだ。
 いつだったか、そのことは遠野さんにも話したよね?
 君に頼んだ仕事は「長田の家」が被る、あらゆる損害を未然に防ぐことだ。君が気づいたことはどんどん調査してもらいたい。
 その辺りの遠野さんの能力は僕はよく知っているつもりだよ。
 そして、長田の家は当然だが、事業の動きでも何か、気がついたことがあったら調べて欲しい。諸々の報告の相手は弟のグストフでもいいし、多香子でもかまわない。
 遠野さん・・ただね、細かなことなら、それでいい・・
 二人のうち、どちらでもかまわない。
 だが事が重大なら、君の報告する相手、遠野さんの相談する相手は・・
 ・・それは、多香子だ。
 グストフではダメだ。
 僕はね、日本が好きだ。日本の風土や歴史も当然好きだけれど、もっと好きなのは日本人の心だ。日本人は繊細な心を持っている。それは仕事においてもだ。
 僕は日本にいて感じたのは細かな作業に対する日本人とドイツ人との圧倒的な違いだ。
 多香子の仕事振りをみて、その日本人独特の仕事に対する熱意が全て彼女に表われているようにずっと感じていた。
 だから、もしこの先、長田グループの存立を揺るがすような事案があればそれは多香子に相談して欲しい。
 多香子なら、僕の築いたものを必ず守ってくれるはずだ。

 次は・・そうだな、神戸の邸宅の庭にも触れておこう。
 神戸に越すまで僕の体が持つかどうかは不透明だが、神戸の庭は僕の好み、そして多香子の好みに仕上げたつもりだ。
 庭の手入れや管理は遠野さんの仕事になるが、それ以外の嗜好は多香子の意見を尊重して欲しい。多香子は格式のある家できちんとした教育を受けてきた日本女性だ。
 日本古来の庭のあり方、方位など日本独特の縁起を担ぐ法もよく知っている。
 
 あとは・・そうだ、僕の専用の車についてだ。
 車の保険などはわざわざ書かなくても遠野さんなら処理できると思うから省くことにするよ。まずは車の名義は多香子に変えて欲しい。
 僕が車好きなのは知ってるよね? 自身で車に乗る機会がそんなに持てなかったことが悔やまれるけど、あの世に行った後でも僕は車を置いておいて欲しいんだ。
 そして、僕の車は多香子に乗って欲しい。
 その横に僕は同乗させてもらおうと思っている。
 多香子の方は幽霊が一緒に乗られて気味悪がって嫌がるかもしれないな。

 パーティーのことをすっかり忘れていた。来賓を招待するパーティーは長田グループの一大イベントだ。
 遠野さんには陰の主役ながら、よろしく頼む。表の主役を支えてやって欲しい。
 もちろん、表の主役は多香子だ。
 残念ながら弟のグストフは主役にはなれない。わが弟ながら、彼は無骨な人間だ。
 反して多香子には品格はもちろんのこと、「花」がある。
 僕が多香子のそこを気に入って生涯の伴侶に、と決めたんだからね。
 だから、間違いないよ。

 そうそう、いつだったか、多香子の誕生日にネックレスをプレゼントしたことがあってね。ドイツに出張した時に買ったものだ。
 高価なものだから、壊れることはないとは思うけど、何かあった時のためにドイツの業者の連絡先を添付しておくよ。日本には対応した部品が無いだろうから直せないと思う。
 ネックレスは「ターコイズ」というトルコ石のものだ。
 ドイツでは誕生石に付く意味や概念はイギリスや日本ほど普及してしていなくてね、僕はそんなに意味も深く考えずに買ってしまった。ただ、多香子の誕生石という理由だけで買った。
 後で知ったのだが、ターコイズは「仕事での成功」とかを意味するらしい。
 ちょっと色気のないものになってしまったな、と今では悔やまれる。
 まるで、多香子に「もっと仕事を頑張れ」と後押ししているようなものだ。
 もう十分すぎるほど、多香子は仕事に頑張っている。むしろ、これからは、こっちを見て欲しいくらいだ。
 僕や、恭子のことを。

 以前、僕は多香子に仕事で「僕の仕事の片腕になって欲しい」と頼んだことがある。前の妻にはそんなこと、頼みはしなかった。彼女は仕事には向いていなかった。
 だが、多香子はビジネスに向いていた。僕が驚くくらい才を表す時もあるくらいだ。
 多香子は僕の予想以上の働き手だった。一度走り出すともう止めることはできないくらいだったから、当の言った本人の僕が今となっては後悔している。
 だが、もうそれは僕からは言えないんだ。
 だってそうだろう。多香子は僕に言われて仕事に頑張っているんだよ。「やっぱり、あの話は撤回だ」なんて言えなかった。
 僕はそうやって多香子を追い込んでいったんだ。
 そんな僕は男として格好の悪い話だが、多香子に好かれていない。
 いつだったか、遠野さんに話したよね?
 恭子が幼稚園で描いた絵に小さな家と実のない木しかなかった、っていう話。
 恭子は平凡な家庭を、暖かい家庭を望んでいたんだ。
 それは僕も同じだ。
 おそらく多香子も最初はそうだったはずだ。
 多香子の純粋な気持ちを歪めてしまったのは僕だ。
 でもね・・
 多香子が思っても、恭子がそう願っても、僕はそうはいかなかった。
 僕は仕事から逃げられなかった。最後には病気から逃げられなかった。
 結果的に多香子や恭子を巻き込んだ形になってしまった。
 結局、僕は仕事に身を投じていただけで誰も幸せにはできなかった。
 そのことだけが悔やまれてならない。
 一体、僕は誰のため、何のために仕事をしてきたのだろう・・今になってそう思う。
 もし勝手を言っていいのなら、
 多香子だけでも、恭子と暖かい家庭を築いて幸せになって欲しい。
 もしその時が来たら、遠野さんにその手助けをしてもらいたい。
 これは一人よがりの勝手な男の独り言だ。
 これ以上、書くと、男の泣き言みたいになるから、筆を置くこととしよう。
 最後に、遠野さんと過ごした東京の邸宅の庭での会話、結構楽しかったよ。
 遠野さんのことを書こうと思っていたが、多香子のことばかりになってしまったな。
 少し、気分が悪くなってきた。また発作が始まるのかもしれない。
 明日、元気があれば多香子と恭子宛ての手紙を書くことにするよ。
                                ヒルトマン

 多香子、多香子、って・・手紙の中にだけ、たくさん書いたものね。
 手紙を読み終え、もう一枚の紙、ドイツの宝飾店の連絡先が記されたメモを見た。
 明日にでもここに連絡して修理を依頼してみよう。
 大事な思い出が修復できるかもしれない。

「・・お母さま?」
 いつのまのか目が覚めていた恭子の声に現実に引き戻された。
「恭子さん、ごめんなさい・・起きてたのね・・退屈だったでしょう?」
 手紙から顔を上げると、そこにあの人と同じ青い瞳があった。
 恭子は背を正し私のコートを膝の上に載せると「お母さまの声が聞こえた気がしたの」と言った。
 恭子が遠野さんに「これは?」とコートのことを訊ねると「お母さまがかけてくださったのですよ」と微笑んだ。
「ヒルトマンさまは、この手紙を書かれた翌日、最後の入院をされました」
 日付を見ると確かに長い入院となった前日だ。
「ヒルトマンさまは、奥さまに平凡な主婦になってくれるよう、お望みになられていたのではないでしょうか?」
 だって、私はあの人が望むようにずっと仕事を・・
「遠野さん、私を慰めてくれるのは有り難いけど、私はそれほど、彼に愛されては・・」
 遠野さんの慰めがつらかったので私が否定するように言うと恭子が「お母さま」と遮るように小さく口を開いた。
「お母さまは、勘違いをされているわ」
「私が勘違い?」
 恭子は深く息を吸い込むと「お母さまはずっと私や静子さんに辛くあたっていたわ・・静子さんにひどいことを言っていたのを何度も聞いたわ・・だから、私はお母さまが家に帰ってくるのがイヤだった」と珍しく激しい口調で続けた。
「恭子さまっ、お母さまにそのようなことを言ってはいけません」
 遠野さんが慌てて制しだしすと恭子は「静子さん、ごめんなさい」と我に返ったように謝った。きっとずっと言えなくて心の中に溜まり続けていたものが噴き出したのだろう。
 やはり、私はこの家にはいない方がいいのかもしれない。二人だけの方が。
「遠野さん、いいのよ・・恭子さんの言う通りだし・・これからも辛くあたらないとは言い切れないわ」
 私がそう言うと恭子は「やっぱり怖いわ」と言って膝の上のコートを胸の辺りまで引き寄せた。
「そうよ、遠野さんは優しいかもしれないけど、私は怖いわよ」
 冗談めかして言ったが、恭子の言葉は胸にこたえた。
 けれどそれは長い間、唯一の家族を省みなかった私が受けるべき当然の罰だ。
 たまにこうして帰ってきたからといって、こんな暖かな団欒を享受してはならない。
 私に恭子の母親の資格なんてないもの。
「恭子さん、ごめんなさい・・それに、正直に言ってくれてありがとう・・恭子さんはいつも我慢してくれていたのね」
 恭子は私のコートの中に顔を埋める。
「でも、さっき言った『勘違い』って・・どういうことなの?」
 私の問いに恭子は静かに顔をあげて「お父さまの好きだった人は、私の本当のお母さん・・」と言い、続けて「そして、お母さまよ」と言った。
「『お母さま』って・・それ・・私のこと?」
 恭子は当たり前だと言わんばかりにこくりと頷いた。
 この子は遠野さんと同じように私を慰めてくれているのだろうか?
「お父さまに向き合わなかったのは・・お母さまの方よ」
 向き合わなかった?
 私があの人を見なかったっていうこと?
 あの人は私を見ていたって言うの?・・それが私の勘違い?
 そんなはずはないわ。
「お父さまと一番長くお話をされていたのはお母さまよ・・」
「え、ええ、でも、それは仕事の話ばかり・・」
 確かに東京の邸宅の二階の居間で事業の展開について夜遅くまでよく話し込んでいた。
 あの人は仕事の話をしながら「君は物事を見る視点が他の人とまるで違うな」と誉めてくれたり「今度作る商事部門の会社の方向性は君に全部一任するよ」と私を信じてくれた。 新しく作った会社が軌道に乗った時には彼は「僕の信じていた通りだ」と自信に満ち溢れた顔で言った。
 そんな彼の顔を見るのが楽しみで私は更に仕事に勤しんだ。
 私が嫁ぐ前の父の会社にいた頃にはありえないことだった。あの人は私の元上司の町田さん同様に私の能力を高く評価してくれた。
 だが、それは仕事上だけのことで、一人の女としては・・
「仕事の話だけだったら、ダメなの?」
 恭子がブルーの瞳で私を見つめていた。あの人と同じ色がそこにあった。あの人に言われている気がした。
 恭子の言うとおりだ。仕事の話だけで十分過ぎるほどに十分だったはずだ。
 彼が私を信じてくれ、私は彼の期待に応えようと頑張った。彼の笑顔を何度も何度も見たかったからだ。
 彼はずっと私を見ていてくれた。
「奥さま、ここにもう一つ手紙があります・・これは奥さま宛てです」
 遠野さんは今度は封筒を差し出した。
「私宛て・・今頃、どうして?」
「はい、私宛てのものも、奥さま宛てのお手紙も、ヒルトマンさまの引き出しの中の本の間に栞のように挟まれてあったのです・・私も長い間気づきませんでした。奥さま、申し訳ありません・・どうかお許しください」
 遠野さんは深く頭を下げると「私はそのお手紙は読んでおりません」と念を押した。
 私は遠野さんから封筒を受け取り表を見た。「多香子へ」と書かれてある。
 私は夢中で封筒を開封し、折りたたまれた便箋を広げた・・あの人の字がそこにあった。
 遠野さん宛ての手紙と比べて抑揚が落ちている気がする。わずか一日で体調が変わったのだろうか? 

 ―多香子、多香子は今、どんな空を見ていることだろう。
 こちらは快晴だよ。今日は多香子は九州に出張だったね。確か3週間位の予定だったかな?
 あまり仕事で無理はしないで欲しい。時には肩の力を抜くことも大切だよ。
 何から書こうか・・改めて筆を取ると何を書いていいのか分からない。昨日は遠野さん宛てに色々事務的なことを書いたからね。
 事務的なことを書き尽くしてしまうと、あとには何が残るんだろうね。

 そうだ・・今朝、ようやく花壇の花が咲いたよ。
 小さいが素敵な百合の花だ。
 いつも遠野さんが手入れをしてくれている花壇の花だ。
 まだ一輪だけだが、遠野さんは「他のもすぐに咲きます」と言っている。
 百合は咲くのに時間がかかるらしい。途中で枯れてしまうこともよくあるそうだ。
 家にいることが多くなってからは、庭に出て花壇を見るのが僕の楽しみの一つなんだよ。
 多香子は憶えているかい?
 多香子、見合いの席で言っていただろう。
「私は桜の花よりも、どちらかと言うと、百合の花が好き」だ、と。
 僕が初めて日本を訪れた時、日本の文化を好きになったきっかけは桜だった。
 残念だが、神戸で桜を見るまで僕の体は持ちそうにない。
 見ることのできないものはもういい・・
 そして、時間はかかったが、こうして百合の花を見ることができた。
 僕は多香子に出会って日本に桜以外にも美しい花があることを知った。
 今朝、花壇に百合が咲いているのを見つけた時、まるで多香子がここに・・僕のそばにいるように感じたよ。
 多香子、今までありがとう・・恭子のことを頼んだよ。
 
 私はしばらく顔を上げることができなかった。
 何度も何度も彼の言葉を読み返し、そして、心に刻みつけた。
 短い手紙だが、彼の言いたいことが伝わってくる手紙だった。この日、彼は最後の入院をすることになる。
 最後から5行目位からは手先に力が入らないのか、少し文字が乱れている。これがあの人の最後の力なのか、と思うと悲しくなった。
 あの日、会社に電話があり病院に駆けつけたが、彼はすでに意識がなくなっていて話すことはできなかった。
 この手紙が彼の最後の言葉だと思った。ようやく彼の最後の言葉を聞くことができた。
 ―見ることのできないものはもういい・・
 それは私には「戻ってこない者はもういい」と言っているように思えた。
 そう思うことにした。
 ―時間はかかったが・・
 それは彼が私と過ごした時間・・そう考えることにした。
 桜以外にも美しい花が・・私はそこまで考えると俯いたまま首を横に振った。
「ばか・・」と私は自然と声に出していた。
「百合の花が好き」なんて言ったこと、私、とっくに忘れてしまっていたのに。
 私も勝手だけど、あなたも勝手だわ・・

 少し涙を零していた私に恭子が「お母さま・・」と声をかけた。
 そして、遠野さんが私が手紙を読み終えたのを見計らって話しだした。
「奥さま、私、この部屋にルノワールの『ムーラン・ド・ギャレットの舞踏場』がこの部屋に掛けられていることがずっと不自然だと思っていました」
 それは私もそう感じていた。この絵は女性一人が過ごす部屋には相応しくない。
 絵の力は不思議なもので、誰かといると何とも思わないが、一人きりでこの絵を見ていると妙に落ち着かなくなり誰かをこの部屋に引き入れたくなってしまう。
「由希子さまがお掛けになったのでしょうか?・・最初、私はそう考えました。でもそれは単なる想像にしか過ぎません。島本さんに訊いてみようとも思いました。でもその必要もありません」
 そうよね、その必要はないわ。誰よりもこの部屋のことを知っている人物がここにいる。
「この部屋に一番よく入られていた人は・・」と言いかけた遠野さんの言葉を途中で区切り「恭子さんよね?」と私は言った。
「はい」と遠野さんは答えると恭子の方に向き直って「恭子さまはよくこの部屋に入られていましたから、ご存知でしょう?」と訊いた。
「絵を掛けたのは、お父さまよ」
 恭子はそう答えた。恭子は父が離婚して実の母親がいなくなったあとも、母の面影を残すこの部屋に一人で入っていた。
「そうです、ヒルトマンさまです・・ヒルトマンさまはこの部屋を訪れる人の幸せを願っていたのです」
 この絵に描かれてある人たちはみんな笑顔だ。不幸の影すら感じられない。画家ルノワールは自分の描いた絵を見て幸福になってくれることを祈っていた。
 ここを訪れる人、それは、私たち家族。
「ヒルトマンさまは、由希子さまのことを愛し続けていたと思います・・けれど、奥さまのことも、同じように、いえ、それ以上に愛されておられた・・私にはそう思えてなりません」
 遠野さんの言葉を聞きながら、あの人の手紙を持つ指に力が入っていた。そして、その力で便箋が震えていた。

「遠野さん、・・そ、それで、百合は?・・百合の花はどうなったの?」
 東京で咲いた百合の花、最後に主人が見た花を私は見ることができなかった。
 できればあの人と一緒に見たかった。
「百合?」
 遠野さんは首を傾げる。
 あっ、遠野さんはこの手紙を読んでいないのだわ。
「ええ、主人の手紙に遠野さんが植えた百合が咲いたと書いてあるの」
「奥さま、そのお手紙、読んでもよろしいでしょうか?」
 私が渡した手紙を遠野さんは静かに読み、しばらくして顔を上げ「奥さま、ご安心して下さい」と言った。
「同じ実をこの神戸の庭の花壇に植え直しています・・時間はかかると思いますが、必ず咲きます・・咲かせます」
 遠野さんの自信に溢れた表情を見ていると、不確かなことが確実な未来の約束に思えるから不思議だ。
「奥さまは見られなかったと思いますが、あれから花壇の百合は全部咲きました」
 遠野さんがそう言うと恭子が「とても綺麗だったわ」と続けた。
 ああっ・・何ということなの・・私は何も見ていなかった。
 あの人のことも、恭子も、この家や庭も・・何も見ていなかったし、気づかなかった。
「ただ、ヒルトマンさまはその前に・・」
 彼は一輪だけ咲いたのを見届けると、そのまま病院に・・
「全部咲いた花壇の百合をヒルトマンさまにお見せしたかった」
 そう言った遠野さんの目は遠くを見ているように見えた。
「遠野さん・・」
 遠野さんの目に家政婦の職務以上のものを感じた。

 ―あなた、いい人を家政婦に選んだわね。
 ―そうだろう、多香子・・
 あの人の声が私の横で聞こえた気がした。
 この広い部屋には三人しか座っていない。
 本当なら私の横に主人にいるはずだった。だが、あの人は人生のレールを途中で降ろされた。でも、今日だけは四人いる、そう思わせて欲しい。

「奥さま、このお手紙、恭子さまにもお見せしてよろしいでしょうか?」
「恭子にも読んでもらって」
 恭子は読み終えると「私の思ったとおりだわ」と小さく言った。
 
 長い間、東京にいても見出せなかったことの答えが神戸に帰ってきて、遠野さんや恭子と話すことで暗かった部屋に明かりが次第に差すようにどんどん周りのものが見え始めた。
 私はこの場所に帰ってきてよかった。
「私はここにいていいの?」という私の不安を消そうとするかのように、
「お母さまが怖くても、私、頑張って耐えるわ」と恭子が冗談なのか本気なのかわからないことを言ったり、その言葉を受けて遠野さんが「恭子さまっ」と慌てだしたりした。
 話題はすぐにまた夫の思い出話に戻った。遠野さんが東京の邸宅の庭で主人と交わした話をすると、恭子は「お父さまはよくご自分のベッドに私を呼んだのよ」と言って、その時、学校の成績のことを言うと「お父さまはこうやって私の頭を撫でてくれたの」と自分の頭を撫でてみせた。
 おだやかな時間が過ぎていった。
 それぞれの人の思い出の中にあの人は生きている・・そう思った。
 それから、食べて無くなったマドレーヌの替わりに遠野さんが芦田堂で買ってきた和菓子を食べたり抹茶を頂いたりして夕方まで過ごした。
 その間、私は「どうして、あなただけ、いなくなっちゃったりしたのよ」と言って泣きたいのをずっと堪えていた。


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