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作品名:失われた時間は二度と戻らない 作者:なおちー

第7回   〜マリンの魂はどこへ消えたのか…〜

「マリン様はお綺麗になりましたね」

やめてよ。ミウのことを振ったばかりでしょ。

「成長期ですから、日々大人に近づいているのが
分かります。いつ見ても目鼻立ちが
お父上にそっくりで美しい」

真剣な顔で言ってくるから……少し意識してしまうわ。

「私にもし娘がいたら、
 マリン様の年になっていたのだろうか」

なぁんだ。やっぱり女を見る目じゃない。
私のことは子供扱いか。

「どうして婚約者の人は亡くなったの?」

「事故ですよ」

「どんな事故?」

「より具体的に言うと怪死ですな。
 とある夜、精神錯乱を起こし、同居していた
 家族全員を包丁で殺傷した後、自らも命を落としました」

大事件じゃない。時期を考えると私が生まれる前後だったのね。

「死人に口なし。警察の捜査。医学的見地からも
 何の原因も分かりませんでした。報道機関は
 重度の精神病か薬物の使用を報じましたが、
 全く的外れと言わざるを得ません」

彼はひとりで話し続けた。

「信仰心のない者は常にそうです。目に見えるモノの存在しか
 信じようとしない。科学と医学だけで事件はすべて解決
 できると信じている。誤った前提のもとに動いているのだ。

仮定を知るべきなのに、最初から答えを決めつけようとする。
だから道を誤るのです。私は、はっきりと理解しておりました。
彼女が死んだのは霊の仕業だったと。間違いなく悪霊の類でしょうな。
彼女は薬物をやったこともなければ精神病でもなかった。

当時の私は若く、オカルトに夢中でした。自分自身が熱心な
ユダヤ教徒で、愚かにも選民思想を心の中では持っていました。
いたずらの気持ちで悪魔召喚の儀式を自宅で繰り返しました。
理由は分かりません。ただ悪魔を見てたかったのです。

ですが、どうやっても悪魔など召喚できない。夜に人々が
寝静まった後、深夜二時から四時の間に魔法陣を描き、
誘い出す呪文を口にしても私の前に現れない。気配はしますがね。

私の好奇心は留まるところを知らなかった。ある意味私は
誰よりも素直だったのです。ミウのようにね。
私はヘブライ語を読めますから、実家に代々保管されていた
書物に手を出すようになります。そこには秘匿とされていた
召喚の儀式の方法が書いてありました

非常に難解な文字で書かれていたので辞書は必須でした。
ひと月かけて内容を吟味してから始めました。
結果的に召喚は成功したのだと思います。
黒い影のようなものは見えましたが
すぐに窓ガラスを割って外へ飛び出していきました。

私はあれが悪魔だったという保証がありませんでした。
悪魔は賢く、スキを見せたらこちらを殺しにかかると
伝えれています。幸い私には何の被害もなかったが、
私の婚約者に憑りつき、怪事件へと発展してしまった」

自分は大馬鹿だった。だが、どれだけ後悔しても
失われた時間は永遠に戻らないのです」

それは、母のエリカもよく言っていた。
堀家が滅茶苦茶になった原因となったモンゴルへの逃避。
父の幼稚な逃避行が家庭を崩壊させてしまった。

時間の針が逆戻りすることはない。
人間は決められた運命に逆らうことはできない。
私もおじいさまの影響で運命論者なの。

「マリン。君は僕の話を聞いてもまだ
 研究を続けようとするのか?」

初めて、素の話し方をしてくれた。

彼はさらに悪魔研究の恐ろしさを教えてくれた。

欲は身を滅ぼす。深入りすれば後戻りできない。
研究し、新しい知識を得ると謎のようなものが
たびたび降りかかるようになる。精神的に
ネガティブになり、自殺ばかり考えるようになる。

言葉には魔力がある。理論を突き詰めればそれが
分かるようになる。いずれ悪の誘惑に逆らえなくなり、
狂ったように書物を読み漁る。あとは地獄へ落ちるだけだ。

彼は直接悪魔の顔を見たり、会話をすることは
できなかったけど、寝ている時に頭を叩かれたり、
金縛りにあったという。

「三時になるのが怖かった」

三時は、イエス・キリストが十字架の上で死んだ時刻。
(イエスの場合は日中の三時)
悪魔の好む時間。
悪魔は夜の三時付近に現れる。

ターゲットと決めた人間の周囲で怪奇現象を引き起こす。
彼の婚約者が狂ったのも、ちょうどこの時間だった。

「マリンには道を誤ってほしくない。
 君は太盛様のご息女だが、私は赤ん坊だった頃の
 君を抱かせてもらったこともある」

私の体は、彼の腕の中に納まっていた。
暖かい。お父様とは違う感触。
これは夢ではないのね?

父以外の男性に抱き締められたのは初めてだったから、
心臓が飛び出そうなくらいドキドキした。

「本当はマリンとミウに魔術を知ってほしくなかった。
 私はこの広い屋敷で単調な日々を送るのが寂しかったのだ。
 君たちが書庫に興味があると言った時はうれしかった」

まさか魔術の研究が目的だとは知らなかったそうだけど。
つまり人恋しかったのね。だからお茶出しを
して、おしゃべりをたくさんしてくれたのね。

ミウの失恋後に私が本格的に研究に没頭し始めたから、
彼が警告を鳴らしてくれたのだ。

「ここで会うのは今日で最後にしよう。
 マリン。君は僕と約束してくれるね。
 二度と悪魔について研究をしないと」

「うん。約束する。でもお願いがあるの」

「お願い?」

私は背伸びして彼の唇にキスした。
彼はギュッと私の体を抱きめ、キスを返してくれた。
唇と唇が触れるだけ。優しいキスね。

きっと彼的には社交辞令の延長なんだろうな。

それでも私には十分刺激的だった。
残念だけど私達は、恋仲になるには年が離れすぎている。
それに彼が私を異性として意識してないのは知っている。

「さようなら」

私は手を振って彼と別れた。
お父様の件は、仮にプロの祈祷師を呼んだとしても
悪魔と命がけの争いになる。悪魔祓いが済んだとしても
誰かの犠牲がなければ成り立たないほど壮絶なものになる。

悲しいけど、ご党首様の言う通り
事態を静観するのが一番なのかもしれない



〜堀カリンの一人称〜

月末の派遣業界は忙しい。
理由は単純で、勤怠の締め日だからだよ。

朝早くから取引先の会社周りをして、
膨大な数の従業員の勤怠を管理しないといけない。

派遣スタッフは入れ替わりが激しいから、
給料計算が大変。いつも経理が悲鳴を上げているよ。

いつもの繁忙が終わり、翌月になった。
世間は八月のお盆シーズンを向かえる時期になった。
昔は盆玉といって、お盆版のお年玉がもらえたのに。

今の私はとっくにあげる側。
だけどレナにもマリンにも子供がいないのでラッキー。

「おはようございます。カリン様。
 太盛様とマリン様はお出かけしたようです」

「あっそうなの。いつごろ帰って来るの?」

「夕方までには戻ると」

つまり半日は不在なわけね。
今日は日曜日。私は仕事疲れで朝11時に起きたのに、
鈴原はおはようと言ってくれる。
…この時間は、こんにちわ、じゃないのかな?
どうでもいいけど。

「あ、レナ。帰ってたの?」

「よっ。久しぶり」

長い髪を後ろでまとめているのは、私の妹のレナ。
いつの間に黒髪にしたの。私と同じ色だと
双子で見分けがつかなくなるから?

「別に意味はないけど、その時の気分かな。
 黒くすると雰囲気変わるでしょ? それより聞いてよ。
 溜まっていた有休を久しぶりに消化させてもらったの。
 なんと八月のお盆が終わるまでずっと休みなのよ!!」

「ええっ!!」

慢性的な人手不足の病院で長期休暇が取れるとは。
ほぼ2週間近く休みってこと?
まるで今月辞める人みたいじゃない。まさか……。

「辞めるわけないでしょ。上に無理行ってなんとかしたのよ。
 派遣の子達(短期)は数か月で辞めてさっさと海外旅行とか
 行くのに、私だけなんで休みがないのって
 半ギレ気味に上司に迫ったら成功した」

「どんな奇跡よそれ。小説のネタだったら面白そうね」

「そうそう。小説といえばフゥ君ね。
 あの子のことでカリンと話があるんだけど」

「私も姉さんと話したかったと思ってたのよ。
 フゥ君の友達の…本村ミホさんの周りで
 怪奇現象が起きたのは知っているわね?」

「もちろん。私はフゥ君から直に聞いているからね。
 カリンがこの部屋に来ているのはまさに
 怪奇現象の理由が知りたいからだね?」

説明が遅れたけど、私達は偶然にも妹のマリンの部屋の
前で遭遇し、立ち話をしていたのだ。
マリンは普段は几帳面に部屋に施錠し、
掃除は使用人に頼まず自分でやっていた。

私はどうやって中に入ろうかと思っていたら、
なんと姉さんがマスターキーを持っていた。
どこから持ってきたのと訊くと、使用人室から
拝借したとのこと。つまり執事長の鈴原からね。

「マリンなら何か知っているはずよ」

姉さんに続いて私も部屋に入っていく。

私はまめに携帯チェックをする性格ではない。
仕事がひと段落してからLINEを開くと、
フゥ君が体験した怪奇現象、そして友達の
ミホさんが体験した現象が語られていた。

彼は当時の状況を
自らの口で説明した音声データで送ってくれた。

『ミホが兄を連れないで僕のお見舞いに来た瞬間に
 何かあるとは思いました。ミホは僕の姿を見るなり
 顔を両手で覆い、大きな声で鳴き始めました』

『兄の怪死を僕のせいにして泣きわめき、さんざん
 暴言を吐いた後、実際に暴行までしてきました。
 女の子の力なので痛くはなかったですけど』

『ミホは自宅で起こる現象について説明しました。
 怖くて夜寝ることができない。深夜は死の時間。
 ガタガタとベッドが揺れ始め、地の底を這う
 低い笑い声が聞こえてくる。窓の外には
 黒い髪の女の顔が映っている。天井にも顔がある』

『ミホは極度の睡眠不足で頬がこけていました。
 目がうつろで、焦点が合っていません。
 ご飯を二日前から食べていないそうです。
 すぐにでも点滴を打つべきだと思ったんですけど、
 その状態でもミホは語り続けました』

パパは発狂して家を飛び出し、行方不明になりました。
  家にいるのは私だけ。ママに電話しても繋がらない。
     どうしたらいいの? 
どうしたらいいの?

私の家には   何かが   【いる】

  人ではない   何かが   

死が近い  死が身近にある  死ぬ 
   
          殺される  いつか殺される  

また今夜も あの女が   にたにたと笑う


フゥ君の語り口調も雰囲気が伝わってかなり怖い。
思わず腕中に鳥肌が立った。
私が中学生だったら余裕で気絶しているレベル。

フゥ君はナースコールを押して、看護師や医師に
ミホさんを診てもらうと思ったけれど、ミホさんは
大人たちの制止を振り切り、走って逃げた。

その時の力は成人男性並みだったという。
体格の良いドクターが吹き飛ばされたほどなのだから。

「この引き出しが怪しいけど、鍵がかかってるのね」

レナねえが大きな本棚の下部分にある引き出しをいじっていた。
確かに厳重に施錠されていて、何かが隠されている感じがする。

残念ね。マリンがそう簡単に秘密をばらすわけないか。
ところで私達はなぜマリンが怪しいと思ったのでしょう?

私と姉さんが、お父様の具合が急に良くなったことを
元使用人にして友達のミウに伝えた時のこと。

『えええっ!! マリン様はついに黒魔術で
 悪魔を撃退することに成功したんですね!!』

かまをかけたわけでもないのに、ボロを出したミウ。
素直な性格は結婚後も変わってないようで安心した。
私はすかさず母親譲りの質問攻めをして
全ての真相を吐かせたのだった。

悪魔の正体は、おそらく悪霊の『ジン』
人の姿を借りて現れ、何人もの人に分裂し、
特定の人の周囲に現れる。

最初はお父様に憑りついた。そのあとフゥ君の前に現れた。
次はミホさんのお兄さんを殺した。その次はミホさんの自宅へ。

私とレナ姉さんが一番気がかりなのは、
マリンが現状を放置していること。

マリンもフゥ君と連絡先を交換しているから、
本村家の現状を知らされているはず。
今回だけでなく、フゥ君の前に悪霊が現れた時も
何もしなかった。聖水と十字架を置いて行く以外にはね。

そして今日あいつはお父様と都内にショッピングに行ったという。
どんだけ身勝手なの。自分の黒魔術で
お父様の体から悪霊を取り払ったんでしょうが。

どんな魔術なのか知らないけど、ミウが言うには
人を呪い殺せるほど強い魔術で、使い方を誤れば
自分や身内の命が簡単に失われるほどだという。

魔術を使いこなせるようになるまで、
少なくとも7年以上の修行が必要。
マリンは現在までに何らかの方法で
魔術を会得したと考えられる。

マリン……。家族のみんなに内緒で
怪しい研究を続けていたのか。
根暗な奴だとは思っていたけど、ここまでとは。

マリンの部屋は小ぎれいになっていている。
ピアノ、楽譜、天蓋付きのベッド、本棚、
高そうなカメラ。怪しい研究をしていた痕跡は見られない。

「そこにいるのはお姉さま達かしら?」

びっくりして心臓が止まるかと思った。

マリンが戻って来ていた。
お父様とお出かけした割には戻ってくるの早かったね。
それにお出かけ用の服じゃなくて部屋着……。
パパも帰って来てるの?

「いいえ。パパはまだお外にいるわ」

「ん? あんただけ先に帰って来たってこと?」

「まあそんなところよ」

私は不思議に思っていたが、姉さんはもっと深刻に受け止めていた。
レナ姉さんはこの時点でマリンがマリンじゃないことを
見抜いていたのだろう。顔が引きつっている。

姉さんは幼いころから霊感があるから、こういう状況に
敏感に反応する。私にアイコンタクトして
危機的状況にあることを知らせてくれた。

マリンは薄ら笑いを浮かべている。
瞳の奥には何の感情もこもっていない。
確かに普段のマリンはこういう笑い方をしない。

「姉さま達。ひとつゲームをしませんか?
 かくれんぼです。幼い頃によくやりましたよね? 
 私が10数え終える前におふたりは逃げてくださいな」

意図が読めず、固まっている私達に構わず
マリンはゆっくりと数字を読み始めた。

「いーち、にーい」

マリンの表情は変わらない。
逃げないと、どうなるの?
心臓の鼓動が早まる。

私達は不安で逆に足が固まってしまい、
その場から全く動けなかった。

「あら。どうして逃げないのかしら。
 姉さん達が小さい頃は
 妹の私を可愛がってくれたじゃない。
 つい最近のことだったのに忘れちゃったの?」

「あんたは……マリンじゃないでしょ」

姉さんが低い声で言った。

「どうしてそう思うの?
 私はどこからどう見ても堀マリンよ」

「違うわ。あんたは偽物。私の家族じゃない」

「姉さん。ひどいわ」

「黙れ」

「黙れ、なんて。失礼なことを言うのね」

締められていたドアが勢いよく開いた。
そこへ吸い込まれるように、
姉さんが宙へ浮いて廊下へと吹き飛んだ。
それは一瞬のうちに凄まじい強風が吹いて
人間を飛ばしてしまったかのように。

「カリン姉さんはどう思うのかしら。
 私はあなたの妹のマリンでしょ?」

「バカなこと言わないでよ。
 今の不思議な力で確信できた。
 あんたが悪霊だってね」

う……。急に頭がふらふらして立っていられなくなった。
なんとか両手を床についたけど、そのまま前のめりに倒れてしまった。
なにこの感覚? 寒気がして手足の先が震えている。
力が入らない。吐き気がこみ上げてきて、この場で嘔吐しそうになる。

「顔を上げてよ姉さん。私の名前は堀マリンよ」

会話なんてできる状況じゃないのは、見れば分かるくせに。
私の家に悪霊がやってくるのは想定できなかったわけじゃない。
でもレナ姉さんが休暇を取ったタイミングで現れるとは。

「うっ……」

私は我慢の限界を超え、ついにもどしてしまった。
床にびちゃびちゃと汚い音を立てて汚い汚物がまき散らされる。
ああ、朝ごはん食べてなくて良かったと、どうでもいいことを考えた。

私は死ぬほどつらいけど、レナねえのことも気になる。
まさか死んでないよね?

「う、ひどい匂い……」

レナ姉さんは、這いつくばって部屋に戻って来た。
腰を強く打ったのか、まともに歩くことができないみたい。

「姉さん達は私を否定した。ひどいじゃない。
 こんなに悲しいと思ったことはないわ。
 現実を見ようとしない姉さん達には
 お仕置きが必要かしらね」

本棚が開き、中から大量の本が飛び出して宙に浮かんだ。
中には辞書くらいの厚みのある本もある。六法全書?

本の大群が私の頭上に集まって来た。
ゆらゆらと糸で吊るされたように揺れている。
勢いよく私の頭に落ちてきたら、本気で死ぬかもしれない。

「本当はね。私は姉さん達に危害を加えたくないの。
 だから早く私のことを認めてほしい。
 私が正真正銘の堀マリンだと」

その言い方は、言外に自分が偽物だと認めているようなもの。
悪魔はそんなに頭が良くないのか。
それとも深い意味があるのか。

レナ姉さんは、床の上で痛みに耐えていた。
あれだけ激しく吹き飛んだから体中を打ってしまったのか。
ああ、私達にはもう対抗する手段がないのか。

急にピアノが歌い始めた。
悪霊も含めて全員がそちらを見た。

旋律を聴いてすぐに思い出したのは、
シューマンのピアノ曲集。クライスレリアーナ。
ユーリがマリンの練習のためによく弾いてあげた曲だ。

「左様。ユーリ嬢を懐かしんで弾いた次第であります」

は……? いつからピアノの前に座っていたの。
そこにいたのは能面の男。
中年男性になっても独特の品性は変わっていない。

それとさりげなく私の心の中を読んでいるよね?
やっぱりこいつは普通の人間じゃない。不気味。

「あなた、何を勝手に」

「まずはこちらの話を聞いてもらうか」

悪霊相手に落ち着き払った態度をしている能面。
まるで悪霊と向き合うのが初めてではないかのように。

「マリンの横暴には困ったものです。
 私と交わした約束をこんな形で破られるとは。
 マリンにとって口約束など
 紙切れよりも薄っぺらいものなのだろうか」

マリンを呼び捨て? それに約束って何のこと?

鍵盤がうねる。

能面は自らの心境を演奏で表現しているのか、
ベートーベンのピアノソナタ14番(月光)
の第3楽章を弾き始めた。

ふたを全開にしたピアノから躍動感あふれる旋律が
流れ始める。私とレナはまったく口が挟めずに、
能面の演奏に圧倒されてしまった。

演奏技巧は素晴らしいけど、攻撃的に過ぎる音だった。
能面が表現したかったのはどんな世界なの。
こんなに荒っぽく弾くなんてピアノがかわいそう。
男性にしても強すぎる鍵盤の叩き方。

ユーリは……こんな演奏スタイルじゃなかったよ。

能面は、ピアノイスからゆっくりと立ち上がり
仮面を外して私達の顔を交互に見てきた。

この男……こんな顔だったの?
親戚の前でも顔を隠すくらいだから
どんなブサイクかと思っていたら意外と整っている。
むしろ美形だと思う。

「私はユーリの霊を知った」

え?

「人の思念は、思いが深くなるほど残るものだ。
 あの子の想いは叶うことがなく、行き場を失った魂は
 永遠に蒙古の大地をさまよい続ける。
 あの子の魂がこの日本に帰ることはない。
 だが私は数日前の夜、確かにあの子の霊を見た」

「ゆ、幽霊を見たってこと?」姉さんが恐る恐る訊いた。

「そのようなものです。お嬢様たちもすぐに
 ご覧になれますよ。さあ、ユーリ。
 久しぶりにお嬢様たちの前に
 顔を出してごらんなさい」

能面が手を強く二度叩くと、扉が開いて女性が入って来た。
すきなくメイド服を着こなしたのは、間違いなくユーリだった。
仕事中は常にまとめていた長い髪を下ろしている。

27歳で人生を終えたユーリ。
今は私達の方がお姉さんになってしまったね……。
姉さんがぽろぽろと涙を流している。
私も同じだよ。たとえどんな形でも死んだ人と
再開できると自然と涙が止まらなくなる。

私は夢の中でユーリを見たことは何度もあった。
けどこうして、実在しているとしか思えないユーリを
見たのは初めてだ。だけど、この人は間違いなく死んでいるはずだ。

ユーリは笑いもせず泣きもしなかった。
言葉を発することもなかった。
両手をスカートの前で組んで、じっと私達を見つめている。

なぜかマリンの姿をした悪霊が、くやしそうに唇を噛んでいる

そんなマリンに勝ち誇るように能面が語り始めた。

「ユーリはピアノに思い入れのある女性だった。
 この部屋でよくマリンにピアノを教えていた」

ユーリがピアノの方へまっすぐ歩いて行くと、
悪霊はなんと場所を譲った。能面も場所を譲った。
ユーリはピアノイスに腰かけたが、
鍵盤には触れずに譜面をじっとしていた。

「思い入れのある物が、霊を呼び起こすことがあるのだ。
 ユーリの場合はそれがピアノだった。マリンの部屋。
 そしてこの屋敷。彼女が終生働き続けようと願った堀家の屋敷だ」

能面も泣いていたけど、涙をぬぐおうとはしなかった。
彼がユーリの肩にそっと手を触れようとすると、
すっと彼の手が空を切ったのだった。
ユーリはやはり反応を示さない。

私はこの時になって、扉の魔法陣のようなものが
描かれているのに気が付いた。真っ黒な字で
不思議な文字と記号が円の中央に描かれている。

能面は小さな聖書のような書物を手にし、
私達の知らない言葉で語り始めた。
マリンもその言語で応じた。

一体何語で話しているの?ギリシャ語?ヘブライ語?
外国語は英語以外分からないからさっぱり。
やがてマリンが激昂し声を張り上げる。
能面は冷静に言葉を続けていた。会話というより、
お互いがただ自分の意見を言い合っているようだった。

ユーリが、すっとピアノイス立ち上がった。
そして少しだけ険しい顔をしてマリンを見つめた。
霊となった彼女が初めて現した意思表示だ。

ユーリは言葉を発したわけでも、マリンに
触れたわけでもないのに、マリンに変化が見られた。

「ううぅぅぅぅぅぅうううううううぅぅぅぅぅぅぅ」

中年の男性並みの低い声でうねりはじめたのだ。
限界まで開いた口から歯をむき出しにし、瞳孔が開いている。
それは私達の妹ではない確かな証拠だった。

私とレナを血走った目でにらみつけてきた。
あまりの恐ろしさに心臓が止まりそうになる。
「Η Μαρία είναι μια πόρνη I María eínai mia pórni」
何て言ってるかさっぱり分からないけど、たぶん呪いの言葉だと思う。

その次の瞬間だった。能面がマリンへ飛び掛かり、首を絞め始めた。

「うおぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉ」

マリンはまた低い声でうねり始めた。ゴロゴロとマウントを
変えるたびに二人は床を転がり、主導権争いを繰り返した。
体格では能面が有利。いくら悪魔が乗り移っているとはいえ、
マリンは女の体。高身長の男性の能面に勝てるわけない。

「うっ」

マリンは近くに転がっていた辞書を手に取り、
能面の頭を殴った。ひるんだ能面に三度も
同じ攻撃を繰り返すと、ついに能面は動かなくなった。

死んだの……? 出血量がすごいけど。
彼はうつ伏せに倒れたままの状態。
よく見ると指先だけは動いている。

「待ちなさい!!」

レナ姉さんが懸命に声を張った。

「彼を殺すつもりなら私が相手になるわ。
 最初に私を殺しなさい!!」

虚勢を張ったって勝てないのは姉さんだって
分かってる。姉さんは床に倒れて動けない。
私達に出来るのは、ただの時間稼ぎだ。

「女よ。そう焦らせるな。まずはこいつの息の根を止めるのが先だ。
 その次は貴様らだ。暗く、冷たく、光の入らぬ世界へと案内してやろう。
 貴様らの魂は私が預かることにする」

このままじゃ殺される。フゥ君が味わった感覚が今理解できた。
理屈でなく本気で殺されるって思ってしまう。
私とレナ姉さんは恐怖に耐え切れず、足の先まで震えてしまった。

「レイナ。カリン。おそれるな」

能面が苦しそうな声で言うと、急に悪魔の動きが止まった。
悪魔は能面にとどめを刺すために首へ手をかけようとしたのだが、
その手を何物かが押さえているのだ。

なんとユーリが止めていた。ユーリは、確かに悪魔に触れている。

「うぅぅぅぅぅぅうぅうぅぅぅぅああぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁ」

焼け付くような痛みが走ると、悪魔はもだえ苦しんだ。
肉の焦げる匂いがしたかと思うと、握られた部分がちぎれて床へ落ちた。
右の手首の部分だ。どれだけの熱さだったのかは
知らないけど、少し煙が出ている。

能面は辛そうだったけど、ふらふらと立ち上がり、
体重を込めてマリン押し倒して、首を絞めた。
悪魔は先ほどのユーリの攻撃のため戦意を失ったのか、
今度はマリンの声で語り始めた。

「ハタノ……さん。苦しいよ。やめて? お願い。やめて」

呼吸する余裕すらないはずなのに普通に話せるのが不気味だった。
能面が攻撃を止める気がないのを知ると、今度は私達に話し始めた。

「姉さん達。お願いだからマリンを助けてよ。
 私はこのままじゃ死んじゃうよ?
 死んじゃってもいいの?」

もちろん私達には何も答えなかった。
妹と全く同じ声で私達を騙そうとするこいつが許せない。

「レイナおねえちゃん。カリンおねえちゃん」

「おねえ…ちゃん。おねえちゃん」

「おねえ……ちゃん」

マリンの瞳から光が失われた。
力なく首を横に向けた状態で息絶えたのだ。

ああ、ついにやった。能面は悪霊に憑りつかれたマリンを
殺したのだ。能面は頭の出血がひどくて上着を汚すほどだった。
自由に動ける私が手当てしようかと言ったら、拒否された。

「私はマリンの遺体を外へ運び出さなければならない。
 君たちはこれに一切触れるな。
そしてマリンと同じ過ちを犯さないと誓いなさい
太盛お坊ちゃまにはくれぐれもユーリのことは黙っておけ。
君達が僕との約束を守ってくれることを祈っている」

気が付いたらユーリは消えていた。
能面はふらふらしながらも、
マリンの足を引きずって廊下へと消えた。

部屋に残されたのは彼らの血の跡。
散らばった辞書などの書物。
私の嘔吐物の匂いが今になって鼻を刺激した。
マリンのちぎれた手首も能面は回収してくれたようだ。

ユーリが座っていたピアノイスには書置きが残されていた。
内容からして能面が書いたものだ。

『私は再び禁断の儀に手を出してしまった。
 すでに運命は決した。近いうちに死ぬだろう。
 それはマリンも同じことだ。マリンは自らの愚かさゆえに死んだ
 私は、マリンに魔術を教えた責任を取って死ぬ』

数日後、その通りになった。

能面は朝起きた時に死亡しているのを発見された。
寝ている間に何らかの理由で肺と心臓が押しつぶされ、
壮絶な死に顔だったという

「マリンが死んだ……?」

パパは最愛の娘の死を受け入れられず、
嘆き悲しみ、発狂したりする日々が続いた。

マリン恋しさのあまり、マリンの
使われなくベッドの上でわんわん泣く日々が続いた。
そして夜になるとそこで寝た。

弾けもしないのにピアノの鍵盤を不器用に
叩く姿は哀れだった。故人であるマリンの衣服を
処分しましょうかと使用人のサキさんが提案すると、
パパは顔を真っ赤にして怒るのだった。

パパの社会復帰は
まだまだ先のことになりそうだ。

当たり前だけど、ママが出て行った時の反応とは
全然違う。この人は本当に妻に対する愛はなかったのだ。

能面によってマリンは殺された。
当時の私はあのマリンが、悪魔によって
生み出された分身なのかと思ったけど、
残酷なことにマリン本人だったようだ。

でもマリンに憑りついていた悪霊がその後
どうなったのかは誰にも分からない。

少なくとも私達の身の回りで悪魔による怪奇現象が
発生することはなくなった。
マリンの命が散ったのと同時に、
悪魔そのものが消え去ったかのように。

本村家は、発狂していた父が無事に家に帰り、
家出中だった母も、ようやく気を取り直して帰って来た。
ケイスケだけは行方不明のままだった。

フゥ君は無事に退院できた。頭の打撲は
ほぼ完治している上に、悪魔を見たことに関する
精神錯乱も一時的なものと診断された。

意外なことにおじいさまは、
今回の事件にこれといった反応を示さなかった。
能面とマリンの葬儀は身内だけでひっそりと行われた。
表向きは病死になっている。

人の子にして天使や悪魔が所有する力を使った結果がこれだ。
自らの命と引き換えに人を救う。あまりにも重い代償だ。

娘に先立たれたパパの精神状態は
どんどん危険な状態になっていった。

レナ姉さんの肩をつかみながら
マリンと呼んだことがあった。
休暇中のレナ姉さんが献身的にパパを介護していたのだが、
その様子があの子に重なったのだろう。

パパのマリンに対する愛情はどこまでも深かった。
時間が癒してくれると信じるしかない…。

私はもちろんパパにユーリの霊が現れたことを話してない。
一生秘密にしないといけないの。
それが能面との約束だったから。

「マリンさんほど聡明な女性ならば」

今回の葬儀に参加したフゥ君が言う。

「黒魔術の恐ろしさを知らなかったわけがありません。
 それを知っていてもお父上を救いたかった。
 娘が自らの命と引き換えに親を救う。
 残された親の気持ちを考えると複雑です」

「ね。人の考えなんてわからないものでしょ。
 本当の気持ちってのはさ。
 結局本人達にしか分からないもの」

生返事をしながら、私は丘の上の二つの十字架を見ていた。
堀マリン。秦野エリヤ。この二人の墓は先祖とは
別の場所に葬られることとなった。事情が特殊過ぎるからだ。

マリン……。あんたは遠い所へ消えてしまったのね。
死ぬのが分かっていてもパパを救いたかった。
それがあんたの信念なら私は否定しないよ。

「はぁ……なんでみんな悲しそうな顔をしているんだ?
 一体誰の葬式をしているんだろうな」

太盛パパは浮いていた。一人だけ的外れなことを言っているからだ。
おじいさまは拳を強く握り、怖い顔をして車いすに座っている。
昔のように息子に説教する気にはならないようだ。
鈴原と後藤はハンカチを何度も目元に当てている。

「あの十字架に刻まれた名前を見てみろよ。
 Marineだってさ。きっとMarie(マリー)の書き間違えだろう。
 まるで俺のマリンが死んだみたいな流れじゃないか。
 なあ。ミウ?」

「……そうでございますね」

急遽呼び出されたミウは、旦那さんも一緒に来ていた。
小柄で線が細くてエリートっぽい雰囲気の人だ。
小学生の子供二人は家に置いてきたみたい。

ミウは再び狂ってしまったお父様に深いショックを受けていた。
パパの中ではマリンが一時的に海外旅行で家を空けているという
結論に至った。もはや墓を見ても信じようとしない。

「マリンも年頃だからそろそろ親離れをして
 結婚を考えないといけないな。マリンは立派な娘だ。
 相応しい相手を見つけてあげないといけないな。
 ミウもそう思うよな?」

「はい。太盛様」

「結婚式には必ず呼ぶからな。ぜひ来てくれよ?」

「もちろんでございます」

「今度ミウの子供たちにマリンのピアノを聴かせてあげよう」

「きっと喜びますわ……」

パパの前でマリンが死んだ話をすると発狂する。
ミウはそれを知っているから、ただ頷くしかないのだ。

喪に服したミウの顔、やっぱり似合わない。
ミウはいつでも笑っていてほしかった。

私も人のことは言えないけど。
家族を失ったショックで食欲すら失せた。
とても仕事などする気にならず、
私も姉さんと同じように長期休暇を取らざるを得なかった。

私とレナ姉さんはマリンのことを思い出しては泣き、
ついに涙さえ枯れ果ててしまいそうだった。
誰かの肩を借りられるのなら、思いっきり泣き叫びたい。

「あっ」

ミウが、近くの木影を見て驚きの声を発した。

「ゆー」

それ以上続けられなかった。
私とレナもすぐにそっちの方向を見た。

メイド服を着た若い女性が、
静かに去って行くところだった。
その女性は振り返ることはなく、
私達の視界の外へ消えてしまった。

その人は、書置きを残していった。
達筆な字でこう書かれていた。

『悲しいのなら、気が済むまで泣きなさい。
 そうしたら前を向いて歩きなさい。
 あなた達は決して迷わないようにね』

私が読んだあと、すぐレナとミウに渡してあげた。
私達は肩を抱き合い、丸い輪になって一緒に涙を流した。
私とレナもすごかったけど、ミウが一番泣いていたと思う。

ユーリさん。さようなら。
私は正しい道を歩みます。
そして必ず素敵な男性を見つけて幸せになります。

           『失われた時間は二度と戻らない』 終わり


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