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作品名:ママエフ・クルガン(102高地)〜川口ミキオの物語〜 作者:なおちー

第7回   さらに続き
 その後もドイツ軍の攻撃は続けられた。

パウルスら第六軍の首脳は、スターリングラード市の
完全占領のためには下の三つの工場

・「ジェルジンスキー」トラクター(戦車)工場
・「赤いバリケード」大砲工場
・「赤い10月」武器工場

そして

・ ママイの丘(102高地)

を占領することを必要とした。

1942年。9月から11月にかけて
それらの陣地へ一斉に攻撃が開始されたが、ソ連軍は頑強に抵抗した。

ドイツ軍の一部の部隊は、ソ連軍を蹴散らしてヴォルガ川沿岸にまで到着した。
そこへ、待ってましたとばかりに対岸側から
カチューシャ連装砲や重砲の反撃を受け大混乱。大損害を受ける。

ヴォルガ川が健在である以上、ソ連軍は川沿いに補給を受け続けることができる。
また、ヴォルガ川対岸にあるソ連軍砲兵隊までを
ドイツの飛行機は空爆することができない(基地から遠すぎる)

さらに、スターリングラード市街地はがれきの山である。
各工場群の先には、労働者の居住地があり、ここがすさまじい廃墟になっていた。
多数のソ連兵が身をひそめる格好の場所となっていたのだ。
ドイツ軍は敵地を空爆しているはずが、新しい塹壕を生み出していたのだ。

がれきと言えば狙撃戦である。
ここでスターリングラード戦ではおなじみのスナイパーの話をしよう。

  『ヴァシリ・グリゴーリエヴィチ・ザイツェフ』

  ロシア系ソビエト連邦人。(現在のチェリャビンスク州出身)

  第二次世界大戦中に活躍したソビエト連邦の狙撃兵。
  終戦時の階級は大尉。
  1943年1月に目を負傷するまでスターリングラード攻防戦で活躍。
  257人の敵兵を殺害。
  『ソ連邦英雄』『ヴォルゴグラード名誉市民』などの称号を得た。

※スターリングラードのことを、現在はヴォルゴグラードと呼ぶ。


ヴァシリの他にも、凄腕のスナイパーは何人もいたらしい。
ドイツにとって最悪なのは、高官や士官など替えの利かない軍人が
次々に狙撃されていたことだ。

永遠と続く市街戦で、何時敵に狙撃されるか分からない恐怖は
発狂するほどであろう。
零下30度にも達することのあるスターリングラード市街で
身をひそめて敵を待ち構えるのは、すさまじい忍耐力が必要である。

彼ら優秀な狙撃兵の存在自体が、
ソ連の我慢強さを物語っていると言って良いだろう。


いよいよ運命の瞬間がやってくる。

あれからママイの丘でドイツ軍を何度も撃退してきた
ミキオ達にとって、ようやく安心して眠れる日が来たのだ。

・天王星(ウラヌス)作戦

第二次世界大戦中の1942年11月下旬に、ソ連軍が、ドイツ軍を『逆包囲』した作戦。

ここで注目していただきたいのは、『逆包囲』である。
どういうことなのか?

すなわち、ここまでの戦局は、1942年9月の段階までドイツ軍は……
ヴォルガ川を背後にした、ソ連軍部隊を小さな輪の中に閉じ込めていじめていた。

「どうせww10日もあれば終わるっしょww」

と第六軍首脳は楽観し、始めた戦争だった。

ところが、ソ連軍は異常に粘り強い。

何回か前に語ったが、甲子園で例えると
ドイツ高校相手に5イニングまでに大きな点差ををつけられても
ソ連高校には全然あきらめる気配がないのである。

11月半ばになる頃には、

「あれ……? もしかして俺たち、逆に包囲されてる?」

という状態になった。

スターリングラードという名の、小さな輪の中で敵を包囲して良い気に
なっていたドイツ軍は、逆にスターリングラードを
「外側から包囲するソ連軍」に囲まれていることに気づいたのだ。

ソ連軍の包囲戦力は、次の通り。

将兵 1,143,500名
戦車 894両
砲門 13,451門

詳しい資料を読んでも包囲された枢軸国軍の詳細は不明だが、
たぶん33万くらい?はいたらしい。

この外側から包囲するという表現だが、
学研の歴史群像シリーズの地図で見るととんでもない範囲である。
たぶん日本の半分がぽっかり入ってしまいそうだ。
これほどの広範囲に、110万もの部隊を秘密裏に
展開したソ連軍のしたたかさは見事である。


名将・『ジューコフ』と『ヴァシレフスキー』は、9月13日の午後10時。
クレムリンでスターリンと会見し、丸一日かけて練り上げた反抗計画を披露した。

『敵の第六軍は十分に消耗したようです。
 これから敵の包囲網に対して外側から攻撃を仕掛けます
 攻撃を開始する時は、敵の一番弱いところを、一番強い兵力で叩くべきです』

ジューコフとはソ連軍最高の頭脳なわけだが、彼の持論は以下の通り。

・ドイツとの戦いでは正面からの殴り合いは不利。
・というか絶対に負ける。
・敵にあえて自軍の領土へ侵攻させ、消耗したところで反撃する。

それを実施する段階に来たというわけだ。
ちなみに上の計画は彼の頭脳をもってして、
ソ連軍がドイツ軍に勝てる唯一の方法だとした。

戦前の図上演習でも、敵の消耗を待ってからの反撃作戦で敵に効果的な打撃を
与えられることが判明し、スターリンから適切な作戦だと評価され信任を得ていた。

スターリン
『これほどの大作戦を行うのに、これだけの戦力で足りるのかね?
 相手はあのドイツ軍だぞ』

今までの戦闘では、ソ連はまともにドイツに勝利したことは一度もない。
(冬将軍を味方にしたモスクワ防衛線のような戦いならともかくとして)
こちらから攻めたはずが、地図上に生起した突出部に対して
敵が逆に包囲を仕掛けた結果、ソ連軍が全滅するなど、悲惨な戦闘事例が散見された。

スターリンの心配は当然であった。

しかしながら、スターリンの心配をソ連軍首脳部は杞憂だと判断した。

ソ連は学習する軍隊であり、全てを用意周到に準備したからだ。
事実、ウラヌス作戦は、ドイツ包囲網の一番外枠、ルーマニア兵の守るところへ
第一撃を食らわせ、大混乱状態に陥れた。その他の部隊も被害が甚大である。

過酷な包囲網に耐えきれなくなった第六軍は、やがて降伏することになる。
ドイツの将軍がソ連に降伏したのは史上初であった。
降伏したのは第6軍司令官『パウルス上級大将』である。

(降伏時はヒトラーの嫌がらせで無理やり元帥に昇格していたため、
 元帥と称するのは適切ではない。こうなってしまっては階級など茶番である)

ヒトラー
「降伏したら死刑にするぞ!!
 ドイツの元帥で降伏した人はいないよぁ。わかってんだろうな!!」

パウルス
「うるせー死ね。友軍が寒くて凍死してんだよ」

という流れでパウルスは降伏し、最後はソ連に寝返った。

捕虜となった9万人近くの第六軍兵士は悲惨だった。
モスクワまで連行され、戦勝パレードの歩兵行進に参加させられ、
それが終わった後は、シベリアの強制収容所に送られたそうだ。

モスクワの戦勝パレードでは、大衆の面前でさらし者にされた
第六軍の兵士を見て、気の毒に思うロシア・ソビエトの女性もいたそうだ。

『かわいそうに……あの人たちだって国の命令で戦わされたんだろうに……』

『私だってドイツは憎いけど、戦いで負けた人に、
 あそこまでするのはどうなんだろうね』

行進の当日は、捕虜に元気よく歩いてもらえと当局からの命令で、
朝からステーキや牛乳が振舞われた。
憔悴しきった兵らは、胃腸の状態が悪いのに無理やり食べさせられ、
行進中に腹を下し、糞尿を漏らしながら歩かされた人もいたという。
いくら敵兵とはいえ、涙なしには語れないエピソードである。

また、ドイツ軍というと残虐性ばかりが強調されるが、
第六軍の兵士のように国防軍に所属する兵は、ナチス思想の人ではなく、
純粋に国防の任務に就く職業軍人。半ナチスの人もたくさんいたそうだ。
残虐だったのはSS(ヒトラー親衛隊)の兵である。

特にアインザッツグルッペンは、ユダヤ人だけでなく多くのソビエト人民を
理由もなく虐殺し続けた。それを不快に眺めるドイツ兵も少なくなかった。

この小説でも残虐なドイツ兵ばかりをピックアップしていた気がするが、
中には心優しいドイツ兵もいて、不用意な残虐を止めようとした人もいたそうだ。


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