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作品名:『学園生活』改 〜愛と収容所と五人の男女〜 作者:なおちー

第22回   28日 異世界へ
〜太盛〜

ミウの脅え方は普通じゃなかった。

マリンを名乗る女の子は、自分が未来から来た
俺の娘だと主張している。
こんな体験が人生で二度とあるだろうか。

正直に言おう。見惚れてしまうほど可愛い娘だ。
見た目的に小学生の中学年だろう。
たぶん子役だったら日本一可愛いと思う。

俺の娘だとしたら、たぶん母親の血を
強く引いたのか。俺はここまで美形じゃないよ。

俺とエリカの間に生まれた子……。
エリカが日本人とのハーフだから、
この子の四分の一はソ連系の血だ。

肩にかかるショートカットの髪、愛らしい瞳と
ふっくらした唇。見てるだけで癒される。
ずっとそばにいてほしいと思ってしまう。
俺にとってはな……。

ミウに対しては恐ろしく冷たい顔をするのが気になるが。

マリンは、俺にしがみついて離れようとしない。
別に俺も嫌じゃなかった。この子の髪の毛の匂い、なつかしい。
本当にマリエと同じだ。マリエ以上に愛おしく感じるのは、
本当の母娘だからなのか。

叩きつける雨音は強くなる一方だ。
風もさすほど冷たく湿っているが、
俺とマリンだけは暖かかった。

ミウはこぶしを握り締め、殺気を放っていた。
そして絞り出すように声を出した。

「か、彼から離れてよ……」

「なに?」

マリンがまたミウをにらんだ。
視線だけで人を殺せるほどのレベルだ。
小学生なのにすさまじい殺気だ。

「太盛君とベタベタしないで。太盛君は……私の彼氏です」

「あらそう。ミウは寝言を言っているのね」

「寝言ではありません!!」

この女は、キレるとすごい声量を出す。
俺だけじゃなくて能面の男までびくっとしたぞ。

「マリン様は私がこの世界でどれだけの苦難を
 乗り越えて今太盛君とこうしているのか知りませんよね?」

「そうね。全く興味ないわ」

「私が生徒会に入る前に、太盛君は私のことを
 何度も好きだと言ってくれました!!
 両思いでした!! 本物の彼氏彼女でした!!」

「ふーん」

マリンは腕時計を見ている。女性向けのGショックだ。
どうでもいいが、そんなに腕時計の耐久性に凝ってるのか?

「マリン様はとつぜんこの世界に現れて
 何様のつもりなんですか?
 今の太盛君は学生ですよ? もちろん独身です。
 彼がまだ誰を選ぶのか分からないじゃないですか」

「その寝言、まだ続くの?」

「今の太盛君にとって、あなたはただの他人ですよ!!
 太盛君と血のつながりがないもの。なのにわざわざ
 私達の前に現れて、何をしに来たの?
 あなたがこの世界に来る必要はなかったのよ!!」

他人。それは、マリンに一番言っては
いけない言葉だったのだろう。

「この私に対して、良くそこまで言うわね。
 ある意味あっぱれ。無謀で命知らず」

感情を失った二つの瞳がミウを見つめてる。

マリンが一歩ずつミウに近づいていくと、
ミウが恐怖のあまり後ずさりした。

実は俺も怖い。マリンはただの子供じゃないのだろう。
浮世離れしすぎている。言葉では言い表せない、
何か特別な力を持っているのが分かってしまう。

大の大人でさえ威圧感だけで
屈服させるほどの迫力がある。

俺の娘は化物なのか……?

「あ、あんたなんて怖くない。
 ただのファザコンじゃない」

「なら、なぜ足が震えているの?」

「来ないで」

「先に喧嘩を売ったのはそっちよ」

マリンがミウを指し、一言命じた。

「そこに座りなさい」

ミウは、悔しさと恐怖の入り混じった複雑な表情をしながら、
なんと地べたに座り込んだ。正座だ。
まるっきり親に怒られる子供の用だ。

雨のせいで地面はびしょ濡れ。ミウのコートとズボンが
汚れて酷いことになっている。そうまでして、
ミウが座り込む理由が俺には分からない。
どうして逆らわないんだ?

「おまえには時間をかけて説教をしないといけない。
 だけど、お父様の手前だから、今は勘弁してあげる」

マリンは能面を横目で見た。
能面はうなずくと、マリンも同じようにした。
何のアイコンタクトだ?

「お父様。こことは違う世界があるのですよ」

「えっと……」

「お父様はこの世界にずっと住みたいと思いますか?
 この共産主義に支配された地獄で」

「う……」

ミウが近くにいるんだ。真っ向から否定できない。
共産主義を否定すると反革命容疑がかかる。
拷問されたせいで俺はミウに
従順な犬となってしまったのだ。

「まだミウにおびえているのね? 
 そんなにひどい拷問だったの。
 私は彼から聞いただけだから、
 現場を見たわけではないの」

彼とは能面のことか。よく分からんが、俺の拷問シーンを
マリンに報告したってことか。奴はいつ見てたんだよ?

「辛い過去を乗り切って未来へ進みましょう?
 お父様には私がいるわ」

「マ、マリン……」

「ミウが太盛お父様を傷つけることは二度とない。
 奴の支配は終わるの。そのためには、どうすればいいか分かる?
 お父様がこの世界を終わりにしたいと口にして。
 そうすれば、ガラス細工が砕け散るように世界が終わるわ」

駄々をこねる子供をあやすような口調だ。

俺がこの子の親のはずなのに、
マリンが俺の母親に感じてしまう。
本当にこの子はいったい何者なんだ?

この子は、たぶん俺がどんな過ちを犯しても否定しないのだろう。
俺がモンゴルへ逃避しても、愛人と一緒に逃げても、
最後の瞬間まで俺と一緒にいて、そして運命を共にしてくれる。

俺を地球の果てまで追いかけて愛してくれる存在。
俺を『許してくれる存在』

それは、俺が一番求めていた存在。

「それは高野ミウではありません」

「俺の心の中を読んだのか?」

「いいえ。私は超能力者ではありませんわ。
 なんとなく、そう思ったのです」

お父様がそういう顔をしていたから。
冷静な口調でそう言った。

話し方に知性が宿っている。
外見以外の全てが、良い意味でも悪い意味でも異質。
とても小学生の女の子ではない。

「太盛君」

今度はミウだ。

「太盛君。聞いて」

泣いているのか?
顔が濡れている。
いつまでそこに座っているんだよ。
コンクリの上は冷えるから風邪ひくぞ。

「お願い。そいつの言うことを聞かないで。
 太盛君がこの世界を否定したら、
 全てが終わってしまう」

「お父様。ミウのざれ事に耳を貸さないで。
 こいつの正体はボリシェビズムの生んだ化物。
 人類すべてを奈落の底へ突き落とす悪魔」

「せ、太盛君……太盛君が嫌だって言うなら、
 生徒会を辞めてもいいよ? 
 普通の生徒になって学園生活を送ろうよ。
 それで卒業して一緒の大学に行こう?」

「どうせ嘘よ。また気に入らないことがあると怒りだして、
 お父様を檻に閉じ込めて拷問するのよ。
 高野ミウは、本来の世界では高校を中退している。
 それが正しい選択肢だったの」

「誓うよ。太盛君を傷つけたりしないって誓う」

「騙されないで」

「太盛君。お願い。私と一緒にいよう?」

「お父様。そいつは悪魔です」

何が悪魔で何が天使なのか俺には分からない。
まず、目の前で起きていることが把握できてない。

マリンと能面がただ者じゃないのは分かっている。
俺の推測が正しければ、この二人は別世界から
ここにワープしてきたのだろう。

だとしたら『時系列』が狂っているが。
この二人は未来から過去へ戻って来たのか。

俺は口数の少ない能面の男に聞いた。

「あなたはどうしたい?」

「私ですか?」

能面の裏側が不敵に笑っているように見えた。

「マリン様と同じですな。おぼっちゃまに
 リセットボタンを押していただきたい。
 この世界が存在することはミウのためにもならない」

「俺がこの世界を終わりにしたいと言えばいいのか?
 今言ったぞ」

「心から強く念じていただきたいですね。
 目を閉じてから、強く言葉にしてください」

能面は、俺の目元に手を当てた。
許可もなく振れるなよ。気持ち悪い。
アイマスクの代わりか?

こんなことに意味があるのか知らんが、
言われた通りに強く念じてみよう。

「太盛君、だめだよおおおおおおおお!!」

「黙れ!! 黙れ悪魔が!!」

ミウとマリンの声がうるさいが、
俺はただひたすらに念じた。
そして口に出した。

「こんな世界、終わってしまえ」

次の瞬間、俺の脳裏に浮かんだのは、見知らぬ海岸だった。



「今日も定期便は来なかったわね」

この女性は誰だ? 
若作りだが、年は30を超えているだろう。
外国人っぽくて目鼻立ちが日本人より
はっきりしている。美人だ。

「10月も終わる頃になると風が冷たさを増してきたわね。
 ここでずっと海を眺めてるのもいいけど、風邪を引いちゃうわよ?
 屋敷に戻りましょう。子供たちが待っているわ」

俺の手を握り、女性が歩き始めた。
この人は歩幅まで俺に合わせて歩こうとする。
背丈はほとんど俺と変わらない。
それに足が長くてモデル体型。

なぜ和服を着ている?
和服だと歩きにくそうだ。

「今日は無口なのね? 太盛君。
 朝は機嫌悪くなかったと思うけど?」

「いや、別に機嫌が悪いわけじゃないよ。エリカ」

俺がその女性をエリカと呼んだ。
なぜだ。自然と口から言葉が出たのだ。

「もしかして具合悪かった? 熱でもある?」

俺のおでこに手を当て、自分の体温と比べていた。
子供っぽい仕草だが、少し可愛くてクスッとしてしまう。

「なによ。本気で心配してるのに」

「君が可愛かったから」

「え?」

「……バカにしてるわけじゃないぞ?」

「うん。知ってる。今のはうれしかっただけ」

俺の方からエリカを褒めるのは何年振りかと
真剣な顔で言っていた。そんなに褒めてなかったのか?

結婚して何年も経てば、恋愛感情が消え去るのが普通だ。
結婚……? なんで俺は結婚という単語を思い浮かべた?

「君は何歳になっても綺麗だよ。エリカ。
 高校生の頃と全然変わってない」

エリカの顔が真っ赤になった。

すまん。俺はなんとなく口にしただけだ。
学生時代に女の子に口説き文句を言うのが
趣味だった時期があったから、つい言っちゃうんだよ。

「俺は君のことが好きだ」

「うれしい。私のこと、ちゃんと見ててくれたのね?」

「ああ。もちろんだ」

エリカはキュンとしたのか、その場で唇を奪ってきた。
豊満な胸を思いっきり俺に押し付けている。
おいおい。人気のない海岸だからって、大胆過ぎるぞ。

すぐそばにある森?の中から誰かが出てきたらどうするんだ。
というか、何だあれは。森林地帯なのか?
海岸の反対側。内陸側はずっと森が続いている。

その数キロ先の方に、監視塔と思われる建物がそびえ立っている。
きっとあの近くに屋敷があるのか。いやある。
あるに違いない。俺の記憶があると言っている。

「最近太盛君が私と距離を置いてる気がして、
 ずっと不安だったの。特にあの若いメイドが
 色気づいてきたら」

「どのメイド?」

「ミウ」

ミウが……メイド? 使用人? 太盛様? 奥様?

「あの女、許せないわ。用もないのに太盛君の
 近くをうろうろして。太盛君と話すきっかけが欲しいのよ。
 だから大嫌いなマリンちゃんとも仲良くしているの」

「マリンちゃん?」

「え? どうしたの?」

「マリンちゃんは君の娘じゃないの?」

「何を言ってるの? マリンちゃんはジョウンさんのご息女よ」

キム・ジョウン朝鮮労働党委員長は、この島の住民の一人。
女だけどジョウンにそっくりだ。
マリンの実の母親。俺のもう一人の奥さん……?

「今日の太盛君は不思議なことを言うのね。
 本当に大丈夫? あいにく医者はいないけど、
 具合悪いなら鈴原に見てもらう?」

「心配するな!! ちょっと疲れてただけだよ」

エリカの肩をバシバシと叩くが、
誤魔化したことにはならないだろうな。
エリカは偽物を見るような視線をくれる。

小枝を踏む音がした。
俺とエリカはその方を向いた。

うっそうと茂る森林の出口部分。
ちょうど海岸へつながる部分に少女が立っていた。
小柄な少女だった。ツインテールヘアで
頭にカチューシャ。しっかりとメイド服を着ている。

エリカは一瞬で不機嫌になった。
口がへの字に曲がっている。
そんなにあの子のことが嫌いなのか?

普段とは違う、低いトーンでエリカは言う。

「ミウ。何しに来たの?」

「予報ではもうすぐ雨だと……。
 それでお2人に傘のご用意をと思いまして」

「私はもう少し主人とここにいるわ。
 傘だけを置いて屋敷に戻りなさい」

「かしこまりました。奥様」

二人分の傘をエリカに手渡し、ミウはきびすを返した。
小さな後ろ姿から、やりきれない思いが伝わる。

さすがに鈍感な俺でも分かるよ。
君は俺に構って欲しかったんだろ?

「待てよ!!」

「ひっ」

俺はどんだけバカなんだ。
焦るあまり大声を出してしまった。

「ごめん。びっくりさせちゃったね。
 ミウにお礼を言いたかったんだ。
 わざわざここまで
 傘を持ってきてくれてありがとう」

ミウは大きく二度瞬きをしてから、
表情が緩む。にっこり笑ってから

「はい」と言った。

良い顔だ。
こっちの世界の君は、そんな顔で笑うんだ。

ミウは深く礼をした後、森の奥へと消えていった。
17歳の少女が一人で歩いたら危ないと思うぞ。
野生の獣とかいるし、木が生い茂っていて薄暗いだろう。

「森はジョウンさんの管理下だから平気よ」

そうなのか……?

「それより今のは、どういうつもりだったの?」

いたた。そんなに強く手を握るなよ。
万力じゃないんだから。

「私のこと好きって言ってくれた次の瞬間には
 メイドに色目使うの? 信じられない。
 太盛君は若い女を見るといつもそうなの?
 会社でもそうだったの? 早く答えて」

エリカの文句は洪水のごとく。よくもまあ、
そんなに早口でまくしたてられるものだ。

俺はエリカに冷たくされたミウが
かわいそうだと思っただけだ。

「嘘よ。あの子のこと、気に入ってるんでしょ?
 太盛君は若い女を見たらすぐ優しくするんだから。
 悪い癖だと思わない? 妻の見てる前で
 他の女にああいう言い方をする必要は全くないわ。
 それに使用人が傘を持ってくるのは仕事じゃない」

「ミウを使用人って言うな。家族じゃないか」

「私にとっては、ただの使用人よ」

「落ち着けよエリカ」

「私は落ち着いてるわ。太盛君こそ落ち着いてよ」

「俺は冷静だが」

「なら私も冷静よ。
それに喧嘩売って来たのは太盛君じゃない。
私は早く納得のいく説明をしてほしいだけ」

めんどくさい女だ。俺は不祥事を
起こした政治家じゃないんだぞ。

「あなたは約束をすぐ破るのね」

「約束?」

「あなたのお父様と交わした約束よ。
 私とは夫婦円満で何があっても一緒になさいと
 言われたこと。忘れてないわよね?」

「仲は良いじゃないか」

「太盛君が他の女をやらしい目で見なければね!!」

エリカは傘を放り捨て、森の中へ消えてしまった。
俺を置いていくなんて、そんなに怒ってるのか。
たぶんミウに渡されたから気に入らないんだろうな。

放置された傘が、砂をかぶっている。
潮風が頬を撫でる。ああ、この匂い。
なつかしい。

遠くの海で、海鳥の群れの鳴き声。
波が揺れる。陽光を乱反射させる。

記憶と言うより感覚。なるほど。
能面の男の言っていたことはこれのことか。

しばらくこの景色を見ていよう。

海辺に打ち捨てられた小さな木造船。
船というか、ボート? こんなボロ船じゃあ、
漁にさえ行けそうにない。

あ……。猫がいる。野良にしては太ってるな。
白地に黒い模様がいくつもついている。ぶち猫?

「奥様は屋敷に帰ってからまた暴れるんでしょうね。
 女のヒステリーは最低。そう思わない?」

誰だ? 気が付いたら背後に女性が立っていた。
俺が振り返ると、ハグされた。
おいおい。びっくりするじゃないか。
ミウと同じようにメイド服を着ている。

小柄のミウと対照的に背が高い。エリカより長身だな。
肌の色素が薄く、顔立ちがきりっとした美人だ。

「逃げらるものなら、逃げてしまいたいわね。
 誰も私たちを知らない、見知らぬ大地へ」

その人は、はるか海のかなたを見つめながら言った。
俺も習う。あの小さな島? 大地? まさかあれは。

「雨雲の下でも見えるものね。あれは朝鮮半島よ」

「ここは長崎県?」

「そうだけど?」

どうしてそんな当たり前のことを聞くのかと。
そう言いたそうだった。

「いっそ、本当に逃げちゃう?」

「なっ。何を言ってるんだ。
 君はこの島から出たいのか?」

「はい? 最初に逃げたいと言ったのはあなたでしょ?
 わざわざ私を夜中に階段の隅に呼び出して
 内緒話をしたじゃない」

「そうだっけ?」

本当に記憶がない。
というかこの世界の設定に頭がついていかない。

「太盛。大丈夫?」

「ごめん。実はあんまり大丈夫じゃないんだ」

「森で神隠しにでもあったの? 
私の顔を不思議そうに見てるけど、
 もしかして私の顔を忘れてる? 
 私の名前を言ってもらっていい?」

「う……」

本当に思い出せない。いや、顔に見覚えがある他人程度にはな。
例えば通勤電車で毎日会う他人だよ。
顔は知っているけど、名前まで知らないだろ? 
俺にとってこの女性はそんな感じだ。

「記憶喪失じゃなければ、エリカに強制されたってことね。
 私と関わるなとか、赤の他人のふりをしろと」

「違う」

「ん?」

「俺は本当に君のことを知らない」

女性は冷めた目で俺を見つめていた。
静かな怒りさえ感じる。

少し無言の時を挟んでから、女性は低い声で言った。

「エリカじゃなければ、
 マリン様に言われてやってるの?」

「誰にも強制されてないよ」

「……何が目的なの? 遠回しに私と
 別れたいって言ってるの?」

「別れる?」

「みんなに内緒で付き合いたいって言ったのは、
 太盛だよね? まさかそれまで否定するの?」

女性の瞳に涙が浮かんでいる。
おいおい。話がさっぱり分からないが、
とにかくこの人を傷つけるつもりは全くないぞ。
なのに俺が最低野郎みたいな流れになってる。

メイドと付き合う? 浮気? みんなに内緒?
愛人だよな? 愛人……

『あなたはユーリを捨ててでも、マリンを選ぶんだよ』

フラッシュバックしたのは、かつてのミウのセリフだ。

「ユーリ。君は俺がマリンを選ぶのかと思ったのか?」

「……私の名前、ちゃんと言えるじゃない」

「愛している人の名前を忘れるわけないだろ?」

「調子いいこと言って。実は本気で忘れてたんでしょ?」

図星なので黙るしかない。

ユーリは、横たわった太い丸太の上に腰かけた。
俺の隣に座る。この丸太、誰が切ったのか知らないけど、
イス代わりに置いてあるのか? 便利だな。
枝の部分は綺麗に切り落とされていている。

「はぁ……。みんなのことを思うと憂鬱だね。
 ミウも私がいなくなったら悲しむだろうな。
 怒り狂った奥様と屋敷で暮らすなんて
 私だったら発狂したいほどのストレスよ」

「モ、モンゴルに逃げるにしても飛行機の予約とか、
 荷造りとかあるから大変だよな」

「何言ってるの? 荷造りなら太盛が済ませてくれたじゃない。
 会社を有休使って休んでる間に、テントとかアウトドアグッズ
 まで揃えてくれたよね。太盛が借りたレンタル倉庫の中にね。
 あとは予約チケットを取るだけ。
 ダミーで国内の便も三件くらい取ろうね」

「お、おう」

会社? 有休? 島暮らしなのに会社?

「太盛は都内の会社に勤めてるじゃない」

意味が分からない。
俺が長崎から東京へ出張したという意味か?

「ここは西東京だよ」

俺は目を疑った。
俺たちが座っているのは木製のベンチだった。
綺麗にニスが塗られていて、肌触りが良い。

風は冷たいが、潮風ではない。
背の高い木々に囲まれており、
山奥の別荘を思わせる。

当たり前だが、山には斜面がある。
さっきの島は平たんで段差がなかった。

豪華な屋敷から少し歩いた場所に、この開けた庭がある。
芝生と噴水。大理石の彫刻。
華美ではなく、自然と調和させている。

俺とユーリはベンチに座って話していた。

「モンゴルに行くと死ぬぞ」

「え?」

「ああ。確実に死ぬな。万に一つも生き残れない。
 俺たちは、最後は死ぬ。絶対に死ぬ。それでも行くか?」

「うん。だって死ぬのが目的なんでしょ?
 太盛はエリカの束縛から逃げて楽になりたいって……」

「エリカだって鬼じゃない。今は束縛が強いけど、
その内飽きる。今がたまたまそういう時期なんだよ」

「結婚してから10年たっても束縛し続けてるけど。
 どんだけロングタイム束縛なのよ。
 その執着心を別のことに生かしたほうが良いと思う。
 これも太盛が言ってたことだよ」

「俺たちが逃げたらミウがかわいそうだ」

「私もミウのことは気の毒だけど、仕方ないよ。
私は全てを捨てる覚悟だけど、太盛は違うの?」
 
「でも残されたマリンが……」

「マリン?」

怒りのオーラがすごい。ミウと同じだ。
ユーリもマリンのことが嫌いなのか。
名前を出しただけでこの反応は、ちょっと異常だぞ。

「私は逃げる決心がついたのに。
ひどいじゃない太盛。
 私よりお嬢を取るつもり?」

「どっちを取るとかじゃない。
やっぱりこの話はなかったことにしないか?」

「……せっかく荷造りしたのに今更心変わりしたの?
 あんなに逃げたいって何度も言ってたのに。おかしいよ」

「俺は……」

「ごめん。このまま話してると喧嘩になると思うから、
 私は先に戻ってるね。くれぐれも屋敷の中では
 普通にふるまってよ? じゃあ、またあとでね」

早口で言い、ユーリは去って行った。
風で肩を切る後ろ姿からは、
かなりの怒りを感じさせる。

思い出してきた。ユーリは学歴もあるし、
外国語も話せるんだったな。こんなに綺麗で聡明な人が、
どうして使用人をやっているのだろう。

ずっと話していたら、すっかり冷え込んだ。
特に足元が寒い。奥多摩は田舎だからな。
この時期は虫がいなくて快適だけど、
そろそろ本格的に寒さ対策をしないとな。

「パパー」

後ろから元気な声が聞こえた。
どの娘だ? マリンの声じゃないな。
俺には三人の娘がいるらしいからな。

マリン以外の娘のことは、
残念ながら思い出すことができない。

俺はベンチから立ち上がろうとすると、
激しい立ち眩みに襲われて気を失った。


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