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作品名:家政婦遠野静子の憂鬱 作者:小原ききょう

第36回  


 その日曜日は朝から大忙しだった。
 天気も良く晴れていたのでお布団を干していると奥さまが正月には東京から帰ってくるという電話があったので普段している家の点検も念入りにした。念入りにするとやはり不具合が見つかるものだ。また厨房のどこからか水漏れがしている。すぐに業者を手配した。
 玄関のドアの開け閉めが重いので稼動部に油を差す。油を差し終えると呼び鈴が鳴り郵送で東京の奥さまから漫画の本がどっさりと送られてきた。
「恭子さま、これ、どうしましょう?」
 恭子さまは驚いていたがその表情は少し嬉しそうにも見える。
「少しずつ読むわよ。全部私の部屋に持っていくわ」
 漫画の本は私も手伝って恭子さまの部屋の書架に並べた。
 少しは小学生の女の子らしい部屋になったかしら?
「あの、恭子さま、この漫画、読み終わったら私にも貸して下さい」と言うと「いいわよ、でも今度の漫画は魔法少女ものばかりみたいよ」と笑った。
「静子さん、お願いがあるの」
「はい、何でしょう?」
「お母さまが今度の出張から帰って来る前に、あの部屋を模様替えしたいの、重い物もあるから静子さんに手伝って欲しいの」
 恭子さまの声に何かに対する意気込みが感じられる。
「ええ、喜んでお手伝いしますよ、天気もいいことですし、恭子さまさえよろしければ今日にでも始めましょうか?」
「でも本だけは置いておくわよ・・そうねえ・・あの部屋はこの家の図書館にするわ」
「はい、わかりました・・本は恭子さまも私も読めますけど、さすがに他の寝具などはどう考えても変ですからね」
 部屋の中には本以外に由希子さまのクローゼットや三面鏡、お化粧道具なども残っている。綺麗に片づければ奥さまも「この家には亡霊がいるのよ」と言わなくなるかもしれない。
「ほとんど捨てることになると思うから、模様替えじゃないわね・・お片づけね」
「はい、では今日中にお片づけを済ませてしまいましょう」
 恭子さまは本当に決心されたのですね。
 あの人、奥さまが帰る前に「あの部屋」を・・前は「お母さまの部屋」と言っていたのに。
 あれ?恭子さま、さっき奥さまのことを「お母さま」とお呼びに・・
 たしか「お母さまが出張から帰って来る前に・・」と言っていたような・・
 あれほど恭子さまは「あの人、あの人」と呼んでいたのに。私も合わせて「あの人、あの人」と言ったのが少し効いたのかしら?
 そう、それでいい・・
 奥さまと恭子さまとの間に心の交流ができる日が来るまではまだまだ時間がかかるかもしれない。
 けれど少しずつでいい。前に進んでいけばいい。あとは私が二人の背中を押してあげる。

「これでよしっ!」
 部屋の片づけをし終えた日の夜、私はテーブルの上に二人分のオムライスを並べた。
「恭子さま、オムライス、作ってみました・・恭子さまのお口に合うかどうか・・」
 私はケチャップをかけながら言った。
 恭子さまは「いただきます」と言ってスプーンをオムライスに差してすくい一口食べると「美味しいわ」と感想を述べ「今日のは静子さんの味ね」と言って微笑んだ。
「わかりますか?」
 私が訊ねると恭子さまは「だって、そんなに甘くないもの」と答えた。
 甘くない分、卵のふんわり感がよけいに感じるのかもしれない。
 簡単なことだった。
 島本さんの虎の巻はかなり子供用、それも小学低学年の子供向けに作られていた。恭子さまはもうすぐ五年生になる。少し甘くしすぎていたのだ。島本さんの虎の巻は確かに口当たりはよかったのかもしれないが、成長されていく恭子さまの口にはだんだんそぐわなくなってきている。
「あの、これからは少しずつですけど、私のマニュアルで作っていきます。もし不味かったりしたら、その都度、言ってください」
「わかったわ・・静子さんのマニュアルね・・けれど、たまには私にもお料理を作らせて欲しいわ」
「いいですけど、私の仕事がなくなるのは勘弁ですよ」
 二人の服が片づけの後の埃で汚れているのが少し可笑しかった。



 春になり恭子さまは五年生の始業式を迎えた。
 恭子さまが学校から帰ってくるまでに私は去年恭子さまから頂いたスカートを履いて三階のヒルトマンさまの部屋に上がった。
 毎日のように掃除をしている部屋の大きな窓から朝の光が差している。
 窓を開けると暖かな春の空気が部屋の中に優しく流れ込む。
 これは私の好きな時間。とても大切な時間。
「見てください、ヒルトマサンさま、桜がきれいですよ」私は誰ともなく言った。
 邸宅の庭の小道を満開の桜が着飾っている。
 植木屋の上田さんはどうして庭の方に桜の木を植えずに小道に木を植えたのか疑問に思っていたようだが、こうして三階の部屋から見ればわかる。眼下の庭よりもその向こうの小道の方が角度的に桜がきれいに見える。
 桜は花見をするために植樹されたものではない、こうして三階から眺めるためにあの位置に植えたのだろう。
 門に続く小道に真っ直ぐ縦に並んだ桜の木が薄紅色の花を満開に咲かせている。
 私の視線は桜の小道の向こうへと延びた。
「ヒルトマンさま、今日は空気も澄んでますから、遠くまでよく見えます」
 ああっ・・
 その時、私は小さく叫んでいたのかもしれない。
 邸宅の向こうに天井川が横たわり、その先にある神園家の庭の小道を覆う藤棚が薄紫の色を一面に出していた。
 この家の桜の小道と神園家の藤棚の道が縦につながって一直線に結ばれているように見える。
 桜と藤の花の見事な饗宴だった。
 遥か昔、日本の人々は桜と藤の花の饗宴を見るために春が来るのを待ち望んだという。
 春になり人々が桜と藤の花との間を行き来しながら美しい風景を祝った。後に日本を訪れた遥か異国の人たちはその光景に見惚れた。
 由希子さまは「夢は、ずれてしまうもの・・」と言っていた。
 あくまでも私の想像だが、彼は小説の主人公ギャツビーのようにこの地に桜の小道を作り自分の元を去っていった由希子さまのことを待とうとしていたのかもしれない。
 だが彼はここに来る前に亡くなった。
 その一方、由希子さまは神園家から離れない決心の藤棚を作った。
 だが、神園家に由希子さまはもういない。
 運命とは本当に皮肉なものだ。
 この風景を見ることができたのは私だけだ。
 けれどいつかは恭子さまが気づく。
 そして恭子さまは母親が決意の証として作った藤棚の意味を知ることになるだろう。
 由希子さまが心の底でそう願ったように。
 けれど、そのような現実とは別に、こうやって美しく絢爛たる藤棚を見ていると、あの藤の花言葉の意味は「決してこの場所を離れない」よりも「外国人を歓迎する」「あなたを迎える」の解釈の方がこの風景には合っているように思えるから不思議だ。
 この風景をもっと早くヒルトマンさまが見ていたら・・
 いや、ヒルトマンさまはおそらく知っていたのだと思う。
 由希子さまが自分の所にはもう帰ってはこないことを。
 そして同じように由希子さまの方も戻らないと決意したのだと思う。

「そうですよね?・・ヒルトマンさま・・」
 私は眼下の桜を見ながら呟いた。
 それに、ヒルトマンさま・・
 みんな、あなたのことが好きだったのですよ。
 由希子さま、多香子さまやお嬢さまも。
 そして、もちろん、私、遠野静子も・・
 ずるいですよ、そんな人が一番早く天国に行ってしまうなんて・・
 私は桜から目を離すとその上の太陽に手のひらをかざした。


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