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作品名:『チベット高原を旅する』〜三人の兄妹の悲劇〜 作者:なおちー

第17回   17
足利市の出身の高倉兄弟にとって雪はめずらしい。

足利市は広大な関東平野の北部にある。平野部の気候は、
一日の間の寒暖の差が激しい。足利市とて積雪がないわけではないが、
近年は暖冬傾向にあり、降らない年があるほどだった。

「ナツキよ。足を滑らせねえように気をつけろよ」
「分かってるよ。この不安定な姿勢だと踏ん張りがきかなくて大変だ」

雪がどっさり積もる季節になった。12月の末。足利市なら防寒着を着れば
外を余裕で歩き回れる季節だった。ここでは、そもそも外を歩くこと自体が困難だ。
まず朝起きれば、玄関先の雪かき。井戸まで歩く場所を確保するため足を踏み固める。

ナツキと悪魔は、かやぶき屋根の上に乗っかり、雪下ろし。
温暖な地方で生まれ育ったナツキには、これが何よりも辛い。
足を滑らせ転落したこともあったが、奇跡的に腰を軽く打っただけで済んだ。

鶏小屋は冬用装備で板を張り巡らせて、風を通さないようになっている。
氷点下の気温でも寒さに強い鶏は、餌をあげると元気に小屋を走り回る。
小屋の中を清掃しているユウナは、
鶏の羽はそんなに暖かいのかしらと感心した。鶏の世話は彼女の日課だ。

庭から井戸までの雪を足踏みして固め、飲み水を確保するのもユウナの仕事だ。
大きなバケツに水をすくう。玄関と何度も往復すると、強烈な寒さの中でも多少は汗ばむ。
朝の寒さは、それこそ寒いのが苦手なユウナにはこたえた。朝一番で外に出て
空気を吸い込むと、肺まで凍ってしまいそうだった。
厚手の布をマフラー代わりにして口の周りに巻くと楽になる。

かまどの使い方もすっかり手慣れたもので、火吹竹で火力を自在に操り米を炊く。
朝ご飯は、いつも決まったメニューで、ご飯とみそ汁
(具材はジャガイモや大根、白菜など)ウサギの肉の干物が悪魔の好みのため、
毎日のように食卓に出してくれた。なんとも歯ごたえのある肉で、
嚙み切るのに相当な力が必要だ。栄養価は高く、貴重な動物性タンパク質である。

生きるために、生きている。
文明社会から隔離された山奥では、大昔の人と同じ生活を送っていた。

ここには悪魔の妻のカマル以外の人が訪れることはない。

悪魔は行政機関で戸籍登録をしていないため、税金の徴収の対象にならない。
ここは山のふもとで平地のため、井戸水で生活している。山から水道管を引いてない。
電力はない。ろうそくか、囲炉裏の炎で照らす。
夜はすぐ寝る生活をしていたから、明かりはそれほど重要ではなかった。
ガスも当然ない。税金だけでなく、公共料金の支払いもないのだ。

その日食べるものがあれば、とりあえずは暮らしていける。
だが病気になったらどうする? 近くに医者もいない。
常備薬はあるが、もっと重病の場合は役に立たない。

山を一つ越えれば町があるが、そこまで行けるかどうか。
少なくとも真冬の間は自殺行為だ。
ナツキは生真面目な性格のため、いちいち考えなくてもいいことまで考えた。

また、最初はここでの暮らしも自らを救うためだと納得はしていたが、
次第に不満の方が大きくなってくる。ここでの生活は、娯楽が何もない。
毎日がその日の糧を得るために生活して、目的が達成されたら
あとは家に帰るだけ。寒さに震えながら渓流で魚を釣る生活はもうごめんだ。

悪魔が作ってれた、わらを編み込んだブーツを履いて、黒いマントを羽織り、
男二人で獣を狩りに行く。罠を張り、一時間も待ちながら
野生のキツネを狩るのは大変だった。スーパーなら豚肉が簡単に買えるのにと、
思わない日はなかった。凍傷にはまだなっていないが、
それも時間の問題なんじゃないだろうかと思った。

ナツキは、こんな生活を続けていける自信がなかった。
悪魔は良い奴だし、本当に世話になっている。だがナツキはもう限界だった。

吹雪く日は、隙間風に震えながら、三人で囲炉裏を囲んで過ごす。
囲炉裏の日は明るくて、部屋全体を淡い光で照らしてくれた。

特にやることなどない。三人だけの生活なので世間話もなく、退屈な時間が流れる。
だいたい、情報源も少なすぎる。スマホもテレビもパソコンもない。
悪魔の奥さんが買ってきてくれたポケットラジオだけが唯一の文明との接点。
しかも電波状態が悪いためNHKしか受信できない。

ナツキは少しでも外の情報が知りたくて、NHKを聞いた。薄暗い場所だと
音声にがっつり集中できる。北関東ソ連は、ますます勢力を増長しながらも、
資本主義の日本国と対立を深めている。日本は結局は自民党が支配し、
今も多くの国民を賃金奴隷にしながら、脱走者は銃殺するなどして支配を強めている。

北関東ソ連も、建国当時は一枚岩だったが、今では経済政策の失策から
貧富の格差が増大し、各ソ連(地域)ごとに不安定な政治情勢が続く。
ソ連から逆に資本主義日本へ脱出する人まで存在しているようだ。

そんな時だからこそ、ナツキにはやるべきことがあったはずだ。
彼も立派な足利市議会のメンバーだ。妹のユウナは学園の教頭をしている。
今となっては関東地域に普及した共産主義革命は、足利市から始まった。
日本で最も洗練されたボリシェビキ教育を
実施する足利市の『学園』は、ソ連の未来を作り出す希望でもあった。

ナツキは自分だけでなくユウナもここにいるべきではないと思った。
だから寝床に着くたびに、ユウナと口論になった。

「今さらソ連に戻ってどうするつもりなの? 私たちはもうは国から捨てられたのよ」
「僕はボリシェビキの一員なんだぞ。負け犬なんかじゃない!!」
「誰も負け犬だなんて言ってないじゃない」
「メディアの連中が言ってるじゃないかよっ」

資本主義日本のマスメディアは、国外逃亡した末にチベットで
死んだことになっている高倉夫婦を、散々にこき下ろした。
「近親婚の慣れ果て」「ソ連最大のスキャンダル夫婦」「精神異常者」

週刊文春が得に容赦がなかった。ナツキの中学生時代の同級生たちに徹底的な取材をし、
ナツキが実は妹のアユミに性的なイタズラをしていた事実まで明らかにしてしまった。
その情報を漏らした同級生が誰なのかは不明だが、
高倉家の事情に相当詳しい人物だったと思われる。週刊文春の恐るべき
情報収集力は、旧ソ連の国家保安委員会の諜報部を思い出させる。

こんな人物が今さら実は生きてましたと、ソ連に戻ったところで粛清されるのは確実。
資本主義日本に戻っても死刑が妥当だが、現実的には徹底的に拷問された後、
終身刑が適用されるだろう。

「今の北関東ソビエト連邦は軟弱だ。まだまだ僕の力を必要としているはずなんだ」

「夢みたいなことを言ってるのね。現実を見て。
 国がどうなろうと、私たちには関係ないことでしょ。
 もう私たちはボリシェビキじゃないのよ。名乗る資格さえないわ」

「ふざけるな!! そんな現実など認められるものか!!」

「いい加減にしなさいって言ってんでしょ!!」

ふすまの先で、悪魔は(またか)と思い、溜息を吐いた。
時刻はとっくに深夜を回っている。ご飯を食べた後、特製の蒸し風呂(寝そべりながら入る)で
体の汗を流した後は、寝るしかない。他にやることなどないはずだが、
今夜の高倉夫婦の喧嘩は長く、下手をしたら朝方まで続くかもしれなかった。

「私たちが夜遅くまで騒いだら悪魔さんだって眠れないでしょうに。
 ナツキはいつまで子供みたいなことを言ってんのよ。ほら、寝なさいよ」

「……寝たら怖いんだよ。寝るとアユミが」

「は? なに? もっと大きな声で言ってよ」

「アユミが枕元に立つんだよ!!」

「え。アユミが……?」

「夢の中になぁ……小さい頃のアユミが出てくるんだよ。
 まだ小学生低学年くらいの時のな。
 朝、僕が中学校に行こうと支度をすると、アユミが面白がってかくれんぼを始めるんだ。
 僕は時間がないからもう行くぞというが、アユミが面白がって玄関の周りを
 行ったり来たりして隠れるんだ。さあお兄ちゃんの番だよ。早く見つけてって。
 あぁ……アユミの顔を最近は毎日見るようになったんだ!! 
 目覚めたらアユミがそこの壁に立っているんだ!!」

「アユミは幽霊になっても兄さんの事を想っているのかしら。
 かわいそうに。成仏できなかったのね」

「僕はもうここにいるのは限界だ!! 自給自足の生活をするのも嫌だ!!
 アユミの霊におびえるのも嫌だ!! 足利市議会に帰らせてくれ!! 
 あそこだけが僕のふるさとなんだ!! 母は死に、妹は死に、父は逮捕された!! 
 でもソ連はもう……あぁ、そうだ。僕にはもうすがる対象がないんだったな……」

だんだんと支離滅裂なことを言い始める兄に、
優菜も本気でどうしたものかと考えてしまう。
兄はおそらく「うつ」になっているのだろうと思った。精神的な負担のせいで
思考力まで落ちてきてしまっている。兄のためを思うなら、他に住む場所を
探すべきなのかもしれないが、上述の理由でそれは不可能に近い。

ユウナは住む場所と生きるすべを教えてくれた悪魔に感謝している。
自給自足の生活も最初は抵抗があったが、自然と共に生きるわけだから
人間らしくて悪くないとさえ思っていた。普通、文明社会で生きた経験のある女性は、
この手の暮らしが次第に嫌いになり結局は途中でリタイヤするものだが、
ユウナは逆のパターンだった。

「落ち着きなさい。ナツキ」

ユウナは兄を優しく抱きしめてあげた。

「私はあなたの妻よ。あなたはこれから私を頼りに生きていけばいい。
 私は今後何があってもあなたのそばを離れたりしない。約束するわ。
 だから、あなたはもう余計なことを考えなくていいの」

「ユ……ユウナぁ……僕は……今まで何を言ってたのか自分でも分からないんだ……」

「いいのよ。ナツキ。いいのよ」

ナツキは一通り叫び倒した後は、急に弱気になり泣きじゃくる癖があった。
幼児退行現象の一種なのか、口調は幼く、妹であるユウナの胸の中で甘えてさえいる。

むき出しになったユウナの乳首に愛しそうに吸い付く。
出るはずのない母乳を求める赤ん坊のように。
ユウナはそっと彼の頭をなでてあげた。

さらに兄の大きくなった男の部分をいじり始めると、ますます硬さを増していく。
ユウナがギュッと力を込めて握り、早いペースで上下にしごき始めると、
ナツキはどんどん気持ちよくなり、すぐに発射してしまった。
ユウナの寝巻にすこしかかる。

「今度は私のを舐めて」

ナツキを布団に優しく押し倒し、下半身を露出したユウナが彼の顔の上に
またがるようにしてしゃがみこんだ。目の前にユウナの露になった女性器があって、
唇に密着する。ナツキは窒息しそうなほどだった。十分に湿っているそこに
舌を突き当てる様にしながら、愛撫する。トロトロと液がこぼれてきた。
濃くて塩気のある味。むわっとする女の匂いがして、
ナツキのアソコがまた元気になる。

ユウナは今度は後ろを向いて、シックスナインの姿勢になる。互いの性器を
口でもてあそんでいるうちに、ナツキがまた発射してしまう。ユウナの顔全体に
白濁液が飛び散った。ユウナはまだイッてないので、二人のペースがまったく合わない。

ナツキはユウナを壁際に手をついて立たせ、自分はしゃがんで後ろから
膣に指を挿入した。下から突き上げるように。

「あっ……キモちぃっ……力入んなくなっちゃう……」
「太ももまでびしょ濡れになってるぞ。もっと触っていいか?」
「あっ……あんっ……ユウナをっ……もっと気持ちよくしてっ……」

ナツキは我慢できなくなり、ゴムもないのに挿入を始めてしまう。
ユウナの大きな胸をつかみながら、腰を激しく揺らせる。

「あっ……ああっ……そんなにっ……だめよっ……赤ちゃんできちゃうっ……」
「好きだっ……ユウナっ……好きだっ……」

さすがに抵抗しようとするユウナの手を、ナツキは乱暴につかみながら
挿入を止めるつもりはなかった。ナツキの性欲は異常に強く、一日に三回も
射精してもなんともなかった。ユウナの白い肌を見れば即充電。
まさに疲れ知らずといった風であった。

「うっ……!!」
「あ、ああっ……ダメだって言ったのに……」

ドクドクと、暖かい液体がユウナの中に流れ込んできた。
力なく床にしゃがみこんだユウナの
股の間から、液体がこぼれてくる。ナツキはその様子が見たくて、
ユウナの足を開かせた。秘所を押し開き、膣口を直接ながめた。

「やだっ、恥ずかしい」
「ちゃんと見せてくれ」

股を隠そうとしたユウナの手をどかし、じっとそこを観察していた。
兄によって開かれた膣から精液がこぼれてくる。
ユウナには何が楽しいのか理解できず、嫌な瞬間だった。
AVの撮影に臨む女性はこんな気分なんだろうかと、
トンチンカンなことを思ったりもした。

ナツキはまたユウナを押し倒し、今度は唇を強く押し当ててきた。
飽きることなく乳房を乱暴にもみながら。

「ユウナ。愛してる」
「私もよ」

血を分けた兄妹が、一枚の布団の上で折り重なる。
この家では布団は二人分しかないので、高倉夫妻の分はひとつだけだ。
何時だって二人は身を寄せ合って寝るので、これで十分だ。

寝相の悪いユウナが寝返りを打つと、ナツキが布団から追い出されて
しまうこともあるが。現代建築と違い密閉性に欠け、隙間風があるので、
布団をはいだ状態では即風邪を引いてしまうほどだ。

ナツキの駄々は、その後も定期的に続いた。ユウナは兄がうつ病なら
自分が根気強く支えるだけだと自らを奮い立たせる。自暴自棄になった兄が時に暴力を
ふるうこともあったが、耐えた。正気に戻った兄は泣いて謝る。

ユウナは許す。そして抱き合いながら寝る。そんなことを繰り返していくと、
ナツキはユウナへの依存がどんどん強くなっていった。
ナツキが自我を何とか保っていられるのはユウナがいるからだった。

(自分でも知らなかった……。俺はどうしようもないくらいユウナのことが好きなんだ)




この地方では永遠に雪が降り続けるのか。朝起きて外の雪景色を見る度に絶望する。
凍傷の恐れがあるため、外出が極端に制限されると陰鬱になる。
日光に照らされた雪の白さに憎しみがわく。子供の頃は、あんなに雪が降るのを
楽しみにしていたのに。吹雪の日はもっと最悪だ。川釣りに行くことさえできない。

毎日、同じようなものを食べた。イモ類、白菜、キャベツ。
ウサギやキツネの肉。それと白米。
雪をかまくらにして作り上げた天然の冷蔵庫。
上から「かやぶき」をかけてある。そこへ釣った魚を凍らせたまま保存できる。
肉や野菜も入れておける。知恵さえあれば豪雪でも普通に食べていける。

高倉夫妻が悪魔から学んだことは多かった。彼らは賢いから、
悪魔からどんどん知識を吸収して、自分からどんどん経験して覚えた。

きっとここで一生暮らしていくこともできるのだと、信じていた。春が訪れるまでは。


「ちょっと悪いニュースがあるみたいなんだが」

悪魔が朝食のお米を咀嚼しながら言った。

外はすっかり新緑が芽吹いている。渓流には草木が生い茂ってきて、
小鳥や蝶が華麗に舞う。足元にタンポポやレンゲが咲いているのを見ると、
ユウナはそれはもう楽しそうにはしゃいだものだ。
人の手が全くかかっていない自然の姿が、こんなにも美しいものだと知らなかった。

「悪いニュースってなんだよ?」

「俺の口からはちょっとな……NHKを聞いてみてくれ」

悪魔のくせに歯切れの悪い奴だと、ナツキは思いながらラジオに耳を傾ける。
あんまりよく聞こえないので、もっと音量を上げてもらう。

『では、これから専門家の田中さんに詳しく話を伺います。田中さん。
 リモートでのご出演となりますが、よろしくお願い増します。
 一時期話題になった高倉夫妻の行方なんですが、まだ日本の地方の村で
 生きているのを目撃した人がいると……』

『そうなんです。チベットで死んだと思われた夫妻ですが、
 とある情報提供者の女性によると、長野県の山中に隠れ住んでいるらしいです。
 これはかなり有力な情報であると……』

血の気が引く内容だった。ユウナは箸が止まっている。ナツキもだ。
頭の回転の速いユウナ方が、状況を正確に把握しようと分析を始める。

まず、NHKの朝のニュースで話題になっているのは、高倉夫妻の生存情報だ。
情報提供者の女性……。思い当たるのは、一人しかいない。悪魔の妻、カマルだ。
彼らは悪魔の隠れ家に住んでから、カマル以外の女性と会ったことがない。

カマルはボリシェビキを恨んでいる風だった。彼らのチベットでの逃避行の話や、
母親やアユミが死んだことにもまるで同情してくれなかった。動機は十分にあるだろう。

「待てユウナ。カマルさんが町で誰かに言いふらした可能性もある。
 その場合、情報提供者はカマルさん以外の誰か、という線もある」

確かに、と思った。ならば、情報提供者を特定するのは困難。これこそ
考えるだけ無駄なことだ。まもなく追手がここまでやってくるかもしれないことを
問題とするべきだ。日本の公共放送の内容は、当然ソ連側も知っているから、
ソ連の保安委員部がここまで足を運ぶことは時間の問題と言えた。

「すまねえな。俺の妻がベラベラ話してしまったのかもしれねえ。
 いや、本当にすまん。おまえらに迷惑をかけるつもりはなかった。
 嘘じゃねえ。この通りだ」

悪魔はどこまでも人間臭い奴だった。床に手をついて頭を下げてくれた。

ユウナもナツキも、彼自身に対して悪意など全くない。寒い冬を乗り越えて
彼ら三人の絆は深まるばかりであり、むしろふたりは悪魔に深く感謝している。
ここを去るのは仕方ないにしても、何かお礼をするべきだと考えていた。

「逃げる必要はねえよ。むしろどこへ逃げるんだ?
 ここは俺の結界が張られている。人除けのまじないみたいなもんでな、
 おまえらがここに来る前に、イチョウの大木と鳥居があっただろう?
 あれにちょっとした[まじない]をかけてある。普通の人間じゃあ
 ここまでたどり着くことはまず不可能だ。特に神様を信じてねえボリシェビキの
 連中には100年かかっても無理だぜ。保証する」

「そうか。もちろん信じてるよ。心から感謝する。前から聞きたかったんだが、
 君はどうして僕たちをここまで世話してくれるんだ? 君を疑ってるわけじゃなく、
 純粋な好奇心から訊いてみたいんだ。ユウナもずっと気になっていたみたいだぞ」

「前も言ったかもしれねえが、俺の上司がな。どうしてもおまえらの
 身の安全を保障しろって命令してくるからよ。俺はその指示に従ったまで。
 お前らにはここまで一緒に暮らしたから愛着もあるし、もちろん嫌いじゃねえけどな」

「その上司の正体は? 僕たちが学園に戻った時にいた、あの黒づくめの悪魔の事か?」

「あの人も悪魔呼ばわりかよ。とにかく正解だ。ちなみに俺はあの人の命令に
 逆らったら殺される。嘘じゃなくてマジで殺される。俺には逆らう権利はねえんだ」

「そんな厳しい関係なのか。悪魔の世界にも上下関係があるんだな」

「あのなぁ……もう何か月も悪魔呼ばわりされて少し傷ついてるんだぜ。
 しょうがねえな。そろそろ俺の正体を明かしてやるよ」

この男は自らを精霊と称した。または「ジン」である。

   ※イスラム教の悪魔、魔人について

    イフリートは、イスラム教によると、
    人間よりも2000年も前に創造主によって「火」と「風」から
    創られた魔神だとされる。
    また「ジン」(魔人、悪魔、精霊)の一種であるとも言われている。
    ジンの存在はクルアーンも認めており、
    ジンという題目のスーラ(章)があるほど有名である

  姿はあらず、目に見えぬとされる。姿を現す時は煙・雲の如く渦巻く気体と
  なって現れるほか、人間、蛇、ジャッカルなどの姿など。
  知力や体力、魔力と全てにおいて人間より優れていたとされている。
  色々な魔法を操る事が出来たとされ、中でも、炎を自在に操り、
  炎に関る特別な力を持つ強力な悪魔だとされる。

  イフリートを召喚した者には、魔法の力によって様々な恩恵を
  授かったと伝えられているが、
  その一方で、性格は獰猛・短気であるがゆえ、非常に気性が荒く、
  自分の気に入らない相手であった場合は即座に命を奪うという一面も
  併せ持っているとされている。

  イフリートはジンの一種であるが、ジンの最高位がイブリースであるとされている。
  
  イブリースの下には階級があり、上から、
  マリード・イフリート・シャイターン・ジン・ジャーンの5階級となっている。
   

ナツキは非科学的な話は好きではないが、
現に目の前に悪魔の姿をした男がいるのだから疑う余地などない。

「お前の上司は、イブリースなのか?」
「そんなところだ。みだりにその名前を呼ばない方がいいと思うがね」
「なぜだ?」

「あの方は神に近い場所にいたお方だ。プライドも高い。
 名前を着やすく呼ばれるのを好まないからな。
 人の子には、あの方の名前を呼ぶ資格はねえんだ」

悪魔は、ついでだからとゴールドコインの秘密も教えてくれた。

そのコインは、高倉家の父親が中東で勤務していた時、
ユウナのために買っておいたものだ。彼は全くの偶然なのだが、悪魔によって
呪われたコインを買ってしまった。そうとも知らずに日本に持ち帰ってしまい、
ついに深夜の三時ちょうどに悪魔が召喚されてしまう。

その悪魔は、さっそく幼いユウナに目をつけ、食べてしまおうかと思った。
だがユウナがあまりにも可愛らしく、無邪気な顔で寝ているものだったから
殺意がそがれてしまう。悪魔の正体はイブリースだった。


   ※イブリース(Iblis)はイスラム教において、アル・シャイターンと
     呼ばれる悪魔の王。ユダヤ教やキリスト教のサタンに相当する。

   クルアーンによると、アッラーフ(神)が土からアーダム(アダム)を
   創り天使たちに彼の前にひれ伏すことを命じたが、
   彼は黒泥を捏ねて作った人間などにひれ伏すことは
   できないとしてそれに応じずにアッラーフを怒らせた。
   
   アッラーフは彼を罰しようとしたが、イブリースはアッラーフに猶予を請うた。
   それが聞き入れられると、いずれ最後の審判の後、地獄の業火によって
   焼かれるまで地上の人々を惑わせてやろう、と誓った。


イブリースは、時に父親の体を借りて、家族と食卓を囲んだ時もあった。
彼の受け答えは、父と全く同じものだったため、家族は父親が偽物と気づかなかった。

かつて父親が、アユミの学費を稼ぐために外国為替の証拠金取引をしたことがあった。
レバレッジを利かせたFXである。
その際に、イブリースは、人の生にして200年分の幸運を高倉家に授けた。
その結果、たった数か月で500万円ほどの儲けが出た。
これは父の力ではなくイブリースの力だった。

やがて栃木県足利市で革命が生気。イブリースは、日本の行く末を案じた。

彼が長い時を過ごしたシャーム地方と日本国では
大きな違いがあった。日本の民は、神道や仏教が存在しながらも、
日常的に信じる神などおらず無宗教に近い。古来より八百万の神に守られながらも、
神に感謝することもなく生きてきた稀有な民族である。

民は神への忠誠心はないが、不思議と道徳心は高く、高度な文明を持ち、
治安は保たれ、勤勉であり死ぬまで働く。かつてエジプトを追放された、
ヤコブ・イスラエルの民との共通点を見出す。生真面目で勤勉な点である。
目に見える上級者(会社の上司など)に対する服従心も強い。
だが目に見えない者には敬意を示さず、
そろどころか存在を信じることもない点において、世界一愚かな民である。

イスラム以前のシャーム地方の民は、もっと愚かだった。
商売を好み、詐欺をし、人を裏切り、女児は生き埋めにし、いとも簡単に姦淫の罪を犯す。
金銀細工で作った神をあがめ、本当の神アッラーフをないがしろにした。

    ※シャーム地方(別名、大シリア地方)
      現在の現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、
      ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域。


人の子は、いつだって愚かな存在であった。

イブリースが極東の国、日本に来て初めて見た女性がユウナだった。
当時のユウナはまだ11歳の娘だったが、満月を二つに割ったような
愛らしい顔立ちをしていて、イブリースは胸の中が温まった気がした。

彼は成熟した女性よりも幼い子を好む傾向にある。
肉付きが良く、猫を連想させる東洋人の顔立ちは新鮮だった。
ユウナの肌が雪のように白いこと、瞳が漆黒の色をしていること、
髪の毛の艶が良いことなど、これからの成長が実に楽しみな少女であった。
むしろ今のままでも十分なくらいなのだが。

イブリースの寿命は長い。
人の世で数えるなら、もう6000年は生きている。
彼はユウナを陰から見守ることを好んだ。ユウナのすることならば、
どんなことでも知りたいのだ。だがユウナの邪魔はしない。
彼女が兄との結婚を望むなら、その通りにしてやる。恋敵がいたら消してやる。
実はアユミを収容所で自殺に追い込んだのは彼だった。

栃木ソ連から迫害されたら逃げ場を提供してやる。
彼の望みはユウナが寿命を迎えるまでの間、ただ見守ることだった。


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