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作品名:モンゴルへの逃避 作者:なおちー

第14回   「君はマリンだよね?」
「マリンはさ」

自分でもなぜ問いかけたか分からない。

「はい?」

マリンはおたまで鍋をかき回す手を止め、
太盛と目を合わせた。

「君はマリンだよね?」

「どういう意味ですか?」

「いやね。ちょっと自分の記憶があやふやなんだ。
 長い夢を見ていたというか」

「そんなにおかしいと思うなら、ほっぺたを
 つねってみればいかがです?」

言われた通りにすると、確かに痛みがある。

まさかと思って小屋の外に出ると、中部モンゴルの寒空が
広がっている。風が強く吹き荒れ、肌を突き刺す。
日本の関東の寒さと質が違う。寒いというより痛い。

今日は曇り。日中でも氷点下になるほどの寒さだった。

「風邪をひきますよ?」

マリンが扉を閉め、太盛をストーブの前に座らせる。

見た目は小型なのにストーブの火力はすごい。
太盛は上着の袖をまくった。
彼は上下スェットという日本スタイルを極めていた。

寝巻変わりだからいいもの、こんな格好で外を歩いたら
それこそ凍傷になりかねない。

「足元が冷えるでしょうから、ウールの靴下をお履きになって」

言われてから太盛は自分が素足なことに気づいた。
残念なことにエリカと寝た時にどんな
服装だったから覚えていなかった。

「ちょっと、火を使っているから危ないですわ」

太盛はマリンを後ろから抱きしめていたのだ。
マリンがここにいることが心霊現象の一種化と
思ったが、確かに人間のぬくもりがある。

髪の匂いもする。みずみずしくて柔らかい手触り。
間違いなくマリンの髪だった。蒙古の観光した空気でも
この髪質を保てるのはマリンだけだと太盛は思っていた。

「でも、少しうれしいです」

マリンは炊事の途中でふざけるのは
あまり好きではなかったが、
大好きな父だから特別に許してあげた。

「寝起きで喉が渇いているでしょうから、
 スーテーツァイをお飲みになって。
 すぐ目を覚ましますわ」

マリンは茶も作ってくれたのだ。暖かい茶を飲むと、
ミルクティのような見た目とは裏腹に塩見が強い。

太盛は一瞬で頭がはっきりした。

マリンが羊肉をお椀に盛りつけた。揚げパン
やチーズなど、出されたものは何でも食べた太盛。

「お父様ったら、そんなにお腹がすいていたのね」

マリンはあきれつつも、残さず食べてくれたことがうれしかった。

「マリンはお昼を食べて来たんだっけ?」

「はい。お昼はゲルの中で奥さんたちが食事をとりますから。
 私も仲間に入れてもらいました。お昼はいつもの白い食事ですわ」

「白い食事。つまり乳製品やパンを食べたわけか」

「特に変わったことはありませんけど、
 どうしてそんなことを聞くのですか?」

話を聞いていると、マリンは近くの村に毎日アルバイトを
しにいっているようだった。マリンは放牧、家畜小屋の掃除、
フェルト作りや裁縫など、およそモンゴル人のする仕事を
ほとんどこなしていた。

夜遅くまで働くわけではなく、日によってばらばらだ。
今日は早朝から午前中まで放牧をして帰宅したのだ。

この廃墟と化した荒野の中の小さな小屋まで。

「なあ、マリン。エリカとユーリは……」

その話題になった瞬間、マリンは明らかに嫌そうな顔をした。
父をにらむことはしなかったものの、激しく不快そうな雰囲気だ。

「なんですか?」

語尾が強い。太盛はひるみそうになった。

だが、聞きださなければならない。エリカは四六時中太盛の
近くにいなければ気が済まない女だ。磁石みたいな女だ。

エリカがここにいない理由を彼はただ知りたかった。
そして修羅場のさなか、毒をあおったユーリがどうなったかも。

「マリン。怒らないで聞いてほしい」

「私は怒っていません」

太盛は深呼吸をした。

「エリカはどこに行ったんだ?」

「エリカ?」

マリンは片目を細め、あさってのほうに視線を向けた。
不快感を隠そうともしない。
令嬢とは思えないほど下品なしぐさだった。

「さあ? 知りませんわ」

「知らないって……」

「あんな女がどこで何をしていようと私には関係ありません」

これ以上聞いたら、マリンを本気で怒らせる。

太盛は娘におびえていた。蒙古に来てから娘の生活能力の高さを
見せつけられ、ある意味エリカより恐れ多き存在となっていた。

太盛は本能からマリンと離れたらこの世界で
生きていくことはできないと気づいていた。

マリンは遊牧民たちの仕事を進んで覚え、
報酬を手にした。蒙古語にもずいぶんなれていて、
簡単な会話から仕事用語も現地語でこなす。

彼ら家族の中でもっとも
蒙古の生活に適応したのはマリンだった。

「ごめんな。あんな奴のことなんてどうでもよかったよ」

太盛は娘に配慮して言った。

父に親としての威厳がなくなっていることに気づいたマリン。
マリンは脅すような言い方をしたことを申し訳なく思った。

「いえ。私も少し感情的になってしまいましたわ」

少し決まずい雰囲気になったが、マリンの一言で丸くなる。
二人はしばらく見つめあったと、どちらともなく笑った。

父が手招きすると、マリンが
吸い寄せられるように腕の中で丸くなる。

「俺にはマリンがいればそれで十分だ」

耳元でささやくと、マリンはすっかり頬が赤くなってしまう。
血のつながった親子なのに、マリンは恋人と
過ごしている気分になっていた。

マリンは幼少から父に良く面倒を見てもらった。
分からないことがあると父より母を頼った。

父は子煩悩でマリンにべったり。
使用人たちから見てもレナとカリンたちより
マリンを溺愛していた。

それがエリカは気に入らなかった。

太盛はマリンにお出かけの前と寝る前のキスをしてくれた。

頬にするだけの軽いキスだ。幼稚園児なら可愛いものだが、
小学生になっても続けようとすると、
エリカが烈火のごとく怒ってとめさせた。

お風呂に入るのもできるだけ一人で入りなさいと
しつけたが、マリンは母の目を盗んでは父と一緒に入りたがった。

それは小学校の中学年になっても変わらなかった。

学校から帰ってきて、宿題や課題はすぐに終わらせて
父が買ってくるのを楽しみにするのが日課だった。

夕食後、父が疲れてソファでうたた寝をしていると、
マリンもおとなしく隣にいた。つけっぱなしのテレビを
眺め、ただ父のそばにいるだけで彼女は満足した。

いつしか父が好みそうな髪型や服装まで考えるようになると
母に怒鳴られることもあった。

『早く親離れをしなさい。太盛様にも迷惑でしょ。
 ファザコンをこじらせると、ろくな子に育たないわ』

父はマリンを一番に愛していた。

姉のレナやカリンと差をつけるのが
残酷だと理解していても、
末娘のマリンが可愛くて仕方なかった。

妻への不満のはけ口をマリンに
求めていたことがあったのかもしれない。

二人きりで買い物に行くときは手をつなぐのはもちろん、
マリンは大人ぶって腕を組む時もあった。

エリカは二人が仲よさそうに話しているだけで
怒りがこみ上げてきて、すぐ邪魔をするのだった。

『太盛様がマリンの近くにいるのは好ましくありませんね。
 自分の夫に幼女趣味があるなんて世間に知られたら大変ですわ』

休日に太盛を夫婦の寝室に軟禁し、子供部屋に
入らせないようにしたことがあった。

食事も時間をずらして親子別々に食べさせるなど、
小姑のようなことを平気でした。

太盛は妻に失望し、マリンは母に敵意を抱くのだった。

太盛は毎日無理やりエリカの話し相手に付き合わされ、
つまらない話にも楽しそうに合図地を打たなければ
怒られることもあった。ベッドで寝るのもとっくに飽きていた。

太盛にとってエリカは家族なのだ。

恋人時代のときめきはよみがえらない。
口うるさい女は大嫌いだった。

『今月もマリン様のピアノは順調ですわ。
 中級コースの練習曲で引っかかるところはありません。
 来月のテストで中級レベルを卒業できるかと』

ユーリは使用人であり家庭教師でもあった。

彼女は裕福な家の生まれでピアノが弾ける。
大学で外国語学部を先行したので英語と中国語が話せた。

マリンに英語を教えたのは彼女だ。

『いつもマリンの面倒を見てくれてありがとう、ユーリ』

父に代わって愛娘を教育してくれるユーリは貴重な存在だった。
ユーリはマリンの成長の過程を詳細に報告してくれた。

エリカがお風呂に入っているときなど、わずかなすきを
見つけてはユーリと会話する時間を作っていた。

エリカはユーリにはなぜか無関心だった。
太盛と屋敷の話をしていても
邪魔してくることはめったになかった。

エリカにとってマリンが目ざとくて
ユーリまで目がいかなかったのだろうか。

『誰も見てないから、目をつぶってくれ』

深夜の階段の隅で、彼女の唇を奪ったことは良い思い出だった。

トイレに起きるふりをして、彼女を呼び出して愛を確認するのが
太盛の至福の時間だった。

エリカに対する冷めきった愛情ではなく、燃え上がるような
本物の恋だった。世間的には浮気だが、太盛はそこまで
重く考える人間ではなかった。

「さっきからずっと黙っていますけど」

問い詰める視線。

「ごめん」

太盛はマリン以外のことを考えるのを許されない。
この小さな小屋には、太盛とマリン以外の人間はいない。

「どうして謝るのですか」

マリンは太盛をよく観察しているから、
物思いにふけっている太盛が、
ユーリのことを心配していることに感づいたのだ。

ユーリは奥歯に仕込んでいた毒のカプセルを噛んだ。
それにあの爆発。普通に考えていれば生きているわけがない。

昼下がり。満腹になると太盛の頭に浮かぶのはユーリのことばかり。
姿は見えなくても彼女の存在が忘れることはできなかった。

「先ほどからずっと考え事をしているようですけど、
お父様は私といるのが楽しくないのですか?」

少なくとも太盛がユーリをここに連れてこなければ死ぬことはなかった。
エリカから逃げるために遊びめいた逃避行をした。
今考えれば取り返しのつかないことをしてしまった。

「そんなことはないさ。いろいろ考えることがあってね」

太盛は絨毯の上にあぐらをかいている。
隣に密着しているマリンは、彼の右腕を少し引っ張った。

「まだ考えることがありますの?
 お父様はマリンさえいれば十分だと言いました」

「そうしたいよ。そうしたいけどね、
 簡単に割り切れるものじゃないんだ。
 俺は家族を失ったんだよ。大切な家族を」

「私もお父様の家族です」

「それはそうだけど」

「考えすぎると体に良くないですわ。
 少しお昼寝しましょうか?
 寝れば記憶が整理されて頭がすっきりしますわ」

マリンは、はだけた布団を元通りにして枕を二つ並べた。

この小屋はモンゴル人の老夫婦が使っていたものだ。
ベッドは2つあるのだが、初めからマリンは
父と同じベッドで寝るつもりだった。

寝てしまったら、また目が覚めた時にエリカがそばに
いるんじゃないかとおびえる太盛。あの時のエリカは
別人のように穏やかで優しかった。少し怖かった。

「寒いなら、もっと毛布を増やしましょうか」

「遠慮するよ。寒いからふるえているわけじゃない」

太盛は力を込めてマリンを抱きしめた。
マリンの身長は背伸びして太盛の肩に届くくらい。
抱き枕代わりにちょうど良かった。
胸元に娘の吐息を感じた。

亜麻色の髪をなで続けた。肩を少し超えるくらいの
長さだったのが、腰のあたりまで達している。
長さは姉のレナと同じくらいだった。

「はぁ、もう眠くなっちゃいました。
 お父様の腕の中にいると安心しちゃうのかしら」

そう言ってマリンは眠りについた。朝は5時半には
起きて、よその村へ手伝いに行っているという。
爆風から辛うじて難を逃れた
家畜小屋には、マリン用の馬がいる。

大人の自分が役立たずなのに、娘が寒い中
必死で働いていることに申し訳なる一方、
たくましく育ったマリンが愛おしくなった。

太盛はマリンの頬にキスをした。
マリンは短く言葉を発したが、夢心地だ。

太盛は起きたばかりなので少しも眠くない。

ただ、マリンが起きた時にそばにいてあげないと
また怒らせてしまうのが怖くて、燃え盛るストーブの
炎をながめながら、いつまでもそこにいた。


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