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作品名:心の食堂 作者:まんぼう

第3回   第三話 心の味覚
 浩二が帰って暫くして、一人の少女が店にやって来た。
「こんばんは〜また来ちゃいました」
 十代後半らしき年頃で、高校生ぐらいではなかろうか、髪を短くしている以外は特別変わった感じはしなかった。
「あら、やはり髪を切ったのね。それも良く似合うわ。いらっしゃい! その後はどう?」
 みちこが少女に尋ねると嬉しそうに
「はい、染めていた所と新しく生えて来た所が混じって汚らしいので、切りました。生まれ変わった覚悟です。食べ物は、大分色々なものが食べられるようになりました。味もよく判るし、美味しさも感じます」
 そう答えるとみちこも嬉しそうに
「良かったわ。食の楽しみが無いと言うのは人生で一番損をしてしまうからね」
 そう言って答えると少女は
「はい、本当にその通りだと思います。あの日このお店を見つけられなかったらと思うと、心が寒くなりました」
 そう言って遠くを見つめた。
「でも、あなたは、あれから満月の度にやって来て、少しずつ色々な美味しさを理解して来たわ。それは、あなたの努力だと思う」
「いえ、それまでが単なる我儘だったのです。自分の好きな口に合うものしか食べていなかったので、色々な味覚が判りづらくなってしまっていて、何を食べても美味しく感じなくなってしまっていたのです。それを、蘇らせてくれたのです」
 奥からまさやが出て来た
「でも、それではいけないと思っていた。それでこの店にやって来ましたね。最初は驚きました。濃い味の食べ物以外は殆ど味を感じる事が出来なかった」
 半分笑いながら懐かしむと、みちこが
「でも、自分でも良くないと思っていたのよね?」
 問いかけると少女は
「そうなんです。高校に進学して友達と色々なお店に行っても自分だけは美味しく感じなくて、段々友達とも話が合わなくなって、とうとう高校を辞めしまって、良くない連中と遊んでいたんです。そんな時に、深夜この店を見つけました。お腹に入れば何でも良いって思っていたんです。でも、あの時出された雑炊は驚きました。何の味も感じなかったからです」
「あれはね、ワザと味は薄くしました。逆に旨味はかなり濃くしました。それが、あなたの味覚をリセットする為に必要だと思ったからです」
 まさやの言葉に少女は半分笑って
「最初は『なんだこれ?』って思いました。でも、熱くて直ぐには食べられないので、時間をかけてゆっくりと食べていたら、最後で旨味が何となく判ったんです。だから、またこのお店に来たいと思いました」
「そこであなたに、この店の秘密をお話しました。それからあなたは、満月の度にやって来ました。でも、それも今日で終わりですよ。今日は旨味を感じる最後の料理です。これを感じる事が出来たら、もう何処で何を食べても、その美味しさを享受出来るでしょう」
 まさやが、みちこに運ばせたのは、網目の大きめの皿だった。薄く白い白身が網目の皿に均等に並べられている。皿の文様がはっきりと見えるほど薄い。
「これは?」
 少女の疑問にまさやは厨房から
「ふぐですよ。ふぐの刺身。薄造りです。一気に食べないで一枚一枚口に運んで旨味を感じて下さい。普通、旨味は脂分がもたらすのですが、ふぐだけは全く脂分がありません。純粋にタンパク質のみの旨味なんです。それ故に雑多な料理と一緒だと、その旨さが消えてしまいます。その辺を舌と記憶に残るように食べて戴きたいのです」
 そう言って今日の料理について講釈した。
「判りました。でも、ふぐって真冬の魚じゃないんですか? 今の時期でよく……ああ、これは何時もの事でしたね」
 少女はこの不思議な食堂の事は判っていたが、改めてその不思議さを思うのだった。
「じゃあ、食べてみます。最初は何もつけない方が良いんですよね?」
「そうですね。そうして貰えるとその旨味が分かり易くなると思います」
 少女は箸で薄いふぐの切り身を摘むとそのまま口に入れた。目を瞑ってゆっくりと口を動かす。口全体でふぐの旨味を感じようとしてるように思えた。
「お・い・し・い」
 目を大きく開いて、その喜びを表した。
「物凄く淡泊なんですが、旨味が凄いんです。旨味を感じると頬の後ろが『キュキキューン』って引きつるようになるんです。こんなの初めてです。余りにも美味しいと体が勝手に反応するんですね。今まで知りませんでした。こんな世界があるなんて……」
 気が付くと目に涙が溜まっていた。
「あれ、嫌だ。何で泣くんだろうう?」
「それは、体の喜びの涙ですよ」
 みちこがやさしくフォローするように言うとまさやが
「美味しいものとか、体が必要なものを食べた時とか、なります。良く言うでしょう『ほっぺたが落ちる』って」
「ああ、そうなんですね。わたし、今までそれは単なる大げさな表現だとばかり思っていました。本当だったんですね。今まで知りませんでした」
 少女は改めてこの店に来て良かったと思っていた。
「さあ、次は酢醤油につけて、薬味の小葱やもみじおろしを入れて食べて見て下さい。味が膨らみます」
 みちこに言われた通りにしてみる。酢醤油をつけたふぐはその旨味を陰に隠しながらもより複雑な味を提供していた。
「ああ、凄いです! 本当に美味しいです。ふぐって淡泊だけど旨味の塊なんですね」
「それが判れば、もう大丈夫ですよ。何処で何を食べても前のようにはなりません。今日、あなたの体は、この旨味を覚えました。忘れる事は無いと思いますよ」
 まさやの言葉に少女は
「次の満月に来ては駄目ですか? 今度は純粋に料理を楽しむ為に……」
「勿論、それなら大歓迎です」
 少女は、ふぐ刺しを綺麗に食べてから、
「何かご飯ものが欲しくなって来ました」
 そんなリクエストをした。まさやが
「それなら、ふぐの雑炊を作りましょう」
「わあ、楽しみです!」
 暫く待って出されて来た雑炊は卵が掛けられていて、小さな土鍋がグツグツ言っていた。レンゲで茶碗にすくって口に運ぶ。その瞬間、少女は理解した。この味の基本が、最初に自分がこの店で食べた雑炊の味と基本が同じだと言う事を……
「そうか……そうだったんだ」
 少女は思った。これでこれからは自分に自信を持って生きて行ける。何も恐れる事は無いのだと。そして、それを教えてくれたこの不思議な食堂を経営する夫婦に感謝するのだった。
「ご馳走さまでした! また、次の満月に来ます!」
「ありがとうございました。またお待ちしています」
 少女は帰って行った。その足取りが以前とは全く違っていた事を二人はすぐに理解した。
「さあ、そろそろ始発が走る頃だ。俺達も店じまいしよう」
「そうですね。また次の満月ですね」
 東の空が明るくなり始める頃、そこには食堂の姿は消えて無くなっていた。新聞配達夫が何も無かったように過ぎて行った。


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