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作品名:孤島生活  作者:なおちー

第9回   「ルイージ襲撃事件のあと」 A
ルイージの襲撃が与えた影響は大きかった。

孤島での生活の厳しさとは、過酷な自然環境や生活物資の確保ではなく、
第一にルイージのような不審者の侵入を許してしまうことにあった。

誰もが不安と戦う日々。口には出さずとも、この島での生活が
いつ終わってもおかしくはないと全員が覚悟するようになった。

やがて人間関係に変化が表れる。


「太盛様ぁ。今日もお外に行ってしまいますの?」

「……日課の木こり仕事があるからね。
  それに日中に家でじっとしているのは性に合わないんだ」

太盛は朝食を食べ終え、新聞を広げながらコーヒーを飲んでいた。
エリカも同様だ。ここに子供たちはいない。双子は朝寝坊。
朝に弱いマリンは正午近くならないと起きない。

エリカは子供たちのことなど気にもしないで
太盛の隣の席に座って語りかけていた。

「薪(まき)の備蓄は十分にあるではないですか。
  石油も定期的に船で送られてきますわ。
  今日くらい、わたくしと一緒にいてくれてもいいではないですか」

エリカはうるんだ瞳で太盛を見上げていた。

「うーむ」

30代の女のする顔ではないと太盛は思っていたが、
整った妻の顔だと実にさまになっている。
一流女優の演技を見ているようだった。

「太盛様ぁ、こっちは準備できましたよ」

玄関の前でミウが声を張り上げた。ジャージ姿で帽子をかぶっている。
太盛との木こり仕事はミウにとって
合法的に二人きりになれる絶好の機会であった。

(ち……またあの女か)

太盛は妻のこの顔を何度見たことだろうと思っていた。
嫉妬に歪む女の顔である。エリカは表情を作るのがうまい人なので
一瞬で鬼の顔を隠してしまうのだが、太盛にはバレバレだった。

「ミウ。すまないけど、今日は家でエリカと過ごす約束があったんだ。
 薪割りは日を改めることにしようか」

「えー」

「ミウ。頼むよ」

「まっ、太盛様がそうおっしゃるのでしたら、仕方ないですけど」

太盛は、エリカがミウに見えない角度でガッツポーズを
しているのをはっきり見てしまい、落胆した。

前々から使用人の間で噂になっていたが、
エリカはミウのことを良く思っていなかった。

一方でミウも婚姻前の監禁事件以来、エリカに秘められたソ連的鬼畜さに
あきれてしまい、こんな女と結婚を強いられた太盛に同乗していた。

太盛とのアウトドア生活(いちおう仕事)は楽しかった。
家庭菜園、山の山菜取り、木こり仕事。どれも重労働なのだが、家計の足しにと
始めたことなので、あくまで副業的に行っている。

どんなに働いても半日程度で切り上げ、あとは散歩したりピクニックしたりと、
二人で思い思いの時間を過ごしていた。ミウは半分、自らが仕える主人との
デートの気分でいたのだが、なんと太盛も同じ気持ちだった。

太盛にとって浮気に等しい行為だが、前述した監禁事件は太盛の心を
決定的にエリカから突き放してしまった。ようするに妻が嫌いなのだ

太盛はハルカという本土に残した恋人もいたのだが、現在は音信不通だ。
なにせ島暮らしをしているので今更会うこともできない。
溜まり切ったうっぷんを、早朝散歩でユーリにぶつけてしまうこともある。

太盛はユーリの寛大さに心から感謝していた。
それと同時に、ミウにまで手を出そうとしている自分を恥じた。

それでも、浮気性の太盛が自制することはなかった。

「はぁ」

わざとらしく溜息をついて去っていくミウを太盛は
申し訳なさそうな目で見つめた。

(すまないミウ。あとでたっぷり二人きりの時間を作ろうな)

突然、テーブルをたたく音がした。

「あら、ごめんなさい。ここにハエがいたものでして」

エリカである。季節は11月を過ぎて12月の半ば。

庭中の草花が枯れて、家庭菜園の畑には
霜が降りるようになった。

ハエがいるわけがない。

これではもはや小姑(こじゅうと)と呼ばれても仕方なかった。
現にミウは心の中でエリカのことを小姑と呼んでいた。

「エリカ。よかったら後藤さんにココアでも淹れてもらおうか。
  僕の部屋で一緒に飲もうよ」

「うふふ。お願いしますわ」

エリカはストレスを感じると頭を押さえる動作をするくせがあった。
彼女の言葉を借りると目の奥が痛むようだ。

後藤がコーヒーを出すことが多いのを後で思い出し、
少し後悔する太盛。頭痛にはカフェインがよく効くのだ。

太盛が席を立つと、エリカが腕をからませて着いてきた。
さながら新婚夫婦の距離感である。

太盛は妙に接近してくる妻をいぶかしく思い、また
うっとおしいと思っていたが、へたくそなポーカーフェイスで乗り切る。

「ふわぁ。レナたち今日も寝坊しちゃったねぇ」

「寒いからお布団が気持ちいんだよね。
  またママに怒られちゃうのかな?」

レナとカリンが階段を下りてくると、その先に太盛とエリカがいた。
エリカと目が合う双子姉妹。

(やべ、怒られる!!)

いすまいを正して言い訳をしようとしたが、

「おはよう。ふたりとも。ご飯は食堂に用意してあるから、
のこさず食べるのよ? いいわね」

「はいっ。ママ」

「ふふ。食べ終えたらきちんと宿題をやるのよ?」

「はい!! 分かりました」

なんと、おとがめなしであった。

普段なら小言が確定であったのに、エリカ、まさかのスルーを選択。

双子は何か裏があるものだと思い、逆に恐怖を感じて
次の日は早起きをするのだった。

下手に叱るより効果のあるしつけであった。
もっとも、エリカにしつけをしたという自覚はない。

「今日は太盛様と二人っきりですわ」

ベッドに隣どうしに腰かけた夫婦。エリカは太盛の肩に頭を乗せ、
子猫のように甘えていた。太盛からひと時も離れたくないという
思いがよく伝わる。

太盛は妻の髪の匂いに色気を感じ、頭がぼーっとしてしまう。
性格はどうであれ、エリカは性的に非常に魅力のある女性だった。

本棚から適当な画集を取り出し、エリカの前で開いてみた。

「ルノワールですか」

「ああ。大学時代に印象派の画家にはまっていてね。
  ルノワールの肖像画は見事だが、
   風景画も悪くない。たとえば今の季節にはこれ」

と言って太盛が見せたのは『冬景色。庭の前』と
フランス語で題名が書かれた絵だった。

「まあ、すごい量の雪。北海道並みの積雪ですわ。
  夕日が雪に反射してきれい」

「ルノワールは冬が大嫌いな画家だった。特に雪を嫌った。
  彼はこう言ったんだ。なぜ冬の景色を描く必要があるんだい?
   雪は自然の病気じゃないか、とね」

「病気とまで言いますか。人によっては冬のほうが好きという方も
  いるでしょうに。そんな冬嫌いの画家が描いためずらしい絵なのですね」

「晩年はリューマチを患ったというから、ルノワールにとっては
  冬は憎むべき敵だったのかもしれないね。それよりも」

太盛は画家の言葉をさらに引用する。

春から秋にかけて、あれほど活発だった虫たちは姿をひそめる。
草木は枯れ果て、色とりどりだった花たちは散ってしまう。

家にこもる生活は憂鬱で、さみしく、陰気になる。
屋外での創作意欲もわかず、ただ辛抱してこの季節が過ぎ去るのを待つのみ。

「まるでロシア人の書いた詩のようですわ。
  今ちょうどこの島も真冬に差し掛かっている時期ですから、
  彼の気持ちがよく分かります」

「フランスの冬も長くて過酷らしいね。
  観光に冬だけはやめとけってよく聞くよ」

「それはそうですわ。雪だらけの街を観光したって楽しくないですもの」

エリカは本棚を物色していた。ルノワールの本の段には印象派の画集がずらりと
並んでいる。ゴッホ、ゴーギャン、モネ、マネ、セザンヌなど。
どれも日本人に人気のある画家ばかりだった。

その下の段には、中世キリスト教画家からピカソのような近代派まで、
実に幅広い蔵書の数であった。

「太盛さんの本棚は、本屋さんの売り場がそのまま移植されたかのようですわ」

「はは。ただコレクションしているだけだよ」

「やっぱり太盛さんは勉強熱心なお方ですわ。
  他の男性とは全然違うんですの」

エリカが会社勤めしていた頃は同僚で頭の良い男性はたくさんいた。
一流大学を出たエリートばかりの職場で、みな仕事は優秀だった。

だが、プライベートは反対にだらしなく、ギャンブルや
キャバクラ通いをしている連中ばかりだった。
特にひどいのが中年男性で、管理職の地位にいながら風俗通いや、
アイドルにはまって給料の大半をつぎ込んでいる猛者までいた。

エリカは彼らのお金の使い方を知って幻滅した。

いくら仕事が優秀で高給取りでも、会社を一歩離れれば
ろくでなしという男性はお断りだった。

「太盛様は歴史が本当にお好きですのね」

「それも大学時代からずっと読み続けているやつだね。
  歴史は何年研究しても飽きることはないから、最高の暇つぶしだよ」

本棚には歴史系、特に戦争関係の本が大量に集めてある。
近代史が多く、もちろんロシア革命、ソビエト史に関する本もある。

エリカはおじいさんの故郷であるソビエトには興味津々だった。
ソビエトに関することは何でも知りたがった。
ソ連の歴史と書かれた本をぱらぱらめくっては、

「わたくしは太盛さんの勤勉なところ、大好きですわ」

と言って笑った。嘘偽りのない笑みであった。

太盛はエリカの子供っぽい一面に驚いた。
新鮮な気持ちになり、気が付いたらエリカを抱きしめていた。

「太盛さん……」

「エリカ。おまえはおれのものだ」

つい、チャラい言葉が出てしまう。

太盛は勤勉とか勉強熱心という言葉に弱く、
女性に言われると舞い上がってしまったのだ。

少しの間見つめあった後、エリカがそっと目を閉じたので、
太盛はキスをしようとエリカの肩を抱き寄せた。

「失礼いたします。お茶のご用意ができました」

後藤が控えめにノックしたので、太盛はエリカから離れて素の顔に戻った。
食堂を出る前にホットココアと茶菓子を頼んでおいたのだ。

「では、ごゆっくり」

「いつもありがとう後藤」

ニコニコと笑いながら後藤は頭を下げ、廊下へ去っていく。

ホットココアは日本でも有名なオランダ製で非常にコクがあって甘い。
一口飲んだ瞬間に心まで温かくなってしまうほどに。

「後藤のココアはこんなに甘いのですね。
  少しカロリーオーバーかと思って今まで遠慮していましたが」

「そう思うなら少し運動するのが一番だ」

「でも私、体を動かすのはあまり得意ではないのです」

太盛は心の中で思った。

双子たちに強烈なサーブをお見舞いしていたテニスの授業は何だったのかと。
持ち前の運動神経と努力の結果が、あのテニスの腕前ではないのかと。

そのことをエリカに控えめに聞いてみると、

「テニスは……お父様にしつこく勧められてやっていただけです。
  好き好んでやっていたわけではないのですよ?
  確かに体を動かすと心がすっきりはしましたけど」

「エリカも僕と一緒に外を歩いてみるか?
  日中の暖かい時間ならそこまで寒くはないよ」

「そうですね。歩くだけなら、いい気分転換になりそう」


昼食後の午後1時、真冬の晴天である。
サングラスなしに見あげるのが辛いほど陽光が指している。

風はこの季節にしては比較的穏やかではあるが、
わずかな風でも顔など肌に当たる部分が凍り付くように寒い。

「冷凍ビームを受けているようですわ」

「ほんとだね」

「寒いけれど、太盛様と一緒に外を歩くのは久しぶりですわ。
  新婚のころを思い出しませんか?」

「懐かしい思い出だね。あれからあっという間に
  10年もたってしまったのか。
  ほら、新婚気分を出すなら手をつないで」

「はい」

島の外側は、一帯が海岸線になっている。
森へのルートとは違う方向を歩くとすぐ海岸にたどり着くのだ。

「20分くらい歩くとだんだんと暖かくなってきますね」

「僕なんて暑がりだからすぐマフラーを外したくなるよ」

2人とも厚めのコートを着込み、ニット帽やマフラー、手袋など
完全な防寒装備で歩いていた。ヒートテックの下着は歩けば歩くほど
発熱効果で体を温める。

「この時間じゃあ、あまり鳥は見られないか」

太盛が双眼鏡越しに見たのは、いつも海面に浮いているカモ類だった。
遠くの漁船の周りを飛んでいるカモメの集団もいる。

太陽光を浴びてキラキラ輝く海面のすれすれをカモメたちが飛び、
宙に飛び上がってはまた海面に急降下する。海面の魚を狙っているのだ。

カモメたちの動きを太盛は双眼鏡で追いかけていたが、
エリカは別の方向を見ていた。

内陸である森林地帯は、草木がすっかり枯れてしまい、
ルノワールの言うように冬特有の陰鬱な景色が広がっていた。

ふと強い風が吹いたので、エリカは身震いした。

別の海岸を見ると人影が見えた。
エリカたちも波打ち際にいるが、そこからはだいぶ離れた位置だ。
島の形に円を描くように、海岸は広がっている。

そこに立っていたのは、エリカのよく知っている人物だった。

「ユーリ……!?」

太盛は鳥に夢中でユーリに気づいていない。
エリカがじっくりとユーリを観察していると、驚くべきことに気づいた。

ユーリは波打ち際を見つめながら、ただ立ち尽くしていた。
いつものメイド服の上にグリーンのダウンジャケットを着てはいるが、
冬空の下じっとしているのは相当に寒いはずであった。

ユーリは微動だにせず、涙を流していた。

エリカにはその涙の理由が分からない。

ユーリの唇がかすかに動き続けており、独り言を言っているのは
間違いなかった。もちろんここからでは遠すぎて聞き取れない。


(この時間のユーリは洗濯物を取り込んだり、夕飯作りの手伝いをしたりと
  決して暇ではないはずだけれど、どうして海岸にいるのかしら?)

エリカがもう一度太盛を見ると、彼は今度は上空の鷹を追っていた。
趣味に生きる夫を放置してエリカはユーリのもとへ駆け出した。

「奥様!?」

ユーリがエリカに気づいて声を荒げた。
ハンカチで涙をふき、鼻声で謝罪をしてくる。

「申し訳ありません、奥様に許可もなく勝手に外出をしてしまって」

「それは別にいいのよ。要領のいいあなたのことだから
 どうせ仕事は後藤と鈴原たちに任せてあるのでしょう?
 ……それよりあなた、ここにいたら寒いでしょう?
  こんなところで一人でいるなんて、考え事でもしていたの?」

遠回しに先ほど泣いていた件について聞いた。

「いえ。特には」

「何もないってことはないでしょう?
  だって、あなたはさっき……」

一瞬言いよどんだエリカだったが、ついに口にしてしまう

「泣いていたじゃない」

ユーリは沈黙した。潮風を受けてほほも唇も温度を失っている。
泣きはらした目は赤く、視線が左右に泳いでいる。

鉄壁のメイドと呼ばれたユーリとは思えないほどすきだらけだった。

ユーリは秘密を打ち明かすことを決心した。

本当は適当なウソを言ってごまかしても良かったのだが、
ルイージ襲撃事件のあとなので今更隠しても仕方ないと思うようになった。

「私は福島県出身です。私が千葉の大学に通っているときに、
  家族は全員福島で暮らしていました。太平洋沿いの小さな町です」

それを聞いたエリカは全身から血の気が失せてしまった。

ユーリがメイド仲間のミウと使用人頭の鈴原以外には
決して話さなかった秘密は、彼女の家族の不幸だったのだ。

聞かなければよかったと、さすがに罰が悪くなったエリカ。
エリカが、無神経に聞いていしまったことを謝ろうとすると、
それより先にユーリが言った。

「いずれ皆さんに言おうと思っていたことですから、
  気にしないでください」

口に出さずとも、自分の言いたいことを察しているあたりは
さすがプロの使用人だと感心したエリカ。
同時に気を使われていることに恥すら感じていた。

「ルイージに襲われた時、私は本気で死を覚悟しました」

ユーリは少し間をあけて続けた。

「私は……運良くあの津波の被害にあうことはありませんでしたけど、
  ついに家族と再会することができると内心で喜んだものです」

エリカは黙って聞いていた。

「でも私は今回も生き延びました。
  私は生まれた時からカトリックです。私が生きているのは
  主の導きによるものだと好意的に解釈してはいます。
  けど、死の運命をたどった家族や友達のことは、
   何年たっても忘れることができません」

ユーリの頬から涙が流れる。
本当に大切な人を失った人だけが流す悲しみの涙だった。

エリカは、できることならこの場で土下座をしたい気持ちになった。
主人とメイドの関係だからそれはできないのだが、
今エリカに出来る唯一のことはユーリの話を聞くことだけだった。

「島での暮らしは、本当は好きではないのです。
  海を見るたびに失った人たちを思い出してしまうから」

「そ、そうなのね」

「大学を卒業した後は、人との絆とか、そういうのを信じる気になれなくて、
  誰とも関わらない仕事はないかと思っていて、今の仕事を希望しました」

ユーリがはるかに自分たちより遠い位置にいる人間だったと、
この時初めて気づかされたエリカ。

エリカも祖父がソ連邦で粛清されているから、家族を失う悲しさはよく分かっていた。
粛清のあとに残ったのは、政府に対する恨みだけであった。
その恨みが、やがてエリカの中に、ロシア人が遺伝的に持っているという、
暴力と支配の法則を植え付けることになった。

太盛の監禁事件を強行したのはこういう事情がある。
彼女は日本人の顔をしているが、厳密には日本人とは
異なる思想を持っていたのだ。

エリカと彼女の父は、恨むべき対象であるソビエト政府が存在した。
しかし、ユーリは何を恨めばいいのか。

災害という自然現象を神のいたずらとするならば、
それを黙って受け入れるのが正しい選択なのか。

(いえ、ユーリはもしかしたら自分を……)

エリカがそう思ったのは、ユーリの使用人にしても事務的すぎる態度が
良くみられること、レナやカリンを見つめる視線に嫉妬の感情が
混じっていたことだった。

エリカは器量の良いユーリに20代のうちの結婚を強くすすめていたが、
ユーリは興味がありません、と繰り返すばかりだった。

膨大なる喪失を経験した人間は、未来への希望を失ってしまうのだ。
ユーリはエリカの生んだ子供たちを可愛がりはした。
マリンも同様だ。だが、それはユーリが得られる宝ではなかった。

永遠なんてものは存在しない。太盛のエリカへの
気持ちが冷え切ってしまっているように。

そう思うと、ユーリは恋愛や結婚は自分と関係ないものと考えるようになった。
若い女性にしてはあまりにも悲観的な考え方だった。

「ユーリ、すまない。全部聞いてしまったよ」

エリカが驚いて横を見ると、太盛がそこに立っていた。
妻と同じように申し訳なさそうな顔をしている。
太盛は鳥見の最中にいなくなっていたエリカを探してここへ来たのだ。
もちろんユーリは分かったうえで全部話していたのだが。

「気にしないでください。つまらない昔話ですから。
  風が強くなってきたのでそろそろ館へ戻りましょうか」

「ああ……」

エリカと太盛のあとを着いてくるユーリ。
館に着くまで3人の間に会話はなかった。

風が勢いを増していく。太盛は一度外したマフラーをもう一度巻いた。
エリカと手袋越しに手をつなぎ、夫婦らしく歩いた。

放射能で汚染された大地にも春が訪れ、風が吹くように、
この島でも彼らのせつなさとは関係なしに風が吹き続ける。




エリカは夢の中で懐かしいロシア語の歌を歌っていた。

ソビエト連邦に住んでいた頃、近所の人たちと
歌っていた古いロシア民謡だ。
あの頃のエリカはレナ達より幼かった。

カチューシャという名前の曲で、はかない歌詞と対照的に
リズミカルに歌いあげるのが特徴だ。
エリカは子供のころからロシア民謡を歌うのが好きだった。

夢の中の彼女は、どういうわけか祖父の生まれ故郷であるカフカース
の山のふもとの町にいた。牧場の先に広がる一面の菜の花。
黄色の絨毯に交じり、見たこともない極彩色の花も咲いている。

高原の冷たい風を受けながら、くるりとダンスを踊るかのように
草原を歩き回り、ロシア語特有の巻き舌と長母音で歌うエリカ。


「おじいさま……」

ふと深夜に目が覚めたエリカは泣いていたことに気づいた。
祖父のことは写真でしか知らない。それにカフカース地方にも
旅したこともない。

なのに、なぜ祖父の故郷が鮮明に夢に出て来たのだろうか。
ソビエト権力の中枢にいながらも、やがては国家が新陳代謝するかのごとく
政権争いに敗れて殺害された祖父のことを思うと悔しさで涙が出た。

エリカの父が日本に移住してから成功を収めたのも
祖父の資産があったからだった。

(太盛さんがいない?)

キングサイズベッドで共に寝ているはずの伴侶の姿がないのだ。

太盛とエリカは数年間寝る場所を別々にしていたが、
ルイージ事件のあとは一緒に寝るようになった。

太盛はトイレにでも行ったのかと思い、エリカは夫婦の寝室から廊下へ出る。

トイレの明かりはついてなかった。さらにおかしいと思って中央階段を
降りてエントランスの方へ行くと、人影があるので身を隠すエリカ。

信じられないことに太盛とユーリが、深夜だというのに言い争っていた。

「余計なお世話ですわ。私はここの生活に満足していますから」

「何が満足なものか。ミウから聞いたぞ。
  本当は海や海岸を二度と見たくないそうじゃないか。
   転職先が必要なら僕が親父殿に頼んでやる。明日にでもな」

「それは太盛様の独善的な考えですわ。
  私は自分の意思でこの職場を選び、ここで働いておりますので」

「口ではそう言っても、君は無理しているんだよ」

「何度も言っているはずですが、無理などしていません」

「嘘をつくなよ。この島に住んでいても君は不幸になるだけだ」

「それを決めるのは私ですわ。これ以上余計な
 おせっかいをして私をこまらせるのはやめてください」

「……この島は極端に狭い世界だ。君が本土で暮らして
  いろいろな人間と会っていれば、考えも変わったかもしれない。
   きっと理想的な男性とも巡り合えたんだ。
   君の美貌なら男なんて選び放題だったのに」

「そうかもしれません。ですが私はこの島で働くことに決めました。
  それが主の定めた運命なのです。私は決められたレールの上を
   歩くだけで満足しております」

「満足してるだって?」

太盛の声のトーンが下がった。先ほどまでの怒りの感情が静まり、
今はただユーリを哀れんでいた。

「ならどうして、そんな悲しそうな顔をしているんだよ?」

「え……」

海岸にいた時と同じ涙を流していたユーリ。

ユーリは一度決めたことは最後までやる生真面目な性格だったため、
今更転職する気にはなれなかった。しかし心の奥底では、
また侵入者がこの島に襲ってくれば今度は確実に殺されると覚悟していた。

だから、死ぬ場所としてこの島を求めていたにすぎない。

「死ねれば、まだましだよ」

「え?」

考えを読まれたユーリが顔を上げた。

「北朝鮮のスパイにつかまれば最悪、収容所行きも考えられる。
  僕やエリカは仕方ない。親父殿に命じられた夫婦なのだから。
  でも君や他の使用人たちはあくまで雇用されてここにいるだけだ。
   逃げる権利はもちろんある」

「それは少し悲観的すぎる考えかもしれませんね。
  ルイージが外交ルートで北朝鮮に身柄が引き渡されてから、
   海上保安庁の巡視はさらに強化されましたわ。
    屋敷の迎撃システムも同様に強化されております」

「理屈でものを考えてほしくないんだ。
  僕はただ、君のことを心配して言っているだけなんだよ」

「ふふ。太盛様がお優しい方なのは使用人一同が認めておりますわ。
  もちろん私もです」

「……僕にはたまに君という人間がさっぱり分からなくなる」

「私は、もともとこういう性格ですから」

そう答えるユーリの幽霊のような無表情は恐ろしかった。
彼女の心は、震災によって一時的に死んでしまったのだ。

目には見えない死者たちの霊が彼女の肩を
奈落の底へとひっぱろうとしているのだ。

「だめだ!!」

「え?」

意味のない叫びだったが、その声がユーリに取りついていた
死者の残留思念を一時的に取り払った。

太盛はユーリを一人きりになんてさせたくなかった。
人生に希望があるのだと教えてあげたかった。

太盛がユーリの肩に手を伸ばし、抱きよせると、
ユーリは全く抵抗しなかった。太盛の耳元で暑い吐息を吐き、
信じられないことに太盛の背中を抱き返してきた。

「ユーリ、本心で答えてほしい。
 この島で僕のメイドとして生きるのは苦痛じゃないか?」

「ぜんぜん。ぜんぜん嫌じゃないよ」

ユーリが敬語を使わずに答えたので太盛は飛び上がるほど衝撃を受けた。
以前から二人きりの時は敬語はいらないと言っては断られていた。
メイドでなく一人の女性としてのユーリが突如姿を現したのだった。

「太盛のことが嫌いなわけないでしょ。
  島に来た時からずっと私のこと気づかってくれたんだから。
   本当に嫌だったら最初の一年で転職してたよ」

「そりゃよかった。てっきり僕はユーリに逆に
  気を使われて朝の散歩に着いて来てもらってると思ってたからね」

「何度も言ってるでしょ。あなたと歩くのは私にとっても楽しみなの。
  あれは仕事じゃなくて趣味だと思ってるんだけどな」

高揚した太盛はユーリの唇を奪った。
ユーリはしっかりと受け入れ、舌まで入れて来た。

2人の吐息と唾液の絡まる音がエントランスに小さく響いている。

その光景を陰で見ていたエリカは拳(こぶし)を強く握っていた。
拳は怒りとくやしさで震えている。

(あのユーリが敬語を使わずに話しているなんて信じられない……。
  太盛様ったら、私のことを形の上で抱いてはくれても、
   やっぱりユーリのことを愛しているんだわ)

もしエリカがナイフか包丁を持っていたら、
今すぐ二人の背中を刺してしまうところだった。

エリカは浮気中の二人の間に割って入ろうかと思ったが、
盗み見していたとばれるのを恥だと思ったのでやめた。

寝室のベッドで横になり、何事もなかったかのように戻ってきた太盛に
気づかないふりをして寝ることにした。本当は太盛の首を
締めてしまいたかった。そのあとに自分も消えてしまいたかった。

女として、旦那の裏切りを許すつもりはなかった。

全ては明日以降に決める。そう割り切って、その日は朝方に眠りについた。


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