20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:『チベット高原を旅する』〜三人の兄妹の悲劇〜 作者:なおちー

第8回   「オーケストラ?」
  音楽とは、目に見えない芸術である。
   絶対音感の世界になると、耳で聴いた音から色を連想するという。
    コントラバスのような地を這う低音は黒く、
    またバイオリンやフルートの高音は白や黄色が思い浮かぶ。
 
    クラシックの世界では、楽器の音色から、
    そこにあるはずのない情景が頭に浮かぶことがよくある。
      
   それは文字のメディアである小説と似たところがある。
   小説では視覚情報を頼りに、登場人物の言葉を脳内で再生する。
   モノローグも読んでいるようで実のところ、音を再生している。
   音を再生するから、情景が浮かぶ。読んだ人によって映像は異なる。



※アユミ

翌朝、西寧から上海まで空の旅をした。到着したのは正午だった。
さっそく成田空港行きの便を探すのかと思ったら、お兄ちゃんが
市内を観光したいと言いだす。

「上海にはオーケストラがある。上海交響楽団。
 日本に帰る前にぜひ聞いておこう」

※上海交響楽団。上海は古くから外国との交流が盛んで近代においては
西洋列強国の租借地とされた。そのため西洋の文化が大いに取り込まれ、
当時はユダヤ人やロシア人、イタリア人を主とした管弦楽団を設置。
第二次大戦中は日本軍の占領下による文化的支援を受けながら発展し今日に至る。

「私はディズニーに…」
「ん? 何か言ったかアユミ?」
「いえ、なんでもないです」

私だって遠慮する時はある。ユウナと和解してから、気持ちがほっとしたからか、
お兄ちゃんにこれ以上迷惑をかけたくないと思った。今ではリスカしたことも
反省している。どうして私はあんなことをしてしまったんだろう。
恥ずかしくて死んでしまいたくなる。

「上海ディズニーランド、いいわよね。アジア最大規模のテーマパーク。
 音楽を聴いた後はそっちも回ってみましょうか」

お姉ちゃんが気を利かせてくれるけど、お金はあるの?

「日本円だけど多少はポケットマネーがあるわ。
 問題はどこで両替するかなんだけど、
 空港でやったほうが為替レートの関係でお得なのよ。
 さあまずは両替しに行きましょうか」

   ※余談ですが、中国の都市部ではキャッシュレスが相当に普及しています。

ついこの間までは、ディズニーならひとりで行けとか言われたのに。
お互い気を遣う関係にまで修復した。奇跡に近いと思う。

ユウナはお兄ちゃんにチベットまで無理やり拉致されてたのに、よくお金を持ってるね。
空港まではホテルから歩いて行ける距離だった。ユウナは道中、
鼻歌なんか歌っちゃって、すごく楽しげな様子だった。私たち姉妹は兄にぴったり
くっついて歩いた。周りから見れば両手に花だったと思う。

オーケストラの品目は、
ショスタコーヴィチ第五番革命の全曲。
バッハのオルガン曲を数曲
ブラームスのバイオリンソナタ第一番。などなど。

1200名が座れるメインホールでの壮大な演奏だった。
クラシックは、とにかく長い。そして空気が張り詰めていて、咳やくしゃみを
したら目立ってしまう。トイレに行きたくなっても席を立つのは気まずい。
誰もが楽章の合間に、咳をしたり溜息を吐いたりする。

私は真剣に聴いているお兄ちゃんたちには悪いけど、はっきり言って興味ない。
家でも音楽はあんまり聴かない。学生時代はJPOPとかにはまったけど、大人になると
飽きてしまう。オーケストラは、音が激しくてガガーン!!と鳴る部分と、
木管楽器がささやくように歌う場面の繰り返しで、私には退屈に感じられた。

照明に照らされた演奏者たちが汗ばみながらも、譜面から目を離さず、演奏を続けている。
華麗にドレスアップした東アジア人を中心としたヴァイオリン、ヴィオラ隊の
女性たちが、この世のものとは思えないほどに美しく感じられた。
蝶ネクタイの男性たちは額に汗をにじませてる。

演奏前に、兄から第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの配置だけ説明されたから、
あの人たちの位置だけは覚えている。だけど、明日には忘れてると思う。

私はうとうととしてしまい、本当に寝てしまった。


※ユウナ

アユミったら、そんなにも疲れていたのね。もう演奏は終わって、
場内は拍手の渦に包まれているのに。コンダクター(指揮者)が壇上で礼をし、
コンサートマスター(ヴァイオリン首席奏者)の手を握る。

今日はアンコールがあるみたいね。立ち上がっていた演奏者たちが再び席に着く。
最後くらい真面目に聞きなさいと、アユミの肩を叩こうとした時、ふいに衝動に襲われた。

それは、頭を何かで小突かれたような、錯覚にも似た感覚。きっと気のせいね。
最初はそう思ったけど、変化が生じたのは次の瞬間だった。


私は、夜の道を歩いていた。
すぐ隣には兄がいて、私に腰に手を回して一緒に歩いている。

私は信じられないくらい薄着だった。キャミソールにホットパンツ。
そして夏物のヒールが浮いたサンダル。

ここは……どこ?
夢? にしては意識がはっきりしている。

それに暑い。蒸し暑い。背中にびっしょりと汗がにじんでいる。
私の腰に触れる兄の手が、うっとおしいくらいに感じられる。
本当だったら彼に触れてもらうだけでもうれしいはずなのに。
同じ空気を吸えるだけでも喜ばしいことだったはずなのに、今は……怖い。

「ね、ねえお兄ちゃん? ここはどこなのよ」

兄は返事をしてくれなかった。怒ってるわけでもない。ごく普通の顔だ。
恐ろしかったのは、兄が高校生に戻っていたことだった。兄は高校三年の時、
学内にファンクラブがあるくらいの人気者だった。学園の生徒会長だったこともある。

兄は安物のTシャツにハーフパンツという、ボリシェビキらしい質素なファッションだ。
髪の毛がサラサラで肌が若い。やっぱり十代の男性は若いんだなと感じられた。
大人になった兄は貫禄があって素敵だけど、こっちの兄もこれはこれで魅力があった。

私の視界に映る手足も、自分でもはっきりわかるほど若返っている。肌がきめ細かいのだ。
どんなに美容に気を使っても10代の人には勝てないんだと、この状況で悟ってしまった。

「ユウナ。怖いのか?」

「お兄ちゃん。やっとしゃべってくれた。ええ怖いわよ。ここはどこ?」

「実は僕にも分からなくてね、さっきまで考え事をしていた。
 ユウナを無視するつもりはなかった」

「そうだったのね。それにしても変ね。
 まるで二人一緒に同じ夢を見てるような感じがする」

「夢か……夢だったらよかったんだが」

「どういう意味?」

「僕にはカンで分かるんだよ。これはたぶん夢じゃないんだってね」

背後から足音が聞こえてきた。ゾッとしてしまう。
見知らぬ若い女性だった。買い物帰りなのか、レジ袋を持って速足に歩いている。
はたから見たら恋人にしか見えないであろう、
私たち兄妹の横を通り過ぎて行った。一瞬の出来事だった。

彼女の背中が闇の中に消えてから、兄がぼそっと言った。

「ここはおそらく日本だ」

「えっ。日本?」

「ここは舗装された歩道だ。すぐ横に一車線の車道がある。車は走ってないことから
 今は深夜なんだろう。電信柱に街灯がある。どう見ても日本国のインフラ設備だ。
 外国とは違う。民家を見てみろ。瓦(かわら)屋根のごく普通の家だ」

兄の言うとおりだ。古い感じの家が並んでいる。
どこも田舎だからか庭が広くて、家の玄関から道路まですごく距離がある。
周りには山がなくてどこまでも平地が続いている印象だ。

どこに進んだらいいのか分からない。民家のある場所を過ぎてしまったら、
あたりは田んぼしかない。そして街灯の明かりもここまでは続いてないので、
いよいよ闇に支配されてしまう。私は怖くて震えてしまう。兄はスマホを取り出して
ライトアップした。これで足元だけは照らすことができる。

「ユウナ。キスしようか」
「えっ、こんな時に?」
「こんな時だからこそだ。どうせ誰も見てないんだ」

唇ごと吸われてしまった。あまりにも暴力的なキス。
いつもの兄なら、こんなに強引には迫ってこない。
息が苦しくて、私は途中で顔を横にそむけてしまった。

「ごめんなユウナ。もうしないよ。僕も実は気がおかしくなりそうでね。
 怖くなって君にキスしたくなったんだ」

「怖いのは……私だって同じよ」
「ああ、だから謝ったんだ。ユウナは僕を嫌いになったかい?」
「何言ってるのよ。こんなことで嫌いになるわけがないでしょ」
「そうだよな」

また、私の腰に手を回して、歩き出した。兄は私を外敵から守るかのように、
寄り添ってくれていた。私も彼のたくましい体に密着させてもらった。
怖いけど、兄がいてくれるから安心する。兄はしっかりとスマホを握りしていた。
この暗闇の中ではスマホのライトだけが頼りなのだ。

「あっ、兄さん。今思いついたんだけど」
「なんだ?」
「スマホの位置情報で場所を確認してみたらどうかしら?」

兄は大きな声で「なるほど!!」と答え、私の頬にキスをしてからスマホを操作した。
考えてみれば当たり前のことが、すぐに思いつかないのが緊急事態なのだ。

「埼玉県……?」

「えっ」

「ここは埼玉県の北東部だ……。もちろん僕はこの町の名前を知らない。
 来たこともない。ユウナはこの町の名前を知っているか?」

「聞いたともないわよ。北東部ってことは、
 地図で見ると茨城県や群馬県都の県境なのね。
 私たちの足利市ともそんなに離れてない」

兄は髪の毛を乱暴にかく。明らかに動揺を隠せてない。暗闇越しでも
兄が不機嫌になっていくのが伝わって来た。空気がピリピリしてくる。

「兄さん、どうするの?」

「前に進むしかないさ。ここで立ち止まっていても時間の無駄だろう」

兄は今度は私の肩を強く抱き寄せて歩き出した。そのまま田舎道を歩いていくと、
T字路に突き当たった。私達は歩道を歩いているから、右か左のどちらかに曲がればいい。
おかしかったのは、Tの先端は、車道になっているんだけど、
私たちの目の前を戦車が通過したことだった。

車体に日の丸のマーク。自衛隊の戦車だ。戦車はゆっくりと二両通過した。
埼玉には自衛隊の基地があるんだろうか。彼らは私達には全く関心を示すことはなかった。
車道には往来があって、普通の自動車も走っている。乗用車の中に軽トラも含まれていた。

私達はT字路を右へ曲がった。その先にコンビニの明かりがあることが分かったからだ。
反対側はガソリンスタンドらしきものが見えたので、そっちには進まなかった。

500メートルほど進んでコンビニの駐車場に着いた。
外観は普通のファミマだったけど、それは外観だけで、田んぼの中に立っていた。
そう。私達が駐車場と思っていたのも、それは田んぼの真ん中に建物が立っていたのを
勘違いしていただけ。私のサンダルにはたくさんの雑草らしきものがついている。

舗装された道路を歩いていたのも気のせいだった。
私と兄は最初から、けもの道を歩かされていたのだ。
この世界を作り出した、何者かの意志によって。

「へい。いらっしゃい」

店員は、若い男だった。黒髪をワックスでがちがちにオールバックに固めて、
無精ひげを生やしている。なぜかスーツ姿。革靴。どう見ても小売店の店員の姿ではなかった。

コンビニだと思われた店は、謎の雑貨屋だった。貴金属のアクセサリー類や、
動物人形や食器類などの生活雑貨が並んでいる。
どれも外国製なのか、アフリカンな感じの
派手な色のデザインだ。兄は試しにと、金色のネックレスを手に取る。
値札には34万と書いてある。こんな田舎町の物価を考えると、
有りえないほどの高価な品物だ。

お店の時計を見ると、深夜の2時なのが分かった。
こんな時間なのに店の中はにぎわっていて、自衛隊の服を着たお兄さん。
麦わら帽を首の後ろにかけた、農家のおじいさん、濃い茶髪で品のあるおばあさんがいた。
皆狭い店の中を行ったり来たりして、品定めをしている。

店員はなぜか三人もいて、レジの前で来月のシフトの相談をしていた。

「ところでお客さん」

馴れ馴れしくも、オールバックの店員が話しかけてきた。

「こちらの店で扱ってる品物は、主にイランから仕入れたものです。高価なことに
 驚いたでしょう。なにせペルシア帝国の時代から受け継がれた金銀財宝を
 扱っている店なものでして。実際の価値を考えると、この値札の10倍はしても
 おかしくはない。つまり格安ってわけでさ」

私たちが夫婦に見えたからだろうか。ダイヤの指輪を進めてき。値段は240万らしい。
私は拒否した。まずこの世界の私はお金を持ってない。仮にお金があったとしても、
ボリシェビキは資本主義者と違って派手なものを身に着けて優越感に浸る文化はない。

「ならコインはいかがです? 
 コインはゴールドの他にもシルバーやプラチナがあります。
 若い方はシルバーに興味を持つ方もいるもんでさ、
 だがお客さんたちは、ぜひともゴールドをすすめたいね。
 嫁入り道具には、なんといってもゴールドがおすすめさ」

中東だけでなく、スイスを中心とした西洋諸国でも結婚する娘にゴールドを
持たせることはよくあるらしい。今後、世界にどんな経済危機が訪れても安心。

例えば急激なインフレが起きたり、政府が債務不履行になって通貨の価値が下がっても、
金ならば価値が失われることはない。むしろ金の価格は主に米英の先物価格に
よって保護されていて、金融危機が起きた時こそ、値が上がる仕組みになっている。
なによりその見た目の美しさに目を奪われる。

「綺麗ね……」
「ああ、綺麗だな」

そのゴールドは、手のひらサイズのコインなんだけど、
これだけで50万の価値があるという。

純金の輝きは、実際に手に取ったものにしか分からない。
古代ペルシア、古代エジプト、メソポタミア、中国四千年の歴史、
その歴史をさらにモーセの時代までさかのぼっても
金の価値が失われたことは一度もなかったことだろう。

なるほど。私は株とか不動産とか、資本主義者がお金儲けの道具にするものは
大嫌いだけど、自国の通貨の暴落に対する保険として、
金を持つのは悪くないと思えてきた。

ふざけた夢の中なのに勉強させられてしまった気分だ。

店員は、私を指さした。

「そのゴールドは、お客さんのものだね」
「私のものって……お金は払えませんよ」
「いいんだよ。それはお客さんのものだ」
「ですから、お金が払えませんが」
「いいんだよ」

さすがに悪いと思ったので、兄も真摯に断ろうとするが、
「いいんだよ、気にするな」と店員は引かない。まさか偽物をよこしたのか。
仮に本物だとしても、高価なものと自分で説明しておきながら、
お客に無償で手渡すメリットがあるのだろうか。

私と兄は最後まで納得がいかなかったが、くれるものなら断ることもないとして
受け取ることにした。ゴールドは重い。
せめてバッグでもあればと思ったが、ないものは仕方ない。
私は手に持ったままお店を出ることにした。

お店の外は、やはり田んぼの真ん中だった。稲刈り前で、ぼうぼうに伸びている。
足や腕に稲がちくちく刺さる。今になって気づいた。
こんなにもカエルの大合唱が響いているんだ。
腕が妙にかゆいので蚊に刺されているんだろう。

ふたりで田んぼのど真ん中から脱出して歩道まで出た。
田んぼの土は柔らかくて、何度も足をすくわれそうになった。

兄は私を包み込むように抱きしめてくれた。こんなにも蒸し暑いのに、彼は震えていた。

「ユウナはあの男の正体に気づいていたか? あれは僕たちの父親だよ。
 若い頃のな。僕がカイロの学校に通っていた頃の、エリートだった時の父だ」

「うそでしょ……あれがお父さん? 兄さんのことお客さん扱いしてたじゃない。
 見間違いじゃないの?」

「間違いないよ。僕が父の姿を忘れるわけがない。あっちは僕を息子として
 認識してなかったようだったから、僕も知らないふりをした。どうして
 父が中東の商人の真似事をしていたのかは、考えるだけ無駄だろうが」

それからどうするか、ふたりで悩んだ。実家に帰るべきだと兄は言う。
だけどここは不思議な田舎町。駅がどこにあるのか。バス停も見当たらない。
しかも深夜ときたものだ。せめてどこかで一夜を明かせればいいんだけど、
ホテルなんて気の利いた場所があるわけもなく。

「タクシーでも呼ぶか」
「どうやって呼ぶのよ? 今は深夜なのよ」
「大丈夫だ。たぶんそんなに難しいことじゃない」

兄の願いが通じたのか、車のヘッドライトがこちらに近づいてくる。
それは黒塗りのタクシーだった。
どこにでもいるような普通のおじさんが運転手をしている。
「乗るのか、乗らねえのか」と乱暴に聞いてくるので乗らせてもらった。

ここでハッとした。私たちはお金を持ってないのだ。ゴールドならあるけど、
これは現金ではない資産。円に換金しない限りは決済手段(支払い)として使えない。
つまり現状は一円も持っていない状況なのだ。

それ以上に不思議なのは、私達が行き先を告げてないのにタクシーがさっそうと
走り出したことだ。普通に考えて有りえない。
兄が鼻息を荒くしてどこまで行くつもりですかと訊くと
「そりゃもちろん足利だろう? 兄ちゃんたちの生まれ故郷の」との返事。

私も興奮して頭に血が上りそうになるが、「考えるだけ無駄だ」と兄に諭される。
兄は一転して涼しい顔をしている。昔からこうなのだ。熱くなるのは一瞬だけで、
どうせ解決できない問題だと判断すると、すぐにクールになる。こういう時、兄は
なんでも人任せにしてしまう悪い癖があるのも知っていた。
人の上に立つ立場の人間のくせに責任を取りたくないからだ。

「少し疲れた。寝かせてくれ」
「兄さん……」

兄は私の膝の上に頭を乗せた。子供のように安心しきった顔で、すやすやと寝息を立てる。
寝つきが良いのはこの人の美徳だ。家でもいっつもこうだから。
眠りが深すぎて夢を見るのは半年に一度だとも言っていた。

タクシーはインターに入る。ETCレーンを通過して、東北自動車道へ入る。
どんどん速度を上げていく。街灯に照らされた景色が飛ぶように過ぎ去っていく。
夜の高速道路の雰囲気は、いかにも非日常的で素敵だった。

「ところでね、お客さん」

「はい?」

「こんな話を知ってるかい? スペインのハプスブルク家では、
 代々近親相関が続いてね。生まれてくる子供は、
 病弱だったり知的障害だったりでね、乳幼児の死亡率も異常に高かった。
 フィリペ四世の時代では八人の子供は全員死んでしまい、度重なる出産の果てに
 妻も死んでしまった。ついには世継ぎを残すために自分の姪、
 つまり自分の妹が産んだ子供と結婚した。そして世継ぎを産むことに成功した」

運転手の声は、淡々としてやはり怖かった。一体何を言いだすのか。
お客に対して失礼じゃないのか。ミラー越しになぜ近親相関のことを……。

「だったら、他所から王妃をもらえばよかったんでしょ」

「そうもいかねえんですよ。スペイン王室は、高貴な血筋の維持と、カトリックの維持、
 そして財産分与を巡る問題で、どうしても近親婚に頼らざるを得ない状況にあった。
 これは苦渋の決断ってやつでさ、当時のローマ教皇も面白くは思ってなかったが
 黙認した。なぜだと思う? 当時のスペイン王国は世界最大の植民地を持っていた。
 太陽の沈まぬ国、大スペイン王国にはローマ教皇でさえ抑え込むほどの力があった」

「あなた、普通の運転手じゃないわね。さっきから何が言いたいの?
 私に喧嘩を売っているのなら喜んで買うわよ」

「俺が言いてえのはよ、人生はやり直すこともできるってことだ。ユウナ」

おじさんだと思われた運転手は、父だった。いや、急に運転手の正体が
明らかになったんじゃない。初めからそこにいたのは父だったのだ。
この世界では、全ての現象は実は気のせいだった、で片づけられるのだろう。

雑貨店にいた父の姿じゃない。こっちは老けている。それにしても老けすぎている。
私の知っている父はこんな白髪頭じゃなかった。むしろ運転さえおぼつかないほどの
年齢だ。たぶん70は過ぎていると思う。

「おめえらが結婚するって聞いたときは、アユミは荒れてたもんだぜ。
 家中にあるものをなんでもぶん投げて壊しちまってよ。しまいには
 俺や母さんにまで八つ当たりしやがって、手が付けられねえ状況だった。
 みょうに風呂が長いんで気になって母さんが見に行ったら、
 バスタブが血で染まっててよ。
 おまえ想像できるか? アユミが無表情で自分の手首にカミソリを……」

「もうやめてよ!! 聞きたくない!! そんなこと今聞いてどうなるのよ!!
 お父さんは私達に別れて欲しいからスペイン王族の話なんてしてきたのね!!」

「人生はやり直せる。よーく考えてみろ」

「私と兄さんは真剣に愛し合った末に結婚したのよ。たとえ実の父に反対されても
 どうにかなるものじゃないの。ねえお父さん、どうしてそんなことを言うの?」

「はて。なんのことでしょうか」

「は?」

「ですから、なんのことでしょうか。お客さん」

運転手は、見知らぬ赤の他人に戻っていた。
私がひとりでわめいても、話が全く通じない。
この運転手は壮年の男性で、言葉遣いは丁寧だし、私に喧嘩を売ってくることもない。
私はもう何もかも訳が分からなくて、座席シートに拳をぶつけた。

兄はこんな時でも眠ってるんだから大物だ。いっそ私も寝てしまおう。
寝てしまえばこの悪夢も冷めてくれるかもしれない。そう願ってまぶたを閉じた。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 1354