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作品名:「継母長田多香子の憂鬱」 作者:小原ききょう

第27回   長田家の図書館


「奥さま、申し訳ありません、掃除機の音、うるさかったでしょうか?」
 奥さまはスッと足を部屋の中に踏み入れた。
「防音が行き届いているから、そんなに聞こえないわよ」
 奥さまは腕を組み、辺りを見回しながら言った。
 仕事から帰ってきたばかりなのか、ぱりっとしたスーツを着ている。タイトスカートがよくお似合いだ。大人の女性らしい体のラインを引き出している。
「お帰り、早かったのですね?」
「今日は神戸の関係先の挨拶回りだけよ、午前中で片付いたわ」
 そう言って奥さまは部屋の中を見渡し「この部屋もすっかりこの家の図書館ねえ」と言った。
「あの・・奥さま、この部屋は・・」
 私の知っている限り、奥さまはこの部屋に足を踏み入れたことは一度もない。
「遠野さん、知ってるわよ・・元、由希子さんの部屋でしょ」
「ええ」
「私、この家の主よ・・知ってて当たり前よ・・それとも、私がこの部屋に入ってはいけない理由でもあるの?」
 理由はないが、やはり気を使ってしまう。
 夫の亡き後とはいえ、前妻と後妻の関係を浮き彫りにしてしまうような部屋だ。
「それにこれからはずっとこの家にいるんだから」
 そう、奥さまは来年度から、長田商事の神戸の常勤の役員に就任する。当然ながらここから神戸の会社に通うことになる。
「それにここが由希子さんの部屋だったのはもうずいぶん昔の話よ」
「そうですね・・おっしゃるとおりです」
「ここに置いてある本も少しずつ読ませてもらうわ」
「あの、奥さま、ここ、私が買って読んだ本もここに置かせてもらっているんです」
「あら、自分の部屋に置かなくて、ここに?」
「え、ええ、いつか恭子さまがお読みになる日が来るのではないかと」
 私がそう言うと「ありがとう・・遠野さん」と奥さまは言った。
「恭子のこと、よく考えてくれているのね」
 私は頷いた。
 それから奥さまは並んだ書架を見回しながら部屋の中を静かに歩き出した。
「ところで、遠野さん、ここにある本って、全部、あの人、由希子さんが読んでいたものなの?」
「はあ・・おそらく、そうなのではないでしょうか・・」
 由希子さまが実際に読んでいたのかはわからないが、改めてこうして見ると、すごい量だ。神園の家に持っていくのは邪魔だったのだろうか?
「でも、遠野さんが読んで置いている本もあるのよね?」
「はい・・経済関係の本とか・・欧米文学の本も少し・・」
「経済?・・欧米文学?・・またずいぶんと多岐にわたっているのね」
「ええ、恭子さまが経済にご興味を示された時に、いつでも教えることができるようにと」
「それって何年先になるのかしら?・・でもあの子の場合、意外と早いかもしれないわね・・それで、遠野さん、欧米文学にも何か理由があるのかしら?それもあの子のため?」
「いえ、欧米文学は去年、フィッツジェラルドの『ギャツビー』を改めて読んでから、少しはまってしまって・・原典も買って読んだりしていたんです」
「ギャツビー?」
 そう言って奥さまは何か思い当たったのか宙を見つめた後、こう続けた。
「主人の愛読書ね」
 えっ?
「ギャツビーはヒルトマンさまの?・・ですか」
 あの日本語訳の「ギャツビー」は由希子さまの本ではなかったのか。
 私が訊くと奥さまは「主人は自分の本をこの部屋に突っ込んでいたってわけね」と続けて言った。
 ここにあるのは全て由希子さまの本というわけでもなかった。
 ペーパーバックやヘッセ等のドイツ文学の原典も多いとは思っていたが。
 本国の人間ならともかく、ドイツ文学の原典など読める日本人はそうそういるものではない。
「主人の部屋で見かけた本がなくなっていると思っていたら、あの人、読み終えた本をその都度この部屋の本棚に入れていたのね」
 ヒルトマンさまは由希子さまに負けずと劣らず読書家だ。仕事の移動には必ず本を鞄に入れていた。
 そう考えると、この部屋にある本はヒルトマンさまの本もたくさんあるのでは?
 私が確認するまでもなく奥さまは「ああ、この本もそうだわ」と言いながら書架にある本を一冊一冊手に取って確かめるように見だした。
 そのうち、手に取らず背表紙だけで「このトーマス・マンの『魔の山』もそうよ」とか言いながら楽しそうにチェックしている。
 奥さまはこれほど横顔の綺麗な人だっただろうか?
 懐かしい写真でも見るかのようにその瞳は憂いを帯びている。
 私はなぜか、丸の内の会社の倉庫で、二人で埃だらけになって帳簿のチェックをしたことを思い出していた。あの時より、よほど奥さまは楽しそうだ。
「あら、これ、一度、読んでみたかったのよ」
 奥さまは書架から一冊の本を抜き取り私に見せて微笑んだ。
 ドイツの文豪、ヘルマン・ヘッセの代表作「車輪の下」の日本語訳版だ。
「この本、読もうとして主人の部屋に入ったら、もうなかったの・・これもここに入れていたのね」
 遠い昔に失ってしまった大事なものが見つかったような喜びようだ。
 何冊かを探し出すと止められなくなったみたいで、じっくりと書棚の隅々まで目を通している。
「あら、夏目漱石の『坊ちゃん』まであるわ・・これ、遠野さんの前任の島本さんの本よ、辞める前にここに置いていってくれていたのね」
 一歩前に踏み出さないと知ることができないことがある。
 これは長田家の不思議な出来事なのかもしれない。
 私はここにある本が全て前妻、由希子さまの本だとばかり思っていた。
 部屋に入ることで探していたものが見つかることもあるのだ。
 奥さまはこの部屋には一度も入ろうとすることがなかった。
 それは嫉妬なのか、妻として、夫に対する怒りなのかはわからない。
 ただ、言えることは女の意地のせいで、あるはずのものが見えなくなっていた。
「遠野さん、結局、ここにある本の半分以上はあの人の本よ」
 奥さまは全ての本をチェックし終えたみたいで私にそう報告した。
「あの人」がヒルトマンさまを指すのは間違いない。
 道理でヒルトマンさまの部屋に本が少なかったはずだ。
「それで、遠野さんが置いた本は何冊くらいあるの?」
「おそらく、100冊以上はあるかと・・」と私が答えると奥さまは笑って「ここって、本当に長田家の図書館だったのね」と言った。
 百科事典などは、この家の資産みたいなものだから、それらを省き、ヒルトマンさまの本、私の本、島本さんの本を抜いてしまうと、由希子さまの本はそれほど多くはないのかもしれない。
 もちろん、当初は由希子さまの本がほとんどだったはずだ。だが次第に、ヒルトマンさまや私の本の割合が増えていった。
「私も、これから本を読み終えたら、ここにしまっておくことにするわ」
 これからは奥さまの本が増え、そのうち、恭子さまもここに置くようになるだろう。
 私は奥さま、そして恭子さまや私が本を持参したり、持ち出したりするためにこの部屋を出入りするところを想像した。
「奥さま、ヒルトマンさまは最初からこの部屋を長田家の図書館にしようと思っていたのではないでしょうか?」
 亡くなった方の思いは絶対に知ることが出来ない。推し測るだけだ。
「あら、この部屋、由希子さんを思い出させるようなもの、由希子さんの持ち物ばかりあったのよ・・わざわざそんな部屋を?」
「奥さま、今までここに入られたことは?」
「ええ、結婚したばかりの頃、一度だけね・・それっきり入らないようになったわ・・ちょっと後ろめたいこともあったし」
「後ろめたいこと?」
「ちょっと、あの人に逆らったから・・私ね、主人に言われていたのよ・・『できればこの部屋はそのままの状態にしておいて欲しい』って」
「それで?」
「でも、ここにいない人の服はいくらなんでも不要だと思って、服は勝手に全部処分したのよ。私には小さすぎるサイズの物ばかりだったし・・遠野さんの前任の島本さんに言って処分してもらったのよ」
「お別れになる際に持っていっていただければよかったですね」
 私は少し由希子さまに対する皮肉を込めて言った。
「本当にそうよ、わざわざ、服を置いていくなんて・・」
 奥さまは私の皮肉に合わせたように言って微笑んだ。
 そして、ここからが本題。
「奥さま、それは何故だと考えられましたでしょうか?」
「遠野さん、どうしてなの?」
「いくら、ヒルトマンさまが前妻の由希子さまを愛していたからといって、この部屋をそのままにしておくのは、奥さまに対して、ひどすぎると思います」
 私はグストフ氏が先日奥さまに言った「君だってヒルトマンに愛されていなかったんだろう?」と同じような言葉を使った。
 でも少し違う。グストフ氏は奥さまを傷つけるために言った。私は奥さまを傷つけるつもりはない・・その反対だ。
「主人は由希子さんが帰ってくる日のために、この部屋を用意していたのだと思うわ」
 実際に別れた妻が戻ってくることなどあるのだろうか?
 もしそんなことがあるとしたら奥さまにとってはとんでもなく酷い話だ。
 だが、今の私のご主人さまはあくまでも奥さまだ。
 私は奥さまの絶対的な味方だ。
「私はこう思います・・ヒルトマンさまが由希子さまに、この部屋に何かを置いて出て行くようにお願いしたのだと」
 奥さまは黙って私の話に耳を傾けている。
「ヒルトマンさまは、恭子さまが将来、長田グループを背負う存在になることを願っておられました。いえ、願わなくても、いずれそうなると思います。恭子さまはご成長されるにつれ、厳しい経験を積まれることになると思います。そんな時に、母親の思い出が少しでも感じられるような場所を作ってあげたかったのではないでしょうか?」
「じゃ、私が恭子から、実母の思い出の品を取り上げてしまったっていうことなの?」
「そういうことになると思います・・ただ、恭子さまは奥さまに対して、そのようなことは決して思ってはおられないでしょう」
 私がそう言うと「でもそれは、遠野さんの憶測ね」と言った。
「はい、奥さま・・ただの私の推測です・・」
 ヒルトマンさまが亡くなっている今、私にはこの部屋の存在理由を知ることはできない。
 そして、それは奥さまの方も同じだ。
「遠野さんの・・嘘・・かもしれないわね」
 奥さまは少し悲しい表情を見せる。誰だって「嘘」は信じるわけにはいかない・
「むしろ、この部屋がそうであって欲しいと願う私の気持ちで言っているのかもしれません」そう言って私はこう続けた。
「これからは奥さまが恭子さまの、本当の意味での母親の役目をされる時ではないでしょうか?」
 少し偉そうなことを言ってしまったと後悔した。
 奥さまは私の言葉が聞こえていなかったのか、部屋の中を歩き始めた。
「遠野さん、私、東京のマンションを売ることにしたの・・これからは東京に出張の時はホテルを使うことにするわ」
「それでは東京のお荷物は?」
「全部、この家に持ってくるわ・・私の部屋に入りきらなかったら・・そうねえ・・この部屋にでも置かしてもらおうかしら」
 その方がよろしいかと思います・・私は心の中でそう呟いた。
 他にも開いている部屋はある。けれど、まずはここから埋めていった方がいい。
 奥さまは窓際まで足を進めると、
「私、来年、この家で桜が咲くのを初めて見ることになりそうね」と言い、
 窓辺に寄りかかり小さく言った。
「私、長い間、この場所から逃げていたのかもしれないわね」
 この場所・・それはこの部屋のことなのか、それともこの家のことなのか?


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