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作品名:『チベット高原を旅する』〜三人の兄妹の悲劇〜 作者:なおちー

第9回   再開@
ユウナは目が覚めたら自宅のベッドにいることに驚き、急いで鏡で自分の顔を確認した。
髪が長い。前髪が長くて目元が隠れるほどだ。顔立ちも幼い。
そして自室の壁にハンガーでかけられた学校の制服。
この状況からして自分が高校生に戻っていることを認めるしかなかった。

「あはは……まだ夢が覚めないんだ」

感情が爆発する。奥歯がカタカタと揺れ、熱い涙がこぼれる。テッシュを三枚とって
鼻水をふき取った。充電が完了したスマホを見る。朝の7時半だが、西暦を確認すると、
ユウナが高校二年生の時空に飛んでいた。また涙が出る。意識したわけではないのだが。

「お姉ちゃん、まだ起きないの。早くしなさいってお母さんがうるさいんだよ」

中学2年生のアユミだ。髪型はボブカットで24歳の時と変わらない。
顔つきもほとんど変化してない。奇跡のような童顔だ。
大きなひまわりの髪留めをしている。

「アユミ、あんたはなんともないの?」
「何が?」
「タイムスリップしたとか、そういう記憶はないのってこと」
「タイムスリップ……?」

アユミは少し沈黙してから真剣な表情になる。

「変な夢でも見た? 寝起きにしてもひどい顔をしてるよ。唇が紫色をしてる」

きっとひどい顔をしていたんだろうなと、ユウナは他人事のように思った。

「私は先に学校に行くから。具合が悪いならお母さんに伝えておくよ」

「うん……。わかった」

「本当に変だよ。風邪でも引いたの?」

「違う。本当に大丈夫だから。あんたこそ遅刻しないように行きなさい」

アユミは時間がないため、駆け足で玄関を出て行った。

この状態で学校なんて行けるわけがない。
そう判断したユウナは仮病を使って休むことにした。
とはいえ、両親を心配させるわけにいかず、病院には行くことにした。
むしろ自分の体に異常でも見つかってくれた方が、
休学する口実になって便利だとさえ思っていた。

クローゼットの私服は、まさしく高校生時代に着ていたものだった。
大人のユウナは少々肥満体系だったが、今はウエストが細い。
絶対に履けないはずのスカートのファスナーが余裕で閉まる。

生足を出すことに抵抗を感じない。露出が多い服は品がないので好みではないが、
兄とお出かけ用に買った。残念なことに高校三年の兄は夏休みの間も
生徒会の仕事に忙殺されていて、近所の買い物くらいにしか付き合ってくれなかった。

そんなわけで出番がない服は、文字通りタンスの肥やしにしていたのだ。
だが今日は皮肉な意味も込めてこの服を選んだ。
ミニスカートにノンスリーブのシャツだ。

外は夏の日差しが強烈だったため、一度家に戻ってから日傘を持ってきた。
たった50メートル歩くだけでも汗ばむ。ジリジリと、アスファルトを
焼き尽くすように日差しが注ぐ。オーブンの上を歩いている気分だった。

病院では夏風邪と診断されたが、あまりにも無理のある診断内容だった。
優菜は35.9℃と低めの平熱である。食欲もあるし頭痛も倦怠感もない。
飲むつもりのない薬代を払い終え、再び外を歩いた。

(ナツキに会いたい)

とユウナは思った。今朝、愛するあの人の部屋は空だった。
今頃学校に行っているのだろうか。ナツキは学園で生徒会長をやっている。
毎朝会議があるため家を出るのは6時半だ。朝寝坊が多いユウナとは同じ時間には通えない。

風邪で休んでいるのに、学校に行くのはさすがに気が引けたが、
我慢できずに下校時間に校門の前で彼を待った。

お昼に携帯で連絡はしたが、何時ものように返事がないので、ここで待つしかなかった。
生徒会の仕事は夜までかかることもある。だから夕方の下校時間にここで
待ったところで、はたして何時に会えるかわかったものではない。

下校中の生徒たちが、ユウナの横を過ぎていく。
みんなが私服姿のユウナを奇異な目で見ていた。だがそれも一瞬のこと。
ユウナが生徒会長の妹であることは周知の事実。
最後はユウナを見ないふりをして通り過ぎていく。

生徒は学生らしく楽しげに会話をしながら歩いていた。
諜報部からささいなことでスパイ容疑をかけられないために、
わざと明るく振舞っているのかもしれない。
ユウナには学生たちの話声が、外国語の会話のように遠く感じられた。


「そこのお嬢さん」
「はい?」

振り返ると、そこには背の高い男が立っていた。

「これはお嬢さんのものですよ」

黒いスーツで身を包んだ男は、ユウナにゴールドのコインを渡した。
そのコインは、夢の中でユウナが定員に渡されたものと同じものだった。

「お嬢さんがコインを落とされたのに気づいてないようでしたから、
 私が拾って差し上げたのです」

「落とした? 私は初めからコインなんて持ち歩いてないわ。
 見て。私はこの通り手ぶらよ。あなたはどうして私がコインを落としたと思ったの?」

「記憶にないのですか。それも無理はありませんが。
 あなたは昨夜、タクシーの窓からコインを投げ捨てたのです」

(そんなことしたっけ?) 優菜には本当に記憶がない。

「ちょっと待ってくれる? タクシーのことをあなたが知ってるのは……」

「それは重要ではありません。とにかくあなたはコインを捨てたのです。
 実にいけませんな。お父上が大事なものだからと持たせてくれたものを、
 そう軽々と捨ててしまってはなりませんよ」

口調こそ丁寧だが、その男から発せられる殺気は武闘派のそれだった。
男の身長が三倍にも伸びたようにも感じられた。
ユウナがこれ以上文句でも言おうものなら、何をされるか分からない。

(こいつ……なにもの?)

「コインは、大事に持っていてください。よろしいですね?」
「は、はい」

男はそれだけ言って去って行った。あまりにも一方的な物言い。
ユウナは何一つ意味のある情報を得られなかったことに腹を立てた。
奴のことは気味が悪いが、それ以上に腹が立つのだ。だがとりあえずは
気持ちを押し殺す。ユウナは日本人に特有な几帳面なA型であり、
怒りをため込んで次第に爆発させていくタイプだった。

「こんにちわ。ユウナちゃんだよね? 人違いだったらごめん」
「ミウさん……人違いなんかじゃないですよ」

生徒会の副会長の高野ミウが通りかかったのだ。隣には不機嫌そうな顔の太盛もいる。
のちに結婚することになる二人も、この時点ではまだ恋人の関係だ。

「やっぱりユウナちゃんか。なんだか別人みたいな顔してたから、勘違いしちゃったよ。
 今日は学校をお休みしてたんじゃないの? ナツキ君が心配してたよ」

「その……失望されるかもしれませんけど、
 どうしても兄に会いたくて学校に来てしまったんです。
 兄に話したいことがあって」

「ん?」 ミウが目を細める。

「えっと、その。ごめんなさい。
 ちょっと家庭の事情だから細かいことは話せないんです」

「違う違う。もともと私は人のプライベートにはノウタッチだから。
 そっちじゃなくてさ。私が気になったのは、優菜ちゃんが金を持ってることだよ」

「金……? あっ、これのことですか」

ユウナがコインをミウに手渡した。ミウは感心し、隣にいる太盛にも見てもらい、
本物であることを確認した。太盛も家が大臣だから、父の秘蔵のインゴットを
幼い時に見せてもらった経験がある。

「この大きさだと50万円くらいの価値がありそうだね。
 ユウナちゃんったら、こんなものを学校に持ってきちゃだめだよ」

「私も無防備だってわかっているんですけど、
 これは私のお守りみたいなものなんです。
 私は常に金を持ってないといけないルールがあると言うか、
 ああ、何言ってんだろう私。あはは。
 別に風邪のせいでこんなこと言ってるわけじゃないんですよ?」

「ほう。金がお守りか……」

と太盛があごに手を当てる。何か思いついたようだ。

「いくら金が好きでも、むき出しなのはまずい。俺のポーチをあげるよ。
 肩から下げられるタイプだからちょうどいいだろ?」

「いいんですか?」

「どうせ使ってないものだから、遠慮しなくていいよ。
 それにナツキ殿にはいろいろと世話になっている身だからね」

太盛から地味なデザインの肩かけポーチを渡された。カラン、と中で
何かとぶつかる音がする。太盛は美容に気を遣うのか、古風な手鏡が入っていた。
普通に考えて高校生の男子が手鏡など持つわけがない。賢いユウナはミウの私物だろうと察した。

せめて手鏡は返そうとユウナが思うが、太盛はミウの手を引き、強引に去ってしまう。
まるで鏡を返す必要はないと言わんばかりに。
ユウナはしばらく立ち尽くしていた。生徒の数は少なくなり、
傾いた夕日が校庭をオレンジに染めていた。鮮やかな色だった。
地面を燃やし尽くしているかのようにも感じられた。

気休め程度の風が引き、ユウナの汗をぬぐってくれる。
そういえばハンカチはなかったかと、ポケットをまさぐるが、
急いで外出したので用意する暇がなかった。

「ユウナっ!!」

兄が駆け寄って来た。学生服に身を包んだ兄。
利発そうな顔をしながらも、その顔には学生らしいあどけなさが残る。

兄がユウナの肩にぽんと触れた瞬間、ユウナの瞳から一滴の涙がこぼれるのだった。
理由はユウナにもわからない。どうして学校に来たんだと問われ、あなたに
会いたかったからと答えると呆れられた。

「風邪で休んだってメールが入ってたのに、返信してやれなくて済まなかったな」

「兄さんはいつだって仕事が恋人なんですから。
 私の心配なんてしてくれなくてもいいのよ」

「……いつになくとげのある言い方だな。
 僕は妹のことは大切に思ってるんだよ。嘘じゃない」

「ねえ兄さん。記憶のことだけど、チベットを旅した記憶は残ってる?」

「もちろん残っているよ。僕たちは夫婦だったもんな」

「えっ、気づいてたのね!! ならどうして私を置いて学校に行ったのよ!!」

「落ち着け。僕の記憶が戻ったのは一週間ほど前だ。それまでおまえには
 何の変化もなかった。だから記憶が戻ったのは僕だけだと思っていたんだよ」

夏樹は一週間前、やはり朝布団で目を覚ました時に、この世界に転生を果たした。
すぐにユウナに事情を話すが、当時まだ記憶の戻らぬユウナには変人扱いされてしまう。
ショックだったのはアユミにまでドン引きされたことだった。

「そうだったの……」

「お腹が減ったし家に帰ろう。その様子だと仮病のようだから安心した」

その日の夕飯は、食卓を家族五人で囲った。あの時と何も変わらない日常がそこにある。
だが全てが同じわけではなく、父は定職について収入を得ていた。
無職期間が長くてまともな就職先が見つけられなかったが、
友人のコネで中学校の用務員をしていた。

母は16時までのシフトで近所のスーパーでパートをしている。
食事はいつも母が作ってくれる。
それはユウナが就職してからも同じ日常ではあったが。

「話がある」とお風呂に入ってから兄の部屋に誘われた。
兄の部屋は質素で余計なものが何も置かれてない。

「状況を整理しよう。僕たちはどういうわけかこの世界に生まれ変わってしまったようだ。
 チベットにいた時の僕たちから見て10年か11年前の時空になるのか。
 タイムトラベルというわけだな」

「どうすれば元の世界に戻れるのかしら」

「それは考えるだけ無駄だな」

「あの世界にはアユミが……。アユミはどうしてるのかしら。
 上海に一人で残されているの? それとも私達はアユミと一緒に日本へ帰ったの?
 あっ、そもそもこの時空に私達がこうやって存在しているのに、あっちの世界の
 私達は存在するわけないか……。兄さんはどう思うの?」

「考えるだけ無駄だ」

兄は何を言ってもその一点張りだ。ユウナはいい加減腹が立ってきた。

「私は真剣に悩んでいるのよ!! ナツキも真面目に考えてよ!!」
「考えてるよ。考えてるからこそ、無駄なことを考えるべきじゃないと判断したんだ」
「ああ、もう!! 頭がおかしくなりそう!!」
「落ち着け。あんまり騒ぐとアユミ達が心配するぞ」

件のアユミが部屋の扉の前にいた。
いつのまに扉を開けたのか、二人は全く気付いてなかった。

「お姉ちゃん、風邪の割には元気だね。仮病だったの?」
「ち、違うのよこれは……」
「どうして泣いてるの?」
「今は……説明してる余裕がないの。お願い。静かにするから今は構わないで」

アユミは不機嫌そうに「あっそ」と言いながら出て行った。
(ユウナも変になっちゃった。お兄ちゃんも先週はおかしかったし、何かあったんだろうね)
アユミは変に勘ぐってしまう。ユウナのアピールがしつこいから兄が毎日
変な夢にでもうなされているんだろうと思った。

なにせ兄は先週、妹のユウナと結婚してチベットを旅していたと言っていたのだ。
冗談にしてもほどがある。アユミが何のこと?と訊いた時、ナツキは大声で叫んで
家具に当たり散らした。あの時のナツキの様子はちょっと異常だった。

「漫画読む気なくした。寝よう」

夜の11時前。アユミは蛍光灯を消して二段ベッドの上に乗った。
団地なので部屋割りに余裕がなく、姉のユウナとは同じ部屋を使っている。
兄はさすがに男性なので別の部屋が割り当てられているが。

アユミはなかなか寝付けなかった。隣の兄の部屋からまだ話し声が聞こえるからだ。
ユウナは意気地がないのか、メソメソと泣き言を言い続けている。
鼻水をすする音が不快だった。アユミは少しだけ冷房を弱くしてから、
寝返りを何度も打ち、まぶたを強く閉じたが、やはり寝付けない。

その時、ガラッと引き戸を開けて、ユウナが戻って来た。
テッシュで鼻水をすすり、髪の毛をくしでとかしてからベッドの一段目に乗る。
ギシ……ときしむ音がした。ものすごく重いオーラが漂っている。

まさかと思い、アユミが覗き込むと、ユウナはベッドに腰かけていた。
寝るつもりなどないのだろう。

「姉ちゃん、さっきお兄ちゃんと何を話してたの?」

「おとぎ話みたいな話よ。今の世界から見たら未来に話になるのかしらね」

「未来……? そういえば、お兄ちゃんも同じようなことを言ってた気がする。
 詳しく話を聞かせてよ。今ならバカにしないから」

ユウナは「はぁー」と深くため息をついた。アユミが興味を無くしてくれたら
楽だったのだが、暗がりでもアユミの目がキラキラ輝いているような気がした。

「本当に馬鹿にしないのね?」

「うん」

「本当に本当ね? 途中でからかったりしたら本気で怒るわよ」

「大丈夫だって」

ユウナは一時間近くも話し続けた。語学能力に秀でたユウナの説明は
まさしく物語と呼ぶにふさわしいほど、分かりやすいものだった。
肝心の内容は、やはり馬鹿にしたくなる内容に過ぎなかったが、
どういうわけか兄が先週話してくれた内容と一致している。

これが仮に小説の話だとしても、二人の作者が完全に同一の内容を空想するなど
常識的に考えたら有りえない。ならばこれは常識が通用しない何かが
起きているのではないかとアユミは思い始めた。

「さっき兄さんに別れて欲しいって言われた」
「はい?」
「やっぱり兄妹で結婚するのは間違ってるんだってさ」

チベットの旅は一種の逃避行だった。
ソ連では近親婚をタブー視する。日本のマスコミからも非難されている。
仮にあの旅を無事に終えて日本列島に帰国しても、
おそらく最終的には離婚する流れになっていた。

もちろんアユミも一緒に幸せになるなど夢物語だ。それこそ、本気で三人で
幸せに暮らすのであれば、政治権力の及ばない辺境の地にでも移住するしかないが、
ナツキは市議会のメンバーに名を連ねる熱烈なボリシェビキだ。
ユウナも学園で教頭をやっている。
党と同志レーニンに忠誠を誓った身分では反革命容疑で逮捕されるのは確実だ。


「兄さんは、元の世界に戻ることはできないけれど、
 時を前に進めることはできると言ってた。もう一度高校生からやり直して
 新しい人生を歩めば、それが私達にとっての正しい未来になる」

「でも姉ちゃんはナツキお兄ちゃんのこと諦められないんでしょ?」

「ええ、そうよ」

「これを今の姉ちゃんに伝えるのは酷かもしれないんだけど」

「なによ。もったいぶってないで話しなさい」

「お兄ちゃんには新しい恋人ができてしまったんだよ」

「なんですって!? 誰よ!! 恋人って誰!!」

「くるし……胸元掴むのやめて。あと声でかい」

「早く答えないと殺すわよ!!」

「井上さんって人。三年生の女子だよ。聞いたことない?」

「井上……? 下の名前は?」

「マミだっけ? マリカ? マリン? 
 ごめん、よく覚えてないけど、たぶんマリカだったと思う」

「思い出した!! あの女ね!! 兄さんと一年生の時に
 同じクラスだったチビ!! 兄さんのラインに名前が登録してあった!!」

「ちょっと待ちなよ。どこに行こうとしてるの」

「兄さんの部屋に行って問い詰めてやるのよ!!」

パシン、とユウナの頬が叩かれた。まさか妹に
はたかれるとは思ってなかったことと、兄に裏切られたショックで涙目になる。

「そんなことするから嫌われるんだよ。もう深夜の1時過ぎなんだから、
 寝かせてあげなよ。お兄ちゃんだって生徒会の仕事で明日も早いんだから」

「でもっ!! これは浮気よ!!」

「この世界では二人とも高校だよ。浮気じゃないでしょ?」

「それは……まあそうだけど」

「問い詰めるのは明日になってからでも遅くないはずだよ。
 今夜はおとなしく寝なさい、ユウナ」

「な、なによ怖い顔して。しかも呼び捨てにして」

「寝るんだよ、ユウナ」

この子は、本当に自分の妹なのかと思ってしまう。
アユミは普段はとぼけた顔をしているが、真剣な顔をすると妙な凄味がある。

この家はボリシェビキの幹部を輩出する家系だからか、皆何かしら
常人離れした冷徹さを持っているものだが、末っ子のアユミにもその血が
受け継がれているのだとユウナは思った。ベッドに横になるとすぐに眠気に襲われた。


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