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作品名:水を支える〜二人の少女の秘密 作者:小原ききょう

第7回   ウサギの耳


 次の日、教室の掃除で窓を拭いていると、小川さんと香山さんの会話が聞こえてきた。
「仁美ちゃんの言い方、きつい」
 小川さんの小さく泣きそうな声が僕の耳に届く。
「そんな風にしてたらいつまでもみんなに馬鹿にされっぱなしや」
 箒を握ったままの小川さんが俯いている。
「私は委員なんて柄やない・・」
「風紀委員くらいやったら、悠子でもできるって」
「私、絶対ダメや」
「委員になったら、あいつらだって」
「ダメや」小川さんの声が聞こえない。
「もうっ、いつも悠子はそんなこと言っているから!」
 教室中に香山さんの声が響き渡った。他の生徒たちが二人を見る。
「仁美ちゃん、そんな大きい声、出さんといて」
 自分の声も大きくなっているのに小川さんは気づいていないようだ。
 僕は二人の話を聞いていて二学期の委員候補のことを話しているんだ、と何となく推測できた。
 二学期なんてずいぶん先の話だ。それよりこの二人は一体どういう関係なんだ?
「しゃべってばかりいないで掃除しろよ」
 委員長の上田くんが二人に怒鳴る。
 その声に香山さんは「悠子なんて、もう知らへん」と投げ捨てるように言って小川さんから離れて掃き掃除に戻った。
 小川さんは箒を静かに動かしながら泣いている。絆創膏は換えていないのか黒ずんできているようだ。
 僕は窓の外側に身を乗り出してガラスに息を吹きかけ雑巾で拭く。
 教室の窓に指す夏の日差しが熱い。隣にある中学校の運動場からクラブ活動のバレーボールやテニスボールの跳ねる音が響き、中学生の掛け声が聞こえてくる。声変わりをしているせいかずっと大人の声のように聞こえる。
「や、やめろよ」
 椅子を机から下ろそうとしている松下くんを、文哉くんと八百屋の田中くんが箒で小突いている。
「はなたれ、ばっちいぞ、あっち行け」
「は、はななんか、たれてへん」
 松下くんは少しどもりながら手で洟を拭いている。
「嘘つけ、洟垂れと妾の子、似たもん同士、くっつけや」
 文哉くんが小川さんの方を顔で指した。どう見てもお似合いではない。
 そんなやり取りを誰も知らん振りで、注意すべき委員長の上田くんは何も言わないで机の上を雑巾で拭いている。いつまでも同じ場所を拭いている。
「あんたっ、今、何言うたっ!」
 香山さんが箒を床に投げ捨てるように倒して大きな声で言った。
「なんや、香山、そんな大きな声出して・・『松下の洟垂れ』って言うたんや」
「そのあとや!」
 大きな声に掃除当番の全員の視線が香山さんに集まる、
 香山さん、どうしたんだろう。香山さんの剣幕に文哉くんも少し怯んだ様子だ。
「妾の子や」文哉くんの声が小さくなった。
「誰のことを言っているのよっ」
 香山さんは元々気の強い女の子だけど、こんな激しい香山さんを見たのは初めてだ。
「香山も知ってるんやろ、泣き虫のことやんか」
 小川さんの口元が微かに震えているような気がした。
「香山の親父の会社、潰れかけてるて聞いたで」
 田中くんが更に香山さんを追い詰めるように言った。こいつ、文哉くんの腰巾着か。
「もうすぐあそこに住めんようになるで」
 あそこってどこのことだ、と思った瞬間、香山さんの気の強いつんつんした顔が泣き崩れたように見えた。
「仲良し喧嘩はやめときいやっ!」
 たまりかねて僕は窓を拭く手を止めて言った。
「村上、おまえ、何、言うてんねん。誰がこんな気い強い奴と仲良しやっちゅうんや」
 文哉くんが僕の方を睨む。
「そ、そうよ、村上くん、あなたには関係ないでしょ!」
 二人の怒りの矛先が僕の方に向かったけど二人とも喧嘩をするのが馬鹿らしくなったのかそれぞれの作業に向かい始めた。田中くんはまだ何か言いたそうにしている。
 委員長の上田くんはバケツの水で雑巾を絞っている。松下くんの洟が垂れていることはもう誰も言わなくなっていた。
 いつまでも教室の床を黙々と掃いている小川さんだけがこの世界から取り残されているように見えた。



「ねえ、ウサギの耳ってなんであんなに長いんやろ?」
 次の日、ウサギ小屋の前で膝を抱えて座ったまま香山さんが言った。目の前でウサギが餌をしきりにモグモグと食べている。
「何か、聞きたいことが一杯あるんとちゃうやろか」僕が適当に答えると「こんな所で何もいいもの聞こえてけえへんよ」と返された。
「いや、僕らが知らんだけで、ええ音が聞こえてるのかもしれへんで」
「それに目もこんなに赤いし、昔、無茶苦茶泣いたんやろか?」
 香山さん以外の女の子と当たることもあるけどあんまり話すことはない。女の子と話をするのは何となく恥ずかしい。僕はまだそんな年だ。
「世の中、私にはわからんことだらけやわ」と香山さんは呟くように言った。
 餌もやり終えたし、もう帰宅の時間だ。
「村上くん、昨日、もしかして、喧嘩をとめてくれたん?」
 香山さんが僕を見る。目が合うとやはり恥ずかしい。
「別に止めたわけちゃうけど、あいつ嫌いやから」
「薬局も電気屋も長田さんの会社とつき合うようになってしもうてん」
 会社とつき合うって、どういうことなんだ?
「毎年、夏になったらいつも家の二階からお祭りの花火がよう見えたんやけど」
「すごいやんか、花火が見えるなんて」
「でも今年はもう無理やわ。長田さんとこの親戚の家が前に建つことになって、工事が始まってん、毎日うるさいし」
 香山さんってどこに住んでるんだろう。今度名簿を見てみよう。
「今日は塾がある日やし、もう帰らな」香山さんはそう言って立ち上がった。
「すごいな、塾に行ってるんや? 僕なんか何も行ってへん」
「でも、もう何のために勉強してるんか、最近わからんようになってしもうたわ」
 もっと香山さんの話が聞きたかった。小川さんのことも知りたかった。
「ありがとう、村上くん、昨日は少し嬉しかった・・」
 香山さんは小さな声で言うとスカートに付いた土を丁寧に掃い校舎に戻った。
 香山さんの誕生日はいつなんだろうか? 本当に誘ってくるんだろうか? 少なくとも夏休みの間ではないだろう。僕の誕生日が夏休みの間で助かった。



「お母さん、この家って金持ちと貧乏・・どっちなん?」
 茶の間で編み物をしている母に何となく聞いてみた。
「普通でしょ。何でも普通が一番よ」
 母は編み物の手を止めてこちらを見て「何でそんなこと聞くん?」と面倒臭そうに訊いた。
「会社がつき合うって、どういうこと?」
「そんな話、難しいわ、お父さんに訊いて・・そうそう、陽一、叔母さんから電話があったわよ。八月の一日、電車に乗って駅まで来てって」
 僕のいろんな世の中の疑問が一度に吹き飛んだ。
 叔母さん、映画の上映日に合わせてくれたんだ!
「陽一、同じクラスに長田さんっておるんと違うかった?」急に違う話に変わる。
「おるよ」
 今度は僕が面倒くさそうにする。
「長田さんって、すごく可愛いんやって? それにあそこのお父さん、すごいやり手らしいよ。近所でも噂になってるわ。隣の町に新しくできたスーパーも長田さんとこの系列らしいわよ」
 長田さんの家ってどれだけの金持ちなんだよ。
「長田さんの誕生会に行ったよ」
 僕はぽつりと言った。
「誕生会って、あんたまさか、そんな所に行って恥かいてないやろな?」
「恥なんかかいてへん、大丈夫や」
 プレゼント必須だったとはたぶん思ってもみないのだろう。母はほっとした表情を見せた。

 終業式が近づいたある日、文房具屋でノートを買って帰途についていると急に雨が降り出した。まさしく夕立だ。傘も差さずあのアパートの前を通ると女の人の大きな声が聞こえた。叫ぶような声だった。
 見たことのない若い男がいた。三十歳前後に見えた。
 アパートの前で、その男はしがみついて離れない女を振り解こうとしていた。
「離さんかいっ」
 女はあのシュミーズの女だった。今日は服を着ているが、びしょ濡れになっている。
「あの子なら、私がよおく躾けるから、トシオみたいなええ子にするから、行かんといてえな」
 女の剥き出しの腕がひどくぶよぶよして見える。
「あいつ、薄気味悪くてたまらんのんや。まだ小さいのに女の目をしとるんや」
「待ってえな、今度、いつ来るか教えてえな」恥ずかしげもなく女は叫んでいる。
「やかましいっ!」
 男は女の手を振り解くと駅の方にさっさと歩き出した。女は諦めたのか、その場にうずくまっている。大人の男女の醜さを垣間見た気がして僕は逃げるように駆け出した。
 このままここにいたら心が汚れてしまうような気がした。
 早く叔母さんに会いたかった・・
 夏休みに入ると修二とクワガタや蝉を捕りに山に行ったりした。修二がいない時には本を読んだりして過ごす。本を読み終えると、本の話がしたくなってまた叔母さんに会いたくなる。
 日曜日には父と一緒に近くの山に登ったりした。
「お母さんも一緒に山に登ればばええのに」
「お母さんは怖がりやからな、山以外でも何でも怖がるんや」
 夏休みに入ってもプールの授業のために登校したりする。
 水着で並んだ女子生徒たちの中に小川さんの姿はなかった。水着を着た小川さんを見たことがない。


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