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作品名:『チベット高原を旅する』〜三人の兄妹の悲劇〜 作者:なおちー

第14回   再開 ロク
ナツキは、ベッドから半身を起こして気恥ずかしそうな顔をしていた。

「マリカ……お前たちが騒ぐから目が覚めちゃったじゃないか」

「それよりあんたの妹、躾がなってなさすぎじゃないの?」

「……悪かったよ。アユミにはあとで言っておく。
 で、今日は何の用なんだ?
 この通り僕は体調不良で休んでいるんだが」

「起きてなくて良いから、横になってなさい。
 あんたの様子が心配になって身に来たのよ。
 そろそろ体壊してぶっ倒れるんじゃないかと思ったら、案の定って感じね」

マリカは、校長から渡された冷えピタをナツキのおでこに貼ってあげた。
ナツキのお腹にはタオルケットをかける。

「悪いな」

「いいのよ。あんたは病人だから」

「君が僕の心配をしてくれるとは思わなかった。どいういう風の吹き回しなんだ?」

「手短に用件を伝えたいんだけど、あんたの妹たちがいるからちょっと……」

「妹たちのことは気にするな。夏休み中なのに、
 わざわざ時間をかけて学校まで来てくれたんだろ?」

「別に。今日は夏期講習のついでだから、ブラっと収容所まで寄っただけ」

「それで君の用件は?」

マリカは、壁際に立って敵意をむき出しにするアユミを見て
短くため息をつき、もう一度ナツキの顔を見た。

「ナツキさぁ。そろそろボリシェビキやめなよ」

「なんだって? 君はそんなことを言いに来たのか?」

「経緯はどうであれ、今回あんたは生徒会の会長の座を降りた。
 落ち込むことなんてないわ。ここは前向きにさ、
 会長を辞める良いきっかけになったと思えばいいじゃない。
 いっそこんなところで働くくらいなら、ボリシェビキ自体を
 辞めて一般生徒に戻ったらどうかな」

「それは規則で許されないことだ。一度党とレーニンに忠誠を誓った者は
 卒業するまでボリシェビキでいるのが規則だ。途中で離党したものは
 反革命容疑で逮捕される。君がこんな簡単なことを知らないわけがないと思うが……」

「そうじゃないの。規則とかじゃないのよ。
 私は……あんたに一般生徒に戻ってほしい」

「マリカ……」
 
マリカは、ベッドの上に投げ出された、ナツキの左手を優しく握りながら言った。
マリカの手は小さいが、暖かい。彼女の真摯な思いが伝わる気がした。

ナツキは鈍感な男ではないから、マリカが自分に対して思いを寄せていることを
ここで正しく認識した。女の子は、男からのアプローチを受けてもすぐにオーケーは
しない人もいる。きっとマリカは、一年生の時からナツキのことが好きだったのだ。

2週間前のセクハラ事件で、ナツキが自暴自棄になってマリカに告白したことも、
彼女にとってはまんざらでもなかったのかもしれない。

「ナツキの顔赤いよ。熱すごいんじゃないの」
「そ、そうでもないさ」
「熱測ってあげるよ。ほら。もっと顔近づけて」
「ちょ……今日は大胆だな」

なんというか、普通にいちゃついていた。
二人の妹に殺意を向けられながらも、ナツキのおでこに手を当ている。
マリカはもちろんわざとやっていた。廊下でアユミに嫌味を言われたことに
対する仕返しもある。それに妹たちの反応も気になる。
重度のブラコンだとしたら、おそらく……。

「ちょっと井上さん!! さっきから兄に近すぎませんか!! 
 兄の具合が悪くなっちゃいますから離れてください!!」

意外なことに邪魔してきたのは、ユウナだった。
マリカを壁まで突き飛ばす勢いで無理やり引き離した。

「ふふ。やっぱりね」

マリカはよれよれになった夏物Tシャツの胸元を正した。

「なんで笑ってるんですか?」
「なんとなく、ナツキが苦しんでる理由が分かっちゃったから」
「……まさか私のせいだって言いたいんですか?」

「ご名答。だってそうでしょ? あなたは兄のことが好きすぎて、兄に近づく
 女は誰だって許せないんだ。あなたは知らないでしょうけど、
 一年生の時にナツキがこんなことを言ってた。うちの妹が中学生になっても
 兄離れしてくれなくて、どう接したらいいかわからなくて困ってる」

「そっちこそ知らないでしょうけど、兄は私のことを愛してくれてるんですよ。
 ミウさんの見てる前ではっきり言ってくれました。ユウナのこと愛してるって!!
 ほんのニ、三日前にね。嘘だと思うならミウさんに聞いてみてください」

「あなたがしつこいから、ナツキも気が動転してたのかもしれないよ」

「そんな訳ないじゃないですか!! 私とナツキのこと何も知らないくせに、
 知ったような口を聞いて、すっごく腹立ちます!! 
 あなたは何様のつもりなんですか!!
 彼女でもないのにナツキのそばに近寄らないでくださいよ!!」

「じゃあ彼女になったら近づいてもいいの?」

「そ、そういうわけじゃ」

「血のつながった妹なのに本気で兄に恋してるあなたは、おかしいよ。変だよ。
 そんなの普通じゃない。まさか兄と結婚したいとか思ってるんじゃないでしょ?
 もしそうだとしたら、気持ち悪いからやめた方がいいよ。どこの国の法律でも
 近親婚を否定されてるの知ってる? たぶん人類の歴史が始まってから今日まで
 兄と妹の結婚を肯定した社会なんて存在しない。だって種の保存という、
 人類の根源的な欲求からしても、遺伝的にも間違っている行為だもの」

目の前の小柄な上級生が、自分からナツキを奪おうとしていることをユウナは知った。
そして怒りに震えた。もしできるなら、それ以上得意げに話される前に
頭をカチ割ってやりたかった。アユミもユウナと同じように考えていた。
二人の姉妹にとって、井上マリカは明確に敵だった。

何よりも悔しいのが、マリカが言ってることは全くの正論であり、
一言も言い返せないことだった。それは、ユウナとアユミが今まで何度も
思ってきたが、絶対に口にしないことでもあった。

「もうよしてくれマリカ。ユウナが悪いわけじゃないんだ」
「ナツキはどうしたいのよ。まさかと思うけど妹と本気で恋愛したいの?」
「いや、僕は一度ユウナと……」
「一度、なに?」

ナツキが口ごもった。失言だと思った。
ナツキが目をそらしながら言ったので、
洞察力に優れるマリカは、なんとしてもその訳を追及してくる。

「結婚してるんだ。ここじゃない、未来の世界で」

その時であった。井上マリカの脳内に、大波が押し寄せてきたかのように、
ある映像が浮かんだ。それはチベットの大地を旅する、五人の男女の姿だった。
マリカは当然、寺沢夫妻を知らないが、問題なのはその中に成人した
高倉兄弟が含まれていることだ。中国の都市、西寧の街を、三人で並んで歩いていた。

その姿は兄妹ではなく、恋人でもなく夫婦。三人なのに夫婦。一夫多妻制なのか。
空港周辺の雑踏の中に、自然と三人組の姿が溶け込んでいる。
帽子を深くかぶり、周囲を見渡すアユミ。幸せそうな顔でナツキの腕に密着するユウナ。
スマホの地図アプリを見ながら、交差点の先を指すナツキ。そこで映像は終わった。

「おいマリカ。さっきから動きが止まってるぞ。どうした? 何があった?」
「チベット……」
「え?」
「あんたらチベットに行ってたんだ。新婚旅行なのかな? みんな楽しそうだった」
「おいマリカ!! なんで君がチベットのことを知ってるんだ!! 答えろ!!」

マリカは不気味な夢を見てしまったと言って、逃げるように立ち去ってしまう。
ナツキもさすがに混乱して取り乱す。そこでアユミは、ユウナのポーチが光
輝いていることに気づいた。ユウナがコインを取り出すと、異常なくらいに光り輝いていた。

異常な光だった。金が光を反射させているのではなく、
金そのものが輝きを発している。ナツキにはその光景が悪夢のように感じられた。
一目見てそのコインが尋常ではないことを悟ってしまうからだ。
マリカがチベットのことを知っているのも、そのコインのせいだと思った。
ユウナは「熱い」と言って、コインをポーチの中にしまった。
オーブンで加熱したほどの熱を発していたのだ。

光はやがて収まり、熱も発しなくなった。時を同じくして、ナツキの具合も良くなった。
発熱もないし、めまいがすることもない。指先が震えることもない。

「ナツキに話したいことがたくさんあるの。
 このコインのこととか、お父さんのこととか」

「わかったよユウナ。今日だけでも家に帰らせてもらうように校長に頼んでみよう。
 正直、7号室での労働は今日限りにしたいもんだな。僕は馬鹿だったと素直に認める。
 本当にボリシェビキを辞めてしまいたいくらいだ」

元気な足取りでドアノブに手をかけるナツキ。廊下はがらん、としていて、
人の気配がない。隣の部屋に待機しているはずの校長はいなかった。

まだ消灯時間前だ。各廊下には見張りの保安委員が立っているはずなのだが、
廊下を歩き回っても人の姿が見られなかった。だが廊下の明かりはしっかりついてる。
男性用のトイレに入っても誰もいない。
妹たちが女子トイレや管理人用更衣室を空けても同じ結果だった。

ユウナは下唇をかんだ。

「兄さん、何か変じゃない?」
「そうかもな。人気がなさすぎる。まさかここは……」

ナツキが最初に気づいた。なんと、彼らは四角い廊下をぐるぐると
歩き回っているだけだった。本来なら廊下の先の階段やエレベーターに
突きあたるはずなのだが、どこにもない。ここは人間の住む世界ではなかった。

「おいアユミはどこに行った?」
「あれアユミ? うそ……アユミ!! どこにいるの!!」

廊下にあるのは、休憩室、予備の部屋、トイレ、更衣室だ。そのどこを
探してもアユミの姿が見つからない。さっきまで一緒に行動していたはずの
大切な妹が、どこにもいない。ユウナより先にナツキが大いに取り乱し、
何度も声を張り上げ、同じ廊下を駆けまわるが、ついに見つからず、壁を殴る。

それにしても異常な空間だ。この世界にはユウナとナツキしか存在しないのか。
人の気配はしないはずなのに、常に後ろから何者かの視線を感じてしまう。
その何者かは、おそらく人ではない何かなのだろうと思った。
怖くなったナツキは、妹の手を強く握る。ユウナも握り返す。
ナツキのそばにぴったりと体を寄せる。ユウナの手は汗ばんでいた。

「おいあれ!!」

ナツキが指した先に、謎の浮遊物体があった。
幽霊でも出たのかと、ユウナが悲鳴を上げる。

すーっと、赤い色をした蝶が、廊下の先からこちらへと近づいていく。
蝶は、一度ナツキの人差し指の上に止まる。ナツキを愛しむかのように、
指の上を歩き、体をくねらせる蝶。それから、ゆらゆらと揺れて
ナツキの目の前を横切りながら、廊下の曲がり角の先へ消えていく。

「な、なんだったんだ……」
「昔、蝶占いの話を聞いたことがある」
「なんだそれ?」
「夢に出てくる蝶の色や行動によって、その人の未来が分かるの」
「今の蝶はどうなんだ?」

「赤い色で、兄さんの指に止まった……。
 よく覚えてないけど、エネルギーに満ち溢れた人生を送れるって感じだったかな。
 ここが人生の転換期になるから前向きに行きなさいよって感じの」

それは好意的に解釈していい内容だったが、ナツキは恐ろしさのあまり震えた。
彼らは今現実を生きているつもりだが、もしかしたらこの世界は夢の中の
出来事に過ぎないのかと思った。蝶が出てきたのはその暗示なのか。

バタン、とどこかの扉が閉まる音がした。
ここからでは確認できない。

ナツキとユウナは震えあがる。きっとアユミだろうと、廊下の角を曲がって
探しに行く。休憩室の前にいたのは一人の男だった。

「ごきげんよう高倉ユウナさん。私の顔を覚えているかな?」
「あ、あなた……あの時、私にコインを捨てるなって言った人ね」

男は中肉中世で、黒い服に身を包んでいた。風変わりな男だ。
隣にいるナツキには目もくれず、ユウナだけに語り掛けている。

「今から私の言うことをよく聞け。大切なことだが二度は言わない。
 一言も聞き漏らすな。人の生は長い時間のように感じるだろうが、
 宇宙の歴史からしたら瞬きする程度の間でしかない。
 一度運命にとらわれたら、しかれた道を歩むだけ。やり直すことはできない。
 だが選ばれた人間はその限りではない。人生はやり直せるのだ。
 その者が望むのであれば何度でもだ。君にはやり直す力がある」

ユウナは言葉の続きを待ったが、男は何も言わない。
これで言いたいことが終わったとは思えない状況なのに妙だ。
仕方ないのでユウナから問う。

「人生をやり直すなら、どうやり直せばいいんですか?」
「それを考えるのは私ではない。君だろう」
「あなたは私と兄が結婚した未来を否定したいと思っている」
「さあな。あるいはあれが正しい選択だったのかもしれん。
 君がそう強く望むのだとしたらな」

「じゃあ私を未来に帰してください」

「本当にそれでいいのか? 兄との結婚は、君の父上の望んだことでは
 なかったのではないか。父を悲しませる結果になっても良いのか?」

「こんな世界にいて何になるんですか。私はたとえ千回高校生活を
 やり直したとしても、ずっと兄のことを愛し続けます。
 結果なんて変わらないんですよ。私には兄がいない人生なんて
 考えられないんです。チベットにいた時の私は、今よりもずっと幸せでした。
 私は、もうボリシェビキでなくてもいいの。
 兄と一緒にいられるなら、後進国で暮らしてもいい」

「そうか……。君の意志は固いようだな。
 ならば、私から言うことはもう何もあるまい。
 チベットの大地に帰るがいい。扉はそこに用意されている」

男が指さした先には、階段があった。先ほどまで何もない場所だった。
その階段を登れば、未来の世界へ戻れると言う。ユウナは兄の手を取って
先に進もうとした。だが兄はガタガタと震えていて、顔が真っ青だった。

(ユウナはどうしてあんな化け物と普通に話しているんだ?)

ユウナの目には、その男が普通の人間に見えていたのだが、
ナツキはそうではなかった。むしろ正常なのはナツキの方だった。

男の正体は人ではなかった。
異常に長い手足を持ち、体は薄い布で覆われている。
体全体が焦げた色をしていて、皮膚が異常に乾燥している。

背中には折りたたんだ黒い羽根がついている。ナツキもかつては
キリスト教徒だったから、目の前にいる男の正体が悪魔なのだろうと思った。
悪魔は白目と黒目のバランスが逆で、常に眼球が左右に震えている。

悪魔は会話の最中、笑うでもなく微笑むわけでもなく、無表情だった。
声色は普通の成人男性よりやや低めな程度だ。

なぜこの超常現象に等しい存在が、妹のユウナと言葉を交わすのか、
なぜユウナの未来を案じるのか、ナツキが一番気になったのはそこだった。

「兄さん、しっかりして。未来に帰るのよ」
「ユウナ。おまえにはあの男が普通に見えているのか?」
「……人じゃないことは分かるよ。でも考えても無駄だと思うから」

二人は手を繋いで悪魔の横を通り過ぎて、階段へ向かう。
その際、悪魔が爪を伸ばした長い指先を、ちょんと、ナツキの肩に振れる。
ナツキは全身の毛が逆立ち、悲鳴を上げるのを何とかこらえた。

「小僧。貴様には荷が重いぞ」

小声だったため、優菜には聞こえなかった。
階段を三段ほど登ると、急に二人の意識が飛んでチベットへと戻っていた。


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