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作品名:水を支える〜二人の少女の秘密 作者:小原ききょう

第1回   アパート
 ◆

 町の中を「水」が流れている・・
 初めてそう感じたのは小学五年生の夏だった。
 地面の中でもない、体の中でもない。確かに水は町のあらゆる場所を流れていた。
 遥か昔のことだが、その感覚を今でもはっきりと思い出すことができる。
 その頃、家の周りの砂利道がアスファルトで舗装され始め新しい家が次々と建ち並び、町の形が少しずつ変えられていった。
 けれど新しい道にはまだ車はほとんど通ることがない。
 新しくなりつつある町に人が追いついていない。
 そのことを証明するかのように、家の前の綺麗になった道のど真ん中で僕は近所の友達と遊んだり、夜には大の字に寝転がって星を眺めていたりしていた。
 砂利道に犬の糞を平気でさせていた飼い主もアスファルトになると何となく後ろめたさを感じるようになり、世の中ではお茶の間の主役が白黒テレビからカラーテレビに少しずつ変わり、塾に行く子供たちが増えはじめ、塾に行かない子供が少し引け目を感じだした。
 みんなが懸命になって新しい町の形に追いつこうとしていた。そんな時代だった。
 そんな頃、少し気になる場所があった。
 それは近所の緩やかな坂道沿いにある古びたアパートだ。
 アパートは道の西側に二棟、北と南に建っていて、南側のアパートは薄汚れた木のドアと洗濯機が並び、その前には自転車などが無造作に置かれ、北側のアパートにはたくさんの洗濯物が雑に干している窓が並んでいる。
 二棟のアパートの間には小さな子供たちが遊べるほどの空き地のような広場があり、そこには小さな滑り台、ブランコ、錆ついた鉄棒や水溜りのような砂場が慰め程度にある。
 ここに住む子供たちはここから出ていかなくても大抵の遊びがここで済ませられる、子供たちの親はそう考え、この場所に自分たちの夢を思い描き住み始めたのかもしれない。 人が足を踏み入れない場所には雑草がここぞとばかりに生えている。誰も雑草を刈ったりしない。そのせいで雑草は住民たちの夢を押し潰すかのような勢いで力強く生い茂っている。
 特に目を引くような変わった場所ではなかったけれど、そこには僕がまだ知らない何かがあるような気がして、近くを通る時はわざと遅く歩いたり、少し立ち止まったりしてアパートを眺めるのが習慣になっていた。

 あの日も僕は梅雨の長い雨が止んだアスファルトの道をアパートの方を見ながら歩いていた。広場ではいつものように幼い子供たちが砂場で湿っている砂で何かの形を作っていたり、サッカーボールを転がす少年が泥を撥ね上げていたりしていた。
 そして、子供たちの時間の脇を通り抜けるように若い男女がタライを抱え近所の銭湯に出かけていく。
 日が暮れ始め、ありふれた日常の終わりを告げるようにどこかの家からカレーの匂いが洩れてくる。
 ここはいろんな人の生活が詰まっていて、それを一望できるような場所だ。
 けれど、この広場はいつも暗い・・まだ陽が沈んでいないのに暗い。
 この時間なら見えるはずの西日が遥か彼方にあるように感じるのは、二つのアパートの奥に西日を遮っている大きな何かがあるからだ。
 それはアパートと広場を見下ろすようにそびえ立っている二〇メートルはあるであろうコンクリートで塗り固められた灰色の大きな「崖」だ。
 崖には非常階段が取り付けられてはいるが、使う人は誰もいないのか、遠くからでも錆ついているのがわかる。重い大人が使うと崩れ落ちてしまうかもしれない。
 崖の上は高台になっていて下のアパートに住む人々よりも遥かに恵まれた暮らしをしているであろうと容易に想像できる立派な家が立ち並んでいる。
 おそらくこの崖は新しい家々を建てるために盛り土をして高台を作り上げ、古いアパートの一画との「仕切り」をするために作られたのだ。
 子供だった僕は勝手にそう想像していた。
 実際には盛り土などしていなくて初めから高低差のある土地だったのかもしれないが、子供の頃の目は自然とそこに大人たちの作為的なものを感じとっていた。
 夕暮れ時の逆光で家の様子は、はっきりと見えないが、そこには当然、お風呂があり、きれいな服を着た人たちが住んでいるはずだ。
 建築中の家も数軒あったりして高台の上はアパートよりもずっと希望に満ち溢れているように見える。
 ここでは人の種類をきっちりと二つに分けている・・僕はそう思っていた。

 突然、南側の一階のドアがガチャガチャと音がして中からステテコに腹巻の中年男が壊れかけのようなドアを開け出てきた。
 男はランニングシャツ一枚しか着ておらず肩どころか乳首まで丸出しで腹も大きく出ていて全身が緩みきっているように見える。
 多分、風呂にも入っていないのだろう。僕は目を合わさないようにした。
 更に部屋の奥から男を追いかけるように、シュミーズだけの女が出てきて封筒のような物を男に渡したのが見えた。
 受け取った男はニヤニヤ笑いながら女と何か話している。男はそれを腹巻と腹の間に差し込むと変な咳をしながらアパートの一画から抜け出るようにして南に向かった。
 ・・あのおっさん、どこかで見たことがある・・そう思っていると、女は僕を見つけたらしく、ニヤリと男と同じような笑みを浮かべた。
 ドキリとした。僕のいる場所はアパートのドアからはかなり離れているからだ。
 見ていたのを見つかった。ばつの悪い思いをしていると「トシオに何か用事?」と女は自分の格好を恥じる様子もなく面倒くさそうに、だがよく聞こえる大きな声で言った。
「トシオなら、遊びに出ていって家におらへんで!」
 トシオ?・・知らない名前だ。
 この女はこうして誰にでも声をかけているのだろうか? 
 女のシュミーズが大人の女の厭らしい感じを精一杯その辺りに醸しだしている。
 僕が何の反応も示さないでいると女は何も言わずドアの向こうに消えた。
 僕が何にも答えていないのに、女が勝手に一人でしゃべって消えていった・・女が消えると夕刻の喧騒がこの場所にだけ集中しているように感じた。
 喧騒が何かの決まりごとであるかのように男と女の存在を消し、砂場で遊んでいた子供たちも親に呼ばれ家の中に戻っていく。子供たちがいなくなると今度は、だらしない格好の老婆が乳母車を押しながら空き地をぐるぐると徘徊し始めた。どう見ても普通の様子ではないし、乳母車には赤ちゃんなど乗っていない。
 アパートの中からは男の怒鳴る声や子供の泣く声が聞こえ、南側のアパートのベランダからギターの音、それに合わせた若い男女の歌声が聞こえる。誰もが知っているフォークソングだ。そんな歌に僕はまだ知らない大人の世界に思いを馳せていた。


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