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作品名:水を支える〜二人の少女の秘密 作者:小原ききょう

第10回   少しずつ
 夕方、僕は夏休みの宿題の今日の分を終えて自転車に乗って出かけることにした。
 商店街の出来事を忘れるように東に向かってペダルを踏み商店街の脇を抜けて川のあるところまで来た。
 川は「天井川」という名の川だ。西にある「吉水川」と比べると見劣りのする川だが、遊歩道がきちんと整備されていて散策もでき地元の人たちの憩いの場所となっている。ずっと南の方に行けば埋め立て地の工場地帯に出る。
 橋の上で自転車を止めて南の方を眺めていると、向こう岸の道に、アパートの女にしがみつかれていた男が別の若い女と歩いているのが見えた。男は手を女の腰にまわしていて楽しそうに何かしゃべっている。
 大人の目がイヤで遠くに来ようと思ったのに僕はどこまでも大人の姿に執拗に追いかけられている気がした。
 女は流行りの髪形をして派手なアクセサリーを身に付け、底の異常に高いハイヒールを履いている。スカートも異常に短く、太ももが見てくれと言わんばかりに剥き出ている。
 アパートの女もイヤらしく見えたが、この女の人も別の意味でイヤらしく見える。
 僕はペダルを踏み込み、川のもっと向こうへ行こうと思った。
 遠出をすると叔母さんに会いに行きたくなる。けれど、叔母さんの家は遠過ぎる。自転車ではとても行けない。
 叔母さんの家まで行けなくても川の向こうには駅があり、駅前には大きな商店街がある。
 商店街の大きな駄菓子屋に入ると見たことのないビー玉がたくさんあった。何個か綺麗なものを選んで買い、ポケットにしまい込み家に帰ることにした。
 陽が沈みかけると、急に夏らしくない雨が降り出した。かなりのどしゃぶりだった。母が心配すると思い急いで自転車のペダルを踏んだ。
 あのアパートの前を通ると、その向こうの崖の上の高台の家に灯りがたくさん灯っているのが雨なのによく見えた。
 あの高台からならお祭りの花火もよく見えるな、と思ったのと同時に、一軒の大きな家の南側にもっと大きな家が建つであろう工事中のホロを被った建造物が見えた。
 ―毎年、夏になったら家の二階からお祭りの花火がよう見えたんやけど・・
 香山さんの言葉が浮かんだ瞬間、南側のアパートから「出ていかんかあっ」と女の大きく醜い声が聞こえてきた。あのシュミーズの女だ、と思った。
「全部おまえのせいやっ」続けて聞こえた声に耳を塞ぎたかったけれど、できないまま自転車を早く漕いだ。
 激しく降る雨の中、女の子の泣き叫ぶ声がどこまでも追いかけてくる気がした。
 アパートを通り過ぎ家に続く道に曲がろうとした時、ぬかるみでタイヤがスリップして転倒してしまった。お尻と肘を強く打ってシャツもズボンもどろどろになった。肘が擦り剥けて血が滲み始めた。
「おい、大丈夫かあ?」
 あのバイクのおっさんだった。バイクに跨ったまま僕を心配そうに見ている。
「大丈夫です」僕は泥を払いながら立ち上がり自転車を起すと、念のためポケットに手を入れビー玉の数を確認した。
 おっさんは僕の方を見ながらもアパートの方に聞き耳をたてているかのようで「また、やっとるなあ、はよ、行ったらんと」と呟いた後「ほな、またな」と言いアクセルを回してアパートに向かった。
 あのおっさんはいい人だったんだ。今更ながら気づいたけど、何にもできない僕が不甲斐なく思われる。

 僕は家に帰ると風邪をひかないように早めにお風呂に入ってよく温もり体を休ませた。
 体が興奮しているのがわかった。自転車でこけたせいではない。
 お風呂を出ると脱衣カゴに丁寧に折り畳んだ替えの下着を母が用意してくれていた。テレビのある居間では父の笑い声が聞こえた。今日は宿題をはやく済ませてもう寝よう。その前に久しぶりにめったに話さない父とテレビの話でもしよう。
 下着に体を通しながら「僕はいろんな人たちから守られている」と思った。
 それに僕の家は絶対に貧乏ではない。
 そしてこの世の中には貧乏よりもっとひどいことがある。
 その日の夜、買ってきたビー玉を勉強机の引き出しの中にハンカチに包んで丁寧にしまうとその下の引き出しから同級生名簿を取り出し名簿を持ったまま布団に入り、頁を繰りはじめた。
 自分のクラスの箇所を最初から目で追った。
「アンナ・カレーニナ」でトルストイの言っていた「金持ちの家はみな似通っている」というのはやはり嘘だ。
 金持ちだってその上にもっと金持ちがいてその人たちに苛められることだってある。
 それを気にしない人もいるし気にする人もいる。金魚の糞のようについていく人もいる。
 でもトルストイは半分正しいことを言っている。貧乏な家が夫々おもむきが異なっているというところだ。貧乏でも仲良く暮らしている家もあるし、家の中が険悪でずっと残酷で僕の家なんかとは想像もつかないくらい残酷で・・
 薄ぼんやり見える天井の木目を眺めながら、いろんなことを考えているうちにいつのまにか眠りについた。こうやって眠りにつくことも許されない人も世の中にはいることを知りながら・・
 この夏、僕はそんな人たちを大勢見た気がしたけど、もっと僕はいろんなことを知りたかった。



 八百屋の田中くんの苗字が変わった。これからは山中くんになる。
 あんまり好きな奴じゃないけど苗字が変わったことで、これまでと違ったつき合いが出来そうだった。
 一度、修二と家に遊びに行くと照れくさそうに「田中と山中だから『田』が『山』に変わっただけだから、あんまり変わんないんだけどな。これからもよろしく頼むぜ」と言っていた。
 山中くんは気にしていないようだったけど親が変わったんだから、きっとすごいことなんだろう。
 もっと驚いたのは、てっきりお父さんが変わったとばかり思っていたけれど、変わったのはお母さんの方だった。人の家はいろいろある。
「今度のお母さんはいろんな物を買ってくれるんだぜ。僕の部屋を見せてあげるよ」と言って山中くんは僕たちを部屋に案内した。
 そこには見たことのない玩具や怪獣や戦車のプラモデル、ボードゲームが部屋中を占領していた。そこはもうすっかり山中くんの部屋だった。
「すごいだろ」
「田中くん、じゃなくって、や、山中くんがうらやましいよ、僕が持っていないものばかりだ」修二が羨ましそうに見ている。
「この怪獣図鑑、ちょっと見せてくれよ」
 修二が真新しい図鑑を手に取って言った。
「いいよ」山中くんは快く応えた。
 文哉くんと一緒になって松下くんをからかっていた時とは別人みたいだった。
 お父さんが違うお母さんと再婚して苗字が新しいお母さんの苗字になる。八百屋はどうなるんだろうか?
 僕は自分の父と母にそんなことになって欲しくなかった。もしそんなことになったら僕はどうすればいいんだろう? 叔母さんとの関係はどうなるのだろうか?
「八百屋はやめることになったんだ。色々あって。お父さんはあんまり話してくれないからよくわからないけど」
「八百屋がなくなったら、みんな困るんじゃないのか?」修二が怪獣図鑑を見ながら言う。
「お父さんが誰かあとをやってくれる人を探してるところなんだ・・あ、それ、見たことのない怪獣だろ」
「見たことない、すげえ」二人の会話を聞きながら山中くんの勉強机を見ると今のお母さんらしい人とお父さんと山中くんのどこかで撮ったらしい写真が飾られてある。
 新しいお母さんはすごい美人だった。こんな美人のお母さんだと前のお母さんを忘れるものなのだろうか?

「田中くんが山中くんになってしまった」僕は冗談ぽく母に話しかけた。
 あくる日、母と商店街に向かっている時にそう言うと「あそこの家も色々大変みたいよ」と母は陽射しを眩しそうにしながら答えた。
「でも山中くん、お母さんが変わっても平気みたいやった」
「ほんまにそう思うか? 急に修二くんのお母さんが今日からあんたのお母さんや言われたら、平気か?」
 だから、僕は平気じゃないんだって。そんなことも言えないまま文房具屋を過ぎ銭湯の前を通った。母には叔母さんみたいに「水の匂い」はしないのだろうか。

「この前、大丈夫やったか?」
 案の定、銭湯からあのおっさんが出てきて声をかけてきた。このおっさんとは何か縁でもあるのか?
「な、何にもあらへん、大丈夫や」今日は母と一緒なので気まずい。
「元気ええなあ」おっさんはそう言うと母に「いつもお世話になってます」と声をかけ頭を下げた。母も丁寧にお辞儀を返した。
 おっさんが見えなくなると母は「陽一、花火、買ったろか?」と言った。
 せっかくなので「線香花火とねずみ花火を買って」とねだると母に「さっきの人と何かあったんか?」と訊ねられた。
「自転車でこけた時、あのおっさん、見とったんや。かっこ悪いところ見られてしもうたた」
「なんや、陽一に何かあったんか思うたわ。怪我せんかったんか?」
 幸いにも母に自転車でこけた場所は訊かれなかった。
「大丈夫や」と答えると母は安心したようだった。
「あんまり心配させんといて」
「うん」
「そや、駄菓子屋に花火売ってるやろ」
 母は薬局で買い置き薬の精算を済ませると商店街の奥に向かった。
 小川さんは居らず、おばあさんがレジ横の椅子にちょこんと腰掛けていた。
 あの時のことが遠い日の出来事に思えた。あのおっさんからもらったビー玉はどうなったんだろう? あの時のアパートから聞こえた女の子の叫ぶ声は本当に小川さんだったのだろうか?
 花火を買うとおばあさんはくじのことを忘れているようだったけど、母が言うとくじを引かせてくれた。
 また3等だった。お母さんは3等のお買い物券を僕にくれた。これを早く叔母さんに渡して全部使いたい。叔母さんはお祭りを見に来てくれるだろうか?
 お祭りでは参加者にサイダーや駄菓子をくれるらしいけど、早いもの勝ちらしい。


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