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作品名:孤島生活  作者:なおちー

第13回   「エリカの嫉妬、太盛の過ち」

時は3月の末になり、日中は暖房なしで過ごせるようになった。

朝晩の冷え込みは冬並みであり、三寒四温が続いた。
今年の3月は例年よりも寒い日が続き、春の訪れを
待ちわびる日々であった。

「太盛様。おはようございます。もう朝の9時過ぎですわよ?
  そろそろ起きられてはいかがですか?
   後藤が作ってくれた朝ごはんが冷めてしまいましたわ」

エリカが布団でごろ寝している旦那の背中をゆする。
太盛は目を閉じたまま返事をした。

「まだ寝足りないんだ。後藤には悪いけど、
  しばらく朝ごはんはいらないと言っておいてくれ」

「あなた……。毎朝マリンちゃんが
  あなたのために早起きして食堂で
  待っていますのに」

「すまないエリカ。僕がバカだってことは一番僕が
  よく分かっている。でも、もう疲れたんだよ。
   この島で生活することがね。僕は父親でも何でもない。
    ただのろくでなしの息子さ」

「お父様に言われたこと、まだ悩んでいるのですか。
  お父様は自分にも人にも厳しい方ですから、
   あまり深く考えないほうがいいと思いますわ」

「分かっているよ。でもね。家族の身を危険にさらしてしまったのは
 事実なんだ。親父の言葉は素直に受け止めているよ。
  だからね、しばらく1人にして考えさせてくれ」

エリカはため息をつき、寝室を出ていった。

マリンの誕生日以来、太盛は魂の抜けた人形になってしまった。
趣味の一環であった早朝散歩、外での薪割りもしなくなった。

マリンと一緒に食事をとることもしない

たまに深夜にふらふらと食堂に現れては、作り置きの
食材を電子レンジで温めて食べていた。

エリカはつきっきりで旦那の面倒を見て励ます日々が続いた。
どんな時でも太盛のそばを離れないようにした。

特に怖いのが夜だ。ある日の夜、太盛が急にベッドから
いなくなったので、ユーリヘ夜這いをしにいったのかと思った。
しかし、ユーリの部屋に彼の姿はなく、驚いたユーリも
一緒に彼を捜索したら、彼は庭のベンチに座っていた。

時は深夜の1時半であった。

エリカとユーリに説得された太盛はなんとか寝室へ戻る。
エリカに抱かれながら寝ていると、音もなく涙を流し始める。

完全に異常者だった。太盛は一種のうつ病にかかっていたのだ。
党首の話で北朝鮮との開戦の話がでた時、彼の心の中で
何かが崩れ去った。

彼はルイージ事件で家族を喪失する恐怖に押しつぶされそうになった。
その記憶が簡単に消えるわけがない。

父の話では、朝鮮人民軍は第一にソウルを破壊するために設立された。
次にミサイルを使って米国と同盟関係にある日本を破壊する。

日本へ向けて発射体制に入るミサイルは軽く200基を超えるという。
韓国向けは400基である。
想定されるミサイルの種類はスカッドやノドンであり、
これらは核弾頭が搭載可能である

太盛は、まるでソ連人のように悲観的に物事を
考えすぎる性格だった。一度感じた恐怖はなし崩し的に増加し続ける。

普通に考えれば開戦の可能性は非常に低い。
戦争が政治の延長である以上、国家が最終的に滅ぼされると
分かっていて北朝鮮から攻めることはない。

しかし、米国の意図が分からない。
北朝鮮のミサイルが米国西海岸を射程に収めれば、
いったい米国がどのような反応を示すか。
父の言葉はいつだって正しいのだ。

太盛は大学時代に専攻した経済とは別に、趣味で歴史と軍事を学んだ。
その知識から、現在の極東情勢はキューバ危機時の
米ソ関係に近いと分析していた。下手をすれば日本など消し飛ぶ。

「そろそろ起きるか」

今日は昼の2時まで寝てしまった。昨夜寝たのが朝方だったのだ。
早朝散歩と野鳥観察を生活の一部にしていた彼とは
思えないほど、自堕落な生活をしていた。

「あっ、太盛様。起きられたのですね。
  たまにはお外で食事されてはいかがですか?」

食堂前の広い廊下ですれ違ったミウが言う。
太盛を気遣っていつも以上に明るい笑顔だった。

「外で……? まだ外は寒いんじゃないのか?」

「うふふ。今日は五月並みの陽気ですから、お洗濯ものも
  ばっちり乾いているほどなんですよ?
  後藤さんの得意なイタリアンをご用意してありますから、
   ぜひお外でお食べください」

「うん……そこまで言うんだったらお願いしよう」

ミウが念を押して外で食べさせたのは、太盛に少しでも
外の空気を吸ってほしいからだった。

アウトドア仲間の太盛が引きこもりになってしまい、
ミウは心から悲しんでいた。

屋外用の折り畳み式テーブルと椅子を用意した。
前菜と白ワインが用意される。

太盛はワインを口にすると、頬がほのかに赤くなった。
庭の芝生と奥に見える森の木々を明るく照らす太陽。

太盛は熱くなり、パジャマ代わりに着ているスェットの
腕をまくった。彼はパジャマすら着替えていなかったのだ。

不規則な生活のために眼の下には濃いクマができている。
もちろん誰も指摘しなかった。

「ミウ。ありがとう」

「えっ。急にありがとうって、なににですか?」

「僕を外に出してくれたことさ。自然の風ってこんなに
  暖かくて気持ちいいものだったんだね。先月の末から
  ずっと引きこもっていたから自然の偉大さを忘れていたよ」

「喜んでもらえたなら、なによりですよー。
  太盛様が喜ぶことでしたら、なんでもしますからね。
  今日はパスタとミネステローネだけですけど、
   他に食べたいものはありますか?
    頼めば後藤さんがすぐ作ってくれますよ」

「寝起きだからこれで十分だよ。後藤には夕飯まで
  休んでいるように伝えておいてくれ」

「ははっ。かしこまりましたぁ」

おどけた口調でいうので、太盛は笑った。
死人のように青白い顔をしていた太盛が久ぶりに笑顔になった。
ミウはそれがたまらなくうれしかった。

「ミウ。午後は暇な時間はあるか?」

「1時間ほどでしたらありますよ?」

「なら、一緒に海岸沿いを歩こうか。
  エリカは子供たちのテストの採点中だったね?」

「そのようです。ただいまお子様たちは
  学力テストの真っ最中ですから」

「そうか」

太盛はパジャマ姿でサンダルを履いたまま歩き出した。
まるで寝起きに新聞受けへ歩くような格好である。

もちろんミウは文句は言わない。太盛は情緒不安定である。
着替えに部屋に戻るのが面倒になり、
散歩を取り消してしまう恐れがあったからだ。

海岸の眺めは見事だった。カモメたちが群れを成して空を飛び、
その先では大きな魚が水しぶきを上げて水面を飛ぶ。

アオサギ、カワウ、シギなど水鳥が海岸沿いに集まり、
潮風を受けている。

傾き始めた太陽が海面を美しく染めていく。

太盛はサンダルで砂浜を歩いているのが辛くなり、
急にバランスを崩した。

「おっ」

ミウがとっさに手を握ってささえた。

「あっ」

ミウが赤面した。今日は何気なしに隣で歩いていたのだが
(本来は規則違反)、こうして手をつないでいると、どうしても
異性として意識してしまう。

彼とイチャイチャしたことは何度もあったが、
手をつないだことは一度もなかった。

「その、太盛様」

「いいよ。このままで。このまま歩こうか?」

ミウは一瞬だけ驚いた顔をした後、黙ってうなづいた。
太盛はうつだから、彼の言うことは最大限尊重してあげること。
これは屋敷中の人間の暗黙の了解であった。

「そんなに離れてないで、もっとこっちに来るんだ」

「はい……」

「どうしたの? 緊張してるの?」

「だって、太盛様と手をつないで歩くのは初めてじゃないですか……。
  奥様じゃなくて私でいいんですか?」

「僕は君じゃないとダメなんだ。ミウが僕を自然へと連れ戻して
  くれたんだから、君と手をつなぐのは当たり前だろう?
  僕はミウの明るい性格と思いやりのあるところ、大好きだよ?」

元気だったころの太盛の笑顔で言われ、ミウはくらっときた。

使用人の立場だから主人との関係は基本的にあり得ないのだが、
ユーリの前例もあるから、それほど罪悪感はなかった。

「なら、キスでもしてみますか?」

「いいよ」

冗談のつもりであったのに、あっさりと成立してしまう。

ミウは背伸びして彼の身長に唇を合わせた。

太盛は肉体労働で鍛えられた、たくましい腕で
ミウの背中を抱き、軽いキスを何度も交わした。

ミウは太盛の胸に顔をうずめ、しばらく髪を撫でられていた。

「いっそ君と結ばれるのが正しい選択だったのかもね」

「太盛様ったらご冗談を。女の子をとりこにするのがうまいんですから」

「ミウは特別だよ。ずっと君とこうしたいと思ってたんだ」

「えー。ほんとうにぃ?」

疑いつつも、まんざらでない様子のミウ。

太盛に甘えるように、首の裏へ両手を回した。
太盛は彼女の体重を快く受け止めてじっとしていた。

「私も太盛さんのことずっと大好きでした」

「うれしいな。僕たち両思いだったんだね」

どれだけの時間、そうしていたことだろう。

間が悪いことに、テストの採点中が終わった後に
後藤から太盛が寝起きの散歩をしていることを知らされたエリカ。

急いで海岸へと向かうと、太盛とミウの惨状を
目の当たりにして固まった。

この時にエリカが感じたことは、怒りとか悲しみとか
そういう次元のものではなかった。
大切な夫をまたしてもメイドに奪われたという屈辱。

エリカの献身的な介護でも好くならなかった太盛が、
なぜかミウの前であっさりと復活しているこの事実。
しかもチャラい。

もう黙って見ているのは限界だった。

「あなたたち、そこで何をしているの!!」

エリカの悲痛の叫び声に驚いたミウが太盛から飛びのく。
太盛は悪びれた様子もなく、めんどくさそうに妻の顔を見たので、
エリカの表情がさらに凍った。

「あなた……。今までユーリの件は黙認するつもりでしたが、
  ミウにまで手を出すとはどういうつもり!?
   北朝鮮への恐怖で気でも触れたの!?」

太盛は黙る。

「そもそも……なんでミウと一緒に海岸にいるの!?
 私がいくら起こしても言うことを聞かなかったのに、
  ミウと一緒ならご飯も食べるし、外も歩けるの!?
   ねえ、これはどういうことなのか説明してくれる!?
   本当はうつになる前からミウとできてたんじゃないでしょうね!?」

逆上したエリカは、夫を立てるための敬語を使っていない。
これはエリカがかつてないほど激怒している証拠だった。

太盛は何も答えず、だるそうに立っているだけ。
エリカに胸ぐらをつかまれ、揺らされても動揺していなかった。

「夫が答えないなら、代わりにあなたが答えなさい!!
  ミウ!! 逃げることは許さないわよ!!」

「ひぃ………」

「ほら!! はけ!! 吐けよっ!!
  なんでどいつもこいつも、うちの主人と仲良くなろうとするの!!
  どうして私は彼の一番になれないの!! おかしいでしょ!?」

エリカはミウのカチューシャをひきはがし、捨ててしまう。
髪留めも外して足で踏みつけた。長い髪をむしるようにつかむと、
ミウが痛さのあまり目に涙を浮かべる。

「あんたたちは……!! どいつもこいつも!!」

エリカはミウの頬をひっぱたいた。二度、三度と交互にはたく。

ミウは抵抗できず、されるがままだ。

ミウのほほに涙がこぼれ落ちるが、泣いているのはエリカも同じだった。
怒りでゆがむ目元が悲しみの涙で真っ赤になっている。

エリカの怒りはまだおさまらない。

ミウを突き飛ばし、転ばせる。ミウの服が砂だらけになった。
エリカが馬乗りになり、ビンタしようと手を振り上げると、
太盛が止めに入った。エリカの左手首を抑えながら言う。

「その辺にしとけよ。エリカ」

「どの口がそれを言うの!?
  あなたに止める権利があると思って!?」

「そういう話じゃない。僕のミウをこれ以上痛めつけるな」

「僕のミウ、ですって……?」

「ミウをぶつなら代わりに僕をやれよ」

「なら、望み通りにしてあげましょうか?」

エリカが凶悪な顔でにらむが、太盛は落ち着いた声で
やれよ、と言った。エリカは冷静な旦那の態度にさらに腹を立てた。

「私は護身用にナイフを携帯しています。
 いっそあなたを刺し殺してしまえば、二度と浮気される
  こともなくなりますね。もしくは地下室行きがよろしいですか?」

「好きなほうにすればいいじゃないか。
  お前に何されようと、今さら傷つく心なんて何もない。
  僕はお前なんてどうでもいいんだぞ?」

「な……」

「なに驚いた顔しているんだ? 僕は聖人でも何でもない。
 ただの人間だぞ。自分を地下監禁した女なんて誰が好きになるかよ」

「……そう、ですか。分かってはいましたが、
 あなたの口から言われるとは思っていませんでしたわ」

「口に出されるとショックが大きいか?」

エリカはこれ以上ないほどの勢いで夫をにらんだ。
大好きな人だからこそ、言われたくない一言がある。

同時に一番言われたい心からの言葉を一度も聞いたことがなかった。
彼の純粋な愛情は、結婚した時から妻たち以外の女たちへと注がれていた。

「うぅ……っ……く……」

恥も外聞もなく泣き続けるエリカ。
どれだけ涙を流したかも分からない。

偽物の愛とはいえ、いつもなら悲しい時は夫が抱きしめてくれた。
たとえつらい過去があっても、時間をかけてゆっくりと
関係を修復していく自信はあったつもりだった。

なのに今の太盛は、妻を放置して
ミウの傷ついた髪と顔を心配していた。

倒れたまま声を上げて泣いているミウを
抱きしめて慰めの言葉をかけていた。

エリカはたまらなくみじめな気持ちになり、
逆手に持ったナイフを自分の首に刺そうとした。

「やめろぉ」

太盛が飛び掛かって妻からナイフを奪い、海へ投げてしまう。

「死ぬことは許さないぞ!!
 俺とおまえがどういう関係になろうと、親父の命令で
 俺たちはこの島で生きなくちゃならないんだよ!!」

先ほどのエリカに負けないほどの気迫であった。

「し、島暮らしでなければ……もうあなたと離婚したい」

「前も言っただろう。それはお互い様だよ」

「私には死ぬ自由もないのですね」

「あるわけないだろ。ここまで僕らを生かしてくれた党首への恩がある。
 どんな薄汚れた関係でも僕たちは夫婦でなくちゃいけないんだよ」

「でも……死にたいわ。もうこんなとこで生活したくない。
  あなたの顔も。ミウの顔も二度と見たくない……」

「おまえは死んでおじいさんのところに行きたいのか?」

「え……」

「粛清されたエリカのおじいさんが悲しむんじゃないのか?
  おまえに天国という概念があったらの話だがな。
   エリカはよく寝る前におじいさんの話を聞かせてくれたな。
   家族、生命、財産を国に没収されても、なお生きようとする
   ソ連国民たちの悲惨さを。おまえは本当にこの島で死にたいのか?」

太盛の説教が続く。

「僕はおまえに監禁されても自殺だけはしなかったぞ。
  今はおまえが苦しむ番になっただけのことだ。
   そういう順番が回ってきたんだよ。苦しいだろう?
   おまえはどうする? あるいは僕とミウ、ユーリも
   刺し殺して終わりにするか? それも自由だぞ」


どうしようもなくなったエリカは屋敷の方へと駆けていった。


(そうなんだ……。私のおじいさまもおっしゃっていた……。
  生きなきゃ……国が滅びようと、住む場所がなくなろうと……
   人に裏切られようと……人間は生きないといけないのよ……)


その日から、エリカは猜疑心(さいぎしん)がさらに強くなった。

誰のことも信じられなくなり、
太盛とエリカは別々に寝ることになった。
今では夫婦の寝室は空き部屋に近い状態になっている。

一方で太盛は引きこもりが治り、季節も4月になったので
外仕事を始めるようになった。

今日は天気に恵まれたので
低山でミウとマリンを連れて山菜取りをした。

夕方になると気圧が下がり、雨雲が近づいてきた。
太盛たちは早めに作業を切り上げて館へと戻る。

着替えて自分の部屋へ入ると……

「これはどういうことだ……?」

本棚に収納していたはずの本が引き裂かれ、床に散らばっている。
マリンと撮影した写真もアルバムから出されて
床に乱雑に落ちている。
黒いマーカーでマリンの顔の部分を塗りつぶされている。

さらにひどいのは、窓ガラスが割られていることだ。
開いたカーテンが風に揺られている。
天候が悪く、今にも雨が降ってきそうだ。

「エリカぁぁっ!!」

こんなことをするのは妻以外に考えられない。
太盛は衝動で怒鳴り声をあげてしまった。

温厚な彼が大声を発するなどめったにないため、
屋敷中から人が集まってきた。

「どうしました太盛様!? こ、これは……」

最初に入って来たのはユーリ。
部屋の惨状を見て片手で口を押さえ、言葉を失った。

次はマリンが入って来た。

「お父様……。あのクソババアにやられたのですね……。
  お父様の大切にしていた写真が……」

マリンは怒りで震えている太盛のそばに寄り添う。
マリンはいつだって父の味方だ。
太盛に心から同情し、同時に怒りの炎が燃え盛った。

「私がエリカに怒鳴り込んできますわ」

「マリンお嬢様。どうか気を静めてください。
 今奥様を刺激するのは逆効果です」

「お父様にこれだけのことをしておいて、
  おとがめなしというわけにはいきませんわ!!」

「エリカ奥様も……その、色々とお考えというか、
  感情の変化があったようですから、お気持ちを
   察してあげないといけません」

遠回しな言い方であるが、ユーリがミウとの件を言っていることは
太盛とマリンにはすぐ分かる。

ちなみにミウとの浮気はレナ以外の全員に噂が広まっている。
島は狭いので情報が伝わるのが速いのだ

マリンはさらに声を張り上げる。

「あんな女が父の妻を名乗っていいのでしょうか!?
  今までの父に対する数々の横暴、許せませんわ!!
  おじいさまに頼んで離婚させてもらうべきですわ!!
  お父様の妻にはジョウンお母さまがいるではないですか」

ユーリは一瞬だけ戸惑った。自分も太盛の浮気相手の一人であるから、
罪悪感からエリカに同情的な見方をしてしまうのだ。

「ご党首様のご意思は、夫婦円満で幸せな家庭を築くことです。
  喧嘩腰ではものごとは解決しませんわ」

「ユーリはそうやって交わすのがうまいんだから。
  あんただってパパと夜は仲良くしてるんでしょ?
  汚らわしい」

これはマリンの言葉ではなかった。騒ぎを聞きつけてやって来た
カリンであった。マリン、太盛、ユーリの視線が
カリンへと注がれる。

「なーにが夫婦円満だよ。バッカバカしい。この前の
  おじいちゃんのテレビ電話の時もさ、みんなかしこまって
   媚び売ってさ。大人は嘘つきなんだよ。私はママに同情しちゃうな。     パパがすぐ他の女と浮気するのがいけないんでしょ?」

太盛は娘の遠慮のない言い方にムッとした。カリンの言うことは
もっともなのだが、小学生なのに生意気が過ぎるのだ。
ユーリも胸が締め付けられる思いがした。

すぐマリンが反撃する。

「カリンもバカじゃないなら監禁事件のことは知ってるよね?
  お父様じゃなく、はじめは向こうから仕掛けてきたことなの。
  無理やり結婚させられて愛なんてあるわけないよ」

「あっそ。じゃあなに? 浮気は自由だって言いたいの?」

「そこまでは言わないわ。お父様は使用人たちにも
  子供たちも大切にしてくれる優しい方よ」

「優しい? エリカママには冷たいけど」

「あの人は特別変わり者だから、仕方ないよ。
  本当はユーリもミウもあの人のこと苦手だと思う。
   カリンもレナもエリカのこと怖がってたじゃない」

「ま、怖いことは怖いけどさ。いちおう母親だし」

「カリンはお父様より実の母の味方をするつもりなの?」

「そういうことになるのかな。私はあんたと違って
  熱烈なファザコンじゃないし」

それは禁句だった。マリンは言葉を話せるようになってから
父にべったりで片時も離れたくないほど大好きだった。
ファザコンの自覚はあっても、他人から言われるのは大嫌いだった。

ファザコンという言葉が子供を
小ばかにしているようで気に入らなかったのだ。

「いつもお父様、お父様ってストーカーみたいにひっついて、
  バッカじゃないの? そろそろ父親離れしなさいよ。
  娘を溺愛してるお父さんも変だし」

「そんなにお父様のことが気に入らないのなら出ていけば?」

「は……?」

突然の言葉にカリンが固まった。
マリンは拳を握り、うつむいて見上げるようにカリンをにらんでいた。

「この島にはお父様とジョウン一家だけで十分なの。
  エリカ一家はまるごと本土へでも移住すればいいのよ」

「なんですって……? なんであんたにそこまで
  言われなくちゃいけないのよ……」

「私ね、カリンといると不愉快だから。
  あんたの顔、二度と見たくないからさ」

「奇遇だね。その言葉そっくりそのまま返してあげるよ」

カリンがマリンへ飛び掛かった。

ごろごろ床を転がり、互いの髪を引っ張り合いながら、
金切り声をあげる。体格は互角なので、いつまで
戦っても勝負はつかない。

淑女としての教育を受けたとは思えない、野蛮な喧嘩だった。

さすがにこのままにしてはおけないので、
太盛がマリンを、ユーリがカリンを羽交い絞めにして止める。

「離しなさいユーリ!! 
 マリンのクソみたいな顔をぶん殴ってやる!!」

なおも感情を爆発させるカリンに対し、父に優しく
抱かれたマリンは声を荒げることはなくなった。
それでも眼光は鋭い。敵を見る眼でカリンを睨んでいる。

「カリン。今のあんたの顔、母親にそっくりで醜いよ」

「うっせえ!! いっぱつぶん殴ってやる!!
  あんたのことは前から気に入らなかったんだ」

カリンとマリンは学業成績でライバル関係にあった。
カリンは相当に優秀であり、母に褒められたくて
勉強に真面目に取り組んでいた。

得意の理数系でも、ミウに親切に
指導された英語でもマリンには及ばなかった。

いつしかそれが小さな不満になり、大きな嫉妬へと成長した。
さらに父とエリカのあいまいな夫婦関係が重なり、すべての
怒りをマリンへぶつけるに至ったのだ。

「お二人とも、止めなさい!!」

扉から降って来た重い声で子供たちの喧嘩が止まる。

まとめ役の鈴原が来たのかと一同が思ったら、なんと後藤だった。
料理の仕込みをしていたので調理服を着ている。

料理以外では寡黙で、自分の感情というものをめったに
表に出さない後藤。そんな後藤が大声を出したのだから、
マリンたちに与えた影響は大きかった。

「お嬢様方は早熟ですから、つい大人の考えや行動を
  読みたがってしまうのです。ですが、時には余計な
   お世話という言葉もあります。太盛様と奥様の関係は、
   本来お子様の踏み込む領域ではありません」

長い説教が始まるのかと、太盛とユーリも緊張した。
鈴原と後藤がこの屋敷では年長者である。

年齢差を考えれば太盛とユーリなど子供のようなものだ。

「カリンお嬢様は、大人が嘘つきだとおっしゃいましたが、
  大人は誰でも社会では自分を偽って生きていかなければ
  ならないのです。それは、生きていくために必要だからです」

「どういう意味?」

とカリンが聞いたのでユーリが補足する。

「わかりやすく言うと本音と建て前ですよ。カリン様。
  世の中の夫婦なんてみんな離婚したいと心の中では
   思っている者なのですよ」

「そうなの? よく離婚しないで一緒に住んでいられるわね」

「我慢してるからだよ」と太盛。重苦しい顔である。

さらに後藤が話す。

「太盛様のおっしゃる通りですな。会社勤めも同じことですな。
  お金がなければ生きていけません。私たちにとって
  この島以外に生きる場所はありませんから」

不思議に思ったのでカリンが聞く。

「生きる場所がない? ママが言ってたけど、後藤達は
  本土の会社に転職することもできるんでしょ?
   後藤の腕なら自分で店開くのも余裕だってみんな言ってるけど」

「正確に言うと本土へ帰りたくないのですよ」

「どうして?」

「あそこには、嫌な思い出ばかりがありますからな。
  私には子はおりません。長年連れ添った妻とは
  帝国ホテルを辞めた際に別れてしまいました」

衝撃の事実に驚愕する一同。太盛は唾をのんだ。
後藤のプライベートに関することは全員が遠慮して
今まで聞いてこなかったのだ。

このあとも後藤は独白をつづけた。

「ホテルを辞めた理由は、第一に人間関係が嫌になったことです。
  簡単に言うと、人と関わるのが嫌になったのです。
  人間は本音で話しすぎると後戻りできないところまで
  行ってしまいます。そう、今のカリン様とマリン様のように」

カリンとマリンが顔を見合わせた。

「妻と別れたのも、転職先を探している間の
 わずかな期間がきっかけでした。毎日家にいて
  酒ばかり飲んでいる私を妻はいら立ちつつも、
   遠慮して話しかけないようになりました」

まだ続ける。

「ある日、ささいなことで口論になり、私は言っていけない
  一言を言ってしまったのです。詳しくは言いませんが、
  専業主婦として家を支えてくれた妻の努力と苦労を
  すべて無駄にする一言でした。それをきっかけに
  別居が始まり、二度と妻が帰ってくることはありませんでした」

「後藤は……別れたことを後悔しているの?」

とカリンに聞かれて後藤は肯定する。

「私の経験を振り返ると、人には第三者のブレーキが必要なのですな。
  当事者たちだけで話し合ってもらちが明かない。
   話が平行線をたどったら、あとは関係が悪化するだけ。
   それではだめなのです。重要なのは、うまく関係を
   維持することですよ。そうは思いませんか、太盛様?」

「まったく、後藤さんの言う通りだと思います」

「太盛様。使用人に対して敬語はいりません」

「はは……つい敬語になっちゃいますよ。
  こんな話を聞いた後だとね」

さらに部屋には鈴原が入って来た。
ガムを噛んでいるレナも隣に立っている。

鈴原がいつもの堅苦しい口調で言う。

「さあ、今回のことはなかったことにするのが一番です。
  窓の修理が終わるまで、太盛様は他の寝床を確保しましょう。
  お嬢様たちは各自の部屋に戻るように。
   後片付けは大人たちがいたします」

マリンとカリンは素直に部屋を後にした。
何も知らないレナが能天気すぎてカリンは深いため息をついた。

大人たちがうまく丸め込んでくれたとはいえ、マリンとカリンの
確執はこれで終わったわけではなかった。

太盛のエリカへの不信感は極限状態まで高まり、また怒りを
ぶつけられるかとおびえながら過ごす日々になった。

波乱に満ちた孤島生活はなおも続いていく。


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