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作品名:家政婦遠野静子の憂鬱 作者:小原ききょう

第13回   長田多香子


 あの人が来た。
 私の義母、多香子という名前、亡くなった父の再婚相手。
「おかえりなさい、お母さま」
 私は玄関に降りてきてきちんと挨拶をする。
 あの人はスーツケースを玄関に置くと一番近い客間に入ってソファーに座った。
 私は跡をついていってテーブルを挟んで向かいのソファーに腰を掛ける。
「お母さま、駅からタクシーだったの?」
「そうよ・・わざわざ大層なお出迎えもいらないと思って」
 駅までだったら車のエンジンを暖めるまでに着いてしまう。
「東京はすごい人の数よ。これからどんどん増えていくんじゃないかしら?」
 そう言いながら脚を組む。
 派手なスカーフに大きな石のネックレス、高そうなブランドもののバッグ。
 やはり私はこの人に馴染めない。
 かといって本当の母のこともあまり思い出せない。
 母はどんな服を毎日着ていたのかしら?
 母の顔を思い出そうとするとなぜか静子さんの顔を浮かべてしまう。
 こんな風に私の記憶から母のことが消えていってしまうのだろうか?
「事業も東京を拠点にしておいた方がよかったのに・・」
 私は黙って聞いている。私は事業のことなんてわからない。
 この人はいったい誰に向かって言っているのだろう?
 髪も少し染めている。瞳の色が黒いのに髪の色を西洋人に似せるのは不自然。
 一体何を考えているのか、これもよくわからない。
「恭子さん、明日からまた出張で留守にするけど、今度の出張は長くなりそうよ」
「はい、お母さま」
 いつものように答える。おそらくまた出張でどこかに行くのだろう。
 この人の会社での肩書きは専務。
 叔父のグストフさんは社長・・社長の方が偉いことは知っている。
 けれどこの人の方が叔父よりも偉く見えるのはどうしてなの?
「私が留守の間、何かあったら遠野さんに言うのよ」
 香水の匂いがつんと鼻をつく。この前会った時と香水の匂いが違う。
 私は香水というものが苦手。
 私はこの人に初めて出会った時から色んな香水の匂いを嗅がされている。
 親しくなろうとしてもこの匂いがある限り無理なような気がする。
「はい、お母さま・・」
 それよりもうすぐピアノの先生が来る。
 そんなこともこの人は知らない。
 静子さんは私が「エリーゼのために」が弾けるようになったことを喜んでくれた。
 この人は私が今、何の曲を練習しているのかすら知らない。
 今度のピアノのコンクールに私が出るかもしれないことも知らない。

「お、奥さまっ・・お、お戻りになられていたのですか?」
 丁度、帰ってきた静子さんが慌てて身なりを整えながら言った。
 身なりを整えるといっても静子さんはいつもきっちりとしている。
 静子さんにとってこの人は一番緊張する相手かもしれない。
 静子さん、どこに行っていたのかしら?
 手に何かを持っている・・あの袋・・本屋さんに行っていたの?
「奥さま、すぐにお食事をご用意します」
 食事にはまだ早い時間。
「いいわ、新幹線の駅の近くで知り合いの方と済ませたから」
「そうですか・・ご懇意の方と・・」
「仕事の相手よ」
 そう面倒臭そうに答えると脚を組み直して大きな息を吐いた。
「今日はグストフさんは?」
「はい、グストフさまは今夜は神戸の商事関連の会合にご出席なさってます。明日は大阪に行かれます。明後日からは東京にご出張されるそうです。少し長くなるかもしれない、とおっしゃってました」
「そう」と言って「あの人もあまりこの家にいないみたいね」と呟いた。
「少し、喉が渇いたわ」また誰に言うでもなく呟く。
「す、すぐにお水をお持ちします!」その声に一番に反応するのは静子さん。
 静子さんは慌てて部屋を出て行った。
「恭子さん、遠野さんは仕事をちゃんとしてるの?」
 静子さんが見えなくなるのを見計らって訊ねてきた。
「はい、お母さま」
 静子さんは私に仕事以上のことをしてくれている。
「あの人が気にいらなかったら、家政婦を替えてもいいのよ」
「そんなことありません」語気を強めて答える。
「遠慮しなくて言ってくれてかまわないのよ」
「遠慮なんて・・」
 静子さんがいなくなったりしたら、大変!
 そう思っていると静子さんがお水の入ったグラスをトレイに載せて持ってきた。
 グラスをあの人の前のテーブルに置きながら、静子さんは「あの、奥さま、お嬢さまはピアノがすごくお上手になったのですよ」と話しかけた。
 そんなこと、あの人に言わなくていいのに。
 静子さんの言葉にすかさず「あら、恭子さん、よかったわねえ」とあっさりと応えた。
 応えるのが少し面倒臭いのかもしれない。
「はい、お母さま、ありがとうございます」
 褒められた言葉を聞くとすぐにお礼の言葉を言う。
「それと、遠野さん、来月、この家で東京の懇意にしている方々をご招待して懇親会をします。業者やコックの調整をお願いするわね」
 すぐに話題が変わる。
「はい、奥さま、ご人数の方はお決まりでしょうか?」
「そうね、20人くらいかしら?正確な人数がわかったら連絡をいれるわ」
 私のピアノの話なんて聞きたくもないのだろう。
 この人の言葉よりも静子さんの言葉の方がずっと嬉しく心地いい。
「仕事の整理、シャワーを浴びてから部屋でするわ」
 もう朝までこの人に会わないですむ。
「はい、おやすみなさい、お母さま」
 私がそう言うとあの人は立ち上がってバッグを持った。
 すると突然、静子さんが口を開いた。
「あ、あのっ!奥さま、来週、学校の方で授業参観日があります」
 静子さんの言葉に少し眉を寄せ「それが何?」というような表情をした。
「そ、その、せめて参観日には、何とかお戻りになることはできないのでしょうか?」
 静子さん、そんなこと言わなくても、返事はわかっているのに。
「遠野さん、参観日くらいならあなたが代理で行くことができるでしょう?」
 予想通りの返事。それに少し口調が荒い。
「それはそうですけど・・」
 静子さんは気圧されたように口篭る。
 二人の会話の中に私はいない。
 東京の学校での授業参観も静子さんが来た。
 親の代理で来ている人は私の他にいなかった。兄弟や祖父母が来ているところもあったけれど家政婦さんが来ている人は私だけだ。
 静子さんが来る方が私にとっては嬉しい。
「遠野さん、それがあなたの仕事ですよ」
 まるで静子さんを叱りつけるような物言いだ。
「は、はい・・」
 静子さんは怒られた子供のように頷く。
「本当に、しっかり頼んだわよ!」
 そう言い残すとあの人は部屋を出ていった。


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