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作品名:家政婦遠野静子の憂鬱 作者:小原ききょう

第4回   静子の過去


 鈴木さんはもう先に来て私を待っていた。
 彼はいつもの珈琲専門の喫茶店の窓際の席で煙草を吹かしながらコーヒーを飲んでいるところだった。
「鈴木さん、ごめんなさい、遅れて・・」
 私がそう言って席につくと鈴木さんは吸いかけの煙草を灰皿で揉み消した。
 私より先に就職の決まっていた彼はそれまで長く伸ばしていた髪をばっさりと切り今は七三にきれいに分けている。よれよれのジーパンはいつも通りだ。
 長い時間待っていたのは煙草の吸殻の本数を見ればわかる。
「いや、そんなに待ってない」
 私は面接の為に買った黒のスーツを着ている。彼の前でスーツを着るなんて初めてのことだ。
 けれど彼は私の服を見ていない。少しは見て欲しい。
 ウエイトレスが注文を訊きに来ると私は彼と同じ銘柄のコーヒーを頼んだ。別に違う銘柄にしてもかまわないのだけど一緒にしないと落ち着かない。
 いや、たぶん落ち着かないのは彼の方だ。
「それで仕事は決まったのか?」
 彼は少し疲れているように見える。
「ええ・・」
 すごく長い時間の最終面接だった。
「前に言ってた・・その、何と言う名前だったかな・・そうそう・・『長田』だ・・その長田という家に決まったんだな?」
 灰皿には吸い終わった後の煙草が何本も連ねて丁寧に並べられている。長さが全部同じだ。彼は几帳面な性格だ。
 私も同じように昔から几帳面だったから「お互い気が合うな」と彼が言って交際が始まったのは一年ほど前になる。交際といってもお互いにまだ学生だったから、休みの日に映画に行ったり食事をしたりする程度だった。
 今日は彼とつき合い始めてようやく一年を迎えようとしている日だった。
 お互いに大学の単位を落とすことなく卒業できることになり就職も決まっているはずだったが、就職が決まっていたのは彼の方だけだった。
「鈴木さん、気にいらないのですか?」
 すごく不機嫌そうな顔をしている。けれどそれは今に始まったことではない。
「だって『住み込み』っていうじゃないか」彼の口調が少し荒くなる。
 彼が大きく息を吐くと灰皿の煙草の灰が舞って私の黒のスーツの上に舞い降りてくる。
手で払い除けるとよけいに汚れる。
 そう思っているとまた彼が大きな溜息をついた。私は彼の息がかからないように灰皿の位置を変えた。
 彼は私のとった行動の意味がわかったように少し厭な表情を見せる。
 それもそのはずだ。
 そう・・私が仕事の最終面接を受けて合格が決まったところは会社などでなく個人の家だ。
 ドイツの事業家、長田ヒルトマンの家の家政婦兼家庭教師の仕事だ。
 会社や公務員でもなくただの事務職でもない。彼も、私の両親も望んでなどいない就職先だった。
 両親や彼なら長田グループの会社の一つにでも入ればいいと言うだろう。

 雇用の条件はまず語学力があること。特に英語とドイツ語は完璧であること。
 教員免許を絶対に持っていること。自動車の免許は必須。そして小学校教育から大学院までの課程の教育が全てできること。
 ある程度のスポーツもできないといけない。
 その家にはまだ小学校低学年の一人娘さんがいるからだ。
 その娘さんに毎日つきっきりで教育を叩き込み大企業の事業を継承することができるくらいの教養を身につけさせる。
 それが私の依頼された仕事の一つだ。
 最初は自信があったけれど面接を受ければ私の想像を超えて奥が深いものだとわかった。
 教育はどこに出しても恥ずかしくないマナー、作法、身のこなし方などを娘さんに身につけさせること。
 他にも文学の素養、西洋の古典文学から日本のものまでを徐々に読ませ理解させること。
 私は教育の基本を娘さんに付きっきり、しかも住み込みで教えなければならない。
 家政婦として当然ながら料理などの家事全般は出来なければならない。
 普通の家庭料理とは別に外賓用の料理専門のコックも別にいると聞いた。
 お茶やお花、ピアノのレッスンなど特殊な習い事は専門の教師を別に雇っているということだ。
 一次面接に来ていたのは二〇人以上はいたと思う。
 そのほとんどが高学歴の女の人、しかも教員の免許、英検の一級の資格を持っている。
 この仕事が安定した仕事だとはとても思えない。
 この家の何かの事情で首を切られるかもしれない。けれどお給料は大企業並みにある。
 大企業のように終身雇用などとは縁遠いかもしれないが、私はそんな先のことまで考えていない。
 この仕事を選んだ理由は私の性格にもある。
 私は小さい頃から大勢の人の中にいるのが嫌いだった。
 だから大企業なんてもってのほかだった。もし大企業に就職したら、その会社のビルの地下室で一人きりで書類整理をしたい、と名乗りでるつもりだった。
 けれどそんな仕事なんてあるはずがない。
 コーヒーカップが目の前に置かれる。
「でも、デートくらいならできます。週に一回、休みがとれますから」
 私の言葉はなぜか敬語だ。
 何度彼に注意されてもすぐに敬語に戻ってしまう。最近では彼もそれについては何も言わなくなってしまった。
「『デートくらいなら』・・か・・」彼はそう呟くと静かな溜息をついた。
 彼は窓の外を見た後、煙草の箱から新しい煙草を取り出し火を点けた。
「君のそういうところがイヤなんだよ」
 そう言うと煙草の煙を勢いよく吐き出した。
 イヤ・・
 そんな直接的な言葉を彼から聞くのは初めてだった。
「君は真面目過ぎるんだ。いつも僕の言う冗談を真に受けて、変なことを言ったりする」
 いったい、いつの話をしているの?
「君は面白くないんだよ」
 彼は日頃思っていることをぶちまけるように言葉を続けた。
「真面目過ぎる」・・「面白くない」・・
 私は心の中でその言葉を何度も反芻した。
「几帳面」とはまた違う言葉。
「会うのは今日で最後にしよう」
 まだそんなに吸っていない煙草を灰皿で揉み消した。まだ長く他の煙草の長さと不揃いだった。
 会うのは最後・・ああ、私たち、もう会わないっていうことなのね。
「もう前から決めてたんだ」
 そうなの・・前から決めてたの?そんなの私は知らなかった。
 こんな時、私はどんなことを言えばいいのかしら?
 私はコーヒーカップにミルクを注ぎスプーンでクルクルと混ぜる。
「そ、そうですか・・」やっと出てきた私の言葉がそれだ。
 前から「会わない」っていうことは彼が決めていた・・私が決めたのではない。
「会わない」という言葉より彼の「決めた」っていう言葉が私の耳に残った。
 私も何かを決めたい・・
 その時、なぜかこの場にそぐわないことを私は考えていた。
「それでいいよな?」
 彼の問いにいつまでも返事をしないでいると、彼はまた大きく息を吐いて勘定書を手にして立ち上がりレジに向った。
「あ、あの・・」そこまで言い私の声は止まった。
 彼に何も言えなかった。
 私は真っ直ぐに前を見て誰もいない席を見ているだけだ。追いかけもしなかった。
 誰かを追いかけたことなんて今までなかったし、どう声をかければいいのかもわからない。そんなこと、誰も教えてくれなかった。
 TVドラマでよく見るように「待って!」とか「これっきり会わないなんてイヤよ」とか言えばいいのだろうか?
 けれど私は彼の「会わない」という言葉に従うのが一番正しいことだと思った。
 逆らって何かを言うのはよくないことのように思える。

 目の前に彼という存在がなくなると彼と別れたことを改めて実感した。
 テーブルの上には彼が飲み干したコーヒーのカップと何本もの吸殻ののった灰皿だけが残った。灰が散らばっているのもわかる。
 彼の忘れ物はないだろうか?
 私は立ち上がって彼が座っていた向いの椅子の上も改めて見た。
 几帳面なのによく忘れ物をする人だった。しかし何度見ても忘れ物はなかった。
 当たり前だ。もうこれから会わないつもりで去って言ったのだから忘れ物なんてみっともないことをするわけがない。
 忘れ物があれば追いかける理由にもなるのでは?と少し思ったけれど、忘れ物がないことに何故かホッとしている自分を見つける。
 これでもう彼を追いかけなくていい。
 まさか今日、こんな話を持ち出されるとは予想していなかった。
 さっき彼が言ったセリフ「僕の言う冗談をよく真に受けて」を思い出した。
 これも何かの冗談かもしれない・・普通ならそう思うところだ。
 けど私はそうは思わなかった。
 やはり彼の言う通り真に受けた。
 私の人生はいつもそうだったからだ。
 本当に私は真面目過ぎる・・
 昔からそうだ。
 高校の受験勉強のときもクラスメイトが「6つの科目が合格ラインに達していても他の教科の体育や音楽の成績が悪いと落ちちゃうらしいよ」と真顔で言っていたので私はその言葉を信じた。私は国語、英語、数学他の科目、全ての偏差値が高かった。それまで音楽や体育、美術等は無視していた。
 そんな時に言われた言葉にショックを受け、絵画の勉強をしたり、譜面の読み方も改めて学習しだした。その分、メインの科目の勉強がおろそかになったのは言うまでもない。
 中学三年生の秋に、他の成績が少々悪くてもメインの科目が良ければ補われることを知った。
 クラスメイトは別に悪気があって私に言ったわけではない。彼女自身の情報が間違っていただけで、私が真に受けたのが悪いのだ。よく調べればすぐにわかることだった。
 結果的に第一志望の高校は落ちた。
 そして私が敬語を使うのにもちゃんと原因がある。
 私の家は厳格な家だった。「父権」が絶対なのだ。しかもそれは先祖代々続いている。
父権、イコール、男の人は尊敬すべきものだと、私が小さかった頃から父母に教えられてきた。父より先にご飯のお箸に手をつけてはいけない。先にお風呂に入ることなど絶対に許されない。先にしていいのは先に寝ることだけだ。
 父親に対して馴れ馴れしい言葉を使うことは許されない。母や祖母から正しい敬語を学ばされた。
 だから私はいつまでたってもつき合っている彼に対して敬語を使っていたし、不自然だと指摘されても直らなかった。
 男女平等が大々的に言われる世の中になったけれど、父母に幼い頃から言われ続けた言葉が頭の中に焼きついていて離れることはなかった。
 子供の時の記憶は離れることはなく私の人生についてくる。
 言葉使いのせいばかりではないと思うけど私は男の人とはつき合えない気がする。
 男性ばかりではない。同姓の友達もいつまでもできなかった。
 そんなことを考えながら私はまだ喫茶店の中にいた。
 彼がご馳走してくれた最後のコーヒーを名残惜しそうにいつまでも啜っていた。
 一人で喫茶店で一時間も過ごすなんて初めてのことだ。
 コーヒーはすっかり冷え切っている。私はコーヒーのお替りを頼んだ。二度目のコーヒーの苦味は一度目より薄く感じる。
 私の味覚がコーヒーはもう要らない、と言っているのだろうか?
 彼に「会わない」と言われなくてもいずれそうなることは何となくわかっていた。
 異性と別れることになって普通なら泣くか、落ち込むところだけれど、私の心はそうでもない。
 私の心の中はまるで山の中の湖のように信じられないくらい静かだった。
 たぶんそれは今日受けた最終面接のせいだろう。
 不思議な家だった。
 あまり運命などは信じない方だけれど、それに近いものを感じた。
 そして勤務先になる長田家は近い将来関西方面に引っ越すということだ。
 私は確実に関西に行くことになる。それは神戸だという話だ。
 彼と週に一回のデートどころではないし、遠距離恋愛なんて柄でもない。
 私は今日、長田家に採用され春から働くことが決まった。
 私の頭を一人の少女の姿が過ぎった。
 私の心は徐々に去っていった彼のことよりも働き先の方に心が移っていた。
 今度は私が何かを決める番だ。


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