20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:「継母長田多香子の憂鬱」 作者:小原ききょう

第28回   桜の花よりも


 その部屋に足を踏み入れた時、本の匂いのする場所だ、と思った。
 かつてここは私にとって最も憎むべき場所だったはずだ。
 けれど、今では当初の感情は薄れてしまっている。
 この部屋はヒルトマンと結婚した頃、私は一人でここに入ったことがある。
 その頃はこの場所は東京の邸宅にあった。
 大邸宅なので入ったことのない部屋が数多くあった。この部屋もそのうちの一つだった。
 まず、目についたのは大きなクローゼットだった。中には何着かの前妻の服が掛けられていた。
 その次に大きな三面鏡だ。その数多い引き出しの中には宝飾品が入っている。おそらくこれらは全てではないだろう。
 仮にも数年、ヒルトマンの妻だった女性だ。宝飾品はこれらの数倍はあっただろう。
 写真も何枚かあった。ヒルトマンの前妻、神園由希子の写真だ。
 なぜ、このようなものを・・
 私の眼前に和服をきた神園由希子という女性がすっと立ち上がり現れた気がした。
 ―由希子は桜のような人だった。
 ヒルトマンがよく知人にそう漏らしていたと、人づてに聞いたことがある。
 私は神園由希子の写真から目を覆い、ヒルトマンの声から耳を塞いだ。
 あなたは言ったわね・・「できればあの部屋はそのままの状態にしておいて欲しい」と。
 ちょっとだけその言葉に逆らわせてもらうわ。
「島本さんっ!」
 大きな声で階下の家政婦の島本さんを呼んだ。
「ここにある服を全部捨ててちょうだいっ!」
 私は島本さんにクローゼットの中の服を売り払うように命じた。
 私の激しい口調に島本さんは少し驚いている。
 島本さんは反対もせず「そりゃ、そうですよねえ・・これではあんまりですよねえ」と言いながら衣服類の片づけを始めた。
「奥さま、引き出しの中のお品はよろしいのでしょうか?」
「そうね、写真は・・あの子にあげてちょうだい」
「アクセサリーなどはいかがいたしましょう?」
「誰か、欲しい人が現れたら、あげるのもいいわね・・持ち主に返すのが一番だけど、とりあえずそのままでいいわ」
「そうさせていただきます。宝飾品はそうさせてもらいますけど、三面鏡やクローゼットを動かすのはちょっと」
 島本さんは年配の女性だ。業者を呼んで片付けないと大変な作業になりそうだ。
 私はその日以降、この部屋を自然と訪れないようになった。
 あの人と結婚したばかりだというのに、この部屋のせいで、前妻に対する嫉妬と夫に対する小さな怒りが次第に大きく膨らんでいった。
 あの日から私は、この部屋から逃げるように仕事に没頭するようになったのだ。
 この部屋が丸ごと神戸に移送されてからも今日まで入ったことはない。
 だが、今日ここに入って、この部屋はもう前妻の部屋ではないと思った。
 それはたぶん、遠野さんのついてくれた優しい嘘のせいかもしれない。
 私はその嘘を信じることにして、これから生きることにしよう。

 私は窓際に足を進め外を見た。
 庭の向こうに桜の木が並んでいるのが見える。
 おそらく、あの人が前妻を迎える日のために植えた木だ。その真っ直ぐ向こうには神園邸がある。
 あの人が由希子さんをずっと愛していたのは絶対的な事実だ。
 遠野さんがどんなに優しい嘘をついても曲げられない事実だ。
 けれど、そんな人だから・・いつまでも誰かを愛しているような人だから、私は彼を好きになったのかもしれない。

 あの人に初めて会った日、お見合いの席の日本間の庭に咲く桜が本当に綺麗だった。
「緊張しますね」
 お互いにそのようなことを言っていた気がする。二人とも目の前のお茶には手をつけていなかった。そんなに暑くもないはずなのに、首筋を汗が伝う。
 私の両親たちが退席すると更に緊張が高まった。足が痺れて感覚が無くなっていることも気づかなかった。
 私は彼の顔をまともに正視できなかった。
 だって、瞳が青かったのですもの。
 私は彼の顔から逃げるように「桜、綺麗に咲いていますね」と言って庭を見た。
 たどたどしい私の声に誘われるようにあの人も庭を眺めた。
「ああ、本当だ・・」
 彼の顔が横向きになって、ようやく私は彼の顔をまともに見ることができた。
 何て横顔の綺麗な人なんだろう・・半円を描いている青い瞳の向こう側が透き通って見えるようだった。
 彼はいつまで見ているのだろうか? 何か私から声をかけた方がいいのだろうか?
 それとも一緒に桜を見ていた方がいいのだろうか?
 時折、風が吹くとひらひらと桜の花びらが開け放たれた障子から畳の上に舞い降りる。
 少しの時間だったが、すごく長く感じた。
 その時の私は彼はよほど桜が好きなのだろうと私は思っていた。
 桜が綺麗だと思っていたのは私も同じだ。
 だが、彼は桜を見て前の妻を思い出していた。
 そして、私は桜を見るあの人の横顔に見惚れていたのだ。
「君も桜は好きかい?」
 ようやく彼が私の顔に向き直った。
「ええ・・」
 どうしてだろう・・彼の問いかけに素直に頷くつもりだったはずなのに、私は違う言葉を選ぼうとしていた。
「・・でもどちらかと言うと」
 あまりにも彼が桜ばかり見ているので私は少し逆らいたくなったのかもしれない。
「どちらかと言うと?」
 ブルーの瞳が私の目をのぞき込む。
「どちらかと言うと・・私は桜の花よりも・・」
 他の花の名前を言うと彼の機嫌を損ねるかもしれないと思ったが、私は本当に好きな花の名前、子供のころから好きだった花の名前を言った。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 1151