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作品名:孤島生活  作者:なおちー

第12回   「マリンの誕生日」
「マリンの誕生日」

@

マリンは2月28日に生まれた。父は同じ月の22日である。

太盛は生まれつき喉(のど)が悪く、真冬の乾燥した空気で
喉(のど)をやられてしまい、喉風邪をこじらせることがよくあった。

長い時で丸二週間も風邪が続いたこともある。

父から喉の弱さが残念なことに娘のマリンへと遺伝してしまい、
誕生日を2週間後にひかえた今日、風邪で寝込んでいた。


「ユーリ。マリンの熱は下がったのか?」

「今は平熱より少し高いほどです。
昨日から高熱は出ておりませんので、発熱は問題なさそうです。
それよりも声の調子が悪いですわ。
  のどのはれが治らないので話すのもつらいようです」

太盛とユーリが声をひそめて話している。
ベッドで寝ているマリンを起こさないようにと、身を寄せ合っていた。

マリンの部屋はカーテンがしかれ、日の光は入らないようにしている。
時刻は夕方。マリンは食べるとき以外はほとんど寝て過ごしているのだ。

「そっか。ひどいな……。あんまりひどいようだと
 本土から医者でも呼ぶか?」

太盛の顔が怖いくらいに真剣だったので、
ユーリがやんわりとした口調で諭すように言った。

「今は薬が効いて落ちついていますから。それに風邪はいつか治りますよ」

「しかし……細菌性の風邪だったらどうする?
 やっぱり心配になっちゃうよ。館の常備薬だけで良くなるんだろうか?」

「大丈夫です。マリン様が風邪をひいて一週間たちますが、
  少しずつですが、様子は良くなっていますよ?
  高熱が出たのも最初の三日間だけでしたし、
   ご飯だってきちんと食べておられますよ」

ユーリの母のようにやさしく、また理性的な目で言われたので
太盛は納得した。太盛がユーリに恋していることもあるが、
彼女の聡明さを心から尊敬していた。自分より4つ年下とは
思えないほど大人びているのだ。

「お父様達……そこにいますの?」

枕から顔を上げるマリン。眠気のため、まぶたは半開きだ。

斜光カーテンで外界と区切られた室内は夜のように暗い。
マリンは寝てばかりの生活なので昼と夜の区別もつかないのだ。
ベッドサイドの目覚まし時計を取る。

「夕方の5時ですのね。夕飯の時間まで、まだ少しありますの」

「起こしちゃってごめんねマリン」

「いいえ」

「パパたちがいると迷惑じゃないか?」

「そんなことはありませんわ。一日中ベッドの上で過ごしていると
 気が滅入りますもの。今日は十分寝ましたわ。
 夕飯の時間までお父様とお話しをしたいです」

「無理して話さなくていいんだよ? 喉が痛くてつらいだろう?」

「お水をたくさん飲めば、それほどでもありませんわ」

部屋にはペットボトルが用意されていたのだが、すでに空になっていた。
太盛が目配せして、ユーリに新しいペットボトルの水と
コップを持ってきてもらった。

「それでは私は食事の準備がありますので、これで失礼いたします」

「いつもありがとうユーリ。マリンの夕食は少し早めに
  持ってきてもらえると助かるよ」

「承知いたしました」

ユーリが丁寧に扉を閉めると、親子は2人きりになった。

太盛はベッドのわきに腰かけて娘のおでこへ手を伸ばした。

「うん。熱はなさそうだね」

「たぶん温度計で測っても平熱だと思います」

実際に計ってみたら、なんと35.9℃だった。
マリンは平熱が低いほうなのである。
熱だけなら風邪をひいているとは言えないだろう。

だが、全身の倦怠(けんたい)感、頭痛、やのどの炎症などは続いている。
熱がないのでお風呂にはいれるのが幸いだった。
マリンは綺麗好きなので毎日お風呂に入らないと気が済まないのだ。


「毎日天井ばかり眺めていてウツになりますわ。
  たまには本が読みたいですの」

「風邪をひいている時に頭を使っちゃダメなんだよ?
  本を読むのは集中力が必要なんだ。
   読むなら治してからにしなさい」

「むー。ユーリにも同じことを言われましたわ」

ユーリはマリン専属メイドで教育係も兼任しているので
看病は基本的に彼女がやる。太盛は真冬で外の仕事がほとんどないため、
ユーリにくっついてマリンの看病を手伝っていた。

「お父様。冬は虫がぜんぜんいませんわ。あのうっとおしい蚊も、
  12月を過ぎれば消えてしまいますの」

「虫や昆虫の類はある程度の暖かさがないと地上で暮らせないのさ。
  中には地中に潜って冬をやり過ごすのもいる」

「冬眠のことですか? ならマリンのお母様も同じですわね。
 雪山で地中に穴を掘ってカマクラ?を作って生息していますの」

「あれは……いろいろ規格外だから話題に出すのはよそう……。
  それより冬は家で読書するのが楽しい季節だね」

「私はお父様とリビングの薪ストーブで暖まりたいですわ。
  そして本を読んでもらいたいんですの。絵本でいいです」

「絵本か。昔は寝る前によく読んであげたね」

「夢でお父様が読んでくれたシーンがよみがえりましたの。
  あのグリム童話の絵本。小説版も読みましたけど、
  本当は幼児向けではなく、すごく残酷なお話」


グリム兄弟が、ドイツに古くから存在した数々の昔話を
一つの本にまとめたことから、グリム童話という名がついている。
日本では赤ずきんや白雪姫などが有名である、

原作ではどの作品も劇中の人物がむごい死に方をするのが特徴だ。
拷問や虐待、虐殺など。悪役に設定された人物には
最後に容赦のない仕打ちがなされてハッピーエンドとなる。

「マリンは原作版の小説も読んでしまったのか。
  ああいう話は大人でも苦手な人が多いんだけど、
  怖くはなかったかい?」

「いいえ。グリム童話はすごく現実感のある小説だと思いました。
  ファンタジー風にぼかした、子供だましの作品を見せるのは
   日本の悪いくせだと思います。本場のドイツではあの手の
   お話をおばあさんが孫に言い伝えていたのでしょう?」

「まあ。そうだね。向こうは文化が全然違うから。
  獅子はあえて子を谷底に突き落とすを地で行く国だよ。
   ドイツの母親はね、子供が風邪をひくことを怖がらないんだ」

「どうしてですか?」

「小さいうちにどんどん風邪をひいて、体に免疫をつけさせるためさ。
  涼しい時期でも森へ子供を連れてどんどん遊びに行く。
  日本のママなら子供が風邪ひいちゃうからって
 遠慮するだろうけど、ドイツ人はむしろ積極的に遊ばせる」

「そうなのですか。ドイツは森と親しむ民族と聞きますからね」

「ユーリが言ってたな。カナダのユーコン川でカヌーを楽しんでいるのは
  八割がドイツ人だって。なんでカナダにドイツ人があんなに
   たくさんいるか不思議だって言ってたよ」

「カヌーも楽しそうですね。いつか乗ってみたいですわ」

「クッパが樫の木で作ったカヌーがあるはずだよ。
 マリンと二人で乗れる大きさだから、
 春になったら乗ってみようか?」

「はい。今から待ち遠しいですわ」

川からの自然の眺めは、地上からの景色とは全然違うのだと
太盛が言う。マリンは目を輝かせた。

マリンは布団を肩までかけた状態で、枕の上で顔を横にしている。

もっと父と話がしたいと思って
上体を起こそうとすると、めまいがする。
息を大きく吐いてから枕に頭を沈めた。

「マリン。無理しちゃだめだよ。横になってなさい」

「うぅ。早く健康な体になりたいですわ」

トントンと控えめなノックの音。

ユーリが来たのかと思って太盛が扉を開けると、
自分の妻の顔がそこにあった。


「太盛様ぁ。今日もマリンちゃんのお世話に夢中になって
  お夕飯の時間を忘れてしまいましたか?
  私は食堂で太盛さんが来るのをずっと待っていましたのに」

皮肉っぽいエリカのセリフに太盛はむっとしたが、

「ああ、確かにもう6時を過ぎているな。
 僕はあとで行くから、先に食べててくれ」

「それはいけませんわ。家族そろって夕飯を食べるのが
  館のルールです。これは家族のきずなを深めるためだからと、
  父上殿が奨励された決まりではないですか」

父の名前を出されると辛かった。太盛は仕方なくエリカに
着いていくことにした。実際に食堂にはレナカリ姉妹もいる。

「太盛様をお借りしちゃって、ごめんなさいねぇ。マリンちゃん。
  もうすぐユーリがお食事を運びに来ますからね」

「私は一人でも構いませんわ。
どうせ食べたらすぐ寝てしまいますから」

この会話のやり取り中、互いの視線に火花が散っていた。

マリンはこの部屋で父と一緒に食事がしたいと思っていた。
一食くらいユーリに頼めば簡易テーブルごと運んでくれる。
それに太盛は子煩悩だから喜んで一緒に食べてくれるのだ。

それを分かっていたから、エリカはわざわざ太盛を呼びに来た。
たとえマリンが病気中でも仲の良い親子が二人きりなのが
気に入らないので邪魔をしに来たのだ。

(あの小姑め……)

とマリンが心の中で毒づくのも無理はなかった。


マリンは食事のあと薬を飲んで眠りについた。
一度眠るとなかなか起きない体質なので朝まではそのままだ。
太盛は心配で居ても立っても居られない。

マリンの様子を見に行こうと2階へ足を運ぶ。
すると廊下の反対側からユーリが歩いてきたので話しかける。

「マリンの風邪、ずいぶん長引くね。熱はなくても
  めまいやのどの痛みは、ほとんど治っていないじゃないか。
  しつこいようですまないが、薬を変えてみたらどうかな?」

「太盛様。焦る気持ちは分かりますが、病気は薬の力
  だけで治すものではありませんわ。薬は対症療法にすぎません。
   病原菌を治すのは本人の治癒力です。
    これを高めるためには十分な栄養と睡眠が必要なのです」

「そ、そうか。マリンは食欲も出て来たし、良くなっているんだよな?」

「うふふ。その通りでございます。
  今日の夕方も太盛様と楽しそうにおしゃべりをされました。
   病は気からと言いますから、お子様思いなお父様が
    そばにいてくれれば、すぐ良くなりますよ」

「ありがとう。ユーリ。
君に優しく諭されるとすごく安心する」

「あっ。太盛様、こんな場所では……」

衝動で抱きしめてしまう。困り顔のユーリが太盛の腕の中で
小さく抵抗をする。ここは子供部屋の前の廊下だ。
すぐ近くにレナカリ姉妹の大部屋があるのに、軽率な行動である。

舞い上がると空気が読めなくなるのが太盛の悪い癖だった。


「太盛……。また誰かに見られたら悪いうわさが立つじゃない」

「ご、ごめん。つい夢中になっちゃって」

太盛が軽くキスをした時に耳元でユーリにささやかれて
ようやく我を取り戻した。もっとも、一番知られてはいけない
エリカやジョウンにはすでにバレてしまっているのだが。

「ん?」

太盛が後ろを振り返る。
階段のほうから物が落下したような、にぶい音がしたのだ。
夕食後の落ち着いた夜の雰囲気には似合わない音だった。

「なんだ? 誰か階段で転んだのかな?」

「さあ……? 私にはわかりませんわ」

ユーリはあえて口には出さなかったが、最近屋敷を歩くときに
エリカに尾行されることが多いことを知っていた。エリカは
浮気の現場を生で見るために尾行しているのだが、見るだけで
何も言ってこないのが逆に怖かった。

今の音は、逆上したエリカがその辺の物に八つ当たり
をしているのだろうと思った。


「太盛様。まもなく8時半になりますので
お風呂にお入りください」

「え? 少し早くないか。いつもは9時過ぎに入るのに」

「いいから、今日はお早めにお入りください。
  お湯は沸いておりますわ」

「レナ達はあがっているのか?」

「はい。もう自室で休まれていますわ」

「んー。そこまで言うなら分かったよ」

多少強引だが、太盛を自分から引きはがしたユーリ。
お風呂に入ってほしいというのは方便であり、遠くからコソコソ
こちらの様子をうかがっているエリカの視線が怖かったのだ。

太盛が去った後、エリカが廊下の隅から姿を現した。

笑顔である。おかっぱに近いショートカットヘア。
クセのないストレートの黒髪だ。普段着の和服を着こなし、
まるで背の高い日本人形がそのまま歩いているかのようだった。

細い2つの眼がユーリを射抜くように見ている

「ごきげんようユーリ。今日もお勤めご苦労様」

優雅な口調だが、声に重みある。

ユーリは一瞬たじろぎ、ついにこの時が来たのかと身構えた。

「今日太盛さんと一緒にお風呂に入ろうと思っているのよ。
  たまには、夫婦らしいことをしても罰は当たらないわよね?」

「それは……そうでございます」

「うふふ。くれぐれも邪魔はしないでいただきたいわ。
  わたくしたち、夫婦が二人でいるときは……ね?」

「かしこまりました。奥様」

「それと、主人が気になって仕方がないみたいだから、
 マリンちゃんの風邪も早く治すよう全力を尽くしなさい。
  適切な治療は施しているのでしょう?」

「はい。医療の知識のある鈴原にも協力してもらって
 おりますので、ぬかりはありません」

「あらそう。ならばいいのよ。
  うふふ……。私もあなたくらい髪を伸ばせば主人に
   優しくしてもらえるのかしら。ねえ、あなたはどう思う?」

嫌味を言われ、何も返せないユーリ。
どう返事をしてもエリカを不愉快にさせると思ったからだ。

怖さのあまりエリカの顔を直視できなかった。
浮気のことを口に出されれば、明日にでも解雇される恐れがある。

主人の妻であるエリカは、使用人の管理をする立場にある。
本来なら太盛の仕事なのだが、太盛はユーリ達を使用人扱い
したくないので、彼らの仕事ぶりのチェックなどしたくなかった。

それに外仕事をするのが大好きなので、屋敷内の管理は
エリカに任せている。

2週間に一度島を訪れる定期船とのやり取りも
基本的にエリカが行って生活必需人を館に届けている。
必要なものがあれば島の外と電話やネットでやり取りしている。

ホームスクールで子供たちに受けさせるテストの採点をするのは
エリカである。授業はメイド達に任せるから、採点係がエリカなのだ。
娘の成績は党首である太盛父に報告する義務がある。

島暮らしでは海上監視も仕事の一つだ。
ルイージ時事件以降、エリカは鈴原、ミウと共同で監視を行っている。
地下の迎撃システムにはレーダーと隠しカメラの映像で確認できる。

監視塔ではもっぱら望遠鏡と双眼鏡を使う。
島周辺の海洋生物や鳥などの調査にも使える。
風や波の状態を知るのにも便利である。

話が脱線した。ユーリが黙り込んだシーンへ戻る。

「あらあら。そんな引きつった顔をしたら
  美人さんが台無しよ?」

「い、いえ。私は奥様ほど美しくありませんので」

エリカは小声で、よく言うわ、とつぶやいた。

「そんなに謙遜(けんそん)しないで頂戴。
  私は別にあなたを取って食おうと考えているわけではないの。
   太盛さんが望むなら、あなたはずっとこの屋敷で働いて
   くれてかまわないのよ?」

ユーリは何も答えない。言葉を慎重に選ぶあまり、
つい無口になってしまう。エリカは言葉通り本当にユーリを解雇する
つもりはないのだが、言われた本人のユーリは彼女の本心を
分かりかねていた。

ユーリは、エリカとクッパの話し合いの結果を知らない。
浮気をしばらく放置すると決めたことである。

「私と太盛様の分の着替えを用意しておきなさい。
   少し長いお風呂になるかもしれないけど、かまわいわね?」

「はい。それは奥様の自由でございますので。
  着替えはすぐにご用意いたします」

エリカは、お願いね、と言って立ち去った。

怒りのエリカが去った後、ユーリは気が抜けて
大きなため息をついたのだった。



屋敷の風呂は大浴場である。
欧州の貴族を思わせる豪華な作りで広々としていた。
浴槽が泳げるほど広い。

2月の本格的な冷え込みは体を芯から冷やしてしまう。
マリンのことが心配で夜も少ししか寝ていない太盛は
湯船に肩までつかっていた。

まぶたを閉じると、睡眠不足のためうとうとしてしまう。

「お背中をお流しいたしますわ」

と、つやのある女の声が聞こえたので驚いた太盛が身構えた。

(だれだ? ユーリかミウか?
  今日は頼んでないのに来るなんて珍しいな)

振り返ると、脱衣場から見知った妻の顔が見えた。
エリカは熱いシャワーを浴びて体を清めた後、
太盛の湯船につかってきた。

身体を密着させてこう言った。

「たまにメイド達をお風呂場に呼んで話し相手に
  なってもらっているそうですわね?
  本人たちに聞きましたわ」

「その……一人で入っていると退屈だからね。
  僕は長湯するタイプだから、話し相手がほしいなって思って」

「あなたったら、つれないです。わたくしでは
  話し相手にならないのですか?
  わたくしは太盛様の妻ではありませんか」

妻という言葉を使われると太盛は弱かった。
彼らの結婚は太盛の父が強く望んだことだから、
すさまじい強制力がある。

夫婦でなければこの島で生活する意味がないのだ。

「エリカ。こっちにおいで?」

「はい」

太盛に誘われるとエリカは従順な乙女になる。
湯船の上で二人は抱き合った。湯気が幻想的な雰囲気をつくり、
互いの気持ちを盛り上げる

湯の注ぎ口はライオンの形をしている。太盛は無意識に
エリカの豊満な胸へ手を伸ばす。
乳首をつまむと、エリカが甘い吐息をはいた

「よかった。私のことをちゃんと
 女として見てくれているのですね」

「エリカ。君はとっても魅力的なんだよ。
  君の魅力は10年たった今でも変わっていない」

「太盛様から褒められるなんて、素直にうれしいですわ。
  でも太盛様はいけないお人ですから、
   私以外の女性も魅力的に見えてしまうのでしょう?」

言葉に詰まる太盛。エリカは遠回しにユーリとの関係を
皮肉っているのだ

妻の嫌味は一度始まると長い。今は湯船につかっているので
のぼせてしまうと思ったので、強引にエリカに口づけした。

「ん」

エリカの髪が湯に濡れる。湯の温度とは関係なしに、
エリカの顔が上気した。押し付けた唇を一度離し、
今度はもっと強くキスをする。

口を少し開けて舌を絡ませた。

「……苦しいですわ」

とエリカがせつなそうに言うので唇を解放した。

「ごめんね。ちょっと強引すぎたかな」

「違うんですの。
 愛情のないキスをされるのが苦しいんですの」

太盛は胸に長ヤリを突き刺された気持ちになった。
確かに自分がエリカの立場だったら同じ気持ちだろうと思った。

太盛はエリカを性的に愛していても、彼女の心まで
好きになったことは一度もない。恋愛感情というものを、
一度も妻に持ったことがないのだ。

「太盛様に愛していただけるのなら、なんでもいたしますわ」

エリカは太盛の首の裏へ両手を伸ばし、距離を近づけて言った。

「明日から和服を脱いで、ユーリのようにメイド服を
 着ればいいのですか? それともミウのように
 ジャージを着て木こり仕事のお手伝いをすればよろしいのですか?」

その言葉に若いメイド達に嫉妬していたエリカの感情が表れていた。
太盛はこの時になって、エリカが食事中に赤ワインを何杯も
飲んでいたことを思い出した。

「さみしいです……。私の心はずっと孤独でした……」

一滴の涙が、エリカの頬へ流れ落ちた。

人の思いは目には見えない。だから言葉で伝えるか、
行動で示すしかない。太盛はいつもなら前者を好む。
しかし、いまさらエリカへ愛の言葉を並べたところで意味はない。

だからまたキスをした。

エリカが飽きるまで、何度もキスをつづけた。

「太盛様は、これからもずっと私の夫ですからね?」

「ああ」


自分たちは夫婦である。それしかエリカには強みがなかった。
若さでも美貌でも自分はミウとユーリには勝てないと知っていた。

監禁事件の時に失ってしまった太盛の心も2度と自分に
戻ってくることがないことも。

それでもエリカは狂おしいほどに太盛だけを求め続けた。
女の意地は簡単には収まらず、これからも太盛を見えない
鎖で縛り続けることになるのだった。



A

マリンの風邪が治ると同時に雪が降り始めた。
騒ぐほどの積雪ではないが、また館に引きこもる生活が
続くと思うと、家族たちの気持ちが重くなる。

今朝、ミウが監視塔の頂上から見た雪景色は幻想的で、
あまりの美しさに監視業務を忘れてしまったほどだ。
島一面に降り注ぐ雪。森と山の木々を白く染めるその光景は、
まるで一枚の絵画を見ているかのようだった。


お昼の食堂である。
マリンは父の隣の席に座ってべったりであった。
最近早起きができる良い子になったので、
朝昼晩とも父と一緒に食事をとっている。

「今日はお父様と一緒にすごしますの」

「いいよ。午後はマリンの好きなことをして遊ぼうか」

「お父様がおすすめしてくれる本が読みたいですわ」

「本か。良いね。どんな本が良いの? 童話かい?」

「小説とか、長く読めるものが良いですわ。
  真冬は外で遊べないので退屈ですから」

「ならミステリー小説でもおすすめしようかな。
  パパの本棚にまだあったはずだ」

そんなマリンと太盛を向かい側の席で見守る人物がいた。
太盛の妻であるエリカである。エリカの隣にレナとカリンもいた。

「マリンちゃん。すっかり風邪が治ったみたいで良かったわね?」

笑顔だが、目は笑っていなかった。
病気が回復するなり愛する旦那を独り占めしようとする小娘の
事が気に入らないのだ。その矢のような視線を、マリンは
軽く受け流しながらこう言った。

「ええ。ありがとうございますエリカおばさま。
  お父様とユーリが献身的に看病をしてくれたおかげですわ」

「ユーリねぇ。ユーリもすごく良い子よねぇ。
  マリンちゃんのことを実の子供みたいに可愛がっているわ。
   太盛様とユーリが夫婦だとしたら、お似合いだと思いません?」

「う……」

太盛、思わずうねる。エリカの直球過ぎる表現に
またしても返す言葉が思い浮かばす、うつむいてしまうのだった。

助け舟を出したのはマリンだった。

「おばさまの言う通りですわね。お父様は思いやりがあって
  優しい女性が好みのようですから。お父様だけでなく、
  世の殿方は思い込みが強かったり、気性の荒い女性のことを
  好まないようですわよ?」

「あらそう……。うふふ。マリンちゃんったら、
  ずいぶんと知ったようなことを口にするのね。
   うふふふ。笑いが止まらないじゃない」

「気に障ったらごめんなさい?
  わたくしは思った通りのことを口にしただけですわ。
  お父様から自分の意思をはっきり述べるのが
   スマートな女性だと教えられておりますので」」

この言葉にエリカが顔をさらにひきつらせた。
あおっているマリンも顔は笑っていても、
獣のように鋭い目つきである。

見えない火花が両者の間に散り、
食堂の空気がどんどん凍り付いていく。

「なら、私もはっきり言わせてもらうわね?
  マリンちゃんは賢くて早熟な子だけど、
  少し目上の人に対して口が過ぎるんじゃないかしら?」

「私はお父様をかばっただけのことですわ。
  エリカおばさまがお父様を責めるようなことを
   話されていたではないですか」

母を怖がって静かに食事をしていたレナとカリンは、
まだ皿が半分以上残っているのに席を立った。

幼い双子にこの刑務所のような緊張感はとても耐えられなかった。

「ごちそうさまでした。
午後は理科の課題が残っているので、お先に失礼いたします」

と声をそろえて出ていく。ご飯をほとんど食べてないので、
食堂にいる意味がなかった。お腹が減ったので
あとでミウにこっそりお菓子を部屋に運んでもらうのだった。


エリカの番である。

「私が太盛様を責めているように感じているのなら、
 その原因が太盛様本人にあることはもちろん知っているのよね?」

暗に太盛とユーリの浮気のことを聞いているのだ。
マリンは黙ってうなずいた。

「これは、わたくしたち夫婦の事情というものなの。
 マリンちゃんはもうすぐ10歳になるわけだけど、本土では
  小学生の年齢にあたるわけ。大人の関係に口を出すのは
   生意気だと言われても仕方がないわよ?」

「そうでしょうか? 私は自分の父が苦しんでいる姿を
  見て心が痛んだのでフォローをしているだけですわ。
   父の手助けをするのが、そんなにいけないことなのでしょうか?」

「それが生意気なことなのよ。自覚がないのかしら?
  そもそもあなた、太盛様に外仕事がないのをいいことに
   休みの間ずっと独り占めしようと考えているでしょう?」

「何か問題でもあるのですか? 父も私といるのを楽しみにしていますが」

「太盛様はね、私の旦那なの。お分かりかしら?
  夫婦で過ごす時間はとっても貴重なものなの」

「それはよく分かりますわ。おばさまが妻であるように
太盛お父様の娘は私ですから、親子で仲良く過ごしたいだけです」

「太盛様にとって第一は私で、あなたはそれ以下よ。
  調子に乗らないで頂戴」

「そんな決めつけを……」

マリンは途中で言葉を区切り、軽蔑する目でエリカを見た。

「されるのでしたら。お父様に直接うかがえばいいのですわ。
 そうすれば白黒はっきりとつくと思いません?」

「いい考えねえ。それでは、太盛さん。
  私とマリンちゃんのどちらが大切なのか
   はっきりおっしゃっていただけます?」

と妻と娘に真剣な顔で見られ、緊張と圧迫により固まる太盛。
二人の喧嘩の当事者であるので黙ってうつむいていたが、
何か答えなくてはこの修羅場を乗り切ることはできない。

本音を言えばエリカはどうでもいい。
夫婦という形式なだけで同居人の延長である。
性的に愛してはいても、心から好きになれないのは
何度も説明した通りだ。

娘3人の中でもマリンは特別に利口で気が利く。
学問も趣味も父を真似して、どんなささいなことでも
父を尊敬してくれる自慢の娘である。

マリンと答える選択肢もあったが、問題はエリカの顔である。
エリカのソ連人の血筋を思わせる冷酷な表情と目には、
強い猜疑心(さいぎしん)が宿っている。

下手に刺激して怒らせれば、また監禁事件が再現される
かもしれないと太盛はおびえていた。

「どっちも大切だよ。僕はこういうことに
 優劣をつけるのは無意味だと思っている」

「太盛様ったら、またそういうご冗談をおっしゃるの?
  白黒はっきりさせていただきたいのですが?」

「しかしだな……エリカも大人になってくれ。
そうやって喧嘩口調で話したら
余計に関係が悪くなるだろ。僕はマリンと……」

「Please answer yes or no. you want me or marin?」

(マリンとわたくしを選ぶか。二つに一つしか
 回答はありえませんわ)

ついに妻の英語が出てしまった。
突き放すような冷たい言い方であり、
エリカが相当に怒っているのがうかがえた。

仕方ないので太盛も英語で答える。

「I'm a man honest. so… today I have a promise that i'll read
books with marin. I am going out of here.
I finished today's lunch time.」
(マリンと本を読む約束をしてある。僕は正直者だからね。
 食堂を去るよ。今日の昼食はもう終わりだ)

「No. you didn’t answer me. My lovely husband?
You meand you want marin?」

(答えになっておりませんわ。あなた様はマリンを
選ぶということなのですか?)

「I am leaveing here. That's I want to say.
I will stay with my marin this afternoon.
and erika, I want to talk with you tonight.
did you get it?」

(僕はここを去る。それが言いたいだけだ。
 午後はマリンと過ごす。ただしエリカ。
 君と夜に話がしたい。了承してくれるか?)

「Good.no problem」

(それなら、問題はありませんわ)

これで話し合いが終わった。英語は白黒をはっきり
させる特徴を持つので、話し合いにはぴったりなのだ。
直接的にものを言いすぎて喧嘩になりやすくもあるのだが。

去り際にマリンが余計なことを言った。

「Excuse me,lady Erika? I must go.
I am going to have a lovely time with my great father.」

(それでは失礼いたしますわ。エリカ様。
  私は尊敬すべきお父様と素敵な時間をすごしますので)

エリカはいらだちを込めて、英国風に言った。

「I see. I wish you have a bloody time.」

(あらそう。最低な一日になることを祈っているわ)

それにマリンは笑顔でThank you と答えて父をおびえさせた。


マリンの部屋に着いて二人きりになると、
マリンは太盛に抱きついてきた。
身長差があるのでマリンが父を見上げながら言う。

「お父様は私のこと嫌いになりましたか?」

「いきなりなんのことだい?」

「私がおばさまと口喧嘩をしたことです。
  醜いことだと分かっていましたが、あの人が
 相手だと止まらなくなってしまうのです」

くやしそうに唇を噛むマリン。勢いで喧嘩をしたのだが、
幼いマリンにとって怖くもあった。
相手はただでさえ年上で老獪(ろうかい)なエリカである。

レナカリンという実の娘たちが怖がって手も足も出ない
相手にマリンは一人で挑みかかったのである。

勇気というよりは蛮勇(ばんゆう)といえた。

「エリカは気が強いからつい言い返したくなる気持ちもよく分かるよ。
  あいつはとげのある言い方をする人だから、自業自得って
ところもある。喧嘩のことを僕は気にしてないよ。
 それに、マリンはパパを守るために戦ってくれたんだよね?」

父に頭を撫でられると、そこにはあどけない9歳の女の子の
姿があった。父の前だけで見せる、マリンの素顔だった。

「お父様は優しい方ですわ。私のことを一番よく
 分かってくれるのはお父様だけです」

「マリンは特別だからね」

「特別なのですか?」

「僕はマリンのことを一番かわいがってるよ」

「お父様は私のことを本当に大切に思ってくださるのですね。
  レナやカリンよりも大切ですか?」

「それは……」

親として愛情に優劣をつけてはいけないのは分かっている。
双子姉妹も可愛がってはいるが、どうしてもマリンの順位が上になる。

双子は憎むべきエリカが生んだ子供だから、子供らに罪はなくても
エリカの血を引いた双子をどこか遠い目で見ることがたまにある。

太盛はそんな自分が嫌だった。

「ごめんなさいお父様。答えにくいことを聞いてしまいましたわ」

「マリンはいつもそうやって僕を気づかってくれるけど、
  子供は聞きたいことを素直に聞いていいんだよ?
  君の知ってる通り、僕はエリカが苦手だ。
   結婚だって親が勝手に決めたこと。でもね、
世の中の流れには逆らえないことがある。
僕は流れのままに生きてるだけなんだ」

「流れですか……クッパお母さまも
同じことを言っていましたわ。」

「運命には良い流れも悪い流れもある。少なくとも僕は
島生活に満足しているよ。おじいさん(太盛の父)の
おかげでお金に困ることはない。素敵な家族
を持つことができた。人生ってのはさ、良いほうに
考えたほうが得なんだ。先のことを悩む必要なんてないんだよ。
パパが教えてあげた新約聖書の一文を覚えているかな?」

「はい。人は明日のことまで悩むことはない。
まずは今日のことを悩むべき、というくだりですね」

「その通り。マリンはお利口さんだね。さあ、難しい話は
これくらいにして、絵本でも一緒に読もうか?」

「はい。お父様」

イエスが生まれる以前には旧約聖書のみが聖典として扱われてきた。
人は過ちを犯しやすく、また人は過ちを犯すからこそ
人間らしいのだと、太盛は解釈している。
また多くのユダヤ人たちは、人生で最も悲しいことは
貧困といさかい(争い)であるといってきた。

太盛は聖書の教えを絶対だと信じて来たから、神の存在しない
世界など考えたことがなかった。地球の始まりは旧約聖書の
創世記の書いてある通りだと信じてきた。

そしてその教えはマリンにも引き継がれた。

レナやカリンは宗教など古臭いと相手にせず、
エリカは無宗教国家のソ連人の血を引いているから、
聖書を読んでいながらも、心のどこかで否定していた。


その日の夜、太盛はベッドでエリカと寄り添っていた。
お昼に約束した通り、太盛はエリカと二人きりの時間を作ったのだ。
寝るにはまだ早く、夜の9時半だ。

2人ともお風呂は上がっていて、あとは寝るだけ。
夫婦の寝室は余計なものが置かれてないので広々としていた。
コンパクトなビクター製の木製スピーカーがオブジェのように
置かれている。

ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲のミサが流れていた。
合唱曲であり、短調である。パイプオルガン伴奏が床にまで
響くほどの重苦しい低温を奏でている。

「エリカがミサを聞くなんて知らなかったな。
  信仰心はあまり強くないと聞いていたけど」

「党首様(太盛父)がCDを送ってくださったのです。
  いちおうこの島は長崎県の一部ですから」

「そうか。長崎は日本のカトリック教徒の本拠地だったね」

かつて長崎の出島は欧州との唯一の玄関口だった。

鎖国していた日本は、当時の海上帝国だったオランダと
貿易することで世界の情勢を知った。
長崎は欧州文明の根幹であるキリスト教が入ってきた場所でもある。

「本当はあまり信じてないのだけど、気分だけでも
  聖なる人になろうかと思って聴いているんです。
  太盛様の心が日に日に私から離れていくようですから、
  どうしたらいいのか悩んでいるところですの」

「……少なくとも聖書に答えは書いてないだろうね」

「でしょうね」

「エリカは深く考えすぎなんだ。心はどうであれ、
 僕たちは夫婦関係であることに変わりはないだろう?」

エリカは答えなかった。
自分が話したいのはそんなことじゃない
という気持ちを込めて少しの間黙っていた。

太盛が困り果て、何が話そうとする前にエリカが口を開いた。

「私に可愛げがないのはよく分かっています。
  マリンちゃんのように従順で気の利く女の子のほうが
  太盛さん好みなのですわ。ユーリも同じ特徴をもっています。
  よく考えてみたら、マリンちゃんとユーリは似ていますのね」

「エリカ……。その、なんて言ったらいいのか。
  僕は大馬鹿だ。それは否定できない」

「結婚する前に危惧した通りになってしまいましたわ。
  太盛様は浮気性が治らない。私は攻撃的で嫉妬深い性格が治らない。
  本当に性格は治せないものなのですね。私たちは10年前の
  婚約者時代から心の根っこの部分は何も変わっていません」

「すまない……」

「謝らなくていいですわ。ひどいのはお互い様です。
  この前ジョウンさんと相談したのですけど、あなたは
  監禁事件のことを今でも恨んでいるのでしょう?」

太盛が黙ったのでエリカが急かす。
太盛は無言でゆっくりとうなづいた。

「だからといって君と別れるつもりはないぞ?」

「私だって同じ気持ちですわ」

夜の暴露大会は続いていく。エリカは太盛のユーリとの浮気を
ジョウンと相談したことも話してしまった。そして容認するという
結論に至ったことも。太盛は天と地が裂けるほどの衝撃を受けた。


「私には2人の仲を引き裂くことはできません。
 ユーリに暇を与えれば話が丸く収まるでしょうか?
  ……違いますよね? 感情が抑えきれないのです。
  愛する人を横から奪われた私の気持ちは
  私にしか分かりませんわ」

「違う。僕が勝手にユーリを誘ったんだ。
 悪いのは全部僕なんだよ」

「この際、どちらが誘ったかは問題にはなりません。
 あなたは口先だけで私に愛を誓ってくれて……。
  いつも心の中では別の女のことを考えていますの……」


CDの演奏はいつの間にか終わっていた。時計の針の音が
聞こえる静かな寝室で、エリカの泣きじゃくる悲しい音だけが響いていた

「あなたは最低の嘘つきですの」

「すまない。エリカ」

エリカが取り乱したので太盛はベッドに押し倒すように
エリカを抱きしめた。男性の肌のぬくもりを
感じて安心したエリカは、少しずつ泣き止んできた。

おとなしければ、これほど可愛い女もいないものだと
太盛は思った。

長いまつ毛。少し日本人離れした大きな黒い瞳。
カフカースの血が入っているエリカの顔は美しかった。

また、太盛の情熱が沸き立つのだった。

呼吸が落ち着いてきたこところで何度もくちびるを重ねる。
最初は太盛からせまった。やがてエリカのほうからも
太盛の首の裏へ手を回し、求めるようになってきた。

「ユーリのことはまだいいのです。マリンのことになると
  自分でもおかしいほど逆上してしまって。あんなに
  きつい言い方をするつもりはありませんでした」

「いいんだよ。やきもちを焼くところもエリカらしくて
  かわいいじゃないか」

「うふふ。もしかしてからかってます?」

「そんなことは、ないんだよ?」

「あっ」

今度はエリカの胸やお尻にも手を出し、愛撫した。

ただ体を求めあうだけの、むなしい愛の形だったかもしれないが、
エリカはこの瞬間だけは太盛を独占することができた。
それに少しだけ満足した。

寝室だけが彼を独り占めできる唯一の空間だった。
それが彼らという夫婦の形であった。

もはや夫婦とも呼べないこの関係がいつまでもつのだろうと、
太盛は毎日悩むようになった。そして悩んでもどうすることも
できない自分が許せないようになった。




B


いよいよ28日になった。マリンの誕生日である。
マリンは10歳になる。レナとカリンは1月14日の生まれなので
マリンより少しだけ先輩だった。

昼下がりからさっそく夕飯の準備を始める使用人たち。

ユーリが厨房に入りっきりで後藤の仕事を手伝っている。

ミウはいつものようにニコニコしながら食堂の飾りつけを
行っていた。華美にならないよう気を付けながら、
テーブルに花を飾り、テーブルクロスを特別仕様のものへ変更している。

レナは飾りつけされていく部屋をのぞきに来ては、
期待に胸を膨らませていた。ミウは子供らしく
はしゃぐレナを微笑ましく見ていた。

「今夜は盛大なパーティーをしますよ?」

「わーい。肉が食べたーい。にくー」

「うふふ。お肉ならたくさんご用意してありますからね」


今日は特別な日なので勉強しなくていいことになっている。
妹のカリンはリビングでアニメの録画を見ていた。

クッションを枕代わりにソファに横になっている。
たまに顔を上げてクッキーを食べたりと、だらしがない恰好である。

最近は子供にあまり関心のないエリカ。

カリンのワイドショーを観ている主婦のような姿勢を注意しない。
カリンとは別の三人掛けソファに太盛と座り、彼の腕を抱いている。
夫婦というよりカップルのようだった。

「太盛様に言われた通り、豪華なケーキを用意させましたわ」

「ありがとう。エリカ」

「後藤が作る品ですから、それはすごいケーキになりますわ」

「今から楽しみだね。ケーキが並べられたら写真にとっておこうね」

「あなたの誕生日が22日ですので、それほど日が経っていません。
  ケーキの食べ過ぎで太ってしまわないか心配ですわ」

「エリカはスリムじゃないか」

「油断してるとすぐ太ってしまいますのよ?
 またテニスでもやろうかしら」

マリン用のケーキは、太盛の誕生日よりも上等なものを
後藤に頼んである。長かったマリンの風邪が無事治ったこともあり、
盛大に誕生日を祝うつもりだった。

厨房では高級食材を遠慮なく使い、洋食中心の品が用意されていく。

これからイベントが始まる。そのわくわく感で夫婦レナやエリカは
浮足立っていた。山籠もりが趣味のJ・Cも今日の夕方には
館に帰ってくる予定だ。

「はぁ……なんか最近なにやってもむなしいのよね。
 やる気でないなぁ」

カリンはソファで一日中ふてくされていた。

早めの反抗期を迎えてしまったので、父にもあまりなつかなく
なってきた。前回のユーリとの浮気を知ってから、父と距離を
置くようになった。能天気なレナと父にべったりなマリンのことも
心の中で馬鹿にしていた。

(どうしてママはパパとイチャイチャしてるの?
  全然理解できない。パパって優しいけど、ドラマに出てくる
  浮気性の男そのものじゃん。ちょっと軽蔑しちゃうな)


エリカは太盛と片時も離れようとしない。
廊下を歩く時でさえ手を組んでいたほどだった。
朝起きてから寝るまでに何度もキスするのが日常だった。

キスしているところを子供たちに見られたこともある。
エリカは全然気にせず、どんどん太盛といちゃつくものだから、
ユーリが近づく暇を与えなかった。

そのためユーリが仕事以外のことで太盛に近づけることは
ほとんどなくなっていた。エリカの作戦勝ちともいえる状態だ。


「秩父って素敵なところですのね。東京の奥多摩もこんなに
 自然がきれい。カヤック体験とか、星空展望とか素晴らしいですわ」

行けもしない観光地を夢見て、夫婦でるるぶを広げている。
女性向けの華やかな観光案内がされていて、エリカは興味津々である。

太盛はおばあさんの実家が秩父に近い場所なので、
親近感を感じていた。

「バーベキューとか憧れるね。鳥もたくさんいそうだ」

「太盛さんは鳥のことばっかりなんだから。
 本当にお好きなのですね」

「鳥も好きだけど、食べ物にも興味があるぞ
  天然水で作ったかき氷とかいいね。
  レナがテレビで特集してたって言ってたよ」

「大自然の中で食べるかき氷って素敵ですわ。
  あとこれ、高尾山のロープウェイで楽に頂上まで……」

吐息がかかるほど至近距離で話していた。
もちろんこの部屋にはごろ寝しているカリンもいるのだが、
完全に気にしていなかった。

(夫婦のイチャラブ、うっぜ。
 子供の見てる前でやるんじゃねえよ)

カリンは早熟なのでそろそろ彼氏がほしくなる時期だった。
恋愛ドラマやアニメを見ては、たくましい妄想をする日々だった。


「あー、おじいちゃん? どうしたの急にぃ!?」

廊下からレナのよく通る声が聞こえて来た。

(おじいちゃん? 鈴原のことじゃないわよね?)

耳の良いカリンがソファから立ち上がり、食堂前の廊下へ行ってみると
驚くべき光景が広がっていた。なんと、太盛の父である金次郎から
電話がかかってきたのだ。時はパーティ開始一時間前である。


党首からの電話を知った大人組はパニックを起こしそうになった。

党首はマリンの誕生日に向けてメッセージを送りに来たのだ。
すぐにテレビ電話の用意を始める。

リビングから運んできたノートPCを
巨大な液晶パネルにHDMIで接続して、準備完了した。

エリカは外出中のジョウンに連絡して15分で家に戻ってもらった。
使用人も含めて全員が着席したことを確認すると、いよいよ
党首の話が始まる。


党首はマリンの誕生日を無事迎えたことを祝福し、使用人たちには
日頃の勤労への感謝の言葉を述べた。

「君たちを雇った私の眼に狂いはなかった。
  ふがいない息子とその家族をここまで支えてくれたことを
  心から感謝する」

着席した大人組はテレビ画面の向こうの党首に
恐縮しきっており、一歩も動かないほどだった。

レナとカリンはリラックスしていて、マリンだけは
大人たちと同じように行儀をよくしていた。


金次郎は白髪を撫でるようにオールバックにしており、
一見するとやくざの親分にも見える。高級スーツに身を包んでおり、
背は同年代の平均よりもやや小さい。外人のようにくぼんだ目元。
この年齢でも衰えない眼光の鋭さは、
ナポレオン将軍のようだと取引先の外国人からよく言われていた。

金次郎は、自分の命令通りに動けない人間は、たとえ
その計画に無理があったとしてもその人間に問題があると考えていた。
そして、それを認めさせるだけの業績を今までに築き上げてきた。


社長の地位を次世代に引き継ぎ、現在は会長をしている。
初老ではあるが、凡人を超越した軍人的な威圧感は健在である。

金次郎は笑顔を作ることはないにしても穏やかな表情であった。

しばらくは祝辞の言葉を壇上で述べていて、
ほがらかな雰囲気だったのだが、やがて青空に雨雲が
接近するかの如く変化していく。



「さて、諸君。今後のことについて大事な話がある。
 この食堂には太盛とエリカ君とジョウン君のみ
 残りなさい。申し訳ないが、他の者は席を外してくれたまえ」

この言葉の強制力は半端ではなかった。

全員が同時に返事をして、使用人一同は急ぎ足で去っていった。
レナとカリンも同様である。マリンだけは残り、不思議そうに
見つめる金次郎におじけづかずにこう言った。

「私も話に加わりたいのです。いいえ。聞いているだけで
  かまわいませんわ」

エリカは射るような眼でマリンをにらんだ。
党首は理由があってエリカたち三人を残したというのに、
子供が出てくる幕ではないからだ。ジョウンも母として
娘の勇気を称賛しつつもあきれていた。

「……大人たちの話し合いになるから、内容は少し難しくなるが、
  それでもかまわないのかね?」

真剣な顔で問われ、マリンは首を縦に振る。

金次郎が家族たちと会話するのはエリカと
ジョウンの出産祝い以来の10年ぶりとなる。

成長したマリンを一目見て、凡俗とは違うと見抜いたからこそ、
金次郎はマリンに話し合いの席にいることを許した。




「さて。諸君」

金次郎が飲んでいたコーヒーカップを置く。

「君たちはこの島での暮らしがいかに危険かを
  身をもって味わったはずである。
  前回に起きた、ルイージ君の襲撃事件についてだが」

長テーブルの上座側に液晶がある。金次郎に対し、
右手側に太盛、マリン。左手側にエリカ、JCが座っている。

「私は君たちを叱っておこう。君たちが警戒をおこたったために
  ルイージ君という国際スパイの侵入を許してしまった。
  私が用意しておいたソ連製の迎撃システムを効果的に
  活用できなかったためだね。違うか?」

エリカは迎撃システムに関して言い訳をしたいと思ったが、
口にはできない。ルイージは規格外のスパイで、
とても民間人が侵入を防げるレベルの相手ではなかった。

「恐れ入りますが、お父さん」

と太盛がエリカに変わってルイージの異常性を説明した。
実の親子だからこそ言いたいことを遠慮なく言えるのだ。

「つまりおまえは、今回の件はルイージが優秀すぎた。
  迎撃システムの性能とか、そういう次元の話ではないと。
   そう言いたいのか?」

「はい……」

うつむいている太盛に対し、金次郎は一言

「この、馬鹿者が」

と言った。声を荒げたわけではない。

それなのに太盛は心臓をぎゅっと締め付けられるほどの衝撃を受けた。

「話が変わるが、例えば中国の海兵隊が尖閣諸島を瞬時に武力占領したら
  それも相手が悪かった、で済ませる問題なのか?」

「それは……」

「ここは日本海であり、長崎県の沖合だ。佐世保には日清戦争時代に
 作られた要塞が今でも残っている。極東とは日中韓、北朝鮮、
  ロシアと軍事強国がせめぎあう火薬庫だ。この島は極東の
  軍事バランスを左右する立地にあるのだ」

たじろぐ太盛に対し、父はさらに責める。

「この島の迎撃システムはお前たち家族の身を案じて
  私が出資したものだ。軍事設備は、使用されない限り意味がない。
   見返りのない投資と同じ。減価償却のできぬ設備投資と同様。
    おまえは父の投資を無駄にしたのだ。違うか?」

「お父さんのおっしゃる通りだと思います……」

「どんなモノにも用途がある。使えなければただのガラクタだ。
  人の頭脳や手足も同じことよ。太盛。貴様の手足はなんのために
   ついている? よく考えてみるがいい」

「はい……」

「国防論の名著は大学3年の時に渡しただろう?
  読んでないわけではあるまいな?」

「もちろん読みました」

太盛はいつまでも続くと思われる説教に耐える覚悟はできていた。
実際に父の話は長く、下手をしたら日付が変わるまで
続いてもおかしくないと思われるほどであった。

太盛はただ頭を垂れて父の言葉を聞くふりをしている。

「次にナツミ君だが」

「はっ、ふぁい」

まさか自分に振られると思っていなかったジョン・クッパ(本名はナツミ)が
間抜けな声を上げてしまった。

「君には私から感謝の言葉を述べておく。
  ルイージを直接戦闘不能にしたのは君だ」

「あ……ありがとうございます」

「君の武術は実に見事だと何度も聞いているよ。
  どこかで武道を習った経験があるのかね?」

「いいえっ。ほとんど独学でございます」

「なおさら素晴らしい。ならば、今度マリンたちにも
  指導をしてやってくれないか?
   孫たちも自分の身は自分で守るしたたかさが必要だ」

「かしこまりました。御父様」

クッパは緊張のしすぎで口が渇いていた。
あの傍若無人を絵に描いたような野生児のクッパでさえ、
一流の起業家の圧力には到底かなわなかったのだ。

「次にエリカ君」

「はい!!」

「君のルイージ君への尋問も見事だったようだね。
  彼をソ連系と見抜いた洞察力、とっさにロシア語で
   尋問する機転。どれも素晴らしいよ」

「ありがとうございます。
  わたくしにはもったいないお言葉ですわ」

「ルイージ君は日本の外務省を通して外交ルートで
  北朝鮮政府へ返還した。ちなみに政府はマスメディアへ
  報道規制をかけたので国民の大半はまず知らないだろうが」

「そうだったのですか……。どおりで。長崎警察へ
  引き渡したあとに情報が何も入ってこなかったわけですわ」

「ルイージ君は元KGBのスパイだから、生半可な拷問では
 口を割らないのだがね。最悪自殺する場合もある。
  ユーリ君を救ったのはエリカ君の働きによるところが大きい」

「そんな……。いくらなんでも褒めすぎですわ。御父様。
  みんなで戦って守った孤島での生活ですから」

「謙遜することはない。誉め言葉は素直に受け取っておきたまえ。
  わしは嘘を言わない主義だからな。さて……」

次に金次郎は太盛をにらむ。エリカの時とは全く違う表情だ。

「それにくらべて。おまえは何をしていた?」

矢のように突き刺さる言葉だった。

「おまえの妻2人は、形は違うが家族と使用人を守るために
  懸命に戦った。おまえはどうなのだ?」

太盛には、返す言葉はなかった。

父の言うことはいつも正しい。
そして本人の一番弱いところを突いてくる。

「父の与えた学業への投資、おまえに付けさせた教養はすべて無駄だったのか?
  いざという時に役に立たない人間は故障した機械と同じ。まさに
  ガラクタだ。息子の不出来で私をこれ以上悲しませないでほしいものだな。
  母さんが聞いたらどれだけ悲しむことであろうか」

「すみません……」

太盛は唇をかみしめ、さらに言った。

「早く一人前の人間になれるよう、もっと精進します」

この光景に一番衝撃を受けていたのはマリンだった。
マリンは父がここまで辛そうにしている顔を
見たことがなかった。

優しくて穏やかだったあの父が、
親に怒られて縮こまっている姿を見せられているのだ。
やるせなかった。できるなら父の素晴らしいところを
いくつも説明してあげたかった。

だが、権力者の前で何も言い返すことはできなかった。

その気持ちはエリカとジョウンも同じだった。


「太盛、顔をあげなさい。私は、おまえに長男としての
  自覚を持ってもらいたくて話をしているのだ」

太盛は言われた通り顔を上げたが、
恐怖で眼の焦点が合わない。

「この孤島生活を支援するために金に糸目はつかないつもりだ。
  定期船も休まず行かせ、不自由ない生活を送らせているだろう?
  太盛よ。お前たち家族と使用人たちは生活の糧を得られるのだよ。
  この私が生きている限りはな。だが、防衛となると話は別だ。
   九州から一番近い位置に北朝鮮という最大の敵国が
   いることを忘れるでないぞ」

「あ、あの。お父様、発言してもよろしいでしょうか?」

とクッパが聞いたので党首は許可した。
いつもの雑な口調でなく、エリカの見様見真似の
お嬢様口調であった。

「お父様は北朝鮮や防衛問題を頻繁に口に出されておりますが、
  それはこの島が北朝鮮からの攻撃や拉致被害などに
  あいやすいからなのですか?」

「君はまるで記者のような質問をする……。ふむ。
 マリンに知性が宿っているのは君のためかな。
 さて、質問に対する答えだが、ずばりそのとおりだ。
 もっとも、攻撃にあう可能性が高いのは日本本土だよ」

『なっ!?』

さすがに全員が驚愕した。確かに北朝鮮の最高権力者が
入れ替わってからこの数年間、ミサイル発射実験を繰り返してはいる。
しかし、現実のものとして戦争の可能性など考えられなかった。

最大の理由は核の抑止力である。在日米軍と日米安保がある限り、
日本を攻撃する国には、米国からの核ミサイルの反撃の可能性がある。

「北朝鮮の保有する生物化学兵器の保有数は実に世界第三位。
  ミサイル保有数は大小合わせておよそ1000発ともいわれている。
   そのうち何割が核で、実際の射程距離がどの程度か、
    現段階で明らかなことは分かっていない」

さすがにそれは過大評価ではないかとエリカは疑った。
太盛も同じだった。朝鮮が軍事一辺倒な国とはいえ、
GDPや国民の生活水準が低く、対中貿易が9割を占めるという、
経済的には破たんしている国家だ。

強制収容所では20万人が酷使されている。

エリカが言う。

「危険でしたら、なおさらこの島で暮らす意味は
 ないのではないですか? 恐れ多くもお父様が用意してくれた
 迎撃システムをどんなに磨いても完璧な防衛はとても不可能です」

「いや。意味はある」

「それは、どのような?」

「これは私の推測であるが、おそらく10年以内に北朝鮮、韓国、日本は
 交戦状態になる。韓国と日本の主要都市は半分以上が攻撃される。
 つまり本土は核、毒ガスなどの科学兵器で汚染され、地獄になる」

エリカと太盛は父の正気を疑った。
おとぎ話の世界を語っているようにしか見えなかったのだ。

顔に出さないよう、2人ともうつむいて考え事をしてしまう。
歴史に詳しい夫婦の脳裏に出て来たのは、東西冷戦が
核戦力の均衡によって数十年間維持されたこと。

人類が滅するかと思われたキューバ危機でさえ、
フルシチョフ、ケネディの
ホットライン(対話)で分かりあうことができた。

父の考えは歴史を否定しているようにしか見えなかった。


しかし、金次郎は確かな権力者である。
金次郎の傘下にある企業は世界中の拠点を持っている。
年齢は今年で68。太盛を生んだのが35歳と遅かったのは、
今の妻と結婚したのが31の時と晩婚だったためだ。

その彼が戦争の危機を大真面目に語っているのである。
面と向かって意見を否定する勇気は誰にもなかった。

ここでマリンが初めて声を出した。

「もし攻撃されるとしたら日本のどのあたりなのですか?」

「大阪、神戸、名古屋、福岡、長崎、広島、沖縄がそうであろう。
  日本海近郊は敵軍がもっとも攻撃しやすい地点であり、
   戦前からもっとも警戒されてきた地域だ。
   開戦したら西日本は東日本大震災よりも悲惨な状態になる」

「それは、日本は敵に滅ぼされるということですか?」

「逆だ。最終的に米韓連合軍主力が国境を越え、さらに海岸からも
  上陸し、ピョンヤンを陥落させてこちらの勝利となる。
  最終的にはな。なにせ陸海空軍の戦力は圧倒的にこちらが上だ。
   ただ、勝ったところで国土が荒廃しては意味がないのだよ」

「おじいさまが言いたいことは、そうなった場合に
  この島のほうが安全だというのですね」

「その通りだ。この島には軍事的な攻撃目標が何もない。
  ただの孤島だからな」

次にエリカが聞いた。

「恐れ入りますが、お父様は本気で戦争の可能性を考えてらっしゃる?
  お父様ほどのお方ならば米国の内務省にお知り合いが
   いてもおかしくはありませんわ。ずばりお聞きしますが、
   その戦争とは、米国海軍の先制攻撃から開始されるものですか?」

「軍事とは、可能性の学問である。政治も同じようなものだ。
  具体的な返答をすることをこの場では拒否させてもらおうか。
   私が述べたのはあくまで可能性である。可能性だ。
    君ほど聡明な女性ならば、これで言いたいことは伝わったと思う」

「はい……」

「会長とはいえ、多忙な身でね。これ以上のお説教は息子にも
  悪影響かもしれないな。そろそろ失礼させていただこう」



テレビ電話が終わった後、太盛はストレスと心労で部屋のベッドで横になった。
電話の時間は一時間ほどであったから、食堂では予定通り誕生日パーティが
始まっている。太盛は楽しみにしていた誕生日会に出席できず、ベッドで悔し涙を流した。

ルイージ事件の残した傷跡で一番心を痛めたのが太盛であった。
もともとメンタルの弱い彼は、幼少のころから父に叱られるたびに
部屋にこもって何日も音楽を聴き続けて自分を慰めていた。

マリンと妻たちの前で長々と説教されたのもショックだった。

(お父様は大丈夫なのかしら……)

マリンは父のことが気になり、贅沢なお肉やケーキをたんたんと食べていた。
エリカとジョウンも表情が沈み、主人たちの心情を察したメイド2人も
明るく振舞うことはできなかった。

会場の雰囲気は恐ろしく暗い。レナとカリンは母の機嫌を損ねないようにと、
可能な限りお上品に食べる。それでも子供なので
心の中では豪華な食材が並ぶバイキングを楽しんでいたのだった。

こうしてマリンの誕生日が終わった。
ルイージ事件の傷跡は、太盛の心をさらに変えてしまうのだった。


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