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作品名:『チベット高原を旅する』〜三人の兄妹の悲劇〜 作者:なおちー

第16回   悪魔はよく嘘をつく に
朝四時過ぎ。鶏の鳴き声で目を覚ます。ナツキとユウナは、居間の隣にある
4畳間で寝ていた。妻のために用意された布団があったので、
それを二人で使わせてもらった。文字通り寄り添いながら寝たものだから、
どちらともなくキスを初め、夜遅くまで愛し合った。

「おっす。おはようさん。ふたりとも目覚めは良くなさそうだが、
 ここでの暮らしは早寝早起きが基本だ。俺は鶏のエサやりと
 畑の世話があるんだ。眠いなら6時まで寝ても構わねえぞ。
 できるなら、部屋の掃除くらいはしておいてほしいもんだがな」

悪魔は、衣服が乱れたままのユウナをできるだけ見ないようにしながら言った。
ナツキとユウナはチベットを旅した時と同じ私服姿だった。
着替えなどあるわけないから、毎日同じ服を着なくてはならないのかとユウナは思った。

「替えの服なら着物があるぜ。
 妻のだからサイズが合うか分からねえが、今持ってきてやるよ」

時代劇の撮影で使えそうな着物だった。明治時代の農婦の格好だ。
頭にかぶりる手ぬぐいもある。ユウナは兄に手伝ってもらって着てみた。
鏡がないので自分の姿が見えない。庭に溜め池があるので、
そこで自分の姿を映してみた。おばあさんになった気分だった。

前の世界では高校生で学生服を着ていたのが嘘のようだ。
悪魔が井戸水をくんできて、木彫りの湯桶(おけ)に入れてくれた。
ユウナは顔を洗い、手ぬぐいでふいた。

ナツキも男性用の着物を借りてきてみた。
彼は手足が長いためか、意外と似合っている。
知らない人が見たら農夫を演じている俳優と勘違いするだろう。

「悪魔。僕たちは何を手伝えばいいんだ?」

「山菜取りをしてくれると助かるな。ヤマグリやアケビを取ってきてほしいが、
 素人には見分けがつかねえだろうから俺も着いて行ってやる。その前に鶏の世話だ」

彼は悪魔と呼ぶのはやめろよと悪態をつきながら庭に出る。
鶏の小屋を開け放ち、餌を撒くと足元に一斉に集まってくる。
田舎で自由に育った鶏は人を怖がらないようだ。

鶏は放し飼いだ。餌を食べた後は、わさわさと雑木林の方へ走っていく。
のびのびとしていて楽しそうだ。彼らは散歩したり日光浴をしたりして遊ぶのだ。
喉が渇く頃にはまた小屋に戻ってくる。

悪魔はのんびりとした動作で小屋の中の清掃を終えてから畑へ。
バケツの中に葉物野菜を収穫してからいったん家に戻る。
ナツキの腹が鳴る。昨夜の野菜鍋だけでは全然足りなかったのだ。

「腹すかせちまって悪いな。今米炊いてやるよ。少し早いが朝飯にするか」
「いや、こちらこそ悪いな。だが昨日米は全部食べたって…」
「昨日炊いた分を全部食ったって意味だよ。ちゃんと備蓄分はある」

悪魔は、一人が食う分には困らない程度の田んぼを持っていた。
広さは一反。一人で稲を植えて収穫するにはこれで十分だ。

井戸水で米をとぎ、かまどに木切れを入れて、火を起こす。
かまどのそばには火吹竹がある。
悪魔が火吹竹で息を吹くと、ごおっと火の勢いが強まる。

ナツキに火吹竹を手渡し、同じようにやらせた。しばらく火の世話は
ナツキに任せ、米が炊けるまでの間、悪魔は近くの渓流でイワナを五匹も釣って来た。
小鍋にすっぽり入るくらいの大きさのを選んだ。

器用にもイワナを三枚におろして刺身にしてくれた。
生け作り風である。顔に似合わず職人芸を持っている。
薬味にと、山わさびを魚の下に添えてくれる。

自家製のしょうゆをつけてみると、美味だった。
川魚特有の土臭さが鼻につくが、食べていくうちに慣れる。
肉厚で歯ごたえのある感触にご飯が進んだ。

「ご馳走様。美味しかったわよ」
「おそまつさん。そろそろ五時過ぎだな」
「ここには時計がないのに時間が分かるの?」
「太陽の明るさで大体わかる。俺はそういう生活をしてきたからな」

食べ終えた食器は、外の井戸で悪魔が洗ってくれた。ユウナが悪いと思って
手伝おうとしても丁寧に断ってくれた。まだ初日だから甘えてくれて
構わないとのこと。ユウナは恐縮して頭を下げた。

「あなたって本当に悪魔なの? 普通の人間と同じ暮らしをしているけど」

「その悪魔って呼び方、まだ続くのかい。
 俺は普通の人間じゃないのは確かだが、悪魔になった覚えはねえよ」

スズメが何匹か木の枝から降りてきて、悪魔の足元でじゃれていた。
悪魔の肩の上に乗るスズメもいる。鳥は彼を家族のように慕っていた。

「悪魔じゃないなら、何者なのよ」
「んー、これも説明が難しいんだが、精霊ってとこかな」
「精霊なの? それって悪魔と何が違うのかしら」
「神に近い存在だ。神と精霊は同一だってキリストの奴らは言うじゃねえか」

「イエスも神と同等の存在とされているのよね」
「あんなのは神でも何でもねえ。ただの人間だ。ただの預言者だ。バカバカしい」
「あなたは自分を精霊と名乗っておきながら、イエスは否定するのね」

「当たり前だろうが。あんなうさんくせえ奴を神様と同等なんて
 考えるのはキリストの民だけだよ。俺はどっちかというとユダヤ寄りの
 考えを持ってる。ムスリムも正しいと思ってる。だがキリストの奴らはダメだ」

「私と兄は無神論者だから安心してちょうだい」

「そうだったな。ボリシェビキには信じる神がいねえんだよな」

「宗教は麻薬と同じよ」

「そこまで言うのもどうかと思うがな。信じる神もいねえのに人生に希望を
 見出せる奴は、それこそ嘘つきなんだと俺は思うがね。まあいい」

悪魔は山菜取りの仕方を丁寧に教えてくれた。背中に大きなかごを背負い、
頑丈な長靴を履いて山道を歩いて、食べられるものを探していく。
秋は様々な果物、木の実、植物がある。一見すると素通りしてしまうものも
実は食用だとわかって感動することもあった。

あんまり山に深く入りすぎると、野生のイノシシやクマに遭遇することもあるから
気をつけろと悪魔は言った。奴らと会う時は強烈な匂いがするから、それで気づける。
まっすぐ来た道を引き返せと教わった。

慣れない田舎での自給自足生活に身を置くこと三日。ついに悪魔の妻が帰って来た。
夕暮れ時で、悪魔が囲炉裏の前に腰かけ、夕飯の支度をしている時だった。

「あらまあ。三人分のゲタ(靴)がある。お客さんでも来てるのかい?」
「俺の大切な客人なんだ。お前が帰ってきたら紹介しようと思っててよ」

玄関からやって来たその人は、ナツキのよく知っている人物とうり二つだった。
初めは本人かと思ったが、さすがにありえないだろうと思った。

悪魔はその女性を「カマール」と紹介した。もしくは「カマル」だったのかもしれない。
アラビア語で月を意味する言葉らしい。ちなみに偽名だ。
本名は決して名乗ろうとしないので悪魔も知らないらしい。
普段は街へ出て、観光案内所近くの食堂で住み込みで働いてる。

「あなた、ルナちゃんよね……?」
「私はカマルですけど」

優菜だけでなく、ナツキも始めカマルを見た時、ルナを思い出した。
目鼻立ちはもちろん、綺麗な髪の毛と、はかなげな表情が彼女にそっくりだ。
違いは年齢だ。ルナは二十歳過ぎだったが、このカマルは30代の半ばくらいだ。
化粧は薄く、だいぶ生活にくたびれた感がある。背が高く170近くもある。

カマルは大きな風呂敷を床におろした。悪魔が欲しがっていた生活雑貨が満載されている。
建物の補修に使う釘、ドライバー、ばんそうこう、ガーゼ、風邪薬、軟膏、
チョコチップクッキー。
ナツキたちからしたら何時でも買えるものだが、山奥での自給自足生活者にとっては
貴重な品物だ。ポケットラジオも入っていた。ここではNHKだけが受信できる。

「おい。このラジオは電池が入ってねえぞ」
「うっかりしてたよ。最近のは電池は別売りになってるんだね」
「ちっ。腹減ったから先に飯にしよう。食いながらこいつらのことを説明する」

夕ご飯には山菜の味噌汁と、アユの塩焼きが振舞われた。
ユウナとナツキには気を利かせてご飯を大盛りにしてくれる。
悪魔がニコニコしながらよそってくれるので、遠慮なく頂戴した。

「ふーん。あんたら、ボリシェビキなんだ」
「そんなに珍しそうな目で見ないでください」
「だってボリシェビキなんでしょ? 私は初めて見たからさ、ボリシェビキの人間」

カマルは淡泊な女性で、高倉家の人間が殺された件に関心を示さない。
所詮は他人事といった感じだ。また彼らが党本部から逮捕状が出されていることも
普通に聞き流した。共産主義者とは極悪非道人の集まりと聞いている。
だからそいつらがひどい目に合うのは当然だとカマルは思っていた。

「うちらの住む長崎県も、一部の地域がボリシェビキに賛同して
 北関東ソ連の一部に編入されたんだってね」

「そんな酔狂な奴らが長野県にもいたんだな」

「あんたは新聞読まないから、世の中の事なんにも知らないんだね」

「うるせえな。俺はここで小さな暮らしができればそれで満足なんだよ」

夫の悪魔は政治に興味がない。一方でカマルは街で仕事をしているから、
テレビや新聞からボリシェビキのニュースは嫌でも耳に入る。
またつまらないカマルの政治の話が始まると思ったので、
悪魔は奥の寝室へ消えてしまった。

「これで邪魔者が消えたから、ゆっくり話ができるね。
 これは道端で落ちてたものなんだけど、あんたらの私物かい?」

「そのポーチは!!」

「やっぱりそうか。ユウナさんだっけ? ほらよ」

ユウナは自らのうかつさと忘れっぽさに、自らの頭を叩きたい衝動に駆られる。
大切な大切な金のコインを入れていたはずのポーチを、雑木林の中に
落としていたのだ。チベットに戻る流れだったのに、なぜか現代日本に
タイムスリップしてしまい気が動転したが、それにしても大切なコインを落としていたとは。

「よほど大切なものなんだね。一応中身を見させてもらったが、貴金属のようだったね」
「実は本物のゴールドなんです。父の形見みたいなものです」
「へえ。そりゃすごいね。本物の黄金なんて見るのは初めてだよ」
「ええ」
「ちょいと見せてくれよ」
「どうぞ」

カマルは、受け取ってすぐ返してくれた。見たのは一瞬だけだった。

「もういいんですか?」
「見てても気持ちのいいものじゃなかった」
「どういう意味ですか?」
「触れるなって言われたんだよ。そのコインにね。そいつには人の強い意志が
 込められているから、あんた以外の人が触ると災いが降りかかるみたいだ」

ナツキが口をはさむ。

「カマルさん。あなたも普通の人間じゃなさそうですね」
「普通ってのが最近よく分からなくなってきたけど、そうかもしれないね」
「どうしてあの悪魔と結婚したんですか?」

「悪魔って、私の夫のことか? 理由を聞かれても困るね。その場の勢いだよ。
 私は田舎に暮らしているからね。結婚なんてその場の勢いでするもんだよ。
 最低限の容姿で、まじめに働いて、それなりの生活力さえあれば別に誰でも。
 誰でもってのは言いすぎだが、あいつとは話が合うんだ」

「あなたには、彼の姿が人間の姿に見えているんですか?」

「肌の色とか普通じゃないし、物の怪(もののけ)に近いかもしれないね」

「ならなぜ!!」

「私は人じゃない者に惹かれちまうんだろうね。
 私の家系では、祖母のもっと前からずっとそうだったらしい。
 私の夫は人の姿を借りた精霊だって言い張るんだけど、あいつが
 そう言うなら信じてあげてもいいと思った。夫は人と関わるのが嫌で、
 こんな不便な場所で暮らしているけど、どこかさびしそうなんだ。
 きっと自分と同じように、世間から取り残されて孤独に暮らすしか
 生きる術を持たない存在を知った時、助けてやりたいと思ったんじゃないか」

「あなたは、彼がさびしそうだったから一緒にいようと思ったと?」

「同情したつもりはないんだが、結果的にはそうなっちまったかな」

熱々の茶をすするカマル。猫舌のため慎重に湯呑を口に運ぶ。
ふぅーっと息を吐く。

「あんたらも普通の人間じゃないね。神と精霊の力に守られている」

何を言ってるんだと、顔を見合わせる兄妹。

「私は占いが趣味でね。多少の霊感も持っている。あんたらは運命の
 時空を飛び交い、その果てにこの世界に迷い込んだそうだね。
 この村での生活は、あんたらにとって最後まで安息の地となるだろう。
 私の夫は寿命が長い。あと700年はこの世界に生き続けるそうだ。
 だからあんたらは、夫に嫌われない限り、何時までもここで暮らしていけるよ」

「ずっとこの村で……ですか」

ユウナが悲しげな顔をする。

「そうさ。楽なもんだろう。ボリシェビキとは縁を切ってしまえばいい。
 村人として、政治とも世の中とも無縁な世界で暮らせばいいんだ。
 三人分の畑を耕して、田植えをして、川に釣りに行けばいい。
 ここは食料が豊富なんだよ。冬は豪雪でちと辛いが、ニ、三年もすれば慣れる」

「ありがたいことだとは思っています。
 しばらくはここで暮らさせていただきます。他に行くところもありませんから。
 けど少しの間考えさせてください。母が死んで、妹のアユミが死んで、私とナツキだけ
 生き残っていいだろうかって思うんです。まだ気持ちの整理がつかなくて」

カマルは「そうかい。考える時間はたっぷりあるから、せいぜい悩むといいさ」
と言って、食べ終わった食器と湯呑をまとめてから夫婦の寝室へと消えていった。
ユウナとナツキも寝ることにした。

もう二度と生まれ故郷に帰れないと思うと、ユウナは悲しくて泣いた。
ナツキも死んだ肉親のことを思って泣いた。
来る日も来る日も、彼らは布団の中で泣き続けた。
やがて涙も枯れる頃になると、秋が過ぎて雪の降る季節になる。


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