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作品名:家政婦遠野静子の憂鬱 作者:小原ききょう

第34回   会いたい


 そろそろだ・・
 そう思い振り返ると、私の予想通り、会場の裏手の道の向こうに一人の女の子が見えた。
 その女の子は強く降り始めた雨の中を傘も差さずに走ってくる。
 白いドレスに身を包んだブロンドの素敵な女の子・・恭子さまだ。
 少し丈の長いスカートの裾を両手で少し掴み上げて駆けて来る。私に向かって歩いてくる姿は何度も見たけれど、走ってくるのは初めてだ。
 それもあんなにきれいなドレスを着て・・雨が強い、風も強いのに。大事なドレスが雨で濡れてしまう、雨の撥ねがドレスにかかってしまいます!
 それに靴だって・・まだ穿いたばかりの・・
「恭子さまっ」
 私は傘を持ったまま恭子さまの方に向って駆けた。
 ほんの少し離れていただけなのに何日ぶりかにお会いするような感覚だった。
「静子さん!」息を切らしながら私の名前を呼ぶ。
 恭子さまのこんなに大きな声を聞いたのは初めて。
 私に駆け寄った恭子さまは勢い余って私の体にどんとぶつかった。私はしっかりと恭子さまの体を受け止めた。その小さなお顔が私の胸の中に埋もれる。
 恭子さまは私の胸の間から体を離すと私を見上げた。
 それは私が一度も見たことのない悲しい表情だった。
 そんな表情を一刻も早く和らげてあげたいのに、私はこれから残酷なことばかり言わなければならない。
「静子さん・・お母さまが・・」
 きれいなお顔に横降りの雨が降りかかる。
「静子さん・・お母さま・・私の本当のお母さまが来ていたのね?」
 はあっ、はあっと大きく呼吸しているせいかドレスの胸が上下にせわしなく動いている。
「はい・・来ておられましたよ。ちゃんと恭子さまの受賞の瞬間も見ておられました。恭子さま、受賞、おめでとうございます」
 恭子さまは私の言葉にうん、うんと頷く。
「お母さまは、今、どこにいるの?」
「お母さまはもう帰られました」私は淡々と答えた。
「・・あいたい・・」
 声が小さ過ぎて聞き取れない。でも何を言ったのかわかる。
「会いたいの・・私、お母さまに会いたいのっ!」
 びっくりするほどの大きな声が私の耳に届く。
 今まで抑えていた気持ちが一気に噴き出したようだった。そんな言葉、私は今まで一度も聞いたことがない。
「静子さん、お母さまはあっちに行ったのね?」
 恭子さまは大通りの方を見て「走ればまだ間に合うかもしれないわ」と言った。
 その言葉を聞くと同時に私は通せんぼするように両手を大きく広げた。
 手をひろげた勢いで傘が飛んだ。
 落ち葉の上を傘がコロコロと転がり、冷たい雨と風が二人の体に降りかかる。
「恭子さま、申し訳ありません、遠野静子はここを通すわけにはまいりません!」
 恭子さま、どうかお許しください!
「静子さん、どうしてっ!」
 二度三度と私の心が叩かれる。けれどこれが私に課せられた役目。
「それにせっかくのドレスが汚れてしまいますわ・・あの人が用意してくれた素敵なドレスですよ」
 私の言った意味がわかったのか、一瞬「ああっ」と叫びのような恭子さまの声が上がった。
 恭子さまの頭の中に悲しい選択肢が浮かんだのだろう。
 母親を追えばあの人の選んだドレスが汚れる。
 追わなければ母親は遠くに行ってしまう。
 心優しい恭子さまはきっとドレスを汚さない方を選ぶ。
 口では「あの人」と呼んでいても多香子さまを母親として認めている。
 やはりあの参観日の道徳の授業では嘘をつかされていたのだと思う。
 そんな優しい人だから私は精神誠意この人にずっと仕えていくと誓った。
「お母さまは年明けに遠くに行かれます・・お母さまは『恭子に強くなって欲しい』と言われていました。私も同じ気持ちです」
 おつらいのはわかります。私だってつらい。
 二人はあんなに近い場所に住んでいるのに、こんなにも離れて過ごしている。
 これまで互いに会おうとしなかった二人はピアノコンクールでほんの少し顔を合わせた。
 ただ、それだけ・・
 恭子さまの心はまだ弱い・・けれど、同世代の他の女の子に比べればずっとずっと強い。 だから今日のような悲しみは必ず乗り越えられる。
 私はそう信じている。
「お母さまっ」
 恭子さまは一度そう叫ぶと両腕で私の体にしがみつき再び私の胸の間に顔を埋めた。
 私が抱いて支えてあげていないと崩れてしまいそうなほど全身の力が抜けているのがわかる。私は恭子さまの背中に両手をまわしてそのか細い体を引き寄せた。
 胸が熱く感じるのは恭子さまが今、泣いているからだろうか。
「恭子さま、泣いてはダメじゃないですか・・恭子さまは泣かれたことのない強い子だって、さっき私がお母さまにお誉めしたばかりなのですよ」
 恭子さまは私の胸の中で何度も頷いている。
「お母さまも大変感心しておられましたよ、それに、ピアノも上手だって・・だから泣いてはダメです・・せっかくお母さまに誉めて頂いたのに・・」
 泣いていたのは私の方かもしれない。
 やっぱり私はまだダメだ。
 傘がどこかに飛んでいってしまって恭子さまの髪もお体もドレスもびしょびしょ。


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