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作品名:モンゴルへの逃避 作者:なおちー

第15回   15
次の日の朝。

マリンは食料を分けてもらいに村へ行き、
10時前には小屋に戻って来た。大量の干し肉だ。

羊、ヤギ、牛。日本のスーパーで量り売りしたら
けっこうな値段になりそうである。

「アルバイトでこんなに分けてもらえたのかい?」

「これはお金で買いました。村の人たちが町へ
 出荷する分として保存していた分なのですけど」

「お金があったんだね。カードは無事だったのか」

「はい。私は定期的に町へ行って銀行で
  お金を降ろしておきましたから、
  アルバイトをしたくないときは食料を買い込めますわ」

「岩塩、野菜もあるね。野菜が良く手に入ったな。
 これだけあればしばらくこの小屋でゆっくりできそうだ」

「はい。そのつもりで買いましたから」

知らないうちに季節は冬に近づいていた。

エリカといた時はまだ秋のような気がしたが、気のせいだったのか、
外は雪が降り始めている。粉雪が草原の世界に吹き荒れていた。

小屋の中にいる時はストーブをつけっぱなしだ。
貴重な燃料となる薪や乾燥したフンは
大量にストックしてあるから、三日は余裕でもつ。

「なくなったら、あとで俺が調達に行くから」

「いいえ。お父様はここにいていいのよ」

「それじゃマリンに悪いよ」

「こういう雑務は私に任せてください。
 私は体を動かすのが好きですわ」

「なら一緒に行こうよ。体の調子は良くなったし、
 毎日小屋にこもっていたら体がなまっちゃうよ」

なぜかマリンが悲しそうな顔をした。

太盛は直感で、マリンが自分を外に出したくないのだと考えた。
理由は分からないが、もしかしたらエリカやユーリが町や村で
生活しているのかもしれない。

マリンには太盛に合わせたくない人物がいると考えると、
なぜか納得がいってしまう。

「じゃあ、2人でゆっくり過ごそうか?」

頭を撫でてあげると、マリンの顔から悲壮感が消える。

そんな時に太盛の携帯が鳴った。

LINEのメール着信音だった。

太盛とマリンは思わず顔を見合わせた。

マリンは明らかに不愉快そうに、太盛はそもそも
自分が携帯を持っていたことに驚いた。

爆発で吹き飛ばされてから記憶も時間の感覚もあやふやだ。

いつの間にマリンとこの小屋で暮らすようになったのか、
そして部屋の中にマリンが町で買ってきたのであろう小物が
そろっていることも不思議だったが、もう考えるだけ無駄だった。

「レナからだ。パパのこと心配してくれてるみたいだよ」

「ふぅん」

「あれ? マリンはレナ達のこと気にならないの?」

「別に。向こうは向こうで気楽に暮らしていると思います」

マリンは唇をとがらせ、すねていた。

数年前、レナと父のベッドを争って喧嘩したことがあった。
どちらが夜に添い寝するかで言い争ったのだ。
レナがあきれた太盛にしがみつくと、
怒ったマリンがレナを叩いたのだった。

「エ、エリカからは着信が全くないんだな。めずらしい」

マリンはすごい顔で父をにらむ。太盛はあまりの迫力に思わずひるんだ。

四六時中旦那を追跡したがるエリカから音沙汰がないことは
確かに不自然なのだ。もっともマリンはその名前を聞いただけで
感情を制御できなくなっている。

太盛にとってマリンとは何か。自分の分身。小さな恋人。
ユーリを失ったさみしさを埋めてくれる存在。

普通の娘以上の感情を持っていることは確かだった。

「ところで」

マリンが話題を変える。

「私、楽器に興味がありますの。これでも演奏には自信がありますのよ」

「それは知ってるよ。マリンはピアノでショパンも弾けるんだろう」

「たまには違う楽器も弾いてみたいなと」

「違う楽器? ヴァイオリンとか?」

「エレキです」

「エレキって、エレキギターのこと?」

マリンがうなずいたので太盛は仰天した。

娘が幼少から親しんだクラシック関連の楽器を想像していたが、
まさかの現代風楽器である。

「君はロックの世界でプロを目指したいのかい?」

「そうではありません。気晴らしにギターを
 思いっきり鳴らしたいの。
 良い気分転換になりそうではないですか」

太盛は言うべきか迷ったが、結局言うことにした。

モンゴルの大草原には電力発電などのインフラがなく、
まずアンプに電源が入らない。

電子楽器をするには最悪発動機を持ち込む手段もあるが……

「私としたことが、うっかりしていましたわ」

マリンが本気で驚いた顔をしていたので、むしろ太盛が驚いた。
エリカに似て絶対音感を持ち、簡単なポップス曲なら
耳でコピーして鍵盤で弾いてしまう。
即興でピアノの伴奏で子守唄を作ることもあった。

ギターを鳴らしたいと思ったのは憂さ晴らしかと聞くと

「そうです」

と素直に答えた。

「ここに来てからいろいろなことが起きて心が休まる暇が
 ありませんでした。弾道ミサイルにおびえて暮らすのって
 こんなに疲れるものなのですね。
 あのゲルにいた時、音楽の先生がやってきてモンゴルの
 オカリナのような楽器を鳴らしていたでしょう?
 私はむしろエレキをガンガン鳴らしたいと思いまして」

「相当ストレスが溜まっているな……。
 ピアノの弾き語りよりロックを選ぶか」

「だって、ここにはピアノは持ち込めませんわ」

太盛はにっこり笑い、マリンの肩に手を当てた。

「マリンの気持ちは分かったよ。明日、天気が良かったら
 町へ行かないか?」

マリンは笑顔でうなずいた。

「お父様とデートだぁ」

「二人で出かけるの、すごい久しぶりだね。
 いつもあれが邪魔してくるからさ」

「本当、あの人は嫉妬深くて困りますわ。
 お父様とピアノの話をしている時もいつも
 横から入ってきて」

マリンは高揚していた。モンゴルに来てから
一番楽しいと思う瞬間だった。

大好きな人と明日出かける約束をして、期待に胸を膨らませる。

父と娘が買い物するだけでデートと言うには語弊があるかも
しれないが、本人たちがその気なら立派なデートである。

「町までは馬で行けばいいのかな?」

「車で行きましょう。ワゴン車が無事でしたから」

まさかと思って集落を見渡すと、確かにワゴンが無事だった。

奇跡にしてもできすぎていた。ミサイルで村がほぼ全滅状態なのに、
この小屋とワゴン車が無事な確率はどのくらいだろうと太盛は考えてしまう。

その日、マリンは父と他愛もないおしゃべりをし、
昼寝をし、軽い夕食を食べて早く寝た。

次の日。快晴のゾーンモドの町は人々でにぎわっている。

入り口には料金所がある。車で町に入ると必ず料金を払わなければならない。
車道は広い。大型車がすれ違えるほど幅がある。
歩道も同じように広かった。土地が広い国ならではだと太盛は感心した。

太盛は料金所でさっさと支払いを済ませた。

「テンキュ。ハバナイスデェィ」

蒙古なまりの強い英語に、太盛は片腕を上げて答えた。

町の中央部には役所や裁判所が並んでいる。
建物の規模から、ウランバートルほど
発展していないのが分かる。

町を行きかう人々は蒙古語で会話している。
太盛には何を話しているかさっぱり分からない。

看板標識もそうだ。アルファベットならともかく、
キリル文字で書かれているので一文字も読めない。

「たまには都市部に来るのもいいものだ」

日本ならば地方都市のレベルだが、草原暮らしで
感覚がずれた太盛からすれば十分に都市部なのだ。

「モンゴルにしては発展しているほうですわ。
 人もたくさんいる。この国は人より家畜の
 数のほうが多いそうです」

「へえ。人口が確か350万だよね」

「国土は日本の4倍ありますけど」

「外蒙古だけでそんなに?」

「はい。外蒙古だけで」

はたから見れば、太盛達は手をつないで歩く中の良い親子。
ぱっと見は同じアジア人なので蒙古人と間違われるかもしれない。

歩道を通り、信号を渡ってレストランのある通りに入る。

「ユーリ?」

太盛は隣にいるマリンにわずかに聞こえる声で漏らした。

通りからレストランに入っていく女性に
見覚えがあったのだ。黒髪のポニーテール。
色白でまつ毛が長い。もったいぶった優雅な足取り。雰囲気。

一瞬だったので見間違いだったのかもしれない。
しかし、もしかしたらという思いが胸を高まらせる。

「お父様?」

太盛はマリンを全く無視してレストランの扉へ手を伸ばす。

「行っちゃダメ!!」

娘の悲鳴のような叫びすら耳に入らなかった。

店内に入ると、ウェイターに何名かと蒙古語で聞かれる。
彼の視界に店員など入っていなかった。

素早く店内を見渡して例の女性を特定した。
テーブル席に腰かけ、太盛には背を向けている。

ウェイターの横を通り過ぎて女性に話しかけた。

「君はもしかして」

それ以上何も続け慣れなかった。ユーリと思われた女性は
全く別人で、育ちのよさそうなロシア人女性だった。
彼氏と思わしき男性も迷惑そうな顔で太盛を見ている。

「Sorry. I was looking for my girl」

太盛は英語で軽く謝罪し、店を後にした。
カップルは去っていく太盛の後姿を見ながら、
ロシア語で何事かひそひそと話していた。

「いったい、何をしていますの!?」

マリンは店の外で待っていたのだ。

「私を無視して勝手にお店に入っていくなんて!!」

太盛は、マリンに怒鳴られることはまずない。
それほど甘ったるい関係だった。

「ご、ごめん。なんだか無性にお店の中が気になってさ」

「うそ」

「え?」

「私、ちゃんと聞いた。ユーリがいると思ったんでしょ?
 でもね、お父さま」

これ以上は、聞きたくなかった。だがマリンは容赦なく続ける。

「ユーリはもう、この世にいないのよ?
 いるわけないでしょ。ミサイルで何もかも
 吹き飛んでしまったのよ」

冷たい現実が太盛の心を突き刺した。分かってはいた。

ユーリが毒の入ったカプセルをかみ砕いたこと。
あの時、拷問されるよりも一瞬の死を選んだこと。

あれがユーリの意思なら仕方ない。止める権利はない。
そして、そういう経緯に至ったのは太盛の責任だ。
太盛は一生彼女のことを後悔して生きなければならない。

「現実を受け止めて」

分かっている。それは分かっていると太盛は言いたかった。

「終わったことは仕方ないことだわ。全部お父様のせいでは
 ないと思う。一緒に屋敷から逃亡したユーリにも責任はあるわ。
 お父様がいつまでも塞ぎこんでいたらだめよ。前に進まなきゃ」

口で言うほど簡単なことではない。やり直せるなら、エリカと
結婚する前に戻してほしかった。こんな結果になると知っていたら、
誰が結婚などするものか。今は離婚すらできないアリ地獄なのに。

「でも大丈夫よ」

マリンが言う。

「だって私がいるじゃない。パパには私がいれば十分なの。
 私以外の人なんて必要ないでしょ?」

そういえば、と太盛は思った。

何年か前にレナとお風呂に入っている時に同じことを言われた。
レナはマリンに負けないくらい独占欲が強い。

2人は日常的にパパを奪い合っていた。
怒ったレナがマリンの背中をけり、
マリンが逆襲で髪の毛を引っ張るなどしていた。

太盛は一つ納得した。マリンは父を自分のものにしたいのだ。
もはや父に対する感情を超えている。

根底にあるのはエリカと同じなので不気味さはある。
だが自分の娘だから強い愛情がある。

血のつながりのないエリカよりは、ずっとかわいく思えた。
マリンがどう成長しようと、マリンは彼の大切な分身だ。

「そろそろ行きましょう? 
 いつまでもそこにいたら風邪をひいてしまいますわ」

レストラン街を超えて、大きな交差点を左に折れる。
すると食料品店やホームセンターなどの日用品の店が立ち並ぶ。

ひときわ背が高いのは、横並びのアパートだ。
ウランバトルと同じくソ連時代に建築した共同住宅。
すごく殺風景で夜は幽霊が出そうな雰囲気だ。

「行っちゃ悪いけど、ソ連時代の建物は刑務所みたいだね」

「あんなところに人がたくさん住んでいるのですね。
 中はどうなっているのかしら」

「アンテナが立っているから、
 テレビやネットは使えるんだろうね」

マリンは太盛の腕を組んでいる。先ほどのように絶対に途中で
逃げないようにしていた。太盛は娘の強い束縛に少しおびえながらも
会話しながら歩く。

「スマホの地図だと楽器店がこの辺りにあるはずですけど」

「もう通り過ぎてないか? この赤印は少し北にあるぞ」

「でも、あっちにあるのはただの民家……」

「あれであってるんじゃないか? 
 看板はないけど、もしかしたら店なのかも」

横断歩道を渡って向かい側の通りへ。
GPSが示した場所へたどり着いた。

民家と思われた二階建ての家は、
一階部分が楽器店になっていた。

店主と追われる人から流暢なモンゴル語で言われるが、
当然太盛は返せない。マリンの出番である。

ピアノを探している旨を伝えると、
店主はお店にある一番大きなピアノを指した。

日本の家に置いてあるスタインウェイとは比べ物に
ならないほど小さい。それに手入れされていのが一目でわかる。
マリンは、ほこりで汚れたピアノイスに腰かける。
鍵盤を軽く叩くと、不愉快そうな顔をした。

「調律していないでしょう?」

と主人に言うと、半年くらいは放置しているという。
マリンはあきれてしまった。
この町ではめったにピアノが売れないためか、それとも
ただめんどうだからしないのか、そこまでは聞かなかった。

「まあいいわ。試しに弾いてみましょう」

乾いた音が、店内に響いた。

シューマン作曲の子供の情景から第1曲から始まり、
第七曲のトロイメライまで通しで弾いた。

主人と太盛は戦慄の美しさとなめらかさに圧倒された。

ピアノの調律をさぼっているせいで音は小さく、濁っている。
それを感じさせないほど、低音は深く心に染みわたり、
高温がさわやかに歌う。

「こんなピアノでもここまで……」

太盛は感心した。
店主も鑑賞者の一人になってしまっている。

不思議なお話。おにごっこ。おねだり。
作曲者はこの曲集を、子供心を描いた大人のための作品と称した。

マリンの指は強弱をたっぷりとつけ、曲集ごとに調子を変えて
鍵盤の上を動き回る。左手で力強く低い鍵盤を叩くと太盛は息を飲んだ。

マリンのピアノはユーリに指導されていたのは聞いていた。

太盛がマリンと一緒に遊ぶとエリカが嫌がるので、しばらく
マリンのピアノを聴いてなかった。娘の素晴らしい上達ぶりは、
この道で進んでも問題ないと思わせるほど。

言葉で説明できないが、この子の旋律には説得力がある。

第七曲が終わるまで時間にして20分程度。
もう終わってしまったのかと、太盛は思った。

演奏中、彼の脳裏に浮かんでいたのは家族との思い出だった。
子供たちが幼稚園に行っていた頃が花だった。

ユーリは上達の速いマリンにピアノを教えるのが好きだった。
土曜の朝は2人で音楽室にこもっていた。エリカも弾けるが、
ユーリほどではない。ユーリは小学生の時から何度も賞を
受賞しているから、実はピアノの先生として食べていける実力はある。

姉のカリンは、マリンのぶっきらぼうな演奏に腹が立って
よくケンカした。読書が好きなカリンは自然と聞こえてくる
マリンのピアノの音に我慢できなかったのだ。

マリンも最初から上手だったわけではない。何度も同じパートで
つっかえては、ユーリの見本を聴いてから同じように繰り返す。
特に左手で鍵盤を強く叩きすぎるくせがあったので、カリンは低音が
うるさいとよく文句を言ってきた。

シューマンの曲は、ユーリが教養の一環として
子供たちに聴かせていたものだった。進んで習いたいと
言ったのはマリンだ。他の姉妹は楽器に興味はなかった。

ユーリが残してくれた曲。
彼女の存在がピアノの旋律に化けてしまった。
太盛はまた、哀しくて胸が張り裂けそうになる。

「いやぁ、驚いたよ。
 お客さんでこんなにうまい人が来るとはね」

店主は拍手して褒めてくれた。太盛もつられて拍手をする。

「君はピアニストの家系か?」

「そういうわけではありませんわ。
 ピアノは趣味でやっています」

マリンはお店の主人と長話をする気になれなかった。
ピアノを粗末に扱う人は、例え外人であっても好意を持てない。

結局、楽器を買う気にはなれず、その店を出た。

「今度はきちんとした楽器店に行きたいですね?」

「そうだね。
 どこかにチェーン店のようなとこがあればいいんだけど」

11時を過ぎ、小腹がすいてきた。

適当なレストランに入る。日本で例えるとファミレスに近い。
マトンを中心とした肉料理とパンを注文した。

店内はそこそこにぎわっていて。遠くのテーブルから日本語の
話し声が聞こえてきてうれしくなった。見ると初老の夫婦だった。
蒙古を旅行中なのだろう。還暦を過ぎても仲睦まじい様子が伝わってくる。

太盛は、自分とエリカは絶対にああはなれないどろうと思った。

「はいお父様。あーん」

「ちょ」

肉の刺さったフォークを差し出されるが、思わずあたりを
見渡す太盛。隣のテーブルの人達がじろじろと見ていた。

中国人の学生たちだ。6人掛けの席に座って北京語か広東語か
分からない言語で元気そうに騒いでいる。話しているのだろうが、
中国系は声がでかいので騒いでいるように聞こえるのだ。

「どうかしたのですか?」

それはこっちのセリフだと言いたくなる。
もたもたしているとマリンの機嫌が悪くなりそうだ。

そうなると、あとが怖いので太盛は従った。

「タぁめん るィベンレン. ブゥシィ フゥムゥ」

学生たちに何か言われているが、気にせずマリンに食べさせてもらった。
一度で終わるかと思ったら、マリンの皿が空になるまで続けられた。

マリンはパンとサラダ以外、ほとんど口にしなかった。

「それで足りるのか?」

「今日はあまりお腹がすいていませんの」

それで太盛は何となく察した。
マリンは不機嫌になると急に少食になるのだ。

逆に気分が乗る時はけっこうな量を食べる。
嫌いなものはほとんどなく、姉妹の中で一番良く食べた。

「なら甘いものでも頼むか? チーズケーキとか」

「いいえ。けっこうですわ」

やんわりと答えるので一見するといつも通りだが、
我慢しているだけだ。
この子はエリカのように人に怒りをぶつけるよりも
自分の内側に本音を隠してしまう。

太盛がユーリの件で茶番をしたのを申し訳なく思った。
朝一番でデート気分が台無しになった。

店を出る時は、太盛の方からマリンの肩を抱き寄せた。
マリンはおとなしく着いてきた。

スーパーの食料品売り場で保存食を買うことにした。
日本のカップヌードルが普通に売られていた。

「これ、日清ですよね? アルファベッドで書いてある」

「そのようだな」

小麦でできた菓子を買った。ラベルにはキリル文字が満載だが、
パッケージの写真でだいたい分かる。
蒙古ではお菓子のことをボーブという。子供たちに大人気だ。

お菓子の隣にパンコーナーがある。
カットされたライ麦パンが売られていた。
この種類のパンは、日本でまず見ない。

そして野菜コーナー。
野菜は草原ではまず手に入らない。
草原で暮らしは乳製品と肉中心なので野菜を食べる機会がほぼない。

野菜は中国、韓国から輸入されたものが中心だ。
果物も同様である。

そして保存食の王道である缶詰。缶詰コーナーは
壁一面を埋め尽くし、高さは天井にまで達するほど膨大だった。
どれも各国から輸入されたものばかりで欧州製が多く並ぶ。

「これじゃ選べないぞ」

「町の人のおすすめがあるそうです。
 このピクルスのような酢漬けなのですけど」

マリンが細長の瓶を取る。

「調理しなくてそのまま食べられるから便利だそうです。
 パプリカなどが入っていて、外国人でも食べやすいそうです」

太盛は納得し、買い物かごに入れた。

レジは欧州と同じベルトコンベアー式だ。
レーン上に商品を置いていく。

「袋はいりますか?」

太盛は女性定員の言葉が分からず、またマリンに引き継いだ。

「大きいのを三つください」

「はい」

マリンは蒙古語に堪能だった。

ここに来てまだ一か月足らずなのに簡単な受け答えは
さっとできてしまう。

太盛が言葉で褒めるよりもマリンの頭に手を置いた。

マリンは口元がゆるんだ。父に褒めてもらうのが好きで、
楽器の演奏も学校の勉強も頑張って来たのだ。

ワゴン車に荷物をすべて入れてしまい、あとは町を出るだけだ。

「また料金所かよ、くそ」

日本人には余計な出費にしか感じられない。
文句を言っても仕方ないのでおとなしく払う。

「心配しないで。お金ならありますから」

実の娘は億単位の金の入ったカードを大切に持っている。
外国暮らしで金銭に困らないのは最高の精神安定剤だった。

大草原を南に走る。日が暮れるのが早い時期だ。
西日が差している間に帰るのが得策である。

太盛達の住みかの集落跡地が見えてきた。

謎の弾道ミサイル5基の着弾により廃墟と化した集落。
奇跡的に無事だった小屋の前に見慣れない車が止まっていた。

「ようやく帰って来たのね。 
あなた、こんな時間までどこへ行っていたの?」

太盛は保存食とペットボトルの入った重い袋を入り口に落とした。
小屋の入り口でエリカが腕組して待っていた。いかにも機嫌が悪そうだ。

「なぜおまえがここにいる?」

「なぜ?」

エリカは眉間にしわを寄せた。

「理由が必要なのかしら。 
 私があなたの妻だからに決まっているでしょ。
 それよりその袋はなに。買い物してきたの?」

「そうだ。おまえはいつからここにいたんだ?」

「午前中からずっとよ。ちょうどあなた達と
 入れ替わりになったのね」

エリカが一瞬だけマリンをにらんだのを太盛は見逃さなかった。

「楽しい買い物だったようね?
 朝からずっとなんて」

また、昔のように質問攻めが始まろうとしていた。

太盛はマリンをエリカの魔の手から守るために
彼女の肩を抱き、自分のそばに寄せた。

「お、お父様?」

「まあまあ。汚らわしいこと。
 太盛様は幼女趣味がありましたのね。
 前からそのような予兆があるとは思っていましたが、
 今、確定しました」

エリカからの侮蔑の視線を太盛は正面から受け止めた。

自分は独りではない。強い娘のマリンがそばにいる。
それの思いが彼を大胆な行動に走らせていた。

マリンも地の果てまで父へ着いていくつもりだった。

「意味不明ですね。父と娘が仲良くすることは
 良いことではないですか。私はお父様と一緒に
 いたいからこうしているだけです」

エリカとマリンが視線を交差させる。
両者とも真顔で無言である。

太盛はあまりの殺気に鳥肌が立つほどだった。
妻と娘。この2人は家族ではなく純粋に一人の男を
めぐって争っていた。

エリカはすでに怒りの限界を超えていた。
怒りを通り越して逆に行動が定まらず、
5分ほど黙っていた。

マリンも相手の動きをうかがっていて、
彼女から動く様子はない。何かされそうになったら
物理的手段で反撃するつもりだった。

まさに一触即発だった。

太盛はさすがに耐えられなくなり、エリカに対し口を開く。

「なんだ。文句でもあるのか? 
 俺が大切な娘と買い物したのがそんなに気に入らないか?」

「いいえ。私は自分の夫が子供好きの変態だったとしても
 受け入れる覚悟でいますから」

「おまえ、けんか売ってるのか?」

「先に無礼な態度をとったのはそちらだと思いますけど?」

今度は夫婦でにらみ合いになった。
これを屋敷時代にやったら太盛はとっくに護衛に押さえられて
収容所行きになっている。

「つまらないことで争っても無意味ですわ」

マリンが冷たく言う。

「お父様。今日は早く寝てしまいましょう」

「待ちなさい」

エリカの怒気を込めた声にマリンは身構えた。

「あなた、いったい誰と一緒に寝るつもりだったの?
 4年生にもなってみっともない。早く父親離れを
 しなさいといったでしょう? 夜は独りで寝なさい」

「ここは蒙古です。どうしてここでもあなたの言うことを
 聞かないといけないのですか? 私と彼のことに口出し
 しないでください」

「かれ?」

まるで恋人に対する言い方である。

エリカはその言葉の響きを心から不快に思った。
拳を握り、歯を食いしばっている。

「バカなことを言うのもいい加減にしなさい」

「母様こそバカなことをいつも言っているわ。
 太盛パパを束縛するのは無意味だと何度言ったら
 分かるのかしら。パパには私のほうがいいんだから。
 パパはあなたより私を選んだのよ。
 あなたはもう選ばれないの。モンゴルまで
 追いかけて来たあなたのほうこそみじめよ。負け犬よ」

エリカは感情にまかせ、マリンの頬をひっぱたいた。

マリンは頬にじんわりと感じる痛みでぶたれたことに気づいた。
それほど一瞬の出来事だったのだ。

マリンは言いようのないほどの怒りに支配された。
近くに水のペットボトルがあったので、エリカの顔面に
投げつけてやろうと思った。

太盛は娘の手から素早くペットボトルを取り上げた。
怒りに狂っているマリンをなだめるために抱きしめる。

「今日はパパと一緒に休んで忘れよう。
 エリカにはあとで俺から言っておく」

マリンは息が荒い。目も真っ赤だ。
ほおっておけば今にもエリカに飛び掛かる猛獣と
化している。太盛はしゃがみ、エリカから
かばうようにマリンを抱きしめている。

マリンの顔は太盛の胸に隠れてエリカから見えないようにした。
エリカの殺意の視線が太盛の背に注がれるが無視だ。

エリカはいっそ2人とも殺してしまおうとすら思った。
だがエリカがここに来たことは夫を連れ戻すことだ。

武力行為が逆効果なのは分かっている。
だから、時には引くことも考えなければならない。

「もういいわ」

腹の底から出たような低い声で言う。
コートを着て立ち上がるエリカ。
耳までおおう毛皮の帽子をかぶる。

「こんな時間に出かけるのか?」

「マリンといると最高にストレスなの。
 今日は町のホテルに泊まるわ」

昨日姿を見なかったのはそういうわけかと太盛は納得した。
エリカと過ごした晩は、逆にマリンが村のゲルに泊まっていたのだ。

「私、明日にでも新しいゲルを買おうと思っていますの。
 よろしかったら太盛様もご一緒に」

「もちろんマリンも連れていくぞ?」

エリカが大きすぎる舌打ちをした。
すぐに頭を切り替えて続けた。

「それはかまいませんわ。ゲルを設置したら携帯に連絡します。
 うふふ。私からの連絡を無視しないでくださいね?
 実はあなたに無視されるのが一番我慢ならないの。
 覚えておいてね」

エリカは人差し指でテーブルを指した。
太盛はテーブルに置かれたブルーのスマホを手に取る。

エリカが太盛のために買ってくれた新しいスマホだった。
もちろんエリカと連絡するための物だ。
他の人の情報は何も入っていない。

モンゴルで買ったのだろう。
キリル文字表記になっていないか確認すると
日本語だったので安心した。

「それでは」

エリカがいなくなった。

殺伐としていたテントは嘘のように静かになった。

太盛は安堵のため息を吐く。

「お父様が止めなかったら、私があの女を刺し殺していたと思うわ。
 私、これでも力はあるほうよ。放牧で鍛えられているもの。
 あいつと暮らすなら死んだほうがまし。娘に夫を取られたのは
 自分に魅力がないからじゃない。どうして認めないのかしら。あの小姑」

「あんな奴のことは忘れよう」

「やっぱり殴り返してやればよかった。
 まだほっぺたがひりひりする」

太盛が急いで濡れタオルをマリンの頬に当ててあげた

「どうか落ち着いて。今はパパと2人っきりだろ?」

「でも許せない!!」

太盛がひるむほどの大声だった。
彼はかわいそうな娘にかけてあげる言葉が見つからなかった。

マリンも父の前で取り乱す自分のことがはしたないとは
自覚していた。モンゴル来てから不便な生活を
続けて彼女も相当なストレスを抱えていた。

ずっと押し殺していた感情が今表に出たのだ。

「お父様が最初からマリンのそばを離れなければよかったのよ」

母の高慢さは今に始まったことではない。母を嫌って
愛人と家を飛び出した父。マリンには一つも話してくれなかった。
太盛のやっていることはただの現実逃避。身勝手が過ぎた。

太盛が何も告げずに家を出たのは、マリンの身を案じてのこと。
太盛とユーリはつかまれば拷問されることは覚悟していた。
だからもしもの場合のために青酸カリ入りの小型カプセルを
持ち歩いていた。

ナチスの高官たちが戦時中に使用したものだ。

「パパはバカだったよ。マリンがこんなに立派に成長していることを
 知らなかった。ちょっと前までは子供だと思っていたけど、
 今ではモンゴルでしっかりと生きていける力を持っている」

太盛はマリンの涙で濡れた顔をハンカチでふいた。

「マリンはパパの大切なパートナーだ。いてくれないと困る。
 パパはマリンなしだと生きられないと思う。
 こんな世界に来ても俺の娘はマリンだけだ」

頬にキスした。マリンが口にしてほしいと
言うのでその通りにした。幼稚園の頃は
お出かけするたびにキスしてあげたものだ。

マリンは父の首の後ろに手を回し、
コアラのように抱き着いた。

「お父様の匂い、好き。安心する」

普通は近親者の匂いは遺伝的に避けるものだが、
マリンにはそういう様子は全くなかった。
まさしく小さな恋人と言う表現がぴったりである。

マリンにとって双子の姉が邪魔することもなく父を
独占できるので都合がいい。独占欲が満たされる。

エリカがいなくなって安心したためか、太盛は急な睡魔に襲われる。
マリンはもっと相手をしてほしかったが、気持ちよさそうに
眠る父を起こす気にはなれなかった。

父の体温を感じながら一緒にベッドで丸くなった。

2人は夕飯を食べずにそのまま寝てしまった。


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