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作品名:水を支える〜二人の少女の秘密 作者:小原ききょう

第12回   小川悠子の家


 私たちはこの小さなアパートで四人で住んでいる。
 元々はお母さんと二人きりだった。四人になったのは去年からだ。
 私はこの家で生まれてからずっとお母さんと二人きりだった。お父さんという存在がなくても楽しかった。お母さんがいるだけでよかった。それなのに、突然、知らない男の人とその息子の小学六年生の子が一緒に住むようになった。
 住むようになった、というより家族以外の二人の人間が家に転がり込んできたという方が正しい。私とお母さんの家を宿代わりに使っている。おかげで家の中が散らかり汚くなった。掃除をしても、あとからあとから汚れていく。この二人は部屋が汚くてもかまわないのか、それとも汚い場所が好きのか、私が片付けをしていると背後から小突いたり、蹴ったりする。小突くのは息子の方で、蹴ってくるのは父親と決まっている。
 そんなことをされるからというわけではないけれど、私はこの父子が好きではない。全く馴染めないし、向こうも私を邪魔者扱いしている。
 最近、父親の方は昼間は家にいることが少なくなった。駅前のパチンコ店に行っているみたいだ。お母さん以外にもつき合っている人もいるようだった。夜、父子ともいない時は女の人の家に泊まっているらしい。そんな夜、私はホッとするが、お母さんは機嫌が悪くなる。お母さんは機嫌が悪くなると私に辛くあたる。
 お母さんはあの男と関わるようになってから変わってしまった。
 それまで優しかったお母さんの顔が苦しそうだ。決して幸せそうには見えない。
 お母さんはあの男の人を好きだから一緒にいるんじゃないの? そう思って私は我慢することにしている。
 この父子のせいでお母さんとの会話もなくなり距離も離れてしまった気がする。この小さな家の中で私一人だけが余計者みたいに感じる。
 けれど、そんな居づらい家でも私には心安らぐ時がある。
 それは藤田のおじさんが来る時だ。私はおじさんが来るのを楽しみにしている。
 おじさんのバイクのエンジンのトコトコという音が近づいてくると私は安心する。
 この前、おじさんは綺麗なビー玉を見せてくれた。
 ビー玉なんて見たこともなかったけど、これで子供は遊ぶのだ、と教えてくれた。綺麗だなと思ってみていると「悠子ちゃんにあげるよ」とおじさんは言った。けれど、私は断った。こんな綺麗なものは私にはもったい。
 それなのにおじさんはビー玉を私に握らせた。もらっても私はビー玉で遊ぶことは出来ないし、仁美ちゃんもこんなもので遊びはしないだろう。
 仁美ちゃんはお金持ちだから、もっと違うもので遊ぶに決まってる。
 でも、このビー玉すごく綺麗・・こんな綺麗なの見たことがない。
 クラスの女の子たちのように私はアクセサリーなどは持ってないけど、これ、ずっと持っていたいな、と思った。
 これくらい持っていても神様も文句は言わないだろう。

「それ、何や、見せえや」
 突然、背後から声をかけてきたのは、あの男の息子だった・・「敏男」という名だ。
 私がビー玉を持ったままぼんやり立っていたのが悪かったのだ。やっぱりおじさんに返そうと思い、出かけようとしたところを敏男に見つかった。
 私は「ビー玉・・」と小さな声で言った。何かされるのだろうか。
 私はビー玉を持っているだけだ。
「それ、よこせ」敏男は手を伸ばしてきた。
「いやっ」私はビー玉を持った手をスカートの後ろにまわした。
 いつものように精一杯の抵抗をする。
「ちぇっ、がめついやっちゃ」
 私は髪の毛をギュッと掴まれ引っ張られる。いつものことだ。
 痛い! 痛いけれど私は絶対に声をあげない。
 敏男は私の体を髪の毛ごと引っ張り私の手からビー玉を無理やりもぎ取った。
「返してっ!」
 私が言うと敏男は面白がるように手を高く上げて「とってみろ!」と言ってからかう。
 私の手が届きっこないことを知っていつもからかう。
「それ、藤田のおじさんに返すんだから返して」
「もっと大きな声で言えよ。いい子ぶりやがって」
 敏男は全て知って言っている。私がこの家では大きな声を出せないことを。
 その時、玄関のドアが開いた。
「またパチンコ負けてもうたぞ、いったい誰のせいや!」
 いつもより早い時間にあの男が帰ってきた。
 お母さんが「お帰りなさい、ご苦労さま」と言いながら奥から出てくる。
「なんや、また兄弟喧嘩かいな。仲よくせえっていつも言っているやろ」面倒臭そうに頭を掻きながら男が言う。
 兄弟なんかじゃない、あなたが連れてきたのだ。お母さんと二人で暮らしていたのに。
「悠子が駄々こねてるだけでしょ」
 お母さんは私と敏男とのやり取りをちゃんと聞いていたんだ。
 お母さん、私は間違ったことはしていないよ。
「おまえ、何とかしいや」男はお母さんに怒鳴る。
「おやじ、悠子の奴、しぶといんや」敏男が答える。
 言葉がもう無茶苦茶だ。
 こんな時、この状態を終わらせる一番いい方法をこの男は知っている。
 鈍い痛みが腹部を襲った。男はいつもこうして私のお腹をこぶしで殴る。
 でもお腹の方が私には都合がよかった。お腹だと大きな声を出してしまうことがない。
 変な声が私の口から漏れる。強烈な吐き気が襲う。私はトイレに駆け込んだ。
 トイレで吐きながら、これであの親子から逃げることができた、と思った。
「悠子、トイレを汚したらあかんで。ちゃんと掃除しときや」
 お母さんの声が私には一番悲しい。
「俺、今から使おう思うとったところなんや。はよ出てきいや、臭いんはイヤやで」
 男の声に一番敏感に反応するのはお母さんだ。
「悠子っ、お父さんが使うって言ってるでしょっ、早く出てきなさいっ!」男の言葉に慌ててお母さんがわめきだす。
 お母さん、あの人はお父さんじゃないよ・・
「俺もおしっこしたくなってきた」敏男まで言い始める。
 私はまだ嘔吐物が胃の中に残っているような気がしたけど雑巾を使って便器を綺麗に掃除してすばやくトイレから出た。
 私にはわかっている。トイレから出た瞬間に何をされるのか。でも何も知らないふりをしてトイレから出たほうがいいのだ。
 トイレから出ると私はあの男が伸ばした足に気づきながらも、わざと躓いて前のめりになって派手にこける。
 変な笑い声が男の口から出て、そのあと敏男が「ざまあみろ」と言った。
 こけ方も最近は慣れてきた。痛みを最小限に食い止めるこけ方を身につけた。
 私は立ち上がると居間の隅の行って少しの間、膝を抱えて座り込んだ。
 いろんな匂いのする部屋だ。煙草、お酒、たぶん食べ物か何かが腐っている匂いもする。 ここに私の匂いはない。
 私は近くにあったランドセルを引き寄せ明日の時間割を見て箱の中から教科書を取り出し中身を詰め替える。これだけすればここに用はない。
 ここは私にとって少しの間だけの場所だ。すぐにみんなここに入ってくる。
 あとで三人が来たら玄関に行って座っていよう。玄関にはすぐに出て行けるよう靴もある。近くに水道もある。私はすぐにコップに水を汲んで玄関に行った。
 ランドセルから給食の時にいつも残してあるパンを取り出し水で食べた。パンが喉の奥につかえて気持ち悪くなって戻しそうになる。それでも無理やり流し込む。今日の夕飯はこれでいい。
 居間から三人の笑い声が聞こえる。今日は水曜日、八時になればいつもの連続ドラマが始まる。あの人たちもいつも見ている。私は耳を澄ませてちゃんとストーリーを覚えておく。
 まだ胃の中が変だ。みんが寝静まるまでの我慢しよう。かなり時間があるけれど、今度は誰にも知られずトイレに行ってから寝よう。夏はいい。夏はお布団がいらないからどこでも寝れる。
 今夜は大きな声を出さずに済んだけど昨日は大失敗だった。
 男に背中を蹴られて思わず大きな声を出してしまった。しばらくして仁美ちゃんが家のドアを叩きに来た。
 これは近所の人のふりをしてドアを叩くお芝居。私が仁美ちゃんに押しつけているルールの一つだ。ドアを叩くと男はその日はそれ以上何もしてこない。
 でもそれは仁美ちゃんにとってはよくないことだ。だって、仁美ちゃんは夜遅くに高台にある家を出てあの壊れそうな階段を使ってここまで来たんだもの。あの階段は危ない。それにきっとあとでお母さんに怒られるに決まっている。
 そのことを考えただけで「私はもっと我慢しなくちゃ」と思う。仁美ちゃんをこんな所に来させてはいけない。
 これ以上、仁美ちゃんに迷惑をかけてはいけない。



「仁美ちゃん、私、ちゃんと学校行くから、アパートの前で待つのんだけはやめて」
 次の日の朝、胸騒ぎがしてアパートの前で待っていた私を悠子は責めた。
「わかった、わかった。気になって、来てしもうたんや・・それで昨日はなんもなかったん?」悠子はアパートの前で私が待つのをすごく嫌がる。
「何もあらへん」悠子は首を強く横に振る。
 何もないはずはない。
 悠子は間違ったことは言わないけれど、悠子の言うことは嘘ばかりだ。
 確かに昨日の晩はあの男の怒鳴る声と悠子のお母さんの声が聞こえた。
「嘘ついてへんか?」
「嘘ついてへん。ドラマだって、みんなと一緒に見たし」
「本当? 神様に誓える?」
「うん、誓える」悠子の顔が苦しそうだ。
 たぶん、私たちは死んでも天国には行けない。
「仁美ちゃん、私にかまっとったら、クラスののけ者になるよ。前みたいに清田さんたちと仲良くしてちょうだい」
 悠子は歩きながらそう言った。
「私は悠子といる時が一番楽しいねん」
 本当にそうだ。友達なんていらない。
「そんなわけないやん、仁美ちゃんこそ嘘つきや」
「私は嘘なんてつかへん」
「私もつかへん」
 もし悠子がこれから先もずっと嘘をつき続けて地獄に連れて行かれるというのなら、私は一緒について行く。


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