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作品名:家政婦遠野静子の憂鬱 作者:小原ききょう

第7回   長田恭子との出会い
 考えているより返事の方が先だわ。
「はい、お嬢さまのおっしゃる通り、その『遠野』です」
 私はおばさんが娘さんを呼ぶのと同じように「お嬢さま」と言った。
 当たっていたことが嬉しかったのか娘さんは少しだけ笑みを見せた。
「もうよろしいのですか?お嬢さま」
 おばさんが娘さんに訊ねる。
 その声に娘さんは嬉しそうな表情を閉じ元の凛とした表情に戻りこくりと頷いた。
最後に雇い主である長田氏が口を開いた。
 ドイツ語だ。
「キョウコ、席を外しなさい」と言ったのがわかる。
 父親に言われ娘さんはぬいぐるみを抱えたまま大人しく部屋を出ていった。
 長田氏は娘さんが部屋を出たのを見届けると私の方に向き直った。
「遠野さん、すまない。娘が何を言っているのか戸惑ったことだろう」
 えっ、この人、日本語が話せたんだわ。それも流暢に。
「さっき娘が言っていた本は、私の前の妻が好きだった本の名前だ」
 長田氏が言っているのは娘さんが口にした「遠野物語」のことだ。
「家の中にまだ前の妻の部屋があるんだ」
 日本人なら頭を掻きながらでも言うセリフだ。
 でも彼にとっては至極真面目な話のようだ。
 前の妻?
 お亡くなりになられたの? それとも別れたのかしら? 前の妻って言うからには「今の妻」という人がおられるのよね? だとすれば、一体どこにいるの?
「娘はあの通り、まだ子供なんだ」
 少し口調が感傷的に聞こえる。
「まだ母親を忘れられないらしくてね・・」
 忘れられないって、お母さんだもの、当たり前だわ。
 それに一番母親にいて欲しい年頃だと思う。
「それで、よく一人で部屋にこもって、母親の書棚を眺めているんだよ」
 この家の中に前の奥さんの部屋がまだあって、そこに本棚があるのね。
 少し見てみたい気がする。
「実の母との繋がりの物が他にないせいもある」
 本だけが繋がり?
 お写真とかは?
「前の妻の服は、全部捨てた・・いや、捨てられたからね。わかるだろう?」
 服と違って本なら誰の本なのかわからない。
 わかっても服とは意味がまた違う。写真は?
 その時、私は思い出した。
 長田氏が娘さんが「まだ母親を忘れられない・・」と言ったこと。
 私はそれは当たり前だと思っていた。
 けれど、それは違うと今、気づいた。
 この娘さんは母親のことをいつまでも懐かしんでいる立場ではない。
 娘さんはいずれはこの家、父親の事業を継承する立場なのだ。
 甘えの期間は他の子供に比べて少ない。
 いや、もうないのかもしれない。
 あとに残された本棚を眺めることくらいしか。
 そうは言ってもまだほんの子供だ。誰か支えになる人が絶対に必要だ。
 それは母親・・その人が今、いないのなら、私の目の前にいる人・・
 それは父親だ。
「それと・・」
 長田氏の声のトーンが急に変わる。
「おそらく、私はもう長くない」
 えっ、何が長くないの?
 すぐに長田氏の言わんとすることがわかったけれど、面接の時に聞く話ではなかった。
 何かのご病気なの?
 この人が死んじゃったりしたら、私、採用されてもすぐに失業するの?
 私の心の中は急に忙しくあたふたと慌てだした。
 私は面接に来ただけで、こんな話を聞かされるなんて考えてもみなかった。
 私はただ大勢の人の中で働くことがイヤでここに来ただけなのに。
 いや、それよりも、
 娘さんに支えである存在、父親がやがていなくなる。
 そっちの方に私の思考が移った。
 私はさっきまでここにいた寂しそうな青い瞳の少女を思い出していた。
 だったら・・
「私は遠野さん、あなたに決めようと思っている」
 えっ、私、合格なの?
 あの大勢いた女の人の中から私が?
 どうして?
 でも、この人が死んでしまったら・・私の採用、どうなるの?
 頭の中が一気に混乱し始める。
「娘には誰かが必要なんだ」
 私の混乱などはまるで関係ないように長田氏の口調は真剣だ。
「母親以外の誰かが・・今の母親は・・」
 そこまで言うと長田氏は口を止めた。
 その言葉に横のおばさんが苦笑いを浮かべる。
 もう一人の男性が天井を見上げ目を瞑った。
「娘が言ってたんだよ」
 長田氏の真剣な表情に笑顔が浮かぶ。
「『いい人がいたら、その人に自分から声をかける』ってね」
 さっきの言葉はそうだったの?
「あの、お嬢さまのお名前をお聞きしてよろしいでしょうか?」
 私が仕えるかもしれない人の名前だ。先ほど長田氏が「キョウコ」と読んでいたけれど漢字がわからない。
「恭子だ・・『恭しい子』と書く。日本の言葉だな。『礼儀正しい』とか『謙虚』という意味、だったかな?」
「そうです、合っています」
 長田恭子・・
 娘さんの名前は日本の名前だったんだわ。
「それに恭子以外にも、島本の方も君を気に入ったようだよ」
「はあ・・」
 島本?おばさんのことなの?
 どう返事していいかわからないけれど、おばさんは黙って笑みを浮かべている。
「島本から質問が二つも出るなんて思ってなかったよ」
 ということは普段は質問はゼロか一つ、ということなのね。
 長田氏が立ち上がった。
「正式には書面で君の自宅に送る。その心づもりでいて欲しい」
 本当に合格だ!目の前がぱっと明るくなる。
「遠野さん、あとは車の免許だけね」
 おばさんがにっこりと笑った。
 はい。すぐにとります!


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