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作品名:モンゴルへの逃避 作者:なおちー

第2回   首都 ウランバトル
折り畳み式テーブルの上にモンゴル食が並んでいる。
パサパサした四角い菓子パン、クリームやチーズ。
くせが強い味で最初は戸惑ったが、慣れるとけっこう食べられる。

太盛がミルクティーを飲み干してから言った。

「俺たちの旅の目的は、ここで死ぬことだからな」

「はい」

「町で買った日用品とアマゾンで買った間に合わせの
 アウトドアグッズで生活するのも、いつか限界がくる。
 深刻なのが冬の備えができていないこと、
 いつかはお金が尽きるということだ。
 エリカから逃げたい一心で君とこんなころで
 逃避行をしている俺は、本当にバカだと思う。
 あの屋敷にいる時から、俺はどれだけ君に」

「いいえ」

ユーリが強引に話を割った。強い口調だった。

「私は、私の意思で太盛様にお供すると決めたのです。
 失礼を承知で言わせていただくなら、お屋敷にいる時の太盛様は、
 毎日うつろな目をして人形のようでした。
 このモンゴルの逃避行は無謀以外の何物でもありませんが、
 少しの間でも太盛様の目に人間らしい輝きが戻ったことを私は…」

ユーリはそれ以上続けられなかった。
太盛が無言で抱きしめたからだった。

太盛はすすり泣いていた。ユーリへの思い。
家に捨てて来た家族への思い。草原の風に吹かれて
頭に浮かぶのは後悔ばかり。

ユーリの背中に回された太盛の手は震えていた。
彼女は黙って彼の頭を撫でる。
太盛のすすり泣きが少し和らいだ。

「ごめん……。ごめん」

「いいの」

「ごめん。ごめんな。本当に」

「私は本当に負担に思ってないから」

敬語を廃したユーリの言葉に太盛は嘘みたいに泣き止んだ。
2人は屋敷では主従関係にあったが、
裏では愛人としてつながりあっていた。

太盛がユーリの手をぎゅっと握ると、
どちらともなく唇を重ね合わせた。

今回の逃避行は彼らの関係が原因でもあるが、
一番問題なのは太盛の妻であるエリカの性格だった。

ここは大草原なので監視の目はない。
テントの中で肌を重ねあった2人は気分が盛り上がる。
その乗りでテントの中で一夜を明かすことになった。

ユーリは太盛の腕の中で子供のように眠っていた。
太盛の夢の中でエリカの顔が出て来たので寝起きが最悪だった。

「これが草原の夜明けか」

ユーリと太盛は肩を並べてテントの前に腰かける。
地平線のかなたを眺めていた。

山の果てから太陽が姿を現す。
なだらかな起伏を描く大地を黄金色に染め上げていった。

昨夜、強風が吹いた。
ゲルのような強固なテントでないワンポールテントは
すぐに吹き飛ぶのかと思いきや、意外と丈夫だった。
このテントは北海道の有名メーカーの作った商品だ。

「ゲルじゃないと無謀なのは分かっていましたけど。
 明日からは宿に泊まるべきでしょうか」

「うーむ。どうするのがベストなんだろうな。
  いっそゲルを買ってしまったほうが安上がりなのだろうか」

首都から続いている舗装道路を一台の車が通りすぎて行った。
家族らが楽しそうに話しているのが車の窓越しに見えた。
朝早くから元気なことである。

舗装道路は草原のど真ん中を突っ切るようにどこまでも続いている。
それ以外に道路はない。

「家族か。そういえばマリン達は今頃どうしてるのかな」

ユーリがむっとした顔をした。
彼らは非情にも家族を捨てた者同士。
今更後ろを振り返っても仕方ないのだ。

太盛はすぐ察して話題を変えた。

「さて。ウランバトルへ帰るぞ」

「いいけど、ウランバートルって伸ばさないのですか?」

「伸ばさないのが本場の発音らしいよ」

「そうなのかしら」

テントを中心としたアウトドアグッズを綺麗にまとめる。
折り畳み式のコンロ、寝袋、エアマット、グラウンドシート。
それぞれを丁寧に畳み、馬に背負ってもらう。

日中のウランバトルの商店街は人でにぎわっていた。

モンゴル人のおばさんから話しかけられる。
つたない英語で中国人かと聞かれた。
ユーリが愛想よく日本の旅人だと返した。
教養のあるユーリ。彼女の英語は達者だった。

極東地域には様々な人種がいる。
東アジアには漢民族、満州族、朝鮮、モンゴル、
ロシア系白人、ウイグル族がいる。中国で回教徒と呼ばれる、
ムスリム系の女たちは黒いマントを羽織っている。

「国内にいるのは、ほとんどモンゴル人のようですね。
 モンゴル語は朝鮮語の音の響き似ています。
 北京語や広東語だったら聞けばすぐに分かりますよ」

「聞いただけで分かるとは、さすがだね。
 大学ではロシア語も習ったと聞いているけど」

「ロシア語はあいさつ程度です。
 勉強する時間が足らなくて。
 あと一年くらい大学にいられたら
 文法の勉強ができたのですけど」

ユーリは老教授のように穏やかな口調だ。
太盛はユーリの博識なところが大好きだった。

西の方から雨雲が近づいてきた。
気圧が下がり、肺へ入る空気が重く感じる。

「アイム フォウチュナリィ トゥ セイ
 アボウト ヨア パスオート
 イズ イット フォウ ハンドレット?」

「ノゥ シックス……シックス ハンドレット」

質素な宿で料金の前払いを済ませた太盛。
彼のつたない英語では、お金を払うのすら苦労した。
昨夜泊まった豪華なホテルと違い、日本でいう民宿に近いところだ。

「ふぅー」

ベッドに横になる太盛。
ユーリは手荷物を部屋の隅にまとめて太盛の横に座る。
窓からモンゴル中部の大自然を見ている。

馬は預り所に置いてきた。

「これからどうするべきなのか。
 草原を歩くのって疲れるよな。
 俺らがあのまま西へ進んだら、どこまで行ったのかな?」

「数百キロほど進むとカザフスタンとの国境に達します。
 草原地帯から不毛の大地へ変わりますよ。
 太盛様もご存知の通り、砂漠はこの世の地獄です」

砂漠を歩きたくないのは太盛も同じだった。

神はイスラム教徒を苦難に耐えさせるために
砂漠の民に選んだという。太盛達が死ぬことを
目的にしているとはいえ、砂漠の過酷さで
死ぬくらいなら飢え死にの方がましかと思われた。

ユーリがポットでインスタントの
コーヒーを淹れてくれた。
部屋に置いてあるサービスだ。

「でもね」

太盛がカップを持ちながら言う。

「俺はともかく、君をおいて死にたくない。
 一緒に死ぬのも、なんだか納得がいかない。
 限界まで生き延びたいと思っているんだ」

「私だって無駄死にするつもりはありません」

「また敬語か……」

「え?」

「敬語は使わなくていいって言ってるじゃないか」

「気に入りませんか?」

「今は、2人きりだろ? ここは屋敷じゃないんだ」

太盛の語尾にとげがあった。太盛は、愛人の
ユーリとは対等な関係でいたいと思っていた。
矛盾しているかもしれないが、彼が愛しているのは
ユーリであって、メイドのユーリではないのだ。

「敬語は癖ですわ」

「なら、そんなクセは捨てちまえばいいのさ」

「クセは、簡単に治せるものではないのですよ」

太盛のスマホが音を鳴らした。ラインの着信音だ。

太盛は鼻を鳴らし、スマホを壁へ投げた。
ユーリがすぐにスマホを拾うと、顔をしかめる。

彼らの予想通りエリカからのメールだったのだ。

『お互いに頭を冷やす時間は十分にあったと思いますわ。
 娘や使用人たちもさびしがっていますから、そろそろ子供みたいな
 真似はやめて、家に帰ってきてくださいな』

ラインには動画が添付してあった。
エリカとの間に生まれた娘たちが太盛に
帰ってくるよう懇願している。

太盛は娘の顔を見た瞬間、涙がぽろぽろこぼれた。
外国語へ逃避しても娘のことは片時も忘れたこともない。

子煩悩の太盛の心理を揺さぶるエリカの作戦なのである。

またエリカからメールが送られてくる。

『いつまで既読スルーを続けるつもりですの?
 電話にも全然でてくれないなんて、さみしいです。
 あまり私を悲しませないでほしいですわ。
 力づくでも太盛様を取り戻したくなるではないですか』

太盛には娘が3人いる。
末っ子のマリンが一番のお気に入りだった。
太盛はマリン達に黙って
モンゴルへ逃げたことを後悔していた。

成田空港に着いた時からその思いが強くなった。
何度か本気で自殺しようかと口にしたが、
そのたびにユーリに止められた。

あの子は日本で平和に育ってほしかった。
父親と愛人の恋愛劇に子供たちを巻き込みたくなかった。

エリカは金を売るほど持っている。
太盛が消えても生活に困ることは、おそらく一生ない。

「お父様。ようやくお会いできましたわ」

だから、この声も幻聴だと思った。

ベッドに腰かけ、うつむいていた太盛が顔を上げる。

「日本でいくら探しても見つからないわけですわ。
 まさかモンゴルにいたとは。
 西洋趣味のお父様のことですから、
 EUにいるかと思っていました」

モンゴル風の衣装に身を包んでいる。
亜麻色のセミロングの髪、くりっとした愛らしい瞳。

ハキハキとして大人びた口調は、
間違いなく太盛の娘のマリンだった。年は9歳である。

「マリン……。いろいろ言いたいことがあって、
 なにから言えばいいのか」

「私も言いたいことが山ほどあります」

「こんなこところまでよく無事で来れたね。
 まさか一人で搭乗手続きを済ませたわけじゃないだろ?
 それにどうしてモンゴルの民族衣装を着ているんだい?」

「服は現地で買いました。ちょっとしたモンゴル気分を
 堪能しようかと思いまして」

「そ、そうか。ところでママは……」

「すごく怒っていますわ。それはもう盛大に」

「それはまずいな」

「ええ。まずいです」

ユーリは彼らが話している間、窓の外を警戒していた。
長い茶色の髪を後ろでまとめている。

「ユーリは追手がいないか見ているのね?」

「左様です。お嬢様」

「まだ大丈夫だと思うわ。途中でまいたから」

衝撃の事実に太盛とユーリが固まる。

淡々と述べるマリンの横顔は大人の女を思わせる。
危機的状況なことを分かっていながらこの冷静さ。
普通の少女ではないと思わせる何かがあった。

太盛達は家出中だ。
妻のエリカにばれないように成田空港まで向かうのは大変だった。

太盛は深夜のうちに多摩市の家を飛び出た。
ダミーとして国内のいくつかのホテルや旅館にネット予約までした。
表向きは使用人のユーリを連れての旅行ということに
なっているはずだった。

もちろんエリカは妻なので、使用人と二人きりの旅行など言語道断である。
疑い深く、根に持つタイプのエリカを敵に回したら、それこそ
地の果てまで追いかけられることになる。

太盛はエリカが苦手だった。

結婚は親同士が決めた縁談。
幸せだったのは結婚して数か月だけ。

エリカは夫を執拗(しつように)に束縛した。
太盛は家にいても会社にいても
妻の見えない影におびえるようになった。

過ぎた愛情だった。太盛が必要もないのに寄り道してから
帰宅すると、待っていましたと言わんばかりに尋問会が始まる。
太盛がどこへ行っていたか正確に答えないと
いつまでも質疑応答が続き、夕飯すら食べられない。

家に帰って来てから玄関で携帯を手渡すのは日常だった。
エリカは夫の仕事の内容もいちいち把握したがった。
連日の質問攻めのせいで太盛は激的にやせてしまった。

妻の説教を思い出す。

『うふふ。私だって好きでこんなことしているわけではありませんの。
 私は太盛様を困らせたくはありませんわ。ただ、太盛様には
 もう少し旦那様としての立場を考えた行動をしていただきませんと』

休みの日も妻といることを求められ、勝手な外出は許されなかった。
たとえば日用品を買いにスーパーに行くときも妻はついてくる。
学生時代に付き合っていた恋人にまで嫉妬され、
電話帳やラインから登録を削除された。

浮気防止のために会社の飲み会に参加することも禁止された。
会社では付き合いの悪い男ではなく、
極度の愛妻家として知られていた。全くの誤解である。

『そういえばさ、同期の○○さんが今朝の朝礼当番で
 役員連中が集まってる前で堂々とさ』

『それは女性の方ですか?』

『え?』

『太盛様と同じ部署の方なのですか?
 よくお話とかされるの?』

『いや、そんな。ただの仕事仲間なだけで……』 

夕飯時にこのような話になるのは日常茶飯事だ。
話の最中に女性の話が出るだけで妻は不機嫌になる。

アパレルショップの副店長の女性が好みのタイプだと
うっかり口にした時は大変だった。
エリカはその店の悪口をよく口にするようになった。
太盛がその店で買った服は、焼却炉で燃やされてしまった。

太盛は妻に幻滅し、父に離婚の相談をした。
太盛の父は資産家であり、権力者だった。

父の決定は絶対である。彼にとってこの世の理である。
離婚とはすなわち、父の組んだ縁談の破綻を意味する。

太盛は3時間も説教された。

そんな軽い理由での離婚など絶対に許さないと
堂々巡りの話が続いた。父はエリカの味方だった。
太盛が監禁に近い束縛をされてもなお、エリカの味方だった。

太盛は今年で33だ。成人してからも子供の時と
同じように父に叱られるのが情けなく、みじめに思った。

説教が終わるころには、すべてから逃げ出したくなった。
勤務先の会社にはインフルエンザと称して蒸発した。

そしてユーリと一緒に蒙古逃亡計画を立てた。

父が息子の逃亡を許すはずがない。
父とエリカは共同で作戦を練っている。
太盛もユーリもそれは承知していた。


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