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作品名:家政婦遠野静子の憂鬱 作者:小原ききょう

第11回   手をかざす
「それにしても今日はいい天気だな・・」
 彼は空を見上げた。そこには太陽がある。
 彼は眩しい太陽を防ぐように右手を伸ばして手のひらを大きくひろげた。
「こうやって手のひらを太陽にかざすとね。太陽の栄養分が手のひらを介して体の中に入ってくるらしいんだ」
「手のひらからですか?他の部分ではないのですね・・」
「考えてみれば、手のひら以外にそんな所は体のどこにもない気がするね。まさか、顔から栄養を吸収するわけはないだろう」
 想像すると少し可笑しかった。
「これは島本が言っていたんだよ」
 ヒルトマン氏は懐かしい顔を思い浮かべているようだ。
「島本さんが?」
 島本さんはお仕事が出来る上に博学だったのかしら?
「島本が言うには、栄養以外にも太陽からいろんないいものが入ってくるらしいよ」
「いいものって、どんなものですか?」
「いいものだよ。その人にとって・・僕の場合は健康だけど、他の人だったら、そうだな・・幸運とか・・誰かの愛情とか・・」
 ヒルトマン氏はそこまで言うとその話を切りたいように見えた。
「僕はね、この家とほぼ同じ洋館を神戸に建てようと思っているんだよ」
 ヒルトマン氏は私の方ではなく庭の方を眺めながら言った。
 建物だけではなくお庭も同じものを作る気だわ。
「その家の庭にね、桜の木をたくさん植えようと思っている」
「桜・・ですか?」
 彼の目には桜の木、それも満開の桜が映っているのだろうか?
「何か神戸・・そして、桜に思い入れがあるのでしょうか?」
「由希子・・前の妻と初めて出会ったのは京都だったが、由希子は神戸生まれの神戸育ちだった」
 それは初耳だった。
「事業もこれから神戸が拠点・・主流になっていくしね。僕の骨が埋められるのが神戸なら、もうそれで言うことはない・・そう思っている」
 ヒルトマン氏はそんなことまで考えていたのか。
「結婚する前、由希子の実家に挨拶に行った時、神戸の小さな川沿いに見事な桜が咲いていたんだ。僕はその時の桜の美しさが今でも忘れられないんだよ」
 ヒルトマン氏は昔を懐かしむような表情を見せた。
「その桜の美しさが由希子に似ていると思った・・」
 以前、前の奥さまのお写真を見たことがある。確かに美しい人だと思ったけれど「桜に似ている」というのはよくわからない。
 えっ、ちょっと待ってっ!
 よく考えれば、それって前の奥さまのご実家の近くに家を建てる・・そういうことなの?
 この事を今の奥さま、それに恭子さまはご存知なの?
「そ、そのことは・・」私が問いかけようとするとヒルトマン氏は口元で人差し指を立てた。
「このことは妻には内緒だよ・・」
 ヒルトマン氏の青い瞳が悪戯っぽく輝く。
「は、はい」と頷くと、私は前から気になっていたことを訊くならこのタイミングしかないと思った。
「あ、あの、前の奥さまとは・・どうして?」
 噂では色々聞くけれど本人に訊ねたことはない。
「ああ、よく訊かれる質問だ」
 そう言って口元の紅茶の入ったカップを揺らして香りを嗅いだ。
 訊いてはいけなかったのかしら?ヒルトマン氏の表情が翳る。
「誰かを幸せにするためにはね、他の誰かを犠牲にしなくてはいけないんだよ」
 ヒルトマン氏は話を進めた。
「誰かを助けるということは、他の誰かを助けないのと同じことだ。私はそのことを痛いほどこの人生で学んだ」
 どういうこと?
「今まで色々あったよ。仕事をやっていく上でどうしても辛い選択を迫られることが何度もあった」
 私は静かに聞く。話が横道にそれている気がする。
「ちょっと難しい話かな?・・そうだな・・例えば二人の人間が海で溺れていると仮定するだろう。助けるための綱は一本しかないとする。その綱は二人の人間の体重を支えるのは無理だ。その状況が想像できるかい?」
「ええ」
「君だったらどうする?」
「わかりません・・」状況をうまく想像できない。
「お二人とも助けることはできないのでしょうか??」
「絶対に無理だね。そんな都合のいいことはこの世界では絶対に起きない」
 端整な顔が厳しい表情に変わる。
「妻を犠牲にして事業に勤しめば、妻の心が遠のいた」
 おそらく彼が言っているのは前の奥さまのことだ。
「妻と過ごす時間を増やせば仕事がおろそかになった」
 少しわかる気がする。
 それが離婚された原因?けれどやっぱり話をはぐらかされている気がする。
「そして、今は娘の心が遠のいている・・」
 恭子さまの心が・・
「今は家におられることが多いのですから、恭子さまは喜んでおられると思います」
 本当はそんなことはない、私はそう思っている。
「いや、僕は見ての通りこんな病人だ。今は事業の替わりに病気と闘っているようなものだ・・やはり、僕は娘を犠牲にしているんだよ」
 ヒルトマン氏はご存知だった。
 それは当たり前だ。彼は恭子さまのたった一人の父親だ。一番暖かいはずの存在だ。私なんかよりもずっとよく恭子さまのことを知っている。
 恭子さまは父親が家にいることが多くなっても喜んでなどいない。
 父親が重い病気なのを知っているから家にいてもいなくてもずっと不安がっている。
 父親は絶対にいなくなってはいけない。
「私を採用された時、恭子さまは何と言われてました?」
 私は重い話を変えるために訊ねた。
「ああ、恭子なら確か言っていたよ・・『遠野さんは、前のお母さまに少し似ている』と」
 それを聞いた私は彼の前でたぶん目を丸くしていたと思う。
「そんなっ・・お、おそれ多いこと・・」
 私のそんな表情を見たせいなのか、ヒルトマン氏は大きな声で笑った。
「僕は全然そうは思わなかったけれどね」
 なぜか、そこでホッとする。
「けれど、君も由希子に負けず綺麗だよ。僕がもっと若ければ、くどいていたかもしれないな」
 また悪戯っぽい瞳をしながら言った。
「なっ・・」
 私はそれ以上言葉が出なかった。

 その日以降、私とヒルトマン氏がこんな風に長く話すことはなかった。
 そしてヒルトマン氏は神戸の桜を見ることなくこの世を去った。
 私は彼と交わした会話を今もずっと憶えている。


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