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作品名:失われた時間は二度と戻らない 作者:なおちー

第5回   〜悪霊・ジン〜
〜三人称〜

「夜なんだから服は意識しなくていいよ。
 さっさと出発するぞ」

兄は妹がおしゃれするのを嫌った。
服を選びに行く時は、できるだけ地味なデザインの
服を勧めるようにしていた。以前おばさんが着るような
色の服を選ばれた時は、さすがのミホも怒った。

「今日はどこに食べに行くの?」

「マック」

定員が若い男性だったので、ケイスケがミホを制して
自分でレジへ行った。二人分のセットを注文して
席に着くと、ミホが声を出さずに泣き始めた。

「おい」

「だって……こういうの、もう耐えられないの」

「俺がおかしいって言いたいのか」

「昔はすっごく優しくて、かっこよくて。
 友達にも自慢できるお兄ちゃんだった」

「店先で泣くなよ。みんなに見られるだろうが」

テーブルの下でケイスケに足を踏まれるが、
ミホはさらに続けた。

「私はお兄ちゃんの奴隷でもないし、家政婦でもない。
 お母さんが出て行ってから家事やるの大変なんだよ?
 今は夏休みだからいいけど、
 私の苦労がお兄ちゃんに分かる?」

「おまえはこれからも俺と一緒に暮らすんだから、
 今のうちに家事は覚えておいたほうが良い」

「少しくらい料理とか手伝ってよ。
 お兄ちゃんはテレビ見てるだけで
 野菜すら切ってくれないじゃない」

ケイスケは答えず、マックシェイクを飲んでいる。
都合の悪いことは答えないのが彼の性格なのだ。
もっともミホの言うように、
もともとこんな性格ではなかったのだが。

「私、あとでフゥ君のお見舞いに行くから」

「あ?」

「だってお兄ちゃんが原因で入院してるんだよ?
 当事者の私達が一度もお見舞いに行かないなんて
 おかしいでしょ。またクラスで噂になっちゃうよ」

「世間の評判なんか気にするなよ。
 世の中はクソばっかりだ」

「クソはお兄ちゃんの方でしょ!!
 私は何て言われようと絶対にお見舞いに行くから!!」

「おい。俺に逆らうつもりか」

またあの目つきになった。
ミホはひるみそうになったが、勇気を出して続けた。

「ぶつなら気が済むまでぶっていいよ。
 お兄ちゃんは弱いから。そうすることでしか
 自分を抑えられないんでしょ?
 お兄ちゃんは最低だよ。弱虫」

「……ちょっとこっちに来い」

まだ食事の途中だったが、ケイスケはミホを連れて店を出た。
人気のない路地裏に行くと、まずミホの顔を強くひっぱたいた。

「生意気なこと言ってんじゃねえよ。
 妹のくせに、お前は何様のつもりだ」

また、平手が飛んでくる。
ミホは恐怖で抵抗できず、
ぶたれるたびに右へ左へと顔を振る。

ケイスケのひざがミホのお腹にめり込むと、
ミホがせき込みながら体を丸くするのだった。

ミホのせきが止まるまで待ってから、ケイスケは
涙ぐんだミホの顔を愛おしそうに見つめ、こう言った。

「ここなら誰もいないし、犯しちまうか。
 中学卒業するまで待ってやろうと思っていたけどな」

嘘だと信じたかった。
だが兄は本気で妹を性の対象として意識していた。

ミホは路地から出て助けを呼ぼうかと思ったが、
すでにケイスケに左の手首を握らてしまった。
力で勝てない相手にミホが抗う術はないかと思われた。

ケイスケが強引にキスをし、苦しむミホの
短いスカートに手を伸ばしたところで、
急に動きが止まった。

(そこにいるのは誰?)

ケイスケから死角に当たる場所に、
見知らぬ人物が立っていた。背がすらりと高く、
髪型や体型からして女性のようだった。
路地裏の薄暗さでシルエットしか確認できない。

「あ……れ……?」

ケイスケは、右手の手首から先がなくなったことに気が付いた。
さっきまで自分の右手だったものは、地面に転がっている。

ぼたぼたと、腕から血がこぼれる。

女性の右手には鋭利な刃物が握られている。
路地に差し込む薄明りのもと、
コンバットナイフの先が赤く染まっているのをミホは見た。

大声で叫ぶケイスケと対照的にミホは静かだった。

あまりの事態の急変にミホはついていけなかった。
ケイスケは腕を失ったショックで地面にうずくまり、
発狂を続けている。

ミホは、女の人になんとなしに話しかけた。

「兄を……殺すのですか?」

女は答えなかったが、少しだけ笑みを浮かべたようだった。

ミホに少し近づいたので顔が見えるようになった。
ショートカット。毛先だけくせがついている。
おでこを出していて目鼻立ちは整っていた。

「あなたはどうしたい?」

「私は、兄に死んでほしくないです」

ミホは、目の前の女から感じるプレッシャーに震えた。
明らかに普通の人間ではない。
兄の荒れモードなど比較にならぬほどの
威圧感だった。女を怒らせたら
今すぐ刺し殺されると直感するほどに。

「Iya-ka-nasuta-in」

女は小声で呪文のような言葉を口にすると、
ケイスケの体に異変が起きた。

「うぅぅぅうぅぅぅうぅぅ、うあああぁぁあぁあああ、
 うあああぁあぁぁぁああぁぁぁぁぁ。あああぁぁぁぁぁあああ」

この世のものとは思えぬほど低いうめき声である。
地面の上で手足をあらぬ方向に曲げ、不規則な動きを
続けていた。痛みのため苦しんでいるようだが、
それでも構わず不可解な動きを続けていた。

ゴキッとにぶい音がして、右の足が折れた。
足は90度おかしな方向に曲がっている。

首を天に向かって何度も伸ばし、背筋のような
動きを続けてなおもうめき続けた。

「うぐうぅぅぅうぅぅぅぅぅぅぉおおおおぉぉぉぉお」

限界まで体を振るわせた後、ついに息の根が止まった。
死後硬直の始まったケイスケの遺体を、
ミホは無表情で見つめていた。

兄は死んだのだ。
どうやって死んだのか。
人としての死に方ではなかったのは確かだ。。

小さい頃からの兄との思い出が走馬灯として
脳内を駆け巡り、大粒の涙がこぼれ落ちた。
ひざをつき、顔を両手で覆い、声を上げて泣いた。

「ふっ」

女はまた笑い声をあげ、宙に向かって指で
文字を書き始めた。ミホの知らない文字だった。

女が呪文を唱えると、ケイスケの周囲に
白い煙がもくもくと立ち込める。ケイスケの頭と
足の二か所から発生した煙は、瞬く間に周囲を覆い、
30秒もするとすぐに消え去った。

煙は、ケイスケの体を完璧にこの世から消してしまった。

「ひっ。や、やめて」

女が、恐怖で発狂寸前となっているミホの髪にそっと
なでると、ミホは耐え切れず失禁した。
次は自分が殺される番だと確信したが、
意外なことに女にそのつもりはなかった。

「あなたは家に帰ればいい」

ミホの意識はそこまで途切れ、次に目が覚めた時は
自宅のベッドの上だった。衣服はその時のままだった。
すぐに父の携帯に連絡し、事情を説明するのだった。

行方不明になったケイスケの捜索は
一ヵ月続けられたが、
ついに死体が見つかることはなかった。



〜フゥの視点〜

ここは病院の個室。分かってはいたけど、
本村さんが僕のお見舞いに来てくれることはなかった。

お見舞いとはいえ、僕とミホさんが会うのを
狂った兄貴が認めるわけがないからね。
奴の妹に対する異常な執着はいったいなんなんだ?
いきなり後ろから襲い掛かってくるなんて。
さすがの僕でも奴に殺意がわくよ。

検査は無事終わっているのですぐに退院できる。

この病院でのつまらない生活ともおさらばだ。

「フゥ君。朝の検温の時間よ」

朝一番に僕の部屋にやってくるのは堀レイナさん。
略してレナさんと呼ばれることが多い。

話を聞いてみたらなんとリンさんの双子の姉だと言う。
どおりで顔が似ているわけだ
姉妹そろって名前を略されているのが共通点。

僕のことは気に入ってくれたみたいで、
よく話しかけてくれる。
僕の読みかけの小説が目についたようだ

「フゥ君は本当に小説が好きなのね。
 同じ本を読んでいて飽きないの?」

「読むたびに新しい発見がありますからね。
 映画と同じ。少し間を置いてから見ると
 別の視点から見えたりするでしょ」

「うふふ。カリンと言っていることが全く同じ。
 なるほど。あいつに気に入られるわけだわ」

カリンさんの話をする時、レナさんはうれしそうだ。
双子姉妹は、子供時代は喧嘩ばかりだったそうだけど、
社会人になる頃から大の仲良しになったとのこと。

逆に妹のマリンさんは変わり者で苦手だったと教えられた。
そこまで言われると逆に気になっちゃうんだよね。
それにしてもこの人達は美人ばかりなのに
全員独身なのが信じられないよ。

消灯時間になり、部屋の明かりが消された。
僕は全く眠くない。

それでも無理して目を閉じると、
色々なことが思い浮かぶ。

今までお見舞いに来てくれたのは、学校の友達や先生、
家族。あとはリンさんか。リンさんは仕事が忙しいので
休みの日に来てくれた。

あのキチガイ兄貴……ほんとに死んでくれよ。
僕はあの日。本村さんの顔の傷を
見た時に一瞬で事情を察した。DVだと。
というか、前からそんな感じがした。

終業式の日に彼女が夏休みを喜んでなさそうなのが
なんとなく引っかかったし、兄が学校に
迎えに来る日にどこか脅えている気がした。

僕は事件に関することに敏感だ。
探偵でもないのに事件の匂いが分かる。

僕はふとトイレに行きたくなったので、
ベッドから起き上がった。
そして扉が開かないことに気づいた。

あれ? 外側からロックされているわけないよな?
病院側が患者を閉じ込めるわけがないし。

「うわっ」

僕は引き戸から手を放した。

扉にでっかい落書きがしてある。
大きな円の中に、模様が描かれている。
僕はこういうのに詳しくないけど、
アラベスクなのか?

後で怒られるのを承知の上で室内の照明をオンにする。
……どう見ても魔法陣だよな?
模様と一緒に黒字でアラビア文字?が描かれている。
扉が白だから、綺麗にコントラストになっている。

嘘だろ。いったい誰が何のためにこんなものを描いたんだ。
僕はもちろん違う。看護師さん達が書く理由もない。
そもそもこんなものを描く知識のある人がいるだろうか。

僕はすぐにナースコールを押すためにベッドに行こうとしたが

「うわあぁぁぁああああ!!」

窓際に見知らぬ女が立っていた。

こ、この女……あの時コンビニで見た女と全く同じ人物だ。
ババババ、バカな。この女は逮捕されたはずだ。

なぜなら『この女が例の殺人犯だった』ことが
顔写真から分かったからだ。
女は今ごろ刑務所で精神鑑定を受けているはずだ。

そいつが、なぜ僕の病室にいるんだ!!
まさか脱獄したのか!? バカな。そんなバカな……アリエナイ。

僕は恐怖のあまり気が違ってしまい、なんとしても
この部屋から出るために、扉に全力でタックルして
廊下へ出ようとした。
急いで扉の方を振り返ると、さらに絶望した。

女が、もう一人立っていた。

そうとしか表現できない。

扉側に女が一人いる。そして、反対の窓際にもいる。

つまり、どう解釈すればいい? 
リンさんたちのように双子だったのか?

では警察に捕まっているのは姉か妹なのか?
そんなバカげた発想はすぐにかき消される。

なぜなら。女達は全く同じ存在だ。
顔の形も服装にも違いがない。

「んふふふふふ」
「んふふふふふふふ」
「んふふふふふふふふふ」

男性としか思えない低い声が二重奏。
三重奏と重なり、さらに恐怖をあおる。
僕は怖さに耐え切れず、奥歯がガチガチと音を鳴らし始めた。

なんだこれ。明らかに天井や壁からも女の笑い声が聞こえてくる。
こんな怪奇現象を味わったのは生まれて初めてだ。
小説でもなく映画でもなく、現実でこんなことが。

足元に何か違和感があると思ったら、
なんと床にも魔法陣が描かれている。

「ひひひひひひ。ひひひひひひひひひひひひ」

だ、だめだ……。僕の人生はここで終わりだ。
理由は分からないけど、僕はここで殺されるんだ。
いっそ楽な方法で殺してほしい。
妙に冷静な頭でそう考えていると、視界が
ぐるりと一回転し、気が付いたら寝ていたらしい。

翌朝六時に、別の看護師さんが検温にやってくる。

僕は取り乱し、すぐにこの病院から出してくれと主張した。
主治医の他、医師たちが集まり、半狂乱になった僕を
落ち着かせようと必死になった。

僕は必死で魔法陣や女の話をしたのだが、
誰も信じてくれず、精神科の方の先生の世話に
なる羽目になってしまった。僕だってあれが嘘だったらと
思うけど、あの光景が未だに脳裏に焼き付いて離れない。

あれは間違いなく現実だったんだよ。
くそ。心を落ち着かせるための注射まで打たれてしまい、
またベッドで眠りについた。

あれから女の姿を見ることはなく、数日が経過した。
本当ならとっくに退院できているはずなのに
僕は様子見として入院期間が延びてしまった。

「初めまして。私はマリンと申しますわ。
 堀カリンの妹です」

芸能人が入って来たのかと思った。
この超絶美人が堀マリンさん。
超童顔なのでむしろ美少女?

「姉から話は伺っております。姉は仕事が繁忙で
 時間が取れませんので、私が代理として来た次第です」

この話し方だけで、知性の高さが伝わる。
ピンクの夏物カーディガンに、フリフリのロングスカート。
清楚な髪型によく似合っている。

両手を膝の上に添え、背筋を伸ばして
イスに座るその姿から育ちの良さを感じさせた。

「ソネさんは」

「あの。僕のことはフゥと呼んでください。
 その代わり、僕もマリンさんとお呼びしてもいいですか?」

マリンさんは一瞬だけ固まったが、すぐに微笑んでくれた。

「失礼だとは思ったけど、あなたがカリン姉さまに送った
 長文メールに目を通させてもらったわ。かなり詳細に
 怪奇現象のことが書かれていたわ。

報告分みたいに立派な文章だったわ。文才があるのね。
それで、魔法陣なのだけど、どんな形だったか覚えている?」

どうやら僕の話を信じてくれているようだ。
首から駆けている小ぶりなロザリオからして、
本物のキリスト教徒なのだろう。

だから普通の日本人と違って目に見えないモノの
存在を信じてくれるんだ。

「だいたいですけど、こんな感じですね」

魔法陣の中は文字、記号、図形らしきものが描かれていた。
僕は記憶力に自信があるので覚えている限りのことを
描いてみた。あいにく絵の才能はないから下手なんだけど。

マリンさんはスマホで検索した後、
バッグの中の書物を取り出して調べてくれた。

数分間、無言の時が流れた。

マリンさんは本から顔を上げ、
真剣な顔で問いかけた。

「女の顔は、みんな同じ? 声も同じだった?」

「はい。全く同じです。まるで分裂したかのように」

マリンさんは、つばを飲み込んだ。
そして意を決した顔で僕にこう言った。

「悪魔。もしくは悪霊かも」

え……?

「悪魔祓いの話は映画とかで聞いたことはあるでしょ?
 悪魔は魂だけの存在だから人に憑りついて悪事を働く。
 あなたが見たのは悪魔に憑りつかれた
 人間だったのかもしれない」

マリンさんの言うことをまとめると、
魔法陣は黒魔術で悪魔召喚に使われるもの。

彼女が直接見たわけではないので
確かなことは言えないが、
ソロモン72柱の悪魔召喚の儀式に
使われたものに類似している。

ソロモン王は旧約聖書に登場する人物。
イスラエルの最盛期を築いた王。
地位や名声よりも知恵を求めたことにより
神に心から祝福された。

ソロモン王が魔術を用いて天使と悪魔を
従わせたという伝承は西洋のみならず、
イスラムの魔術にも伝わっている。

「その魔法陣は誰が描いたんですか?
 まさか悪魔が自分で自分を呼ぶために描いたんですか?」

「……推測の域を出ないけど、
 一人の悪魔が別の悪魔を呼び出すために
 魔法陣を描いているのかも。悪魔は一人じゃない。
 それぞれ階級も名前も違うし、相当な数がいるらしいから」

神は人を創造する前に、天使と悪魔を作っていたとされている。
彼らはこの世のどこかに存在するが我々の目には見えない。
こちらが無理やり呼び出すか、あるいは向こうから
会いに来る場合もある。

「マリンさん。僕はキリスト教徒ではありませんから、
 儀式のこととか詳しいことは分かりません。
 お願いします。教えてください。僕は死ぬんでしょうか?」

「それは……私には何とも言えないわ」

重苦しい沈黙。僕はいよいよ怖くなり、すすり泣いた。
本村さんの兄貴はどう考えても異常だった。
悪魔に憑りつかれていたのかもしれない。

なぜ僕の周りで怪奇現象ばかり起きるんだ。
理不尽すぎて世界を呪いたくなる。

僕はせめて退院して家に帰りたいと言ったが、
悪魔は家にも現れるから意味はないと教えられた。
むしろ病院関係者に囲まれているここのほうが
身を守るには安全だと。

「まだ気になることがあります。
 僕の知ってる限りでは例の女は脱獄してません。
 今も刑務所にいる。違いますか?」

「そうね。私も脱獄したとは聞いてないわ」

仮に脱走していたらマスコミが報道しないわけがない。
では、やはりあの女は複数存在するとしか考えられない。
この場合は分裂したと表現するのが正しいのか。

「ごめんなさい。家で用事があるから戻らないといけないの。
 この件はあとで姉のレナにも伝えておくわ」

「もう行っちゃうんですか?
 待ってくださいよ。まだ面会時間はたっぷりあります。
 もう少しだけここにいてください」

「許してちょうだい。対策はこちらでも
 考えておくから。私は家に病気の父がいるから
 長居はできないのよ」

マリンさんは、バックの中から聖水と大きな十字架を
取り出して僕に渡した。他の人に見られないように
枕の下に隠しておきなさいと言われた。
僕はその通りにして、震えながら夜を待つことになった。

結局その日もなんともなく、朝を迎えた。
僕はここ最近寝付けないので、朝ごはんの後に
爆睡するようになった。




〜〜〜堀マリンの視点〜〜

フゥ君が悪魔を見てからお父様の具合はすっかり良くなった。
あれからフゥ君の近くで怪奇現象は発生せず。
堀家の周囲も安全そのもの。不思議なくらい平和になった。

今日は一日中曇りだけど雨は降らないそうよ。
私はお父様と一緒に都内の美術展へ足を運んだわ。
お父様はもう車椅子なしで歩ける。

病み上がりだから近所の公園を散歩して
すぐ帰るつもりだったけど、
お父様の強い要望で美術館に行くことにした。

平日の割には混んでいるわね。
あっ、子供たちは夏休みだから当然か。
庭の彫刻広場には外国人のお客が散在。
みなカメラを片手に写真を撮りまくっている。

「あそこにいる人は東アジア系だ。
 蒙古人を思い出さないか?」

「そうですわね。懐かしい思い出ですわ」

お父様は、あれだけ拒んでいた
蒙古時代の話を進んでするようになった。
これがお父様にとっての未来への第一歩。
過去に対する清算。頭の切り替えなの。

それは私も同じこと。
ここまでくるのに本当に長い月日が
かかってしまったけれど。

【聖母子の画家 代表作 大公の聖母 日本初公開】

入り口に大きな見出しがある。
ラファエロの絵画が生で観れるなんて貴重な機会だわ。
私が西洋美術に興味を持ったのはお父様の影響よ。

お父様は一つ一つの絵画の前で足を止め、
真剣に鑑賞していた。
聖人の名や物語のシーンを思い出しているのだろう

キリスト教で聖人を名乗れるのは、異教徒からの
過酷な拷問に耐えながらも最後の瞬間まで
信仰心を捨てなかった者たち。長崎にも聖人として
認められた人がいるわ(長崎二十六聖人)

私は、絵画よりもお父様が途中で具合が
悪くならないか心配だった。夏真っ盛りだから
誰だって体調管理が大変な時期だし、お父様は
以前無理して外出した時に立ち眩みを起こしたことがあった。

「誰かの犠牲がなければ、人は生きていけないんだ」

お父様の声は不思議な響きを持っていた。
近くにいた老夫婦が驚き、
お父様の顔をまじまじと見つめている。

この時代の画家は聖母子に強いこだわりがあり、
同じ主題を何作も描いている。私達はゆっくりと
フロアを一周し、出口に出た。

真夏の空が広がっていた。曇りの予報だったのは嘘で、
青空の下、太陽がさんさんと照り付ける。
私は外出時に折り畳みの傘を持つようにしている。

この美術館の隣は博物館となっている。
今回は恐竜博物館。子供の夏休みの定番だ。

「人が多いですから、足元にお気をつけて」

「うん。ありがとうね」

私は父の寄り添い、離れないようにした。
博物館は地下にある。
地下へのエスカレーターも、館内も混雑していて、
自由に身動きができない。
何で都内はこんなに人口が多いのよ。

私は背が低いのでつま先立ちをして、
ニコンのミラーレス一眼を構えた。
私はこのカメラのデザインが大好きなので
何年も使い続けている。

これの古いモデルをモンゴルで無くしたことがある。
せっかく大自然の写真が撮れたのに。
ミサイルが振ってくる前の虹の写真がお気に入りだった。
思い出は心の中にしまうしかないのね。

「俺を救ってくれたのは君だね。マリン」

お父様は、絵画から目を離さずに言った。

「今さら謝ってどうにかなるものじゃないが、
 蒙古から帰還した俺は正気を失っていた。
 どれだけ家族のみんなに迷惑をかけたことか。
 不思議なことに正確には暴れていた時の記憶がすっかり
 消えてしまっているんだがね」

お父様は一時期ひどい癇癪(かんしゃく)もちになってしまった。
あ世話をする私やミウに罵声を浴びせたり、
ドイツ語とも分からない言語で独り言を口にしたり。
とにかく異常だった。

私が突き飛ばされたのは一度や二度じゃない。
当時のミウは父を恐れて極力関わらないようにしていた。

何人かの精神科の先生に診てもらっても原因は不明。
時間と診察料の無駄だったことが後で明らかになった。

お父様の癇癪はエリカと離婚してから落ち着くようになった。
つまり一年近く続いたのね。ミウは21の時に実家の両親から
縁談の話を持ち掛けられ、退職することになった。寿ね。

最後の日、ミウは姉さまたちと別れを惜しんで泣いていた。
私もさみしいとは思っていたわ。
お父様は、何も感じず、何も話さなかった。

生きているのか死んでいるのかさえ分からなかった。
私達が日常的に話しかけても「ああ」「うん」としか
答えず、会話ができない。重度の精神障害なのかと
疑われても仕方ない状態だった。

後藤はパパが自殺するのを警戒して、
私が常にそばにいたほうがいいと提案してくれた。
私はフルタイムで働いていた事務の仕事を辞めて、
学習塾でアルバイトを始めた。

今でも父が癇癪を起す時はたまにある。
その時は安定剤を飲ませて眠ってもらっている。
でも所詮は対症療法。

どんな医者に診てもらっても、薬を飲んでも
病気自体が治ることはなかった。
私は密かに後藤と話し合い、医学以外の別の
可能性を考えるに至った。

「マリンは能面の男と会っていた時期があるそうだね」

それはお父様が知っているはずのない情報
驚いた私は足が止まってしまった。
館内に老人の団体客が入ってきて、
さらににぎやかになった。おそらく老人ホームの一行か。

車椅子を押して歩く職員さん達の声は明るい。
さすがプロ。いやいや。それどころじゃない。

「俺の中に憑りついていたものが、すっかり消えてしまった。
 俺は病気ではなく、何かに憑りつかれていたんだろう。
そんな気がするんだよ。わりと本気でね」

お父様の声は、雑踏の中で消えてしまう。
老人の集団は、立ったままの私達を避けるように進んでいく。
一時的に人の波が去ったので、空間に余裕が生まれた。
この状態なら話しやすい。

「最初は悪魔を疑ったが、俺はモンゴルから
 帰還した身だから、むしろ『ジン』を疑ったよ。
 マリン。嘘偽りなく正直に答えてほしい。
 ずばり俺に憑りつていた者の正体はなんだ?」

「私の知識では何とも言えませんが、能面は悪霊の一種だと。
 ジンの可能性は私も考えましたが、専門家の方にでも
 診てもらわないと正確なことは分かりませんわ」

ご党首様は、太盛パパに悪霊が憑りついたことに
感づいていながらも放置していた。党首様は信仰心の強い方。

事業で成功し、巨万の富を得ても
休日の礼拝は欠かさず、質素な生活を心掛けてきた。
人間は小さな存在であり、取るに足らない。
我々の運命を決めるのは神であると、
私達が小さい時から繰り返し言っていた。

そして、人の子として生まれたものが
神に近づくことは一生できないとも言っていた。
逆らうなどもってのほか。
おじいさまは人を恐れず神を恐れた。

残酷に聞こえるかもしれないけど、党首様は
自分の息子がすでに死んだものだと思っていた。
太盛の体は空の容器。悪魔が体を支配している。
すでに彼の魂などこの世には存在しない。

キリスト教では人は体と魂に分けられる。
死んだあとは魂だけの状態になる。
復活の日に私達は魂が再び肉体を取り戻すとされているの。

悪魔祓いをする方法もあったが、
太盛お父様がああなったのは運命である。
ユーリを殺した罰であると。
神の下した決定に逆らうことを
おじいさまは異常に恐れていた。

だから、お父様を一生堀家の屋敷から出さずに
生涯を終えてほしいと願っていた。

「奴の知恵で救われるとは心外だな。
 マリンも奴の正体は知っているんだろう?」

「ええ。ユダヤ教徒をおじいさまが本家に使用人に
 雇う理由が未だに分かりませんが」

「よほど親父殿に気に入られる理由があったんだろう。
 親父殿とは正反対の信仰をしているくせに」


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