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作品名:『学園生活』  ミウの物語 作者:なおちー

第10回   マリーの入院 太盛の中学時代
「ご学友の方々ですか? 娘がいつもお世話になっています」

太盛とミウに対し、マリーの母親が丁寧に頭を下げる。
マリーの親はもちろんエリカではなく、ミウの知らない人だ。
洗練された社交辞令で一見して知的と分かる夫人だ。

「マリエは早熟な子で、小学生の時に親を言い負かして
 しまうほど口が達者だったんです。元気いっぱいの子でした。
 それが……どうしてこんなことに」

ベッドの上でぼーっとしているマリー。以前とは全く別人だ。
病人服と同じように肌は色をなくしている。
泣きそうな母親を見向きもしない。

「ごめんね? ずっていてあげたいけど仕事が忙しくて、
 すぐ支店に戻らないといけないの。他の人達に
 仕事まかせっきりだから……ごめんね? マリエちゃん」

物の抜け殻となった娘は何も返さず。興味すら示さず。
立ち去る母に丁寧に挨拶したのは太盛とミウのみだった。

ところで太盛の学校では爆破事件があったわけだが、
世間にはこう報じられた。

校舎を爆破したのは次世代的な改修工事を実施するためであり、
マリーはたまたま現場の近くを歩いていて被害を受けてしまった。

非現実的な暴論である。これで納得した国民は一人もいなかった。
仕方ないので学園の理事長は、政府の総務省とのコネを
使って国内のすべての報道機関を沈黙させるに至った。

日本は法治国家であるはずなのに、
報道の自由とか国民の知る権利はどこへ消えたのか。
余談であるが総務省は現実世界でも当然のごとく情報操作をしている。

「マリーのお母さんってあまり顔似てないんだな?
 マリーはお父さん似なのかな」

「友達から聞いたんだけどね、マリーのお父さんの浮気癖が
 ひどかったらしくて。結婚した後に他の女の人も妊娠させてたんだって」

「えっ」

「お父さんの浮気がばれたのが、
 ちょうどお母さんが妊娠したころで……」

「あー。なんかドラマとかでよく聞く話だ」

「こういうのって現実でも普通にあるらしいよ。
 あのお母さん、真剣に離婚を考えたらしいけど、
 子供可愛さに今まで頑張って来たんだって」

「頭よさそうだし稼ぎは良さそうだよな。
 キャリアウーマンって感じする」

「信託銀行で働いてるんだよ」

「信託銀行ってなんだ?」

「太盛君、知らないの? 信託銀行はお客さんから
 財産を委託されて資産を運用するところだよ。
 資産ってもちろん有価証券や不動産も含まれるからね。
 普通の銀行とは扱ってる金融商品の幅が違くてすごく幅広いの。
 やりがいはあるかもしれないけど、大変だと思うよ
 あと相続の遺産管理、運用も信託銀行がするんだよ」

「……???」

「さっき、ちょこっとお仕事の話聞いたんだけど、
 あの人はリテール業務の人だよ。個人の資産運用の相談に乗る人ね。
 若い人からお年寄りまで幅広い年齢の人が相談に訪れるから
 すっごい気を使う仕事だよ。本気で旦那に頼らず
 女手一つでマリエを育てて来たって感じがした」

「……え? 今の日本語だったの」

「うん?」
 
「さっぱり分からん。
 君はどうしてそんなに銀行に詳しいの?」

「うちの父、証券マンだから」

「そういえばそうだったね……。
 それにしても詳しすぎだろ」

「英国は金融で食べてる国だから」

(関係あるのか……?)

「あと証券会社と信託銀行は違うからね?
 証券会社は直接株を売買するけど、信託銀行はできないの。
 信託銀行も証券は扱うけど、扱い方が違うっていえば
 分かりやいかな? 信託銀行ではある程度まとめられた証券を…」

「ごめん。もう止めてもらっていいかな?
 たぶんそんな話されても高校生で分かる人いないと思う」

普段とぼけた感じのミウの意外な一面を見せられ、
冷や汗をかいた太盛。ミウに難しい話をされたのは初めてだった。

「失礼しまーす。斎藤さん。そろそろ点滴の交換のお時間ですよー」

看護師が入って来た。

輸液ボトルがそろそろ空になりそうになっている。
ボトルにはシールでマリーの生年月日や日付が書いてあった。

太盛とミウは邪魔にならないように廊下に出た。

看護師や医師がベッドを四人がかりで押して通過していく。
ベッドにいるのは白髪の相当なお年寄りだ。
ベッドの上から点滴のチューブを垂らしていた。

「俺たち、夏休みだから暇なんだよな」

「そうね。時間だけは売るほどあるわ」

「あんな事件のあとじゃ、何もする気にならないな。
 今でも夢だったんじゃないかって思ってるよ。
 マリーがあんな状態なのに、俺たちだけ無事ってのも、
 なんだかな……。申し訳ない気持ちになってくる」

「ずっとマリーのそばにいてあげたいけど、
 私達の力じゃ失語症は治せないからね」

「すべては時間が解決してくれるんだろうか?」

「さあ。私は神様じゃないもの」

マリーはお腹や肩に激しい打撲の跡があった。
傷自体は内出血なので自然治癒に任せればいい。
爪をはがされたり歯を砕かれたりはしなかったのが幸いだ。
エリカとしては軽いお仕置きのつもりだったのかもしれない。

問題は彼女の心だ。

拷問の影響で心が死んでしまったのだ。身体の自由を奪われ、
相手の好きなように痛めつけられる恐怖は想像を絶する。
それを高校一年の天真爛漫な乙女が味わってしまったのだ。

言葉を発さないだけでなく、人間らしい感情を失い、
植物人間のようになってしまった。自らの意思で
食べることも出来ないので点滴生活になっている。

「エリカも会長達も、許せないよ。
 一年生の女の子にどうしてここまで……。
 あいつらは、本来は生徒を守る立場の人はずだよね?
 こんなことするなんて人間じゃないよ」

「俺だって同じ気持ちさ。
 できるなら、あいつらを殺してやりたいよ」

「警察に訴えられないの!?
 太盛君の腕時計で録音したんでしょ!?」

「マサヤからそれはしないほうがいいって言われたよ。
 うちの生徒会は過去に悪事を売るほどやっていたらしい。
 真実が世間に知られたら、最悪、閉校も考えられるって」

「うそ。そんなに……?」

「今思えば、マサヤが会長を怖がっていたのはそのためか。
 俺とミウのこと心配してくれたのも、会長に目を付けられない
 ようにって意味だったんだな。あいつも生徒会で苦労してるんだろう」

「あの生徒会って何なの!? ボリシェビキとか
 わけ分かんないこと言ってさぁ。全員死ねばいいのに!!」

さすがにその声の調子では他の患者に迷惑。
院内は騒ぐな走るなは世界各国共通である。

廊下を歩いている患者に嫌な顔で見られた。

「ああっ、その。ごめんなさいっ」

ミウが謝ると、何も言わずに通り過ぎていった。

患者服を着た20代の男性だった。
一見まともそうに見える彼も、当たり前だが
何らかの病気でここにいるのだ。

ここは総合病院の二階。内科病棟だ。

マリンは当初精神科へ送られたが、母が世間体を気にして
内科へ移させた。ちなみに金があるので当然個室だ。
彼女の父は、仕事が忙しいとのことで一度も見舞いに来ていない。

「くやしいけど今の俺たちに出来ることは何もないよ。
 少し病院から出ようか」

「うん。でもどこに行くの?」

「どこでもいいよ。適当に歩こう」

外は真夏の暑さである。
時は7月の下旬。南関東である都内のエアコンの室外機などの
害をもろに受けた北関東は、想像を絶する暑さと湿度である。

「し、しぬーっ」

「なんて日差しだ!! 素肌をオーブンにさらしたみたいだぞ!!」

太盛の携帯にエリカと思わしき人から着信があった。
太盛はスマホの裏カバーを開き、なんと電池を抜いてしまった。

ちなみにエリカの番号は消したので
画面には着信番号のみが表示されていた。

「太盛君。近くのカスミ(スーパー)でアイスでも買おう!!」

「なんでカスミ?」

「お父さんが株主なんだよ。
 少しだけだけど優待券をもらったの」

「株主優待券……? つまりただで食べられるってことだな」

この近所で一番でかいスーパーがカスミである。
もう少し離れた場所にショッピングモールもあるが、
ミウが人込みを嫌がるのでデートコースから外している。

太盛が買い物かごを手に店内に入ると、
ある買い物中の男を発見した。

太盛は最初、人違いかと思って目を凝らしたのだが

「やっぱりあの野郎かっ!! ぶっ殺す!!」

太盛が元気に駆け出して行った。

その勢いは、餌を見つけたセグロジャッカル
(タンザニアのキリマンジャロ山付近)のごとくだった。
どうでもいい例えだったかもしれない。

男に商品のリンゴを投げつけ、ひるんだところに殴りかかった。
軸足に力を込め、大きく振りかぶった右ストレート。
殴る動作で大切なのは下半身の安定である。男は盛大に吹き飛んだ。

機先を制す。これが太盛の戦闘スタイルだった。
まず先制攻撃を食らわしてその後の形成を有利にしようというものだ。

男は喧嘩慣れしているのか、すぐ起きがあり、すかさず応戦。
足をまっすぐ伸ばしただけのやくざ蹴りだ。
今度は太盛を吹っ飛ばした。

太盛はお菓子棚につっこんで陳列された商品を
めちゃくちゃにした。たまたま近くにコーラのペットボトル
が落ちていたので、よく振ってから男の前でふたを開けた。

男はコーラのシャワーをまともに食らった。
目を開けていられなくなり、そのすきに太盛は突進。
マウントを取って拳を次々に振り下ろす。

太盛の握った拳は石のように固く、重い。

「ちょっとちょっと!? ここ店先だよ!? 
 太盛君、さっきから何してるの!?」

「は……?」

ミウに拳を握られてようやく我を取り戻した太盛。
倉庫から店長と思われる人物が出てきた。
鬼の形相で太盛の方へ歩いてくる。

そういえば、先生から休み中に羽目を外さないようにと
言われていたことを思い出す。

太盛はさっそくやってしまったのである。
店長に捕まれば警察に通報されて補導もありうる。

「ごおっ!?」

太盛は最後に男のお腹の上で拳を降ろしてやった。
みぞおちに入ったようで男は地獄の苦痛にあえいでいる。

そして

「今だっ!!」

ミウの手を引っ張りながら撤退した。
酷暑の中、行く当てもなく走り回った。

日中の激しい運動はひかえるように気象庁から
言われてるのにおかまいなしだ。

当人たちは店長に追われるかもしれない恐怖でそれどころではない。

「なんでっ……あんなことしたの!?
 あの人っ……誰だったの!?」

「むかしのっ……知り合いだっ……
 中学時代にお世話になったんだっ……!!」

話しながらだと息が続かない。

疲れたので立ち止まると、汗が滝のように出てくる。
人間はこんなに汗が出るのかと言うくらい出る。

犬のように口を開けて呼吸を整えていた。

「あっ、噴水だ」

とミウが言う。そこには小さな公園があった。

公園は市の平和記念公園であり、小さな子供たちの
遊び場になっていた。その奥に市役所が建っている。

「くちびるが切れて血が出てるよ?」

ミウが濡らしたハンカチで拭いてくれた。
ちくっと冷たい感触がした。

日傘をさし、ベビーカーを連れたママたちが井戸端会議している。

幼児たちが噴水の中に入ってバシャバシャと水をかけあってる。
小さな浮き輪や水鉄砲を持ったりと楽しそうだ。

水浴びは夏の暑さを忘れさせてくれる数少ない方法である。
微笑ましい光景に思わずミウの顔が緩むが、

「ち……母親か」

太盛が吐き捨てるように言った。
その顔はミウの知っている彼ではなかった。

「太盛君……? 今なんて?」

「なんでもないよ。それよりアッツいなぁ。
  俺暑いのだめなんだよ」

「あっちに木陰のベンチがあるよ。
 ちょっと休んでこうよ」

太盛はおとなしく従った。

「ベンチが暑い!?」

「おかしいな……木陰のはずだったのに」

「日本の夏が異常なんだよ。
 仕方ない。用はないけど市役所に入るか」

本当に用もなく市役所に入った。
大人たちが頼まれても行きたくない場所のトップである。
夏はエアコンがよく効いていて避暑地代わりになる。

太盛達は一階の中央に位置する待合室に座った。
止まらない汗に耐えていると、
やがて収まってきて心が落ち着いた。

実は人間は汗をかくと一定のストレス解消の効果がある。
運動で汗をかくことはとても良いことなのだ。

待合室では暇つぶし用にテレビが流れている。
テレビは天井ぶら下げ式だ。夏休み初日の
行楽地の込み具合を報道している。

当然家族連れが多い。小さな子供たちが母親と手をつなぎながら
新幹線に乗車するシーンを太盛は歯ぎしりしながら見ていた。

「はは……世の中の奴らは楽しそうだなぁ。
 今年はエジプトに行きたかったのに……全部台無しだよ……。
 クソッ。クソ。なんで何もかもうまくいかないんだよ。くそぉ!!」

「落ち着きなよ太盛君。今日はどうしちゃったの?
 いつもはそんな人じゃないじゃない」

「俺は……もともとこんな奴だよ。性根の腐った奴だ。
 俺なんか、本当は学校のクラス委員なんかに選ばれる人間じゃない。
 今の担任は俺が中学時代に荒れてたのを知らないんだよ」

「さっき殴った人も太盛君の昔の同級生だったんだね」

「奴は最低のクズだ。俺の敵だ。表立って俺に逆らわないくせに、
 陰でたくさん悪口を言いふらして他の仲間を先導してさ。
 最後は大人数で俺にかかってくるんだ。俺は負けっぱなしだったよ」

「そういう人って最低。女々しくて男らしくない」

「卒業後、どこかであったら
 ぶん殴ってやろうと心に決めていたんだ」

「私はびっくりだよ。
 太盛君って将来有望な優等生ってイメージだったから。
 リーダーシップがあって立派じゃない」

「立派? 俺が立派に見えるか? 家に帰れば親父に叱られてさ。
 この年になってまだ説教されるんだぜ?
 先生に成績を褒められようが、おまえはまだまだ未熟者。
 おまえが私と同じレベルになるには百年かかるって」

「それは……ちょっとお父さんが厳しすぎるのかもしれないけど。
 でもお母さんは? お母さんからはそんな風に言われないでしょ?」

「母さんは……」

太盛はふと市民課の方に視線を向けた。
ミウも同じ方を見るが、特に変わった様子はない。

「別居してるんだ」

「え?」

「俺が中学の時、最低のクズだったってことは話したろ?
 その時に母がよく担任に呼び出されてさ。母は家で泣いていたよ。
 育て方を間違ったのはあなたのせいだって、俺じゃなくて親父殿に
 きつくあたった。夫婦喧嘩は夜遅くまで続いた。そんな夜は
 うるさくて寝られないから耳にイヤホンして寝たんだ。
 もっとも親父は会社の経営が忙しくてめったに帰ってこなかったけど」

「そうなんだ……。ごめんね。こんなこと聞いちゃって」

「気にするな」

少し間が開いた。

ミウは気になったので続きを聞いてみた。

「まだ離婚はしてないの?」

「してないよ。名義上はまだ俺の母だけどな。
 住んでる場所が違うだけ。実家に帰ったんだよ。
 もっとも何年も別居していたら自動的に離婚になるんだけどな」

「お母さんとは、しばらく会ってないんだ?」

「ああ。俺の高校に進学した時、嘘でもいいから入学式に
 来てほしかった。そして俺の恩師に会わせてあげたかった。
 俺は高1の夏にある先生に言われたのださ。勉強だけできる奴は
 いらんってね。友達を大切にし、親を敬えって言われた。
 おまえが健康な体で学校に行って勉強できるのは親のおかげだって」

「全部あたり前のことなんだけどな。俺は小さいころから父に
 厳しく育てられた。家じゃ自分の言いたいことも言えない。
 我慢の連続だったんだ。なぜお父さんはこんなに俺に厳しい?
 どうやったら認めてくれる? 学生の本文は勉強だ。
 なら勉強を頑張ればいい。その一心で努力はたくさんしたよ」

「中学三年の時だったか。クラスで一番の順位をとった。
 俺は満足した。勉強ができれば何をしてもいいと思っていた。
 それで威張ってたから敵が多かった。年下と喧嘩したこともあった。
 だが家での俺は……良い子でいるしかなかった。
 だって俺が家でも暴れたら、使用人のみんなに迷惑かけるじゃないか」

「太盛君は使用人の人達には特に優しいものね?
 君が外で荒れた生活をしていたなんて今でも信じられないよ」

「まあ使用人の人達には罪はないからな。
 俺が家できつい態度を取ったら彼らがどれだけ傷つくと思う?
 何年か前に後藤さんから帝国ホテルを辞めた理由を聞かされたよ。
 離婚もして、苦労した末にうちにたどり着いた人なんだ。
 意味もなく荒れてる同級生のガキどもとは大違い。
 ああいう苦労してる人達は心から尊敬するよ」

「あの人たちは立場上俺には逆らえないんだ。
 こんな、取るに足らないクソガキにだぞ?
 だから俺は絶対にあの人たちをいじめたり
 冷たくしたりしないと心に誓った。
 使用人って言い方も好きじゃない。
 だって彼らは家族の一員じゃないか?」

恨むような顔で壁を見つめたまま、早口でまくし立てていた太盛。
彼にとって古傷をえぐる行為だった。
今までエリカの前ではこの話をしたことはなかった。

「ははっ……なんでこんなことミウの前で話してるんだろうな?
 悪い。つまらない話を聞かせちまった」

そういって頭をかいた。

ミウは泣き出してしまいそうになった。
太盛が使用人に優しい理由を今初めて知ったのだ
暴力的な面と優しい面が合わさってできたのが今の太盛。

彼は誰よりも弱くそして強い心を持った少年だった。
来年で高校三年になれば、世間的には青年と呼ばれる年齢になる。
ミウが知っているのは成熟した青年の太盛だった。

こんな彼の一面を、当時のエリカ奥様は少しでも
尊重してあげたことがあったのだろうか。

あのモンゴルへの逃避は突拍子のない計画だった。
父に抑圧されて育ってきた彼の弱い心が、
再び逃げ場を求めて暴走したのだとすれば、納得できる。

良いところも悪いところも受けいれることが
良い恋人の条件とはよく言われることだ。
ミウはどんな太盛でも正面から受け止めるつもりだ。

優しい彼が、記憶喪失のミウを
一番に気づかってくれたお礼として。

ミウは無言で太盛の手を握った。

太盛は驚いたが、それも一瞬。すぐに握り返した。

ここに人目がなかったらキスの一つでもしたかもしれない。
愛の言葉をささやいたかもしれない。
お互いにそういった行為を恥ずかしがる性格ではなかった。

言葉はいらずともお互いの気持ちは通じ合ったのだ。

「もう暴力をふるっちゃだめよ?」

「約束できないけど、がんばるよ」





太盛とミウが見舞いに行くのは夏の日課となった。

迷惑じゃなければ、夏休みの間、毎日君に会ってもいいか?
その問いにミウは快くうなづいたのだ。
カップルというより夫婦に近い距離感だった。

平日の面会時間は13時からだ。(休日は10時から)
連絡などせずとも、その時間に合わせるように
どちらかが先に待ってくれている。
お見舞いはデートも兼ねていた。マリーの見舞いなのに
実の母より彼らのほうが多く訪れていたのは皮肉だった。

「先生。マリエの状態はどうですか?」

太盛が主治医の若い男性医師に問いかけた。

「深夜に突然発作を起こすことがある。
 断定はできないがPTSDに近い症状がみらるね」

「PTSD? テレビで聞いたことあるけど」

ミウの問いに看護師が答える。

「最近では日本でも有名になってきましたよね。
 心的外傷後ストレス障害のことを言います。
 命の危険を感じるほどの強いストレスを感じた時に
 その時の恐怖が持続する病気です。突然我を忘れて
 発狂したり、人に襲い掛かったりします」

「俺、歴史の本で読んだことあります。
 PTSDってベトナム戦争や沖縄戦の米兵に多かったみたいですね。
 兵隊は国に帰ってから長い間病気に苦しめられ、
 夜目覚めて家族に銃を乱射した事例があったそうです」

すると医者は感心した目で太盛を見た。

「彼の言う通り、もともとは兵隊さんに多い病気だったんだ。
 現代の日本の例だと事故や天災かな。戦場並みの恐怖とショックだね。
 あくまで一般的に考えれば、斎藤さんもそれほど
 強力なショックを受けたということになりますが……」

太盛とミウはうつむいた。
あの日の悪夢がよみがえる。

「建物の崩壊を近くで見たことが、彼女の精神に
 決定的なダメージを与えてしまった。そういうことでしょう?」

看護師はそれで結論付けようとした。彼女が一番知りたいのは
マリーのお腹や背中に激しい打撲の跡があった理由だ。

マスコミが報じる、たまたまマリーが爆発現場の近くに
いたからでは説明がつかない。どう見ても殴打の跡だからだ。

そして直感で分かっていた。斎藤マリエが事件に巻き込まれた真実を
この高校生達は知っている。だが、彼らは重苦しい顔で
言い訳をするばかり。それ以上聞ける雰囲気ではなかった。




「ふぅ」

看護師の朝は忙しい。

受け持っている患者を巡回し、朝の検温、食事、排泄の世話。
投薬、点滴。他の部屋にヘルプが必要なときは速やかに行く。

臨機応変に動かないとこの仕事は務まらない。
この内科病棟では看護助手の慢性的な人数不足に悩まされているので
患者の身の回りの世話など看護師の負担が増えている。

老人など入院患者が増える一方なのに人手不足。
日本の医療現場は地獄である。

とにかく忙しく、つい早足になってしまう。
人からさばさばしていると言われるが、
忙しさのせいで嫌でもさばさばしてしまうのであった。

毎日辞めたい、辞めたいと思っていて何年もたってしまう。
彼女の周りにはそんな人達が多かった。

患者に感謝されると素直にうれしい。
だが、そんな少しのやりがいの犠牲として
若く美しくいられる時間の大半を消費している。

「ご苦労様。お昼に行っていいわよ」

看護師リーダーに午前中の業務内容を報告したのだ。
これから少し早めの昼食だ。
今日は平穏な日なので11時すぎに次々にナースたちが集まっていた。

休憩所は女たちのおしゃべりの場になる。
一日で唯一リラックスできる時間だ。
もっとも三交代制なので同じ時間帯の勤務の人としかいられない。

「親が結婚しろってうるさくてさぁ。
 良い相手がいたらとっくに結婚してるっての」

「レイナの家は親戚のおばさんが勝手に相手を
 探し始めちゃったんでしょ? 必至だよねー。
 自分のことじゃないのにさ」

「でも私たちもそろそろ結婚考えないとやばくない?
 若くてイケメンのドクターでもいればいいだけどなー」

「うちのドクター、みんな結婚してんじゃん」

この病院は若い看護士が多く、今日の休憩所は
20代から30代前半の人達が集まっていた。
ちなみに年配の看護師はバツイチ率が結構高い。

「レイナのところの若い患者さん。
 精神病で入院でしょ? あれは長引くね」

「あのかわいい女の子。有名校の生徒さんなのにもったいないよねー」

レイナと呼ばれた若い看護士が、今朝マリーの部屋に巡回に来た人だ。
彼女は濃い茶髪と派手な目鼻立ちが特徴の美人だった。
この仕事をしている割に肌年齢が若く、実年齢の31には見えなかった。

「父親は何してんのよ? 入院の手続きの時に来たきりで
 そのあと一回もお見舞いに来ないんでしょ?」

「ちょっと訳ありの家庭みたいよ。お母さんも会社が忙しくて
 最近来ないじゃん。代わりにあの高校生カップルが毎日来てるんだよね」

「あの二人、ほんとよく来るよね」

「カップルの男の子かわいくね?」

「そうそう。超かわいい顔だよね。
 私らお年寄りばかり見てるから癒されるわ」

「私も彼氏ほしーな」

「あの患者さん、体に殴られた跡があったんでしょ?
 学校でいじめられてたのかな?」

「レイナ。あんた何も聞かなかったの?」

「親に聞いても学校で起きたことだから知らないってさ。
  カップルも本当のことを言ってくれないのよ。
   隠したい理由でもあるのかな」

「あの有名な進学校の子なんでしょ?
 あんなお坊ちゃまお嬢様校でいじめとかあんのかな?」

「人間なんだからどこでもいじめはあるでしょ」

「あの患者さぁ、あの年齢でPTSDってやばいよね。
 発作はどんな感じなの?」

「深夜にナースが見回りするとその足音に過敏になって
 暴れだすんだって。女の子だからすぐ止められるけどさ」

「うわぁ……あたし夜勤の時気をつけよ」

「あとでリーダーから夜勤へ申し送りされるよ」

「夜勤まじだりー。この仕事続けてたらお肌がやばいよ」

「夜勤明けとかさ、患者よりあんたの方が顔色悪いんじゃない?」

「あははははははっ!!」

「あっ。もう時間か」

「はやっ」

午後は患者さんたちの昼食のセッティングがある。
自分よりも患者さん優先。それが看護師だ。

患者にはよく噛んで食べるよう指導する割に
自分が早食いなんてよくあることだ。

彼女たちの話題に太盛とミウが出ない日はなかった。
太盛達は自然と院内でも有名人になっていたのだった。


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