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作品名:「継母長田多香子の憂鬱」 作者:小原ききょう

第19回   長田家に入るということ


 工藤さんが田辺に声をかけられて「バカみたいに喜んだりして」と言っていたけれど私も人のことを言えた方ではない。
 私もバカみたいに喜んだことが一度あった。
 それは私の元上司の町田さんが一番よく知っている。
 あれは私が、大学を出てすぐ父親の経営する水原商事に入社し働いていた頃。
「親の七光り」と陰で言われていた事務職の私を営業職に引き上げてくれたのは町田さんだった。
 町田さんは私が社長の娘であることで、他の社員と分け隔てすることなく接してくれた唯一の人だった。
 あの日、私は町田さんに向かって駆けていった。
「町田さんっ!」
 私の大きな声に振り返った町田さんの顔、埃や油だらけで笑いそうになったわ。
 そう、あれは町田さんが会社の倉庫で資材の定期点検をしていた時、私はヒルトマンとの縁談が成立したことを報告しに行ったんだったわね。
 町田さんは私の顔を見ただけで何の話か理解したらしく、まるで自分のことのように満面の笑みを浮かべて喜んでくれた。
「多香ちゃん、ほんま、良かったやないか」
「全部、町田さんのおかげです!」
 私は上司の町田さんに深く頭を下げた。
「何言うてるんや、これは多香ちゃんの勝ち取った運命やないか。多香ちゃんが、仕事がようできるから、運命の神様が多香ちゃんに幸運を運んできてくれたんや」
 町田さんは普段からよく「運命」という言葉を口にする。でもこの時くらい「運命」という言葉が素敵に思えたことはない。
「町田さんに早く伝えたくて、走って帰ってきたんです!」
ここに来る途中、町田さんによくしてもらったことが走馬灯のように浮かんだ。
「多香ちゃん、それにしても嬉しそうやなあ」
 町田さんはニコニコしながら私の顔を眺めている。
 見合いの席で彼がずっと庭に咲いていた桜を見ていたことは黙っていよう。
 今はとにかく町田さんに喜んでもらおう。
 町田さんの喜びが苦楽を供にしてきた私の喜びでもあるのだから。
 町田さんが私に仕事を与えてくれていなかったら、私は会社でも頭角を表すことなく、長田グループのトップとの縁談話も上がらなかった。
 町田さんの人の良さそうな無垢な笑顔を見ていると胸の奥が熱くなってきた。
「多香ちゃん、何も泣くことあらへんやないか」
「だって、町田さん、私、本当に嬉しいんですもの・・」
「多香ちゃんに泣かれると、なんや、わしまで、泣きたくなってきたわ」
「ごめんなさい、でも、彼、本当に素敵な人で・・これから私、幸せになれるのかと思うと・・」
 私はハンカチを涙が溢れる目に当てた。
 見合いの後、何度か会ったヒルトマンは日本人とは異なる面も多くあるが、いい意味での紳士だったし、信念を持って事業をしているように感じた。
 そして、どこか寂しそうに遠くを見ている青い瞳、その容姿にも私は惹かれた。
「でも・・でも、町田さん、これって・・政略結婚ですよね?・・」
 陰で女子社員がそう言っていたのを何度も耳にしていた。
「誰が、そんなことを言ってるんや」
「誰も言ってないですけど、お父さんが『これで水原の家は大丈夫だ』って、お母さんと話していたのを聞いたから」
「多香ちゃん、そやけど、ヒルトマンは男前やったんやろ? 多香ちゃんが、この人や、と思ったんやろ?」
 私は泣きながら頷いた。
「そなら、心配せんでも、もう多香ちゃんの前には頑丈な幸福のレールが敷かれとるわ」
 町田さんの言葉に私は何度も頷いた。
「わかったなら、多香ちゃん、そないに泣かんでも・・」と言う町田さん自身も泣いていた気がする。
 あの日、私はバカみたいに喜んでいた。



 その時の私は、将来訪れる不確かな未来の不安よりも、
 これから彼と新しく築く家庭への憧れが勝っていた。
 縁談が成立した後、私はヒルトマンに呼ばれ東京の邸宅を訪れた。
 邸宅を訪れる前に、お見合いの時のように行きつけの美容院で結髪し念入りに化粧も施した。洋装もお見合いの時とは雰囲気を変えてみた。何度も手鏡でチェックする。
 ―本当に、彼は私のことを気に入ってくれたのだろうか?
 私のどんなところが?
 そんな不安や疑問は彼の御殿のような大邸宅を見た瞬間、どこかに消し飛んでしまった。
 私は島本さんという当時の家政婦さんに案内され家の中に通された。
 あの人と結婚して、ここに住むことになる・・
 そのことが上手く想像できなかった。ちょっと信じられない・・
「奥さま、旦那さまは客間でお待ちですよ」
 島本さんはそう言って廊下の先を進み、ヒルトマンの所に案内した。
 廊下の左右に色んなタイプの部屋が配置されている。大広間のドアを過ぎ、更に奥に進むと、島本さんが一番大きい、と言う客間に辿りついた。
 島本さんがノックをし「どうぞ」と言うヒルトマンの声を確認しドアを開けると、ヒルトマンが大きなソファーに足を組み腰掛けているのが見えた。
 私が案内され中にはいると「やあ」と言って手を上げ、向かいのソファーに腰掛けるように促された。
 日本茶を出し部屋を出ようとする島本さんをヒルトマンは呼び止め「食事や、掃除、諸々のことはこの島本がやってくれるからね」と紹介した。
 島本さんは「奥さま、紹介が遅れました。島本和代と申します。これから、なにとぞ、よろしくお願い致します」と深々と頭を下げた。
「奥さま、色々と戸惑うこともあるかもしれませんが、所用は何でもこの島本にお申し付けください」
 そうとは訊いていたが何でも委ねてしまうのはさすがに気はひける。
 私は結婚することが前提で会社をすでに退職してしまっていたからだ。
 一応専業主婦になるつもりだった。
 私は結婚して、平凡だが暖かい家庭を作ろうと思っていた。
 だから、早速、島本さんが同席しているところで私は提案した。
「あの、週に一回でいいんです。日曜日の夜は・・そ、その・・私に作らせてもらえませんか?」
 私の言葉に二人はきょとんとしていた。
「何をだい?」
「そ、その、ご夕飯の用意を・・」
 そう言うとヒルトマンは綺麗な笑みを浮かべた顔を見せ足を組み直し、煙草に火を点けた。
「君がそうしたいのなら、週に一回くらいなら・・かまわない」
 ホッとしていると、次にヒルトマンはこう言った。
「ただね、我々のようなクラスの人間になると、妻が家で食事の用意をすることは・・その、なんだ・・とても難しいことなんだよ」
 その意味はよく理解できる。ヒルトマンクラスの事業家ともなると、家で妻が所用をしているところを見られることで家の格を落としてしまうこともある。
 別に誰にも見られなかったらかまわないのではないか、というような問題でもない。
 見られなくても必ず悟られる・・それほど、事業家たちの目は鋭く、かつ肥えている。
「ごめんなさい・・ただ、私の作ったものを食べていただきたくて・・」
 私がそう言うとヒルトマンは強く頷き「よし、わかった。日曜の晩だね、島本さん、覚えていておくれよ」と言ったあと、「島本さんの仕事が一つ減ってしまたかな?」と言って笑った。
「承知致しました」と島本さんが深く頭を下げたので、私は「わがままを言って、すみません」と島本さんに謝った、
 そしてヒルトマンは「これ以上、島本さんの仕事を減らしちゃダメだよ」と言って笑い、「日曜日の番は必ず家にいるようにしないと、君に怒られそうだな」と続けて笑った。
「この話はこれで終りだ・・本題に移るよ」
 本題?
 私の疑問をよそにヒルトマンは新しい煙草に火を点けた。
「水原通商の町田くんからも聞いたけど、君は抜群に仕事ができるらしいね」
「町田さんが・・そんなことを」
 もし、私が仕事ができるという話があるのなら、それは全て町田さんのおかげだ。
 町田さんがいなければ、私はここに座っていない。
「いや、特に町田くんだけが言っているわけじゃない。こういう仕事をしていると色んな情報網を持つようになんだ。僕はね、君の能力はちゃんと掴んでいるつもりだ」
「私は会社を伸ばしたい、と思って頑張っただけです」
「思うだけじゃ、会社は伸びないよ」と彼は私の言葉を遮り話を続けた。
「まず・・そうだな・・ウィットに富んだ会話力、相手の心を読み取りながら、物事を前に進めていく力、事業を伸ばすには欠かせない企画力」
 と言って私の目を見ると、
「そして、何より、品がいい」と言った。
 彼の深く青い瞳が私を見つめる。恥ずかしくなる。
「それは僕が一番、君の気に入ったところだよ」
 近くに立っている島本さんも微笑んでいる。
「どうだい・・僕の片腕になる気はないかな?」
 その笑顔は見合いをしてから今までで一番素敵な笑顔に思えた。
 今でもその顔をはっきりと思い出せる。
 そして、
 どうして、その時、私は頷いたのだろう?
 彼の申し出をどうして断らなかったのだろう?
「私はあなたと暖かい家庭を築きたい」と、どうして言えなかったのだろう?
 おそらく、私は彼の笑顔を見て断れなくなったのだと思う。
 それで、目の前のこの人がもっと喜んでくれて、
 もっと素敵な笑顔が見れるのなら・・
 その時の私はそれだけしか頭の中になかったのかもしれない。
 私には断る理由を見つけることができなかった。
「暖かい家庭」は私の中でその価値を薄めつつあった。

「今日は君に会えてよかったよ」
 彼のこの言葉でこれからの夫婦の方針が決った。
 私はこれから彼の事業を補佐する。私はヒルトマンの貿易事業の中心の長田商事に入ることとなるだろう。おそらく最初から要職に就かされるはずだ。
 こうなることは頭の隅で気づいていたことなのかもしれない。
 ・・もう戻れない。
 私は曲げることのできないレールの上を歩き始めた。
 彼は私の返事に気を良くして「そうだ、僕の娘を紹介するよ。『恭子』という名前だ」と言って私の後ろの半開きのドアの方を見やった。
「恭子、そこに隠れてないで、こっちに出ておいで」
 彼はドアの陰に隠れている少女に呼びかけた。
 なかなか出てこない少女に微笑みかけながら、ヒルトマンは私の方を見て「来年、小学校に入学するんだよ」と言って笑った。
「どんなお母さんなのか気になるみたいでね、さっきから君を見ていたようだ」
 少女はドアの向こうから顔だけを出してこちらの様子を窺っているようだった。
 顔だけが半分、出たり入ったりして、斜めに傾いた頭から綺麗なブロンドが真下にふわりと垂れている。
「お嬢さま・・お恥ずかしにならずに、お出でになってください」
 島本さんも優しく声をかけたが、出ては来なさそうだ。
 私はヒルトマンに「まだ無理なのではないでしょうか?」と言った。
 ヒルトマンは私の言葉に「はっはっ」と笑って「君の言う通りかもしれないな」と私に向き直った。
「さて、どうしようか?」
 ヒルトマンはまるで私を試すように悪戯っぽく笑った。
「あの、私から・・」
 そう言って私は立ち上がると少女のいるドアの方に向った。
 半分隠れていた少女の顔が全て現れると、私のさっきまでの気持ち・・
 これから彼の補佐をしていくという緊張感がほぐれ始めた。
 私は少女に微笑みかけた。


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