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作品名:家政婦遠野静子の憂鬱 作者:小原ききょう

第20回   風邪


 恭子さまが風邪をひいた。昨日の晩からお部屋で寝込まれている。
 元々ご丈夫な体と思っていたけれど、夏の引越し、初めての小学校の二学期で馴染めないこともあってか冬にはまだ遠いのだが高熱を出された。
 学校の方は休むことにしてお医者さんに来て診てもらい薬を頂いた。
 お医者さんが言うには風邪というよりも疲労の蓄積による熱だということだ。
 その証拠のように咳をすることもないし洟も出ていない。喉も痛くない、と恭子さまは言った。熱だけがある。
 時折、お部屋の方に様子を見に行ったり、氷枕を取り替え、少し熱の低い時には汗を拭いてあげパジャマを着替えさせる。
 食事もおかゆを作ったりして消化のいいものに切り替えた。
 息が少し上がっているし、体に触れると脈も高くなっているのがわかる。
 今度の奥さまの懇親会に備えて業者との打ち合わせがあったが延期してもらった。学校の方には電話で連絡はしたが、向こうから電話などかかってくることはない。
 二人きりで静かなものだ。
 部屋のテーブルの上には私が買ってきた少女漫画の雑誌が置かれている。
 私が「漫画はもう読まれたのですか?」と訊ねるとベッドの上で少し体を起した。
 そこで深く息を吐き「しずこさ・・」と、そこまで言ったかと思うと次の瞬間、
 恭子さまは「ごほうっ」と勢いよく深い咳をした。一度咳を出してしまうと立て続けに何度も深い咳を繰り返した。
 私は慌てて背中をさすった。これはやはり風邪だったのだ。
「大丈夫ですか?」
 私がそう声をかけると恭子さまはガクガクと頷きながら「平気」と応えた。
「漫画は読んだわ・・」
 恭子さまの体が痙攣するように震えているのがわかる。熱による悪寒だろうか?
「今はお話をされない方が・・」と言おうとしたが恭子さまはベッドの脇の小物入れに手を伸ばしてその引き出しから一冊の英語で書かれたペーパーバックの本を取り出した。
「静子さん、この本を読んで聞かせて・・」
 恭子さまが手にしていた本はおそらく由希子さまの書棚にあった本だ。
 全体が薄汚れて表紙もはずれかかっている。
 熱を出す前に読み始めたらしいが、字が小さい上、中々読むのが進まないそうだ。
 いくら恭子さまの語学力が優れていてもこの本を読むのは少々疲れると思う。熱があるのなら尚更だ。
 それにしても由希子さまはこんな英語だけの本をすらすらと読めていたのかしら?
 本の題名はアメリカの有名な小説家フィッツジェラルド原作の「冬の夢」だった。
 本は短編集の構成で「冬の夢」の小説自体は短い。
 私が本を受け取ると安心したかのように少し微笑み「静子さんが買ってきてくれた漫画の雑誌に読み切りの恋愛漫画があったの。これはその漫画の原作なのよ」と恭子さまは言った。



 実際に本を恭子さまに朗読したのは次の日だった。
 昨日は熱も高く恭子さまはあれからすぐにお休みになった。
 恭子さまの熱は引いた。平熱とまではいかないがそれに近い。だが咳がまだ少し出ているので用心して今日も学校に連絡をして休ませる。
 朝になって「いつのまに寝たのかしら?」と笑っているからもう大丈夫みたいだ。
 お医者さんももう大丈夫です、と安心させるように言って帰った。
 私は英語で「冬の夢」を朗読して恭子さまにお聞かせした。
 こうやって横になっている恭子さまに本を読んでいると昔、子供の頃、母に童話を読んでもらっていたことを思い出す。あの頃はまさか自分が英語でしかもブロンドの女の子に朗読するなんて夢にも思わなかった。
 私が朗読している間、恭子さまは「眠ってはいけない」と思っているようで、しっかり目を開けて私の声を聞いている。
 時折、水を飲むと「静子さんの英語、とてもきれい」と呟いた。
「日本語版もあればよかったですね」と私が言うと「英語がいいわ」と応えた。
「冬の夢」はゴルフのキャディをしている若い主人公がゴルフ場で富豪の娘ジュディに出会ったところから物語が始まる。主人公はジュディのキャディをするのがいやでキャディを辞め事業家に変貌を遂げる。事業に成功すると人生の目標であったかのようなジュディと再会し二人の交際が始まる。
 けれど社交界の花形のジュディの周りには十人以上もの男たちが取り巻いている。
 色々あったが結局二人の気持ちはすれ違ってしまい別れることになる。
 そして何年か後にある知り合いから、ジュディが結婚したが夫と上手くいかず、まだ若い二十代なのに昔の輝きを失っていることを知らされる。
 それだけの話だが、ここで語られているのは人が生きていく上での言いようのない「喪失感」だ。
 事業に成功し完璧な人間になったと思っていた主人公は二度の喪失体験をする。
 一度目は人生の目標であったジュディと別れたこと。
 二度目はジュディ自身の容色が衰えてしまったこと。
 一見、誰にでもあるような喪失感だと思われるが、そこは作者の力量、表現、舞台設定などで名作に仕上げている。
 確かに「冬の夢」は夢多き乙女向けの短い読み切りの漫画の原作としてはいいかもしれない。「漫画の方はこの話に膨らみをもたせて描かれているのね」と恭子さまは言った。
 恭子さまに「冬の夢」を朗読してお聞かせしている間、同じフィッツジェラルドの代表作「華麗なるギャツビー」のことを思い出していた。
 この小説はアメリカで映画化された後、日本でも公開されたこともあり、かなり有名な作品だ。日本語の単行本も映画公開より先に出版されている。
 こちらの方が「冬の夢」より数段ドラマチックで漫画にすれば面白いと思ったのだけれど長いので連載ものになってしまうと思われる。
 漫画雑誌の「冬の夢」の紹介文も「あのフィッツジェラルドの〜」とうたい文句が付記されているので「冬の夢」の漫画版はそれが売りと思われる。
「華麗なるギャツビー」はフィッツジェラルドがこの短編「冬の夢」を元にして長編にした作品と言われている。そして、この二つの作品には作者であるフィッツジェラルド自身の人生が投影されているとも言われている。
 私は映画を見に行ったことはないが主役のギャツビーを演じた男性の俳優が二枚目で有名だったと記憶している。
 その目は映画の宣伝の看板やテレビの広告を見ただけでも綺麗だと思ったくらいだ。
日本の女性もすっかりこの俳優の虜になったとテレビで話題になった。
 私が由希子さまの書棚でこの小説のあらすじを思い出そうとした時に、長田ヒルトマン氏のことを思い出した理由がわかった。
 この目の美しさが似ている気がしたのだ。
 そして、この俳優の目以外に小説の主人公ギャツビーと長田ヒルトマン氏が似ているところがある。



 その日の夜、出張先の奥さまから電話があった。
「遠野さん、あなた一体何をしているのっ!」
 口調が激しく怒っているのがすぐにわかる。
「奥さま、私が、何か?・・」
「何かじゃないわよっ!」
 話を聞くためには落ち着いてもらわないと。
「あの、すみません。何があったのか、お聞かせください」
「東京の出先のホテルに業者から直接電話があったのよ!」
 そういうことか・・
「今度の懇親会のことよ」
 確か人数は奥さまからわかり次第私に連絡を入れると言われていたはずだ。
「それもただの人数の確認の電話よっ。まったくこの忙しいのに」
 業者の考えていることはわかっている。家政婦の私と話すより、この家の奥さまと直接話す方が料金設定も早く決めることができるし、業者自身の評価を上げることができる。
 業者にとってはプラスだが、奥さまにとっては迷惑この上ない話だ。そして私にとっても。
「申し訳ございません。奥さまからのご連絡をお待ちしていたものですから」
「私から連絡がなかったのなら、あなたからこっちにくれるべきでしょ!」
 そう言われたら返す言葉もない。
 これも私の失態だ。再度「申し訳ございません」と繰り返し「私の方から連絡すべきでした」と謝る。
 奥さまから業者に言った人数を聞き、他の事務連絡を済ませる。
 最後に「ちゃんと仕事はしてよ」と厭味のようなセリフを残される。
 そして、今度は私の方から奥さまに言うべきことがある。
「お嬢さまが熱をだされていました」
「・・」
 少し無言が続く。
「いつからなの?」
「一昨日からです」
「医者には診せたの?」
「はい、掛かりつけのお医者さま・・黒田先生に」
「黒田?・・ああ、あの医者、「やぶ医者」っていう噂があるわよ」
 えっ?
「他の医者にも診てもらった方がよかったんじゃないの?」
 恭子さまの熱のことより医者の方に話がそれた。
 黒田先生は神戸に来てからずっと診てもらっている先生だ。神戸に越してきた時、私が色々調べて決めた医者だ。ご近所の評判も聞いた。今まで何の問題もない。
 それに神戸にほとんど不在の奥さまがどうしてそんなことがわかっていうの?
「でも、もう熱は下がりました」
「そう、それならいいわ」
 私が恭子さまの熱のことを奥さまに伝えたことは正しかったのだろうか?
 そのことを奥さまが知っても知らなくても何も変わらない気がする。
「遠野さん」
 改めてそう言う奥さまの声が少し大きい。
「はい、何でしょう?奥さま」
「事後報告はいけないわよ」
 え?・・
「こういうことはちゃんとすぐに連絡はするものよ。恭子さんが熱を出したなら出したで、これからはすぐに私に連絡をちょうだい」
「奥さま、申し訳ございません」
「それと、恭子さんをどの医者に診てもらうかは、今後私が決めます」
「けれど、黒田先生はお嬢さまの体のことをよくご存じですし、お医者さんを替えれば、お嬢さまも不安がるのではないでしょうか?」
 奥さまは黙って聞いている。
「私はただ、お嬢さまのことを考えて・・」
 この発言は少しまずかったかもしれない。
「私が恭子さんのことを考えていないって言いたいの?」
 やはりまずかった。
「そういうわけでは・・」
 本当は奥さまにこう言いたかった。
 普段、家にいない奥さまに一体何がわかるの? お嬢さまの傍にいないあなたにわかるわけがない。
「そうそう、遠野さん、この前、恭子さんがピアノが上手になったって言っていたわね?」
「はい、たしかに・・お上手になられました」
 そう私は答えた。


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