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作品名:失われた時間は二度と戻らない 作者:なおちー

第6回   〜21歳のミウ、13歳のマリン。はかない恋〜
〜堀マリンの一人称〜

能面の男がタムルードを読んでいるのを
知ったのは何年前だったかしら。
ミウが結婚する前だったのは覚えているけど。
タムルードは、おそらくキリスト教徒が一番嫌う書物。

ちょっと説明するわね。
ユダヤ教の聖典はあくまでトーラー。
いわゆるモーセ五書、「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、
「民数記」、「申命記」を始めとした旧約聖書。

紀元前4世紀に編纂された「バビロニア・タルムード」
他にも種類があるのだけど、
一般的にこちらがタムルードと呼ばれているわ。

聖典に対する解説書としてタムルードが存在している。
内容はイスラエル人の強力な選民思想が目立つ。

残念なことにユダヤ教徒には(旧約)聖書よりもタムルードを
聖典としている人がいるそうよ。ラビ(ユダヤの指導者)は
タムルードを新しい聖典とするよう民に勧めているそうなの。

お父様は、タムルードの教えをラビの迷い事だと言っていた。
私も最初に知った時はびっくりしたわ。
本家の書庫には日本語と英語訳のタムルードがあった。

身の毛がよだつ内容だ。

本文より引用。
・サンヒドリン106aイェスの母は売春婦だった。
〃彼女は大工と売春婦遊びをした総督の王女の子である〃。

シャパット104bの脚注#2
イエスの母マリヤは美容師で多くの男と交わった。

サンヒドリン106 
イエスが若くして死んだことを満足げに書いている。

〃バラム(イエス)は何歳だったとお聞きか。彼は答えた、
はっきりはいたしませぬが、書き記された
所によれば、この血みどろの詐欺男は
彼の従者たちの半分も生きなかった33歳か34歳だったそうじゃ〃

サンヒドリン43aイエス(ナザレ人イエシュア)は
魔術を行ったので処刑された。

ギソテン57aイェスは熱い大便の中でゆでられている。

サンヒドリン43aイェスは死刑を執行された。
〃過ぎ越しの祭りの前夜、イェシュアは木に掛けられた。
彼は自分を防衛することができたはずではないか。
たぶらかす事ができなかったのだろうか

ロシュハシャナ17a タルムードを拒否するクリスチャンと
他のものは地獄に行き、永劫に懲らしめられる。

サンヒドリン90a新約聖書を読むものは
来るべき世において立場はない。

シャバット116a ユダヤ人はクリスチャンの本
(新約聖書)を撲滅しなければならない。

これだけでもはらわたが煮えたぎるほどムカつくけど、
他にもABQDAH ZARAHという項目では、異教徒の幼女や
実の母親との姦淫まで認めているわ。
強姦が認められる幼女は三歳以上。まさに狂気の沙汰ね。

ラビは、タルムードがモーゼの
律法書に対して絶対的優越性を有するとした。
例えるなら北朝鮮が正義の国と言っているようなものね。

私は心から能面の男を軽蔑した。

なぜこんな奴が本家勤務なのか理解に苦しむ。
困ったことにあの男は自分が
ユダヤ教徒であることを隠そうとしないのよ。

その日、本家の夕食会に招待されたのは、
私の他には双子の姉さま、ミウの四人だったと思う。
うろ覚えだけど後藤もいたかな?

夕食会はとっくに終わっていて、
深夜の一時過ぎだったと思う。

ベッドからこっそり抜け出して、
約束通り能面に書庫を案内してもらった。
夕食の時にダメもとでこっそり
頼んだら、能面は快諾してくれた。

「ご党首様には内緒にしておきます。
 貸し切りですので、ごゆっくりどうぞ」

男は、扉の前に用意した椅子に座っていた。
リラックスしているのか足を組んでいる。
あいつがラフな格好をしているのを始めて見た。

執事服のネクタイを外し、Yシャツの胸元のボタンを
開放している。もしかして機嫌悪いのかな?
少しばつが悪い。あいつだって寝てる時間なのに
無理して書庫まで来てもらったわけだから。

「あの、鍵をお預かりして私達が出る時に
 施錠しておきましょうか?」

「お気づかいは無用でございますよ。ミウ様。
 ここの管理は私の仕事。ミウ様達は客人です」

口調はいつも通り冷静そのものだった。
なら遠慮することはないと、
私達は本を探すのに夢中になった。

古文書が多くて、原語で執筆された本ばかりだった。
ラテン語とギリシャ語はさすがの私でも読めない。

宗教、占星術、占い、タロット、天文学などマニアックな本が多い。
探せば日本語翻訳版もある。それにしても日本人の書いた書物が
ひとつもないのには驚いた。歴史書とか山ほどあるけど、
ドイツの歴史はドイツ語で書かれているし、大学の図書館よりも高度。

私は護衛としてミウを連れて来たのだけど、ミウもお父様が
悪魔に憑りつかれたと疑っていたから、真剣にそれ関係の
本を探していた。ここの書庫は本当にすごい。

アーチを描く階段、ギリシア風の柱、天井画。
ろうそくの明かりで演出された空間は、幻想的で温かみがある。

悪魔に関する書物はたくさんあって、私とミウは
手当たり次第に本に目を通していた。

そして偶然タムルードを見つけた。
ミウは英訳版をさらさらと速読し、
過激過ぎる内容にショックを受けていた。

「主を否定するなんてひどい……。何て罪深い考え方。
 イスラエルに住んでる過激派の人達と同じじゃない」

「あまり大きな声で言うのはおやめなさい。
 あの男に聞かれてしまうわ」

私達は書庫の奥にいたから、
出入口の前にいるユダヤ教徒の男には聞こえなかったと思う。
ミウはこういう時に声が大きくなる癖があるから、
一応くぎを刺したの。

コツコツコツ

能面の男の足音が、怖いくらいに響いた。

「お嬢様方。目的の本は見つけられましたか?」

彼は一点を見つめていた。
円卓テーブルの上に乗せられたタムルードの本だ。

「素晴らしい蔵書の数ではあるけど、
 残念ながらピンとくるものはなかったわ」

「それは残念なことです。
 マリン様達がお探しの本を教えていただければ、
 お力になれるとは思うのですが」

それは言いにくかった。もちろん悪魔祓いの本を
探していることはおじいさまにも内緒。
おじいさまは太盛パパを隔離したがっているのだから当然。

悪魔と一言で言っても、宗教観により解釈は異なる。
ユダヤ教の過激派の人に相談するのはかなり気まずい。

私はカトリックでミウは英国国教会だから
キリスト教徒でも宗派が違うのだけどね。

特にミウは外見が日本人、中身が外人なのが
うちの屋敷でのプロフィールになっている。
能面の男も全然日本人らしさがない。

ちなみに外国人との会話でタブーとされているのは、
戦争、宗教、人種の三つ。これは海外に行く時の基本よ。

「About the devil , satan or something like that」

ミウが英語で答えちゃったわ。
なんで緊張すると英語が出るのかしら。
言った後にしまったと口をふさいでるけど遅いわよ。

「ほほう。なぜ悪魔に興味があるのですか?
 悪魔祓いの本を何冊か取り出しているようですが」

もう隠しても仕方ない。私は本当のことを話した。
能面は興味深そうに耳を傾けてくれた。
すごく複雑で長い内容だったけど。
私の説明がうまかったのか、すんなりと内容を理解してくれた。

「その手のお話でしたらもっと早く相談していただければ
 よかったものを。お嬢様方は『ジン』をご存知ですか?」

私とミウは顔を見合わせて、首を横に振った。

「長くなりますのでお席に座ってお聞きください」

ここからの話は本当に長かった。

結論から言うと、お父様を苦しめているのは、
キリスト教の悪魔とは少し違うかもしれないとのこと。
お父様は帰国した時にすでに憑りつかれていた可能性が高い。

私達が旅したのはモンゴル中部の大平原から西部の砂漠にかけて。
蒙古帝国ではかつてイスラム教を国教としていた。

イスラム圏では、古くから「ジン(精霊)」の存在が信じられて来た。
これはイスラム教が生まれる前から、アラブ圏で信じられて来た。

ジンには人々に災厄をもたらす恐ろしい悪霊もいたし、
逆に人間の味方の善霊もいた。
また、善と悪の両方の性質を持ったものもいた。

こうした存在は、そのままイスラム教にも取り込まれた。
「クルアーン」(コーラン)にも、多くのジンに関する記述があり、
ジンの存在はイスラム教の正式な
教義からも認められたと言っても良いであろう。

「我々は等しく経典の民。イスラム教徒も同様です。
 いずれの宗教も世界の歴史が聖書の天地創造から始まっている」

旧約聖書(ユダヤ)の続きがキリスト教の新約聖書。
西洋文明社会はイエスが生まれた年度を西暦元年とした。
言うまでもなく日本でも西暦が使われているわね。

さらに7世後に続きの物語が生まれた。
それが、ムハンマドが神の言葉を授かったイスラム教。

アッラー(神)は、まず火から天使を創造した。
(その2000年後)さらに土からアダムを創造した。
神は全ての天使にアダムに仕えることを命じた。

しかし、イブリースという高慢な天使がそれを拒否した。

『火から作られた優れた私が、
なぜ土から作られた人間ごときに仕えなければならないのか?』

そのため、イブリースは神の怒りに触れ、呪われた。
イブリースは審判の日まで、人間を誘惑し悪の道に
進ませることを主張した。神は、これを許した。

真の信仰心を持つ者は悪魔に誘惑されても悪の道に進むことはない。
しかし、そうでない者は。審判の日にイブリースともども
ゲヘナ(地獄)に堕ちるであろう、と。

かくして、このイブリースが、邪悪なジン、
悪魔であるシャイターンの頭目になったという。
言って見れば、このイブリースこそが
イスラムにおけるルシファーである。

彼等は知性、体力ともに人間より勝り、不思議な魔力を有しているという。
そして、普段は目には見えないが、時おり様々な姿で出現することもある。

「千一夜物語」(アラビアンナイト)には、
こうしたジンが夥しく登場する。

【彼等は人間にも憑依する。邪悪なジンに憑依されると、
 恐ろしい悪霊憑きとなるが、善良なジンに憑依されると、
 芸術家や善良な魔術師、時には聖者にもなるとされた】

すなわち、邪悪なジンの力を借りて行う魔術が黒魔術であり、
善良なジンの力を借りて行うのが善良な魔術である。

ちなみに、ソロモン王が魔術を使って悪魔を従わせたという伝承は、
イスラムの魔術にも受け継がれ、しばしばソロモン王の名前が
ジンを従わせる力があると考えられた。

 あるいは、邪悪なジンから身を守るための魔よけにも使われた。

「中学の時にソロモンの護符の待ち受けが
 女子の間で流行ったことがあったの。
 恋愛運と金運が上がるって有名で」

「ミウ様は護符をご存知でしたか」

「私は怖くてダウンロードできなかったけどね。
 本気で魔の力が存在する気がしてさ」

「ネットに出回っているのは偽物ですのでご安心を。
 本物の黒魔術とは高度な訓練が必要ですから。
 素人が下手に手を出すのは無意味に等しい。
 フランス料理のレシピを素人が作るようなものです」

この男は宗教学者みたいにくわしいけど、
いったいどこまで知っているんだろう。
私は気になったので質問した。

「あなたは黒魔術をやったことがあるの?
 まるで経験者のような言い方をするわね」

「さあ、どうだったでしょうな。忘れてしまいました」

とぼけないでよ。

「エリカ様が堀家を去ったのも、
 真相に気づいていたからなのかもしれません。
 彼女もクリスチャンでありますから。
 ご党首様も同じ結論に至っているようです」

「お願いだからうちに来てパパの様子を見てよ。
 悪魔に詳しいあなたなら対処法が分かると思う」

「残念ですが、様子を見に行くのは不可能ですな。
 静観するようにとご党首様の命令ですから。
 私は使用人ですから、主人の命に従うのみです」

困ったな。こいつに頼まないと本当に悪魔祓いの
専門家を呼ぶことになっちゃう。

「お願い。太盛様がずっと働けない
 状態だったらお嬢様たちも困っちゃうよ」

「私とて心を痛めてはおります。
 知恵でよければお貸しいたしましょう」

私とミウは、悪魔や黒魔術の仕組みを教えてもらうことになった。
それによって悪魔が出現するタイミングや
対処する方法を学ぶことができた。
悪魔の行動を抑えるための護符の作り方もあるそうよ。

私はいっそエクソシストの依頼をしようかと思ったけど、
大事にする前に知識をつけるべきだと能面は言った。
悪魔祓いを失敗すれば太盛は高確率で死ぬことになる。

「専門的なことですから、
 一日二日で覚えられるものではありません。
 また日を改めて私に会いに来てください。
 ご党首様には内密にしておくのご安心を」

その日から私とミウは、党首様の館へ
定期的に通うようになった。
能面と会う場所はもちろんこの大書庫。

おじいさまは休日であっても会社の会議、
パーティ、総会などに出席することが多く、
常に屋敷を空けている。
私達のいる屋敷の一角まで足を運ぶことはまずない。

当時の私は13歳。早生まれなので中学二年。
ミウは八つ年上で21だった。
おじいさまの家は新宿区の一等地にある。
ミウと肩を並べてJRの電車に揺られるのも慣れた。

私達の本家通いは、双子の姉さん達には秘密にしてある。
姉さん達は難しい年ごろということもあって、
家庭のことより学校の部活や友達関係に
頭を悩ましている時期だった。

私はもともとミウと接点はあまりなかったけど、
お父様を救うためという共通の目的が
あることもあり、話す機会が増えた。

並んで吊革につかまりながら、
窓の外のビル群をただ眺めていた。
車内はしつこいくらいに
広告が釣り下がっていてうざい。

「ミウが一緒に来てくれて心強いけど、
 仕事の方は大丈夫?」

「サキさんがなんでもやってくれているので
 助かってますよ。私は買い出しの名目で
 出かけてますけど、特に怪しまれることもないですし」

ユーリを失った後、堀家は代わりのメイドを雇った。
サキさんは40代後半の女性。昔から使用人として
働いていた経験があるらしく、ユーリ以上に
無駄なく仕事をこなす人だった。

中の掃除だけでなく庭仕事も難なくこなす万能選手だった。
おかげで外担当のミウの負担が減った。

私とミウは月二回の頻度で党首様のお屋敷にお邪魔していた。
行くのはだいたい土曜日ね。日曜はピアノのレッスンが
入っているから。昔はユーリが自宅で教えてくれたのだけど。

「本日も暑い中、足を運んで頂いてありがとうございます。
 まずはお茶でもいかがですか?」

能面は、表面上はどこまでも紳士だった。
おじいさまに頼られているだけあって、一流企業の
接待並みの待遇をしてくれる。

私達のために、わざわざ書庫にお茶用のテーブルとイスまで
用意してくれてた。頼めばどんな飲み物でも持って来てくれる。

アイスコーヒー、ココア、ジンジャエール、コカ・コーラ。
成人しているミウにはウイスキーやワインまで用意したことまであった。

この時は6月の梅雨の時期だった。
雨が続いて湿気がこもり、不愉快さが増す。
書庫内はエアコンで除湿されて、
寒すぎずに快適な温度を保ってくれていた

ストローに品よく口を付けていたミウが、ふと言った。

「能面さんのこと、私達は一度も名前で呼んだことない」

「そういえばそうね」 

確かにね。ミウが訊かなかったら私が先に訊いていたわ

「能面さんの名前は何て言うの?
 あと仮面の下の顔も見たことないけど」

きっと仮面の下は困った顔をしていたんだと思う。
裏表のないミウの問いに対し、少し間を置いてから彼は答えた。

「ご党首様からみだりに顔を明かすなと言われておりますので」

「私達は身内同士みたいなものじゃない。
 ご党首様にばれるわけでもないんだから、
 誰にも言わないから教えてよ」

ミウ。その調子よ。

「ふむ。どうしようかな」

身を乗り出して質問するミウに、ちょっと迷っている風だった。
常に冷静な彼にしてはめずらしく人間らしい態度だった。

「まあ綺麗な女性にさらすのなら悪くはないか」

その言葉に私は反応した。綺麗って……。
なぜか彼に言われるとドキッとしてしまう。
もちろんミウのことを言ったのは分かっているけど

二十歳を過ぎてからのミウの美しさは本当に憧れる。
女優のようにカールさせたセミロングヘアー。
小顔で顔のパーツが全て整っていて、人形みたい。

使用人じゃなくて芸能界に進むべきだったと思うわ。
小柄だけど痩せているし、女優に向いていそう。

もったいぶった動作で彼が仮面を外し、テーブルに置いた。
本当におもちゃの仮面って感じで全然すごみがない。
すごいのは彼の整った顔立ちだった。

「20代の人だったの?」

ミウが驚いている。確かに彼の顔立ちは若い。
太盛お父様より少しだけ年上だったと聞いていたけど、
お父様よりずっと若く見える。

「いえいえ。年は35を過ぎていますよ。
 あまり老けない顔立ちだと人からは言われておりまして」

「へー。そうなんだ」

ミウは、はっきりと彼の顔に見とれていた。
声も良い。高くてよく通る。

テレビのアイドルがそのまま年を重ねたかのような美形。
長いまつ毛の下に知性を秘めた瞳が覗く。
輪郭も整っていて、西洋白人のスターみたい。

こんなカッコいい人だったなんて、良い意味でショック。
声自体も若いし、動作にもぜんぜんオジサン臭さがない。

言っちゃ悪いけど、廃人になって
老け込んだお父様とは対照的だった。

「私の苗字はハタノ(秦野)といいます」

「下の名前は?」とミウ。

「エリヤです。少し古風ですが」

メモ用紙に漢字を書いてくれた。
私はすぐに感づいたので質問した。

「聖書に登場する預言者の名前よね?」

「さすがはマリン様。よくご存じで。私の家系では代々
 生まれる子に預言者の名前を付けているのです」

エリヤさんか。日本のクリスチャンには
普通に存在する名前なのよね。

「あの、これもずっと気になっていたんですけど」

ミウの好奇心はたまにすごい。

「エリヤさんは…」

「エリヤで結構です。あるいはハタノでも」

「じゃあ、エリヤはユダヤ教徒で、わりと…
キリスト教徒が気に入らない系の人なんでしょ? 
私達とこうして一緒にいるのが嫌じゃないのかって」

よくそこまではっきりと訊けるものだわ。

「そのようなことを気にするとは。
 私はおふたりと一緒にいて楽しいですよ。
 嫌だと思ったことは一度もありませんが」

彼はニコニコと笑っていた。私達の前でも
平気で足を組むようになった。長身の彼が
すると下品にならず、よく似合っている。

「もっと聞きたいことがあるんだけど……いいのかな」

「なんでもどうぞ? 僕は素直なお嬢さんは嫌いではないよ」

ミウに対して敬語を使わなくなってきた。
親しみを覚えてくれているのね。

「ご党首様は敬虔なクリスチャンなのに、あなたは
 どうして雇われたのかな? その、言い方が悪いけど
ご党首様にとって異教徒じゃない?」

「ああ、そんなことですか」

彼のほほえみ。始めて見たけど素敵だった。

「一番の理由は縁故ですな。私のひいおじいさんの代から
 ご党首様の家系と縁がありまして。それはもう古い
 関係になりますよ。まだこの日本が明治維新を迎える、
 そのさらに前の時代にさかのぼりますね」

ちょっと難しくてよく分からない話だったけど、
彼の家が持っていた不思議な力が、おじいさまの
事業の成功を手助けしたとのこと。

社会で成功するには何が必要か。
能力、環境、人脈、時代の流れ。
様々な要素はあるけど、何よりも大切なのが運。
この運をうまく引き寄せたのがおじいさまだと言う。

かのナポレオン将軍も自らが運の良い男だから
皇帝の座に上り詰めたと語っていた。

そんな話、全然知らなかった。
太盛お父様からも聞いたことがない。

「堀家もかつてはユダヤ教徒だったのですが、
 半世紀ほど前にカトリックに改宗されました」

「え。そうだったの? 初めて聞いたわ」

「やはりご党首様はお孫さんのマリン様にも
 伝えていませんでしたか。ところでお二方は
 ユダヤにあまり親しみがないようですな」

「えっと…」

遠回しに私達がタムルードを読んでいた時の
事を蒸し返しているのかな。
そんなこと聞かれたら気まずいよ。

「私はクリスチャンを否定しませんよ。もちろん
 殺意も持っていません。この国は憲法が信仰の自由を
 認めていますから、何を信じようと各人の自由」

そうだったのね!! 安心した。
一番心配していたのはそれなのよ。

「そもそも本当にタムルードの教え通りに生きていたら、
 本家の使用人を職場に選びません。可愛いお嬢様方と
 こうしてお茶できる時間が私にとっては何よりも貴重なのです」

か、可愛いって言ってくれた……。
ミウも顔が真っ赤になってる。

仮面を外してからの彼は本当に素敵な人。
私とミウより10も年が離れているんだろうけど、
こんな男性めったに出会えない。

エリヤの不思議な魅力の正体はいったい何?

その日から、私は彼のことばかり考えるようになった。
お父様のことも心配だったけど、
中学生の私に彼は魅力的すぎた。
もともと年上の男性が好みだったこともあるけど。

ミウも彼に夢中になっている。
電車の中、二人で彼の話をするのが楽しみだった。

私達には不思議な共通点があって、
どちらも学校の男子には全然興味がなかった。
ミウは女子にいじめられてそれどころじゃなかった。
私は、周りの生徒全員が幼稚に見えたから初めから論外。

恋をするなら洗練された大人の男性に限るわ!!

「もう。ミウったらファッション雑誌ばっかり
読んで、全然魔術の研究をしないじゃない。
しかも家から持ち込んだものでしょ、それ」

「お嬢様こそさっきから手鏡で前髪ばかり
 気にしているじゃないですか。
 ぶっちゃけ私、研究より彼に会うほうが
 楽しくなってるんですよねー」

「ふふ。それは私も同じなのだけどね」

最近あなたと妙に気が合うわね。
主人と使用人の関係を超えて友達になれそう。

それにしても……。
本末転倒とはまさにこれのことね。
私達は考えられる限りの
オシャレをしてから本家に顔を出すようになった。

ミウが化粧を変え、私が髪型を変えると彼は、

「今日も綺麗だ。すごく似合っているよ」

さらっと褒めてくれる。
真剣な顔で言ってくれるから嘘っぽくない

うれしい。でもその言葉を、いつしか
私にだけ言って欲しいと思うようになった。

夏休みになり、彼とお出かけしたくて誘ったことがあった。
でも彼は丁寧に断ってしまうの。いつもそうよ。
私が子供だから相手にされないのかと落胆した。

年上で超美人のミウが誘っても同じ結果だった。
ミウでもダメなのね。まさか女に興味がない? 
その容姿でまだ独身なのも不思議でしょうがない。

「25歳の時に結婚を約束した女性がいたのですが、
 事故で失いました。それ以来、
 恋愛とは無縁の人生を送っております」 

そんな悲しい過去があったのね。どんな事故だったかは
さすがに聞けないわ。彼がこんなに悲しそうな顔を
するのを見たことがないもの。

「野に咲く花のように可憐で、素直で明るい人でした」

ミウをじっと見つめてから、こう続けた。

「君によく似ていたよ」

ミウは目を大きく開けて驚いていた。
彼の瞳はミウでなく過去の女性を映していたのだろうけど、
ミウは意味もなく喜んでいるようだった。

「わ、私でよければ代わりになれませんか?」

「ありがとうね。気持ちだけ、頂いておくよ」

すぱっと女の気持ちを振ってしまうのも彼らしい。
彼の振り方はナイフのように鋭いとミウは称していた。
彼は好きにさせるだけさせておいて、褒美は与えない。

おかげでミウに嫉妬せずにすんだ。

それより気に入らないことがあったの。
彼がミウにだけ素で話すこと。
私には敬語。そういう配慮はいらないのに。

「主人と使用人の関係ですから、
 敬語は当然でございます」

デジャブ。蒙古時代のユーリと全く同じことを言っている。

ミウは本気で彼に恋していたから、彼に気に入られようと
努力を続けた。美人なのになぜか恋愛経験がなかったこともあり、
時に滑稽(こっけい)でもあった。

「あの、高いところにある本が取れないんですよ」

「いいですよ。はい」

彼は長身だから背伸びすれば本棚の高い場所へ届く。
もっともミウが用意されている踏み台を
使えばいいのだけどね。

「今日はクッキーを焼いてきたの。
 出来は悪いけど、よかったらどうですか……?」

「君が作ってくれたものなら、
 ありがたくいただくよ」

こんなにミウに好かれても彼の笑顔の裏は硬い。
普通の神経をした男だったら、ミウほどの美人に
尽くされたらコロッと落ちると思うけど。

さすがの鉄仮面の彼も、一途なミウに対して
思うことがあったのか、デートの約束をしてくれた。
私は悔しくて仕方なかったけど、母のような
嫉妬深い女にはなりたくないから我慢。

使用人の暇な時間はだいたい平日に取れることが多い。
ミウは彼と平日のデートを繰り返すようになった。

ミウはさらに綺麗になった。
私は自分でも可愛い自覚のある方だけど、
ミウにだけは絶対勝てないと思い知らされた。

デートのために服を選ぶ彼女の生き生きとした顔。
20代の艶っぽい肌。
神から与えられた、愛らしく美しい目鼻立ち。
同性でも見とれる美しさとはこのことか。

私は子供なのが悔しかった。
せめて私も高校生だったら彼に女として
意識してもらえたかもしれないのに。

私がどれだけオシャレしようと頑張っても
中学生では限界がある。せいぜいドラマの子役レベル。
お父様がかつて愛人として選んだユーリの
美貌すらミウは超越してしまった。

それから時が過ぎ、夏が終わり、秋の初めになった。
残暑は消え去り、朝夕だけでなく日中も冷たい風が吹く頃。

ミウの恋はついに終わってしまった。

「初めから無理な恋だって分かってはいましたよ。
 でも女は一度くらい夢を見てみたいじゃないですか」

デート中の彼のエスコートは完璧だった。

怖いくらいに女性の求めるものを知り尽くしていて、
雰囲気のあるレストラン、夜景のスポット、
有名な管弦楽団のコンサートホールなど、
日によって行き先を変え、ミウを飽きさせることがなかった。

なんとなく私もそんな気はしていたのだけど、
彼はミウを愛してはいなかった。

ミウの方は望んでいたけど、大人の関係には発展しなかったし、
手慣れたホストのようにミウをもてなすことに終始していた。

ミウの真剣さとは裏腹に彼の心は凍てついていた。
もちろん結婚の話ができる感じではなかったらしい。

「恨まないでくれよ。魅力的な君には
 必ず素敵な男性が見つかるだろう。
 どうか僕以外の男性を見つけてくれ」

付き合い始めてちょうど三ヵ月のところで、
彼から別れ話をされてしまったのだ。
年頃のミウが結婚を意識するのを許さなかったのだ。

エリヤは党首様と同等かそれ以上に信仰心が強い。
きっと彼は信仰ゆえに異教徒のミウを避けたのだ。
ミウはいっそ自分が改宗しようかとさえ
思ったそうだけど、実家の両親に猛反対されてしまった。

ミウは三か月間の夢を見せられただけ。
終わってみれば、たったそれだけだった。
残酷だったとは思う。

「悲しかったですけど、
 すぐ忘れられますから、ダイジョブです」

傷心中のミウにかけてあげる言葉が見つからない。
仕事中に涙は見せなかったけど、
きっと一人の時は泣いていたのだろう。

私はその後も一人で本家通いを続け、悪魔の研究を続けた。
エリヤは親切に手ほどきをしてくれた。


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