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作品名:家政婦遠野静子の憂鬱 作者:小原ききょう

第18回   遠野静子の憂鬱
 邸宅に着くと、恭子さまを先に降ろして車を車庫にしまう。車が汚れているので明日、天気がよければ洗車しようと思った。
 ヒルトマンさま専用のお車も使う人はいないが、久々に車庫から出して念入りに洗ってあげよう。奥さまの専用車も車内清掃をしておこう。
 庭の芝生が少し伸びていることに気づく。定期的に刈る日まではまだ間がある。これからは定期清掃の間隔を縮めることも検討しなければならない。
 家の中に入ると恭子さまはもうお部屋の中に入られていた。今日は習い事もないから夕飯時まで部屋から出てこない。今日は宿題が終わったら自主勉強の予定だ。
 私は自分の部屋に入り、書類の整理をして明日の予定を書き留めた後、広間のシャンデリアの電球の点検をする。懇親会の時に切れていたりしたら大変。
 そう言えば奥さまから懇親会の人数の連絡がない。・・確か電話をすると言っていた。
 料理の方は奥さまは「オードブルの種類は多めにお願いするわ」と言っていたが肝心の人数がわからない。
 あと一時間もすれば庭師が来る予定なのでキッチンに行ってお茶を出すためのお湯を沸かす。庭師の今日の人数は確か五人。前に刈った植木の形がおかしい、と奥さまが言っていたので直してもらわないといけない。
 キッチンの棚を開けると来客に出すお菓子が今日の分くらいしか残っていないのに気づく。そうだ、明日、あの和菓子屋さんで買おう。
 あそこの大福は灘の工場の人たちからも受けがよかった。駅の近くの和菓子店よりも美味しいらしい。やはり老舗だとそれほど違うものなのか。
 庭師の上田さんは前に出した柚子茶を大変気に入ってくれた。
 今日もそれを出すことにしようか?それとも普通のほうじ茶にしようか?
 テーブルの上に二つのお茶の葉の缶を並べると迷ってしまう・・
 迷いながら私は思わず笑いそうになる。
 その理由を一番よく知っているのは私自身だ。
 私は今日の授業参観で起きたことから逃げている。
 あまりの自分の弱さに自分自身が耐えられなくなり笑いそうになったのだ。
 私は何も決められない。お茶の銘柄すら決められないではないか。
 ずっと前に別れた鈴木さんとつき合っていた頃と何一つ変わっていない。
 では私はどうすればよかったというのだ。
 車の中で恭子さまにこう言えばよかったのだろうか?
「本当は恭子さまは違う意見だったのではありませんか?本当は主人公はお友達を助けるべきだと考えていたのではありませんか?・・周りの人たちに言われて仕方なく恭子さまはそう言ったのではありませんか?・・」
 そして教師や生徒たちに何らかの機会にこう何か言えばいいのだろうか?
「恭子さまは他の生徒の意見を押しつけられているように見えましたけど、それは少しおかしくありませんか?」
 もしそう言ったとしても納得するのはきっと私の方だ。私だけがスッキリする。
 けれどそれを言えば、何かが壊れてしまう。
 恭子さまと他の生徒とをかろうじて繋ぎ止めているガラスでできたような糸をプチッと切ってしまう、そんな気がした。
 恭子さまはクラスで孤立しているわけではない。イジメられているわけでもない。
 それどころか今回のように周りから問題を考えてもらっている。おそらく普段の授業でも同じようなことが度々あると思う。
 誰が他の生徒たちを責めることができるだろう。
 恭子さまはいつも笑顔でクラスメイトに接している。そんな恭子さまが何かの思いで繋ぎ止めているものを家政婦の私が勝手に壊すわけにはいかない。

「いつ見てもいい庭ですなあ・・」
 庭師の上田さんは一仕事終えてテラスで柚子茶を飲みながら呟いた。
 私は上田さんの呟きに軽く頷き庭を眺める。
「それにしても、あの桜・・」
 上田さんの目はもっと遠くを見ているのに気づいた。
「桜がどうかされました?」
 庭の向こうには門へと続く桜の木の小道がある。
「なんでまた、入り口の方なんかに植えて・・どうせやったら、このテラスの前に植えとったら春になれば花見でもできるのに・・」
 そう言えばそうだ。そんなことは考えもしなかった。
 庭の木々の配置を決めたのは亡きヒルトマンさまだ。何かお考えがあってのこと。
 でも、今はそんなことはどうでもいい、と思った。

「恭子さま、今日はオムライスですよ!」
 夜、リビングのテーブルについた恭子さまに大きな声で言った。
 私の分も作ってテーブルの向かい同士にオムライスを置いている。小皿にサラダを盛り付けポタージュスープを用意してある。
「おいしそう・・」恭子さまは小さな声でそう言った。
 恭子さまが腰をかけると私も向かいに座った。
「私、学生時代にはよく自分でオムライスを作っていたんですよ」
「静子さんは大学の時は、下宿だったものね」
「はい、今思えば懐かしい生活です。あの頃は恭子さまのおそばで仕事をするなんて夢にも思っていませんでした」
 恭子さまは「いただくわ」と言ってスプーンを手にした。
「でもこのオムライスはその時のものとは全然違うんです」
「どう違うの?」
 恭子さまはオムライスを一口食べると「美味しい」と言った。
 やっぱり・・
「はい・・と言いますのは、これは島本さんの料理の虎の巻で作ったのですよ」
「静子さんのやり方でよかったのに・・」
 恭子さまはそう言って微笑んでくれた。
「と、私も最初そう思ったんですけど・・試しに学生時代のやり方で作ってみたものと比べてみたのです」
 私なら何年経っても出せない味だと思った。
「静子さん、島本さんのオムライスと比べたの?」
「でも、ダメでした・・私の出す味は島本さんの出す味の足元にも及びませんでした」
 私も「いただきます」と言ってオムライスを食べた。
 ふんわかした卵の味が口の中で溶ける。ご飯も丁度いい感じ。
「やっぱり、おいしいです」
 全ての味が、かけてあるケチャップの味に負けていないのがわかる。
「どうしてこんなに違うんでしょうね。同じオムライスなのに・・それも同じ材料ですよ」
オムライスだけではなかった。
 魚の煮付けも大根の味付けも揚げ出し豆腐もカレーもお米の炊き方も。
 島本さんにはかなわない。家政婦としても、家庭教師としても。
 私ではダメだ。
「まだまだ島本さんの虎の巻は手放せませんね・・あれがないと私は・・」
 私は笑いながら言ったつもりだったが恭子さまの方は笑っていなかった。
 私の表情がぎこちなく歪んでいたからだろう。
「静子さん?」
 涙で目の前が見えなくなった。
 恭子さまの問いかけに答えられない。
 このオムライス、本当においしい・・
 恭子さま、ごめんなさい、私、遠野静子は今の恭子さまに何もしてあげられることがありません。

 授業参観の他に家庭訪問も年に一度ある。
 そんな時にも奥さまは不在なので私が相手をせざるをえない。
 この邸宅を訪れるとたいていの教師は恐縮してカチカチになる。
 女性の教師を来客専用の部屋に通して日本茶と和菓子を出して丁重に応対する。
 家庭訪問というのは生徒の家庭を教師が知っておく必要があるからその家を一軒一軒訪れるものと私は理解している。
 だが、この家に来て長田家の家族構成を知れば普通の教師の理解の範囲は超えてしまう。
 教師には気の毒としか言いようがない。この家のことは普通の教師にはわからない。
 かと言って教師が来ることは私にとってそれほど無意味なものでもない。恭子さまの今の成績や学校でのご様子の報告を受けることができる。
 恭子さまは図工や絵画以外の成績は良かった。運動神経もよく授業中も教師の質問によく手を上げて答えるらしい。
 この教師の頭の中では恭子さまは問題のない生徒だ。
「協調性がない」とか「友達がいない」とか一言も言わない。
 私も訊くのが怖かった。教師も私と同じだ。
 教師は帰り際に私にこう言った。
「こんなご立派なお屋敷に住まれてお嬢さまもさぞお幸せでしょうね」


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