僕達の夏休み 4話 それぞれの夏休み
僕は今、東京の街をある会場に向かって歩いている。 肩と肩がぶつかりそうになる程、沢山の人がすれ違う。 こんなに沢山の人がいるが、誰一人挨拶もせず黙々と歩いている。
赤信号で立ち取った。
『あー今日もいい天気だ 』
夏の日差しが眩しい。僕は空を見上げだ。入道雲が見えた。
こんなに人がいるのに誰もが無口で、聞こえて来るのは機械に録音された言葉と、機械的な音 や車の走る音、人々が歩くざわめきの音、それから、 どこからか流行りの音楽が流れている。 色々な店のコマーシャルも、あちらこちらから、流れてくる。 色んな音が頭の中でグチャグチャになって音が飛び跳ねる。不協和音の様に聞こえて音に酔いそうで、気持ちが悪い。
『信号が青になりました。』ピッポパッポッ・・・
青信号を渡ろうと沢山の人が歩き出した。向こうから一人の老人が歩いて来る。(老人と言っても僕も既に60を過ぎているので人の年齢の事はあまり言えないが・・・)その老人は今時珍しい麦わら帽子をかぶり白い少し汚れたタオルを首にかけて汗を拭きふき歩いて来る。 もう一つの手には犬を繋いだリードを持っていた、そのリードにつながれて、雑種と思うが、柴犬のような犬も一緒に歩いて来た。 すれ違いざま彼の顔が麦わら帽子の隙間から見えた。 あっ佐藤さん ! (佐藤さんとは僕が幼少の頃住んでいた町でトウモロコシを作っていた人。) そして、犬はまさしく僕がその頃飼っていた犬のジョンであった。 目から涙が溢れた。すれ違って、すぐに振り返ったが佐藤さんもジョンも見失った。 沢山の人が早く信号を渡ろうと、どんどん押し寄せて来る。 『信号が赤に変わります』 と信号機の機械の言葉とピポッピホッと信号の音が早くなる。 青信号が点滅し始める。 僕は、足早に横断歩道を渡りきる。 向こうの道路に、佐藤さんとジョンの姿を探したが、何処にもいなかった。
当たり前だ。 佐藤さんは50年前に亡くなっていて、ジョンもその頃飼っていた犬なのだから、犬の寿命からすれば生きているはずもない。
僕は小学3年生まで福岡の小さな炭鉱町で育ったが、3年生の三学期の終わり、父の仕事の都合で長崎に引っ越しをしたのだった。 引っ越し先が借家で手狭な為、動物は飼ってはいけないと大家さんにいわれていたそうで、父親からジョンは連れていけないから、と言われた。 僕はジョンと離れるのは辛かったが、親友のハカセと荒井君にジョンを頼んで引っ越しする事にした。 引っ越しの朝。近所の人やハカセや荒井君が見送りに来てくれた。
庭先の梅の木に花が咲いていた。
トラックに荷物を積み終えて皆さんに挨拶した。 ジョンがワンワンと、僕も連れて行ってと、すがるような目で僕を見た。
ジョンに元気でな!
と別れを言って、荒井君にリードを渡して、僕はトラックに乗った。トラックが走り始める。 皆さんが、手を振る。僕もトラックの窓から顔を出し、力の限り手を振る。
ワンワンとジョンの声が山間に、いつまでもこだまする。
トラックは町の外れの所まで来ていた。 僕は、ぼーっと育った町が遠ざかるを見ていた。
するとまたワンワンとジョンの声がした。
「おじさん止めて!」
と運転手のおじさんに言ってトラックを止めてもらった。 ジョンが駆けつけて来た。 僕もトラックから飛び降りてジョンを抱きしめる。
ジョン ごめんな ごめんな。お前を連れて行けないんだ。
僕はボロボロと泣いた。 ジョンは随分走って来たのであろう、ジョンの足から血が出ていた。これ以上ジョンを走らせてはいけないと思った。 僕はそこら辺にあった木の棒でジョンを叩いた。
来るな! 来るな! どっか行け !もうお前なんか嫌いなんだ。!
と僕はジョンを叩いた。
ジョンはキャイン キャインと小さくうずくまった。
僕はトラックに乗った。 トラックはまた静かに走り始めた。 トラックのサイドミラーにジョンの姿が映っていた。ジョンの姿が小さくなっていく。 ジョンはそこから一歩も動かなかった。ジョンの目が潤んでいるのがわかった。
カーラジオから
前を向いて歩こう。
の歌が流れてきた。
育った町がどんどん遠ざかって行く、カーブを曲がり、もうジョンの姿も見えなくなった。 僕は母ちゃんにすがりついて、泣いた。 涙が止まらなかった。
どこを見たって涙は出るものだ。前を向いても涙で歩けるものか!
とその時思った。 やけくそだった。 泣くだけ泣いた。
あれから、長崎の小学と中学へ行った。 名門の高校へ行く為僕は、受験勉強をしていた。
気分転換にたまにラジオの深夜放送を聴く そこで流れてきた音楽に全身に戦慄が走った。 なんとゆう曲だー?!!!
その曲は海外の男性歌手でギター一本で世間の矛盾を歌っていた。 その放送後日本中の若者が皆彼のトリコとなり演歌などのような曲しか聞いたことがなかったから、とても斬新で一度にとりこになってしまった訳である。
受験勉強もそこそこに僕はこっそりその彼を真似てギターを買って練習をしていた。どうやってギターを買えたのか今はよく覚えてない。
おかげで一流高校は不合格となってしまい、一流ではないが、まあまあの高校へ入学した。 高校に入っても僕はギターや音楽ばかりして全く勉強もしなかった。 町の公園でギターの練習をしていたら珍しい人が立っていた。 あの野球少年の小杉ちゃん(キャプテン)だった。
お前ギターうまいな!
と僕の横でギターを聞いていた。 小杉ちゃんと少し福岡の話などで盛り上がった。 聞けば同じ高校だと言う。 僕が一年生で彼は三年生。 僕のギターを聞きながら
俺も洋楽が好きなんだ。 兄ちゃんが熱狂的でさ、兄ちゃんの影響なんだ。 そうだ拓、家に来ないかギターやドラムやピアノがあるぜ。
と言われ、小杉ちゃんの家に行った。 小杉ちゃんの家は音楽家で母親はピアノの先生で、お父さんはギターリストだった。 僕は小杉ちゃんのお父さんにギターを習った。 それに合わせて小杉がドラムをたたいた。
洋楽好きの兄の隆さんが帰って来た。 隆さんともすぐに意気投合して隆さんはベースを弾いてくれた。小杉ちゃんの母さんがピアノを弾いてくれて、さながらちょっとしたグループサウンドのようだ。 バッチリの音色が気持ちいい。 僕は毎日小杉ちゃんの家に寄って帰った、、、
ってな訳で成績は散々となり父ちゃんに、
なんだ!この成績は!
と、どやされた。 このままでは、音楽を辞めなさい。と言われそうで、怖かった。 だから必死で勉強もした。お陰でなんとか目標の大学にも入れた。そして一流と言われる会社にも入社した。・・・
だが、 音楽の道を捨てきれず三年で会社を辞めた。
僕は小杉ちゃんを頼りにまた音楽をする事にした。 小杉ちゃんは自分でバンドを持っていた。
小杉ちゃんは相変わらず腕っ節が強くドラムを叩いた。ドラムを叩かせると右に出るものはいない。 その他のメンバーは、イケメンのリードギターの鳥川 君 と、どんな曲もアレンジできる、キーボードの光雄君 。とベースはもちろん小杉の兄の隆 さん。 そして何故か僕がボーカルらしい。 ギターも少し弾けるのでオリジナル曲も作った。
何曲か作ってライブハウスなどで歌っていたら音楽会社の人に認められてメジャーデビューする事となった。 ラッキーだった。それからずっとメンバーは変わらず、東京で音楽活動をして来た。
そして今日 今、僕は東京のコンサート会場まで歩いて向かっている。 既にメンバーはリハーサルのため会場入りしている。
リハーサルが終わり、楽屋に二人の男性が花束を持って来た。 小学3年生の時、別れたハカセと荒井君であった、50年振りの再会に胸が踊った。
しかし僕は彼達の活躍は既に知っていた。 何故なら、ハカセは研究熱心なあまり一つの研究に人生を捧げた。 ひたすら研究をして 『高音域における人のリラクレーションと感じる音との調和』 と題した論文を発表し、音の博士号を取った、ハカセは本当の博士になったのだ。
そしてあの、ひ弱な荒井君は中学高校と野球部に入り六大学野球では大活躍していたのを、僕はテレビで見ていた。 その後プロ入りのオファーを断り、高校の教師になって野球部の監督になった、 無名の高校をたった三年で甲子園へ導き、5年目では甲子園初優勝。 この35年間で春夏合わせて甲子園20回出場。そして三度の優勝をさせた名監督として誰もが知っている。 荒井君が監督を退任する時異例の記者会見があった。その時、僕は食い入るようにテレビを見ていた。 そこである記者が荒井君に質問した。
『荒井監督、何故プロにならずに高校で監督の道を選んだんですか?』
荒井君は目を閉じで静かに答えた
『昔、、。僕はとてもひ弱で運動が全くできませんでした。でもある僕の友達が何度も失敗する僕に、荒井君頑張れ、荒井君頑張れって、応援してくれたんです。全く野球が出来なかったんですが、彼のお陰で、野球が嫌いにならなかったんです。それどころか僕は野球が好きになり、野球の楽しさを知ったんです。だからプロになることよりも、子供達に野球の楽しさを教えてあげたかったんです。僕の友達が僕に教えてくれたように・・・』
と答えた。 僕はボロボロと泣いてそのコメントを聞いていた。 (荒井君お疲れさま。僕も君と野球ができて楽しかったよ) とテレビの前で男泣きした。
そんな二人が今日僕の為に会いに来てくれたなんて、感激だ。
僕はアンコールで『僕達の夏休み』を歌う事を決めていた。
さあー開演のベルが鳴る。
ゆっくりとステージに向かう。 今日このステージに、この会場の観客が僕の歌を待っているのだから。
僕達の夏休み
続く
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