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作品名:家政婦遠野静子の憂鬱 作者:小原ききょう

第25回   長田多香子、グストフ氏


 時々、思う。私は一体この家で誰に仕えているのだろう、と。
 未亡人の多香子さまだろうか? ヒルトマンさまの弟のグストフ氏だろうか?
 邸宅の名義は多香子さまだから、財産のほとんどは多香子さまのものとなったのだろう。
 いずれにせよ私はお二人のどちらかの機嫌を損ねたりしたら失業する身だ。
 ただの雇われの身だ。
 私は今、二階の由希子さまの部屋にいる。
 恭子さまが自主勉強をしている間、ここで読書を楽しむのは習慣になっている。
「華麗なるギャツビー」を読むのはこれで二度目だ。
 恭子さまに短編の方の「冬の夢」を読んでさし上げたことがきっかけで再度読み直している。恭子さまも今読んでいるらしいけれど漢字が多くて進まないらしく、また本棚に戻ってきている。
「冬の夢」は英書があるのに「ギャツビー」は日本の単行本しかない。
 私が「ルビをふっておきましょうか?」と恭子さまに訊くと「お母さまの本が汚れてしまう」と言って断られた。
 今度、朗読してお聞かせしよう。「冬の夢」の何倍もの量で時間もかかりそうだが、そんな二人きりの時間も素敵に思える。
「冬の夢」の作者フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」は大ベストセラーとなり
アメリカンドリームの象徴とも言うべき作品になった。
 そのあらすじは「冬の夢」よりも事件性がありドラマティックだったのでよく覚えている。
 話は主人公であるギャツビーが恋人デイジーを残して戦地に赴いたが、デイジーはギャツビーの帰りを待つことなく金持ちの男、トムと結婚して子供をもうける。
 戦地から戻ったギャツビーはショックを受けるがデイジーへの思いを捨てきれず、湖畔に建つデイジーの家の対岸に大邸宅を建てた。
 ギャツビーはまさしく「アメリカンドリーム」のような成功を手にしていたのだ。
 残りはデイジーとの愛を取り戻すことだけだった。
 そして、夜になると階上のバルコニーからデイジーの家の灯りを見ていた。
 毎夜のようにギャツビーは邸宅で大パーティーを催し、デイジーがいつか自分の家に来てくれることを望んだ。
 デイジーはギャツビーの前に現れ再び交際が始まったように思えたが、やがて「冬の夢」と同様の喪失感が訪れる。
 ギャツビーがデイジーに求めた愛の深さとは比べようもなく、
 デイジーの愛は浅く、現実的だった。
 デイジーがギャツビーの愛に応えることは最後までなかった。
 ギャツビーは「愛さえあれば何でもできる。そこには障害など何一つない」と思っていたが現実には壁が多すぎた。
 デイジーは別の男、トムと結婚していて曲りなりにもトムとの間に思い出が積み重ねられていること。
 トムとの間には愛娘がいること。他にも社会的な制約が多すぎた。
 結局ギャツビーはデイジーの引き起こした自動車の轢き逃げ事故がきっかけで被害者の関係者に殺されることになる。
 ギャツビーの葬儀には、あれほど豪華絢爛のパーティに招かれていた人たちは一人も参列せず、デイジーさえも現れなかった。
 読者はギャツビーのひたむきな愛と、それとは大きく異なる現実の愛の違いに共感を覚えることになる。
 このストーリーは美しく、そして、はかない。
 夢を追い求めた男の美しさとそのはかなく悲しい結末が綺麗な文章力で見事に描かれている。そして極めつけはギャツビーがその手に掴みかけた「アメリカンドリーム」に当時の読者が憧れたということだ。だからこそ共感を呼び映画にまでなった。
 私はストーリーの美しさもさることながら、ギャツビーがお酒のグラスを片手にバルコニーに立ちデイジーの家の「灯り」を見ているシーンが印象に残っている。
 ギャツビーにとってはこの灯りを手に入れることこそが人生の最大の目標だったのではないかと思う。事業に成功して金持ちになったことはあくまでも過程にすぎないのではないだろうか?
 ギャツビーにとっては「灯り」が全ての象徴だった。
「灯り」の向こうには取り戻さなければならない元恋人のデイジーがいるからだ。
 だが、灯りはいつかは消える・・
 私は本をぱたりと閉じた。
 階下で物音がしている・・奥さまがお戻りになったの?
 お帰りの予定はもっと先だったはずだ。



 恭子さまも物音に気づいて階下に私より先に降りてきていた。
 驚いたことに長田グストフ氏もいた。全て予定外だ。
 慌てて私はキッチンに行きお湯を沸かしコーヒーの用意をしてティーワゴンを客間に運ぶ。
「お母さま、叔父さま、おかえりなさい」
 恭子さまは礼儀正しく頭を下げ、奥さまとグストフ氏がソファーに座ると、向いの席にちょこんと腰掛けた。
「恭子さんのお勉強のお邪魔も悪いと思って静かに家に入ったつもりだったけど、気づかれたわね」
 何てことだ。本を読むのに夢中になって全然気づかなかった。
「お帰りに気づかなくて申し訳ありません」
 グストフ氏はテーブルの煙草置きに手を伸ばし火を点ける。
「多香子さんとは、東京の会議で一緒になったんだよ。僕が神戸に用事があると言ったら、一緒についてきたんだ。結局、僕は荷物持ちになったけどね」そう言ってグストフ氏は煙草の煙を吐き出し笑った。
 グストフ氏は亡くなられた兄のヒルトマン氏とは性格を異にする。グストフ氏は実務者に徹している。仕事にしか興味がない。だからといって仕事ができるのとは又意味が違う。
 仕事に徹し過ぎてその人柄に魅力が感じられない。だから周囲の評判もよくない。
「懇親会のことがちょっと心配になって予定より早く帰ってきたのよ」
 奥さまは大きく足を組む。
「僕は『遠野さんがいるから、心配しなくてもいい』と言ったんだけどね」
 グストフ氏がそう言うと奥さまは少し厭な顔をする。
 私はテーブルにミルクとお砂糖を置く。奥さまはいつもコーヒーをブラックで飲むが、たまにミルクを入れたりする。
「なんだか恭子さんのお洋服、地味ねえ・・それ、遠野さんの趣味?」
 奥さまがブラックのままコーヒーを一口飲んだ後、私の方を見る。
 恭子さまは何も言わない。両脚をきちんと揃えてお行儀良く座ったまま。
 今、恭子さまが着られているワンピースはファッション誌の中から選んだ物。
 恭子さまと二人で選んだ。
「ええ」私は立ったまま小さく頷く。
 奥さまの一言で私は退席するタイミングを失う。
「島本さんなら、もっといいお洋服を選んでいたと思うわ」
 島本さんなら・・
 そう、奥さまの言うとおり、島本さんはコーディネートのセンスも優れていた。
 それはわかるが奥さまは何か私に言いたいことがあるのだろうか?
 もしそうならここで退席するのはまずい。
「コーヒーも、島本さんのと味が違うわね・・これ、ちょっと苦過ぎるわよ」
 だったらミルクを入れてくれればいいのに、この前は味がしない、と言っていたので今日は少し濃い目にしてみた。
「申し訳ございません、奥さま、コーヒーをお取り替えしましょうか?」
 私は深く腰を折って謝る。
「多香子さん、別にいいじゃないか」
 グストフ氏が横で奥さまの口を制してコーヒーを飲み大きく息を吐く。
「別に取り替えなくてもいいわよ。さっき外で食事をしてきたから、そのせいで苦く感じるのかもしれないわ」
 ホッとした。
 だが、奥さまはコーヒーをテーブルに戻すと私の方に向き直った。
「さっき庭を見たけど、植木の切り方、やっぱりおかしいわ、遠野さん、あなた、植木屋にちゃんと指示をしたの?」
「ええ、奥さまのおっしゃってた通り・・植木屋の上田さんに」少し自信がない。
「それで、遠野さんはあの切り方でいいと思うの?」
 私はわからない。植木のことまでわからない。
「僕は別におかしいとは思わなかったけどなあ」横でグストフ氏が淡々と言う。
 奥さまはグストフ氏の声を無視して「西の方角の木に枝が少なすぎるのよ。それに葉も小さすぎるわ」と言った。
 西の方角が邪気を払うために枝を多くするということを言いたいのだろうか?
 けれど、そこまで指示はあっただろうか?それとも私が聞き逃したのだろうか?
 とにかく先に謝らなければならない。
「申し訳ございません・・明日にでも植木屋さんを再度手配します」
 私は再び深く腰を折る。
 奥さまは足を組み替え「そこまで急がなくていいわよ」と言うと苦いと言っていたコーヒーにミルクを入れ口にする。
「は、はい・・」
 私が再びホッとしたのも束の間、奥さまは「それと、大広間に置いてあるピアノ、業者に調律を頼んでおいてちょうだい」と言った。
「え?」
 大広間のピアノは恭子さまのお部屋のピアノとは違い誰も使っていない。
 昔、前の奥さまがパーティの時に弾いていたという話は聞いたことがある。
 何か悪い予感がした。
「遠野さん、前に言ってたじゃないの・・恭子さんのピアノが上手になったって」
 奥さまのその顔は笑ってはいるが私には笑顔に見えない。
「ピアノの演奏を今度の懇親会の目玉にしようと思っているの」
 私の予感は的中した。
 私がいけなかった。安易に奥さまに言うべきではなかった。
 これは私の大失態だ。
「皆さんの前で、恭子さんのピアノの腕前を披露するいい機会だわ」
 奥さまは恭子さまの方を見て「ねえ、恭子さん」と言って薄っすらと微笑んだ。
 ピアノの先生は私に「お嬢さんは簡単な曲なら人前で弾くことはできるが、大曲の演奏はまだ人前で弾くのは無理。今、人前で弾いてミスをしたりすると逆に自信をなくしてしまうこともある」と言っていた。
 恭子さま、ごめんなさい。
 私がいけなかった。先生の言葉を聞いておきながら・・
 恭子さまの方を見るといつものように相変わらず無表情のまま。
 だが私は恭子さまをお守りしなければいけない。
「奥さまっ、まだ早すぎます!」
 気がつくと自分でも驚くような大きな声を出していた。
「えっ、何が早いの?・・遠野さん、そんな大きな声を出して」
 奥さまは惚けた表情で訊き返す。
「お嬢さまは、まだ人前で弾くほどには上手になっておられません」
 恭子さまが私の方を見ているのを感じる。
 ごめんなさい、恭子さま、今だけ私にそう言わしてください。
 恭子さまのピアノ、お上手ですよ。
 先生も褒めていらっしゃいましたよ。
「あら、でも私、言っちゃったわよ。『今度の懇親会は娘がピアノを弾きます』って」
 私の言葉に奥さまは平気な顔で返した。
 恭子さまの肩が一瞬びくっと震えたのを見た。
「な、なんてことを・・」
 怒りで体が震えた。
 それは強烈な怒りだった。これでは恭子さまがあまりにもかわいそう。
 今でも恭子さまがまるで客人のように奥さまと向い合って座っていること自体が不憫でならない。恭子さまは奥さまが現れると、誰に言われたのでもなく、決め事のように客間のソファーの奥さまの向かいにちょこんと座る。
 普通の家庭のように母娘で笑い合ったりすることもなければ、学校の悩みなど話し合ったりもしない。この大きな邸宅の中でお互いに客人のような扱いなのだ。
 もう我慢できなかった。
「奥さま、もしかして、いやがらせですか?・・」
 気がつくと雇い主に対して口にしてはいけない言葉を出していた。
「私にはまるで奥さまのお嬢さまに対する『いやがらせ』にしか思えません」
 私は続けて言った。昂ぶった感情を抑えきれない。
「遠野さん、あなた、いったい何を言っているの?」
 奥さまの表情が一瞬で険しくなる。当然だ。
「どうして私が自分の娘にいやがらせをするの?私は皆さんに娘を自慢したくて、そう言っただけのよ」
 それは絶対に違う! 奥さまは嘘をついている。
「私には全然そんな風には思えません」
 私は背筋を伸ばし深く息を吸い込み時間をかけて吐く。
「奥さま、差し出がましいようですが、今日は少し言わせてください」
「何を言うっていうの?」
 奥さまは組んだ脚ごと私に向ける。そのつま先が私の心に刺さるようだ。
「このままではお嬢さまが、あまりにもお可哀想です」
 これだけは言わせて欲しい。
「曲りなりにもお嬢さまは奥さまの一人娘です。けれど奥さまは何一つ母親らしいことはされていない・・お嬢さまが独りきりで、どれだけさびしい思いをされているかご存じないのですか?」
 ついに言った。不思議と後悔はない。
「遠野さん、それ、ピアノと何か関係があるの?」
 奥さまの横で、ごほんと咳払いが聞こえた。
「それじゃ、僕は部屋で休むとするかな」
 そう言ってグストフ氏は退席した。
 これ以上この話に関わりたくないのだろう。前からそういう人だ。肝心な時にいなくなる。 グストフ氏がいなくなると空気が少し変わる。
「それより、遠野さん、あなた、仕事はちゃんとしてるの?」
 言葉の流れが奥さまの一言で一瞬で折られた。
「えっ?」
 仕事?
「さっき懇親会のことで心配になって念のため大広間と厨房のチェックをしようと思って厨房の方を覗いたら床が濡れていたわ。あれ、きっとどこか水が漏れているわよ」
 水漏れはまだ業者に修理を頼んだばかり。
「奥さま、あれはもう・・」
 私の弁解を待たずに奥さまはこう言った。
「島本さんだったら、こんなことは一度もなかったわ」
「それは・・」
 それから奥さまは深い溜息をついた。まるで私に聞かせるように。
 島本さんの名前は今、聞きたくなかった。
「いったい、この家があなたにいくら払っていると思っているの?」
 私は頬に平手打ちをくらった気がした。
 もうダメだ。私は解雇される。
 恭子さま、ごめんなさい。言いたいことの半分も言えませんでした。

 その時、この場の誰よりも小さな声が部屋の中に響いた。
「・・何も知らないくせに・・」
 それはそれまで沈黙を守っていた恭子さまの声。
 この場にふさわしくない言葉遣い。
 恭子さまにも最も似つかわしくない言葉が私の耳に届いた。
 おそらく奥さまにも聞こえたはず。
「ちょっと、恭子さん、今、何て言ったの?」
 驚いた奥さまが恭子さまに向き直り確認する。
「私は『お母さまは何も知らないくせに』・・と言ったのよ」
 凛とした表情だった。
 恭子さまのこんな表情をいつか見た憶えがある。
 ああ、あの時だ。私が最終面接を受けた時の表情だ。
 私に質問をしたあの時の・・初めて私と言葉を交わしたあの時のお顔だ。
 家政婦の採用を私に決めてくれたあの時の。
「『恭子が君の傍についている』・・そう思ったことはないかい?」
 その瞬間、私はヒルトマンさまの言葉を思い出していた。
「恭子さま、お母さまにそのような・・」
 私は何とか口を開いたが、こんな時、何と言えばいいのかわからない。
「遠野さん、あなた、恭子さんに何て言葉を教えているのっ!」
 奥さまの非難の矛先が私に向かった。その方がいい。
「お母さま、静子さんは関係ないわ」
 恭子さまは私に矛先が向かないよう続けて言った。
「静子さんはちゃんと仕事をしているわ。お母さまが思っているより、ずっと」
 恭子さまは奥さまの顔を見据えている。奥さまは恭子さまの視線から目を逸らすことができない。
 奥さまは今どんな気持ちなのだろう?
 私は知っている。恭子さまの目の力は父親譲りのものだ。
 恭子さまはこれから先どんな風に成長していくのだろう。
 私は恭子さまの将来をこの目で見たくなった。

「そう、それならいいわ・・」
 奥さまは全身に入っていた力が抜けたようだ。
「お母さま、私、パーティでピアノを弾くわ」
 すでに恭子さまの表情が穏やかなものに変わっていた。
「恭子さまっ・・」
 何ということを・・
「お母さま、それでいいでしょう?」
 恭子さまの決心は固いように見える。誰が何を言っても変わらない。なぜかその時そう思えた。
「い、いいわ」
 奥さまは憤りの持って行き場を失ったように応える。
 恭子さまはそれだけ言うと立ち上がり部屋に上がった。
 奥さまも何も言うことがなくなったのか「仕事をしなくちゃ」と言って部屋に上がり、私はテーブルの上を片づけ始めた。


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